テイクアウトの牛丼の発泡スチロール製の容器に小銭を入れて持ち歩くという行為
私が若い頃の話。
その人を見たのは1回だけだったが印象に残っている。
60代くらいのおじさん。
白い半袖のYシャツに紺のスラックスというシンプルな格好(夏場のサラリーマンの人のネクタイを外した姿)で親指と人差し指でつまむようにして吉野家のテイクアウト用の発泡スチロール製の牛丼の容器を持っていた。
上の蓋はなく、中身が丸見えになっている容器には、牛丼ではなく、数枚の小銭が入っていた。
他に荷物は持っておらず、それだけを持って歩いている姿が、私にはとても『セクシー』に見えた。
もしかしたら、路上生活者、生活困窮者の方かもしれない。
この容器にお金を入れてもらい、生活をされているのかもしれない。
私はそういった方たちや、そういう行為を面白がったり、批評したいわけではない。
単純に『テイクアウトの牛丼の発泡スチロール製の容器に小銭を入れて持ち歩くという行為』に何か感じるものがあった。
『ファッションとしての関心』『アートとしての関心』かもしれない。
友人にそのことを話したのだが誰も共感してくれなかった。
こうなったらやるしかない。
おじさんに影響を受けた私は「アムラー」「シノラー」よろしく『吉野ラー』としてお持ち帰り牛丼容器を財布代わりに生活するようになった。
ただ、『私がやる』ということが「おじさんを馬鹿にしている」と取られるかもしれない。「路上生活者を馬鹿にしている」と取られるかもしれない。
それは、本意ではない。
葛藤はありながら、おじさんと同じようにバッグは持たず、容器の中にお金、ケータイ、文庫本を入れて、電車に乗りアルバイトに行ったり、出かけたりした。
持ち方は、銭湯に湯桶を持っていく持ち方にアレンジした。
なんというか、大切なものを剥き出しにしている高揚感があった。
ケータイと文庫本を入れるのは違うかもと、おじさんと同じスタイルでの挑戦も試みた。
周りからの反応は特に何もなかった。
声をかけられたりはしなかった。
友人からも特におもしろがられなかった。
(友人に小銭を入れてもらう、ということも考えたがしなかった。)
もちろん「アムラー」「シノラー」のようなブームにもならなかった。
結局やめてしまった。
私が感じたのは「貴重品をその辺に置いて置くような不安感のドキドキ」と「変なことをしている自分というナルシシズム」いう簡単なものだったのかもしれない。
なんの生産性もなかった。
今、思えばなんでこんなことしたんだろう、だし。
なんで、これを今、文章にしているんだろう?と思いながら書ききってしまった。