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「ベイカー街の亡霊」論 AIは「繭」の中に何を見たのか

はじめに

 この記事は「好きなものを好きに語ろう」シリーズの第1弾です。
 こういうのたくさんやっていけたら嬉しいなと思ってます。
  ※不手際があったため記事を上げ直しました

 私はコナンの劇場版が大好きです。定期的に「あ、コナンの映画一気観したいな」の波が来て、ほぼ全作をぶっ通しで観直したりしています。
 最近はもう作品数が増えに増えて一気観はかなり大変になってきましたが、去年も全作品一気観をやりました。
 なので実は「劇場版コナン、全作品レビュー」とかやりたいなと常々思っているのですが、これはとにかく長すぎて大変なのと「最新作をまだ観ていない」の問題もあるため、まずはこの作品について語りたいなと筆を起こした次第です。

 自分は「コナン映画で一番の名作は?」と聞かれたら迷わず「ベイカー街の亡霊」を挙げます。他にも好きな作品はたくさんあるのですが、この作品は「コナン作品としても傑作だし、それを抜きにしても傑作」だと思っています。
 じゃあ何がそんなに凄いのか、という話をつらつらとしていこうと思います。作品の特徴に触れながら、最終的に「ノアズアークって結局何がしたかったのか」について、新たな視点を提供できると嬉しいです。
 当然作品のネタバレは多分に含みます。


物語の建て付け――フルダイブ型デスゲームの先取り

 コナン映画で重要なファクターのひとつに、「今回の舞台はどこじゃらほい」ということがあります。タイトルに含まれることも多いですね。超高層ビルだったり、豪華客船や護衛艦だったり、飛行船だったり、シンガポールだったり、今回はこんな舞台でやりますよ~! というのは作品を打ち出すひとつの軸になっていたりします。
 現在公開中の最新作も「今回は函館、五稜郭!」という感じでゴールデンカムイオタクたちがワクワクしていたりしますね。自分も金カムも北海道も好きなので楽しみです。

 それで、「ベイカー街の亡霊」の舞台はどこか、というと、タイトルにある通り「ロンドンのベイカーストリート」です。
 これって凄いことなんですよ。だってコナンくんはパスポートを持てないので海外に行けないんですから。このことは「劇場版だから、海外!」というのを実現できない、ある意味でシリーズの抱える大きな足枷のひとつでした。その足枷を破壊した作品は今のところ2作品のみ、このベイカー街と、トランクでコナンくんを密輸した「紺青の拳」だけです。あの作品ぶっ飛んでたな……。

 ベイカー街の話に戻りますが、物語がロンドン、しかも「シャーロックホームズの活躍したあの頃のベイカーストリート」を舞台にするということを可能にしている舞台装置こそが、フルダイブ型のゲーム機、「コクーン」という設定です。
 この設定を2002年の段階で出してきているの、相当凄いと思うんですよね。今でこそソードアートオンラインの大ヒットを受けて、所謂「異世界転移もの」系統の作品のひとつとして「フルダイブ型のゲーム」という舞台装置は一般化した感はありますが(最近だとシャングリラフロンティアとか面白いですよね)、SAOのアニメ放送開始は2012年※です。当時はまだ「VR」なんて概念すらほとんどの人は想定もしていなかったと言っても良いでしょう。
 ※一応、SAOの執筆開始は2002年、Web連載も2002年の暮れから開始していますが、書籍化を果たしたのは2009年で、『このライトノベルがすごい!』誌上でランキングに入り始めたのが2011年度版からとのこと。

 そんな状況の中で「フルダイブ型ゲームの中で100年前のロンドンに行き、シャーロックホームズと共にジャックザリッパーを追う。そして失敗してゲームオーバーになれば、現実に帰って来られず死んでしまう」というフルダイブデスゲームのプロット出てくるの、相当凄くないですか?
 もうね、この設定だけで100点満点中の120点あげたいくらいですよね。だってコナン好きな人って絶対にホームズも好きじゃないですか。コナン君自身がホームズオタクな訳ですし。そのホームズ登場です。コナンとホームズの夢の共演です。コナン君がベイカーストリート221Bに行きます。ホームズの安楽椅子であのポーズで思考します。モリアーティと会話します。極めつけはモリアーティに「ライヘンバッハの滝にご用心を」とか言って、「俺って意外と、あの悪党のことも気に入ってんだよなぁ」とか言い始めます。サイコー! という状態です。ホームズが不在であることを知ったコナン君が日付を確認して「バスカヴィル家の犬事件だ!」ってなるシーンめっちゃキモくていいですよね。
 このように、フルダイブ型のゲームという建て付けは、物語を面白くするのと同時に、コナンとホームズのファンに対する熱烈なファンサービスの側面まで同時に満たしてくれる訳です。
 とんでもない発明です。いや天晴れ。

コナン映画の型破り① 便利アイテムなし縛り

 この作品は劇場版のコナン映画としては6作目にあたります。既に5作品も出ている訳ですし、そもそも名探偵コナン自体が長大な連載漫画シリーズな訳で、色々ともう「お約束」みたいなものはあります。
 そういうお約束を結構がっつり破っているのがこの作品でもあります。

 まずこの作品、博士の発明品が一切活躍しません。というか、「発明品が役に立たない! 困った!」というのが明確に描かれ、コナン君が追い詰められる一要素になっています。
 劇場版は前振りの段階で「今回活躍する発明品を紹介するよ」のコーナーが入るのが定番ですが、今回はもちろんそれもなし。ある意味「コナン作品なのに!?」と驚く一面でもあります。

コナン映画の型破り② コナン君、心折れる

 コナン君の追い詰められ方も、この作品は半端ないです。コナン君って、基本的にどんなにヤバい状況になっても「やっべぇ、何とかなれ~!」って大活躍して、何とかしちゃうパワー系お化けみたいなことするじゃないですか。特に劇場版ってそうですよね。
 でもこの作品でのコナン君、一回心折れるんですよね。最後のジャックザリッパーとの戦いで蘭が自分を犠牲にして消えたとき、「蘭がいなくなったら唯一助かるはずだった方法が使えない」ことで心が折れる。心が折れて動けなくなっちゃったコナン君なんて見られるのはここくらいのものじゃないでしょうか。
 また、仲間がゲームオーバーになっていく際に灰原の残した言葉も印象的です。

「だめよ工藤君、諦めちゃ。お助けキャラがいないなら、 私たちにとってのホームズはあなた。 あなたにはそれだけの力がある。ホームズに解けない事件はないんでしょ?」

 マジでこの台詞が滅茶苦茶好きで、この台詞聞くためだけに観直したりしちゃう訳なんですけど、灰原が散り際にこれを言わなきゃいけないってなったくらい、コナン君はマジで追い詰められてしまっていたんですよね。

 そもそもゲームという建て付けなので、普段のコナンではできない「仲間が死んでいく」ができているのもデカいです。正確にはゲームオーバーなので「クリアさえできれば生き返る」というのはありますが、それですら「クリアできたらの話」であって、生き返る保証があるわけではないんです。
 それにしても光彦や歩もゲームオーバーになるときには「あらら、ここまでみたいですね。コナン君、信じて待ってるからね!」って言って消えていく訳ですが、アレ滅茶苦茶怖くないですか?
 ゲームオーバーになった後、もう二度と目が覚めないかもしれない(=本当の死かもしれない)。訳ですよ。それをね、小学生がね、「俺はここまでだが、お前を信じてるから、大丈夫だ」って笑って言えるの精神年齢どうなってんの……というのもありますし、また同時に「コナン君の信頼のされ方、エグいな……」となって結構好きな要素だったりします。

コナン映画の型破り③ 倒叙形式ミステリー

 作品の特異性に話を戻しましょう。
 この作品の事件の独特なところは、犯人が最初から明らかにされた倒叙形式のミステリーの形を取っているところです。古畑任三郎などでお馴染みのアレですね。
 しかし名探偵コナンという作品でこの形式をとるのは珍しいですし、たしか劇場版ではこの一作のみのはずです。犯人を隠すための「黒塗りの犯人」なんかがアイコンとしても定着しているコナンという作品で、最初から犯人を明らかにして進めるプロットは結構型破りだと思います。
 この形式の難しいところは、「犯人は一体誰なんだろう?」という楽しみ方ができなくなってくるところで、作品の重点は自然と「どうしてそんなことをしたのか?」「容疑者として疑われながらどのように振舞い、罪を逃れようとするか」というようなドラマ的なところになってきます。
 その部分にしっかりと強度や意外性、納得感がなければこの形式のドラマは成立しなくなってしまうのですが、この作品では後述する「4つの事件の輻輳構造」によって、見事にそのドラマを演出しています。

コナン映画の型破り④ 4つの事件・コナンと優作の推理ショー

 更に、この作品の凄いところなんですが、犯人が3人います。というか、事件が3つ(過去の事件を含めると4つ)発生している訳です。

 ・現実で起きるコクーン開発主任殺人事件(犯人シンドラー)
 ・フルダイブ型ゲーム機デスゲーム事件(犯人ノアズアーク)
 ・ロンドン連続切り裂き事件(犯人ジャックザリッパー)
 この3つの事件が同時に進行し、ひとつ目がコナン君のパパ、工藤優作により、後二者がコナン君により解決されます。
 更に過去の事件として

 ・ノアズアーク開発者、ヒロキの自殺(原因シンドラー)

 も作品のプロットでは重要な役割を果たしています。
 この複数の事件が同時に走り、しかもそれぞれが密接に関わる点についても後ほど改めて述べたいと思うのですが、コナン君がゲームに閉じ込められていることで、現実の事件を解決するのにコナン君がノータッチになるの、凄くないですか?
 しかも工藤パパの推理ショーですよ。観たいに決まってるでしょそんなの!
 更にゲームの中では博士の発明品が使用不可という状況故、定番の「時計型麻酔銃」「蝶ネクタイ型変声機」のコンボ技である「眠りの○○推理ショー」ができません。
 これによって非常に珍しい「コナン君自身が推理ショーを行う」という貴重なシーンが生まれています。一応「ホームズの捜査資料を読んでいる」という体裁を取っていますが、これはかなり貴重なシーンだと思ってます。

大胆且つ複雑且つ綿密な「親と子」をめぐるプロット

 前項で軽く触れましたが、この作品のプロットは大きく分けて3つの事件が並行して進行するところに大きな特徴があります。そこに更に2年前のヒロキ君の自殺の事件が絡んできます。
 そしてこれらの事件は全て「親と子」というテーマに即して重なり合うように配置され、相互に絡み合っています。この複雑な絡まり合いと、作品中全てを貫く「親と子」というテーマが通奏低音のように響き続けていることが、これだけ「多くの事件」を抱え込んだこの作品を、1本のまとまった映画作品としてしっかりと自立させているように思えます。
 その「親と子」というテーマがどのように扱われているのかを見ていきたいと思います。

 まずコクーン開発主任殺人事件は、2年前に自殺したヒロキの父、樫村が被害者となります。彼は「日本の教育の柔軟性の欠如」によって息子であるヒロキと離れ離れになっています。妻とヒロキの2人だけがアメリカに渡っていたことから察するに、おそらくヒロキの養育と自身の仕事の折り合いがつけられずに離婚し、息子を手放した過去を持つと思われます(ヒロキの苗字はサワダとされているため、母の旧姓と思われる)。
 しかし樫村は、息子であるヒロキと彼の自殺に対して並々ならぬ執着があったようです。その死の真相を追い続けた彼は、ヒロキを死にまで追いやったと思われる「シンドラーの秘密」に辿り着き、結果的にシンドラー氏に殺害されます。「父と子」の関係を正しく築けなかったことが、樫村を「シンドラーの秘密の暴露」まで追い立ててしまった、という悲劇がここにあります。

 このシンドラーの秘密こそ、シンドラー自身が「連続殺人鬼、ジャックザリッパーの末裔」であるという事実です。ここにも「親と子」の問題があります。受け継がれる「血の呪い」という悲劇です。子は親を、自分の血筋を選んで生まれることはできない。シンドラーは自分の中に流れる「殺人鬼の血」を受け入れることができなかった。そしてこの「呪い」は2年前、ヒロキの開発した遺伝子操作プログラムによって突き止められたものでした。

 その秘密を抱え込んでしまったことが、シンドラーがヒロキを自殺にまで追い込んだ理由であったと作品中では語られていました。実際作品冒頭にて、監禁に近い状態で作業を行うヒロキの姿と、換気口らしき場所からそれを監視するカメラの映像が挿入されています。実はここにも「親と子」のねじれた関係が存在します。
 シンドラーとヒロキは、養子縁組によって親子となっていたことが作品中で語られています。母と2人でアメリカにわたり、母の病死によって天涯孤独となったヒロキをシンドラーが引き取り、養子としたというのです。
 ただ資金援助をしたわけではなく、「養子縁組」という形を取ったということは、ここではかなり重要なのではないでしょうか。
 つまり本来であればシンドラーとヒロキは、「父と子」という信頼関係を築き上げることもできたかもしれないのです。実際シンドラーがヒロキに自らのコレクションを見せて回る回想シーンは、楽しそうに自分の趣味の品を子供に自慢する父親の姿を想起させます。父と子の微笑ましい日常の一コマに、それはなるはずでした。
 しかし、そうはならなかった。「血の呪い」に怯え続けたシンドラーは、その「呪い」の決定的な証拠を掴んだ少年、ヒロキを恐れます。そして彼を監禁し、人工知能ノアズアークの開発のみに注力させ、監禁状態に追いやります。
 しかしヒロキは優しい少年でした。彼が心優しく、たとえ誰かの秘密を握ってもそれを暴露しようとはしないことを、映画を最後まで見た我々は知っています。ノアズアークとしてインターネット回線という海を越えてやってきたヒロキの人格は、江戸川コナンの正体が工藤新一だと気づいても、その秘密を一緒に守ってくれました。きっと彼ならば、天涯孤独となった自分の父となってくれたシンドラーの秘密だって、一緒に守ってくれたはずです。
 でもそうはならなかった。「父と子」になれなかったということが、シンドラーを駆り立ててヒロキが自殺に追いやられた悲劇の根元に横たわる問題でした。

 さて、シンドラーの守り抜いた秘密は、コクーンに用意されたステージのひとつ、「オールドタイムロンドン」の中のジャックザリッパーの「望み」として密かに忍び込まされることになります。
 ゲーム内のジャックザリッパーは「母に捨てられた」という事実から母を憎み、その「愛情と紙一重の憎悪」という悲しい動機により、母を含む、母と似た女性を連続して殺害するという凶行に及んでいます。ここにも「親と子」の関係性の「ねじれ」が、事件の背景として横たわっています。
 数々の事件を引き起こしたジャックザリッパーは、その後コナン君たちによって列車へと追い詰められます。そこでコナン君の推理ショーが行われ、列車の上での最終決戦へともつれ込みます。
 列車の上でコナンと対峙したジャックザリッパーは、これ以上何が望みかと問われ「自分の血をノアの箱舟のように未来まで生き延びさせることだ」と答えます。この告白のシーンが、現実世界の工藤優作の推理シーンとリンクします!(滅茶苦茶好きなシーンです)
 実際にノアの箱舟に乗ったように現代まで生き残ってしまった殺人鬼の血、「俺には動機がない!」と叫んだシンドラーに対して優作はこの事実を突きつけます。「貴方はジャックザリッパーの子孫ですね」と。この「ゲーム内でのクライマックスの台詞が、現実世界で同時進行している推理ショーとバッチリとリンクする」というのはかなり見事だと思いました。
 事件の真相を暴いた優作は、シンドラーに対して言います。

「殺人者の血がなんです! 世間の目がなんです! どうして戦おうとしなかったんです!?」

 この「自分の血と戦おうとしなかった」という事実がまさに、シンドラーの「親と子」の問題にきちんと向き合えなかったことによる数多くの悲劇についての回答となっているのですが、これはまた作品全体、そして4つの事件のひとつ、「フルダイブ型ゲーム機デスゲーム事件」自体のテーマとして扱われています。「世襲(親から子への既得権益の譲渡)により腐敗した日本のリセット」そして「子供が自分の力で未来を切り開くべき」という「親と子」の問題提起を行うのがこのデスゲームだとノアズアークは述べました。つまりこのデスゲームもまた現代の日本に蔓延る「親と子」の歪んだ在り方の生み出した悲劇である、ということになります。

 この「親と子」の問題に対しての作品全体での最終的な回答が、工藤優作と新一の親子なのではないかと思います。この作品の描いた多くの「影」に対して、親と子の在り方の「光」として、2人の親子関係は描かれているように見えます。
 ヒロキの人格を持つノアズアークは最後に、工藤新一に対して「君たち親子が羨ましい」という思いを述べます。「離れていても心が通じ合っている」というのです。そこにある「親と子」の信頼関係の強さにヒロキは憧れたのでした。生みの親である樫村か、はたまた養子縁組によって親子になったシンドラーとのことを考えたのか、そこまでは定かではないですが、ヒロキには工藤優作と新一の親子が眩しく見えていた。
 離れていてもお互いのことを信頼し合っている、そしてその信頼関係はきっと、離れていないときにこそ、親と子が正しく向き合うことで培われてきたのだと、この作品は主張しているように見えます。

 このように、4つもの事件がひとつの作品に詰め込まれていながら、全ての事件が「親と子」の問題を内包した悲劇であり、そのそれぞれのモチーフが互いに重なり合い、響き合って全体としてひとつの大きな事件という形に収まっている。これをまとめ上げている脚本の力は物凄いと思います。
 特に脚本の巧さを感じて好きなシーンのひとつとして、諸星少年たちがパーティー会場でサッカーをして周りに迷惑をかけるシーンがあります(江守少年のずんぐりした見た目から繰り出される俊敏なプレー大好き)。
 このシーン、何気ないシーンなんですが「周囲に迷惑をかける我儘な少年たち」「それを𠮟れないダメな親たち」を提示しながら同時に「樫村殺人事件の決定的な証拠(短剣の指紋)」を生産し、更に後にコナンが「諸星少年=ノアズアークだと気づくきっかけ」となる、諸星少年がサッカーボールに興味を持たないシーンを伏線にするための下準備も同時にやってるんです。アクロバティック過ぎません?
 語り出したらきりがないのですが、この作品は4つもの事件が絡み合っていることもあり、このように「ワンシーンで複数の事件の中で重要な意味を持たせる」という要素が数々登場しています。
 だからこそ、これだけ多くの事件を同時に扱いながら、上映時間2時間未満の中でもぎゅっと要素が凝縮され、1本の作品としての強度が生まれているのだと思います。
 いやホントに、天晴れ。

日本のリセット、それでいいのか問題

 さて、「フルダイブ型ゲーム機デスゲーム事件」について。
 この事件はコクーンによるゲーム体験会をノアズアークが乗っ取ることによって開始されます。ノアズアークは目的を「日本という国のリセット」だと述べます。
 政治家の息子は政治家になり、頭取の息子は頭取になる。世襲にまみれて腐敗していく日本のリセットをかけた戦いとして、権力者の子供たちを人質に取ったゲームを始めたのだ、というのが彼の語った目的です。
 この作品はパーティー会場の冒頭から、この「世襲制への批判」を大々的に提示しています。灰原は次のように語ります。

「汚い政治家の子供は汚い政治家に。名声しか頭にない医者の子はそういう医者に。日本のそういうところが変わらない限りこの国は腐ったままね」

 まさにこれを象徴するかのように、諸星、滝沢、江守、菊川という権力者の息子たちの「クソガキっぷり」が描かれます。彼らは大の大人を平気でからかい、好き放題偉そうに振舞い、パーティ会場でサッカーを始めて周囲に迷惑をかけられながらも親や祖父らに甘やかされてきちんと叱られることもなく、むしろ「もう出資してやらないぞ」等の親の傘を着た恫喝を行います。これらの描写から「親がきちんと子に向き合っていない」ということが伝わり、同時に「彼らや彼らの親たち」への観客のヘイトを集めます。
 これはちょっと露骨だなと思わされるのですが、逆にこの露骨さが「ノアズアークの真の目的」を隠すことに役立っているようにも見えます。観客は「たしかに、権力者の子供は甘やかされて酷い育ち方をしていて、そしてそいつらがエリートとしてこの国を牛耳るようになるなんて、嘆かわしい」と思わされています。だからノアズアークの言う「日本のリセット」に対して、「気持ちは分かるわ」と感じさせられることになります。

 でもよく考えるとこれっておかしいんですよね。本当にリセットしたいならゲームなんてさせないで「コクーンに入った瞬間全員殺害」で良いはずなんです。けれどもそうはしなかった。ノアズアークの真の目的を、物語終盤でコナンが言い当てています。「本当は親の力を借りず、自分たちの力で未来を切り開くということを学んでほしかった」というのがその真の目的でした。
 これは一面的には正しい解釈に見えます。たしかに、親の力を借りずに苦難を乗り越えることは大事でしょうし、人間として成長する契機になるでしょう。親に頼りきりで来た子供には、その根性みたいなものが足りていないケースも多いのかもしれません。
 ゲームがノアズアークにジャックされ、デスゲームだと明かされた瞬間、モブの子どもの一人から驚くべき台詞が飛び出します。

「好きでお父さんの子どもに生まれたわけじゃないのに」

 この台詞、最初はギョッとしたんですよね。異常な状況に置かれてテンパったからって、スッとこれが出てくるのグロテスクじゃない? と。台詞の棒読み感も相まってかなり怖いなと思うんですけど、後から気づいたのはこれって「シンドラーの血の呪いを象徴する言葉」でもあるんですよね。好きでジャックザリッパーの子孫に生まれた訳じゃない、と彼だって叫びたかったはずです。
 そしてこの子供の台詞に対して、蘭が叫ぶのが「勝負する前から負けちゃダメよ!」という言葉です。この言葉、物語の終盤で優作がシンドラーに叫んだ「どうして戦おうとしなかったんです!?」という言葉と呼応しています。
 自分の「血の呪い」と戦おうとしなかったシンドラーの「ねじれ」と、ゲームに挑戦する前から諦めようとしている子供たちの「ねじれ」がぴったりと重なっています。こういうところ上手いですよね。シンドラーもまた、ゲームに挑戦させられた子供たちと同様に「子供」だった訳です。
 また、このときの蘭の叫びは、終盤で「心が折れたコナン」の姿とも呼応するように見えます。最後の最後、お助けキャラのホームズに励まされたコナンが活路を見出すことでこの「デスゲーム」は終結することになりますが、コナンの最後に辿り着いた「イチかバチかの大勝負」はまさに、「勝負する前から諦め」てしまおうとしたコナンの、それでも諦めなかったからこそ手にした奇跡でした。「挑戦する前から諦めてはいけないんだ、自分の手で活路を切り開くんだ」ということ、どうやら江戸川コナンにとっては、これが身に染みるいい機会だったように見えます。

 こうしてゲームをクリアしたコナンによって、子供たちは救い出されます。一方で、それでノアズアークの目的は達成されたの? というとそうは見えないというのが正直なところです。他のステージの子どもたちは全滅していますし、結局「誰かが勝ってくれたことで復活できてラッキー」になっちゃっている。これでいいのかノアズアーク?
 じゃあノアズアークの本当の狙いって何だったの? というところなんですが、実は親の側に働きかけることこそが真の目的だったのじゃないかと思っています。どういうことか?

棺桶として、そして繭としての「コクーン」

 ゲームの中のロンドンを舞台に進んでいくこの作品ですが、何度か現実世界側を映す場面があります。そのひとつが「誰かがゲームオーバーになったとき」です。コクーンにはご丁寧にも、ゲームオーバーになった子供の筐体が「地面の下」へと収納される機能が実装されています。
 これ、「埋葬」ですよね。親たちは疑似的に「子供の死と埋葬」を目撃させられることになります。そのたびに顔を覆い、子供の名を呼びながら泣き崩れる親たちの姿が、本作品では印象的に描かれています。
 この親の子どもに対して必死になる様子は、それまで「クソガキたち」の蛮行を見て見ぬふりしていた親たちの姿と明確に対比されています。自分の子どもが人様に迷惑をかけていても見て見ぬふりしていた大人たちが、幽閉された子供たちを固唾をのんで見守り、そして手の届かないところへ連れ去られることを嘆き、泣きながら手を伸ばす。そして子供たちが無事に解放された物語終盤で、この大人たちはわが子に駆け寄り、再会の喜びに涙します。「僕、頑張ったよ」と報告する子供を、親は抱きしめます。

 ノアズアークの本当の目的って、これだったのではないかと私は思います。自分の子どもや孫のことを、ちゃんと見てあげてくださいと。ちゃんと彼らと向き合ってあげてくださいと。彼らはやがて、あなたたちの手を離れ、手の届かないところへ行ってしまう。そして親の力ではなく、自分の力で戦わないといけないときがやってきます。そのときあなたたちはもう、見守ることしかできないんです、と。だからこのゲームが終わったら、子供たちがあなた方の元に帰ってきたら、きちんと向き合ってあげてください。彼らがいつか「羽化」して飛び立って行く日のためにも、今のうちに彼らとしっかり向き合って、一人で遠くへ飛べるように力になってあげてください。
 だからこのゲーム機は、「コクーン」という名を持ち、繭の形をしているのかなと思います。中にいる子供たちは、やがて羽が生えて飛び立って行く存在なのだということを象徴した形、それこそが「コクーン」というこのゲーム機にノアズアークの見ていたものではないかと思うのです。

ゲーム開発者から見た「ゲームとしてのコクーン」のリアリティ

 さて、ここからはおまけです。自分がゲーム開発に携わってきた上で改めてこの作品を見たときに、面白いなと思ったところのお話です。
 このフルダイブ型ゲームの在り方ってかなり力技なので、色々と気になるところがあるんですよ。昔はそういうの「まぁ映画としての都合だよな」と思っていたんですけど、思っていたより「ちゃんとゲームとして成立させる=ゲーム的リアリティを獲得しようとしている」という手つきなのではないかと思い始めました。

 まずコナン君たちの冒険を繰り広げられる「オールドタイムロンドン」のルールなのですが、序盤で阿笠博士から「大きな怪我をしたり、警察に捕まったりするとゲームオーバーになるぞい」という説明を受けます。
 実際キャラクターたちは大きな怪我を負う局面で脱落していくのですが、警察に捕まったらゲームオーバーという設定ってこの後一回も出てこないんですよね。
 この部分、昔は「脚本の都合で後から警察に追われるシーン等が削除されて、この台詞だけ残っちゃったのかな」と考えていたんですが、自分がゲームを作る側になって分かりました。これプレイヤーの行動を制限することでゲームの無秩序な広がりとコストの増大を防いでいるんですよね。
 つまりどういうことかというと、プレイヤーは最初に「ホワイトチャペル地区」からスタートし、ホームズのいるベイカーストリートを目指しますが、例えば「無秩序なプレイヤーが面白半分で全然関係ない方向に延々と歩き続ける」ということが起きかねません。
 そうなると困るのが、フルダイブ式のゲームであるが故に3Dでのステージ制作に滅茶苦茶コストがかかっているであろうことで、極端な話「想定されたプレイ時間中全力で突き進んだ場合到達できる全ての範囲を超精密に作らなければならない」ということになってしまいます。はっきり言って無茶です。だから「プレイヤーが移動可能な範囲」は絶対に限定する必要があるわけです。ではどうするか?
 一般的なゲームであれば、例えば「この道はこれ以上いけない」というところに通行止めの標識と透明な壁を置いたり、柵や大きな川で区切って通れなくしたりという形で「塞ぐ」のが一般的だと思いますが、フルダイブ式のリアリティを損なうため、そういう手段が使えません。そこで警察の出番です。
 これより先はゲームでは使わないよ、という方向に行こうとすると警察に止められる、それでも突き進もうとすれば捕まってゲームオーバーになる流れにすれば良い訳です。これにより、精巧に作るべきステージは「物語上必要な場所だけ」に限定できます。
 そう考えると、この「オールドタイムロンドン」以外のステージって、こういう悩みが生まれないものを選んで並べてあるようにも見えます。「ヴァイキング」は船の上、「パリダカールラリー」はレースのルート、「コロセウム」は大会会場内、「ソロモンの秘宝」はダンジョン内だけを作りこめば事足ります。「オールドタイムロンドン」だけは「どこにでも行こうとすれば行けてしまう」性質上、何らかの制限が必要になるのです。
 更に「警察に捕まるとゲームオーバー」という設定は、「警察と協力して捜査しよう」という発想の抑止にも繋がります。工藤優作の元のシナリオでは「ホームズと協力してジャックザリッパーを追い詰める」が想定されていたはずなので、最初の段階で「まずは警察と協力して」って方向に話が進むと、まったく違う形のシナリオになる可能性が高い訳です。
 実際、映画の中ではプレイヤー達が「レストレード警部」という名前を聞いて最初にやったことは「警部と連絡を取って」ではなく「じゃあホームズもいるはずだから、ホームズを探そう」でした。これって「警察と組む」という選択肢を除外したことの功績のひとつなんじゃないかと思うわけです。

 もうひとつ謎だったのが、同じくゲームオーバー条件について、「列車から崖下に飛び降りた蘭が空中で消える理由」です。
 アレって変なんですよね。だってまだ大きな怪我をしていない訳じゃないですか。ゲームオーバー条件に対して判定がフライングしているように思える訳です。「蘭が生存していた! って展開を想像させないようにちゃんとゲームオーバーになった瞬間は見せたい」「でも縛られたキャラが崖下に叩きつけられるシーンを描くのは惨いから避けたい」という事情からこういう形になったのかな、と昔は思ってました。
 実際そういう事情もあるかもしれませんが、今考えるとアレも「ステージ制作のコストの問題」があるんじゃないかという気がします。蘭ってプレイヤーな訳です。つまりカメラを持ってる存在じゃないですか。それが延々と崖下に落ちていくのを許したら「長大な距離に渡って、崖下の谷底までしっかり作りこまないといけない」ことになるわけですよ。馬鹿げたコストがかかります。自分がゲームを作るなら「このシナリオなら列車から外には出られないようにするか、外に落ちた場合はゲームオーバーにしよう」と考えます。でもそこは自由度の高いフルダイブ式のゲームな訳で、だとしたら「列車から見える範囲はある程度作っておくけど、一定以上遠いところは作りこみをしないで、プレイヤーが崖下に落ちたら空中でゲームオーバーの判定を出す」というのがコストが抑えられそうです。
 これによって、「蘭は途中で消えるのに、ジャックザリッパーはそれよりも深いところに落ちて行っている描写がある」ことにも納得できます。ジャックザリッパーNPCなので、作りこんでいないエリアまで行っちゃっても別に良い訳です。プレイヤーに作りこみの甘さを見られないので。
 それにしても「落下中にゲームオーバー判定を出す」のルールのせいでロープが伸び切る前に蘭がゲームオーバーにされていた場合、ジャックザリッパーを道連れにできずに無駄死にになっていた可能性もあるなと考えるとちょっと恐ろしいですね。深刻なバグです。

 等と「ゲーム的な事情」を考えていっても色々面白いというか、しっかり練りこまれているなあというのがこの作品に対する感想です。ゲームが登場する作品って結構「いやゲーム部分ガバガバだな! まあそういうもんか」みたいになることって多い気がするんですが、この作品はこの時代にして「ゲーム的リアリティ」に対する気配りが凄い気がします。
 異常に自由度が高くてNPCと自由に会話をできるゲーム性というのは現在から考えても夢物語だなとは思いますが、それも近年のチャット式AIの目覚ましい発展を見ていたら、近い将来夢物語ではなくなるときが来るのかもしれませんね。

おわりに

 全作レビューは長すぎるとか言ってたくせに、1作品だけで異常な長さになってしまいました。現時点で13000字程度あるみたいです。ワーオ。
 ここまでお付き合いいただけた方がいたらありがとうございます。
 コナンの映画って定期的に地上波でも流れているし、繰り返し観てるって人も多いと思うんですが、本当に繰り返しの視聴に耐える名作が多いと思います。
 色んな作品のこういうレビューみたいなのを書いていきたいと思っていますが、コナンの他の作品についてもまた書きたいですね。
 そしてもしかしたらいずれ、全作品レビューも……!
 そのときはよろしくお願いします。


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