見出し画像

あたしのソレがごめんね⑧

第八章 -雑音-

私が感情を捨ててから少し経った頃、朝美は驚くほど勉強をするようになった。
ボート屋のバイトが終わった後も一人で小さな映画館に行って古い映画を観て、本も沢山読むようになった。
朝美がこんなに文化的な人間だと思っていなかったので正直かなり驚いた。
それと同時に今まで何となく感じていた生きづらさが少し軽くなったのを感じた。
朝美が別の何かより私のことを優先するたび、私は生きる歓びを強いられているような気がした。
ずっと考えないようにしてきたけど、今なら言える。
私の憧れの朝美が私のせいで本来の姿で無くなることが、一番苦痛で、憎らしくさえあった。

「この本、早稲田が貸してくれたんだけどー」
最近朝美の口から良く出る男子の名前。
同じクラスの頭の良さそうな人だ。
きっとその人のことが好きになって興味があることも増えたんだ。
前の私なら、かわいいな、と思っていたと思う。
だけど、私はもう朝美にも誰にも興味を持つことは辞めた。
何も考えず、何も求めず、静かに死んでいきたい。
私の股間にだらりと垂れたこの腕のように。

ボート屋のバイト中にも朝美は勉強をしたり本を読んだりすることが多くなった。
私はただ息を吸って吐いた。
湖の土臭さだけを感じる中、朝美がその静寂を解いた。
「夕希は将来これになりたい、みたいなのあるの?」
「夢ってこと?」
「そうだね」
一呼吸おいてこう返した。
「ないね。朝美は?」
「あたしも無い」
拍子抜けした。訊いてくるからには何かあるのかと思った。
「じゃあなんで訊いたのよ」
「あたしね、あ、いや……」
朝美は何かを言いかけてやめた。珍しく歯切れが悪い。
「言ってみなよ」
私に言ってすっきりするなら言った方がいい。
「あたし今、何にでもなれるって思ってるの。昔はこんなことなかったけど、なんかやればできそうな気がしてさ」

大好きな姉の希望溢れる話なのに、全く心が動かなかった。
「恋、ですか」
まるっきり真顔で言ってしまった。これじゃ皮肉だ。
「違うよ。やってみたら面白いことが沢山あったの。勉強も本も映画も音楽も、まだまだ知らないことが無限に広がってるんだよ。知りたい放題なの。そう思ったらあたしもまだまだやれるって、そう思うし夕希も」
「うるさ」
初めて。生まれて初めて人にうるさいと言った。イライラしている訳ではなかった。相手をするのが面倒くさかった。私を手放した途端にどんどん羽ばたいていく朝美を見て、そういうのは勝手にどっかに行って私の知らないところでやってくれと思った。

「あ……ご、ごめんね」
朝美はまた参考書に目を移した。
面倒くさい。全部面倒くさい。
私がソレのコントロールと同時に手に入れた自由は無気力という名の碇を私の心につけた。
まただ、また不自由だ。
誰も傷つけたくなくて感情を殺しても、またこうして人を傷つけてしまう。
神さま、私はどうすればいいですか?
生きている意味がよくわからなくなってきた。

家に帰って一人になった瞬間、訳もなく涙が出てきた。
止められない。抑えきれない。
コントロールできないこの感情は、虚しさだった。





前回



いただいたご支援は執筆にかかる費用に使わせていただきます。よろしければ是非!