見出し画像

涸沢ヒュッテ建築探訪

秋の北アルプス縦走旅の番外編で、涸沢ヒュッテの建築探訪記。

2022年に開催された吉阪隆正展 で、初めて知った山岳建築の数々。涸沢ヒュッテは『雪崩が屋根の上を通るように設計された』という説明に、へえ〜と思うものの、これは百聞は一見にしかずだな、といつか必ず訪れたいと思っていた場所でした。

吉阪隆正設計の新館。

本館、新館、別館の3棟の宿泊棟のうち、昭和38年(1963年)に建てられた新館が吉阪隆正の設計によるもの。
本館は、現在の建物が3代目、昭和28年(1953年)に建てられました。その2年前、初代本館が建設されるもその年に雪崩によって倒壊、翌年に2代目本館が建設されましたが、再び雪崩によって倒壊したそう。3代目の建物は、この2回の倒壊の経験から、建物に周囲に、雪崩の力に耐えうるように、蛇籠が設置されたとのこと。

本館を守るように設置された蛇籠。

ヒュッテに飾られていた初代涸沢ヒュッテ
初代が雪崩で倒壊した翌年、流された材を再利用して作ったという二代目。

雪崩多発地帯にあって、穂高連峰への玄関口となる涸沢ヒュッテ。登山客の増加に伴い建設された新館は、竣工4年前の昭和34年から設計が始まったそう。吉阪隆正は、その間、現地に簡易な小屋を建てて、雪氷被害を把握するための実験を重ねるなど、多くの時間を設計に費やしたとのこと。
雪崩が最も多く発生する北穂高側に対しては蛇籠、次に多く発生する奥穂高側に対しては、斜面を切土して建物を半地下に埋めることで、建物の上を雪崩が通過するように設計された。

斜面に半分埋まるように建っている新館。
テラスの下が屋根になり、半地下になっている。

さらにその後建てられた別館は、従業員が携わり、現地での豊富な経験に基づいて設計されたそうですが、雪崩による外力を避けるために半地下にするのは新館と同様、ただ、こちらは、斜面の切土ではなく、平坦面を掘削して
埋め込まれているそうです。

別館の建物。
左から本館、パノラマ売店、テラス、新館の屋根。

新館の中に入ると、半地下らしく、入口のレベルからどんどん下がっていく作り。

ひとつ下のレベルに食堂があります。桁行(間口)23m、梁間(奥行き)18.5mの建物だそうですが、スパンが大きいため梁はトラス梁になっています。

天井からのランプ照明が黒沢池ヒュッテと同じでした。
建物の先端部。天気がよければ常念岳や大天井岳が見えるらしい。

下から見上げるトラス梁。丸太の柱とランプの照明が、黒沢池ヒュッテと共通する要素。

さらにこのレベルから下に下がって、

個室のお部屋がありました。これは特等室!

一般のお部屋は上のレベルにあります。山小屋によくある形の2段ベッドではなく、ロフトになっていて、グループごとのプライバシーが守られる工夫でしょうか。

ネットで見つけた『涸沢ヒュッテにおける雪氷対策の方向性』という建築学会の論文を読んで、さらなる『へぇ〜』は、冬場に建物を守る『冬囲い』のこと。
冬囲いには、仮設の柱と仮設の囲いがあり、仮設の柱は、4〜5寸角の柱を内部に設置するもの。建物の上を雪崩が通過するとき、雪の重さで潰されないように、この新館には102本の柱が、半間ほどの間隔で、構造材を支えるように設置される。本館が建設された当初から、従業員によって設置されてきたそう。
仮設の囲いは、建物の外部に設置されるもの。かつては、筋交いの役割をする控え柱が外壁に設置されたそうですが、20年前、平成3年頃、雪崩の甚大な被害があったあと、板を角材に打ち付けたものを外壁面に立て掛ける形となり、さらに屋根の上にも掛け渡して建物と地形の隙間を覆うような囲いに変化したそう。

雨から一転、テラスからの最高の眺望。

初代の小屋から70年の時を経て、なお、人の知恵と手で、自然と対峙し続けているという、自然の美しさと脅威の紙一重さを、雄大な涸沢カールを目の前にしての納得感。また必ず来たい場所。

前日の雨では視界ゼロ、晴れたらすごい絶景でした。


いいなと思ったら応援しよう!