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『8hのメビウス』あとがき -メビウスの作り方-④

ウンゲツィーファ主宰の本橋です。
先月末に終了したウンゲツィーファの10周年記念公演『8hのメビウス』(2024.10/18~10/27 @スタジオ空洞)について、脚本演出家である自分なりの「あとがき」を何回かにわけて書いています。

このあとがきシリーズは今回で最後にしようと思います。
・8hのメビウスは僕にとってなんだったのか
・8hのメビウスを経て。
この二つについて書いていきます。

○8hのメビウスは僕にとってなんだったのか

「ウンゲツィーファ」という演劇ユニットは改名前の「栗☆兎ズ」での活動も含めて創立10周年を迎え、メビウスは「10周年記念公演」と冠をつけたわけですが、10周年だと気づいたのは正直情報公開間近のタイミングでした。

「なにも続かない」と思って生きてきた自分が、ふと気づけば10年も取り組んでいました。「これだけ続けてきた」とか「やっとここまできた」とか、そういった感慨はないです。
生きてることと同じくらい、ただやってる。やむなくやってると言ってもいいです。

しかし、メビウスの千秋楽で終演の挨拶をする時に涙が込み上げてきました。あの時の感情はなんだったのか。なぜ僕はあの作品を作り、あの感情に行きついたのでしょうか。

・演劇とのすれ違い

中学生時代に演劇と初めてすれ違いました。

文化祭の行事の一環として体育館に全校生徒が集まり、文化部の発表を見る機会がありました。その時に演劇部の発表があったのです。僕の中学の演劇部は女性の部員8人ほど所属していて、アニメやゲーム的なカルチャーに影響を受けたコミュニティーという認識でした。当時の学校ヒエラルキーの中では最下層に位置していて、およそ関わりのない人たちでした。
ファンタジー的な世界観の作品を、アニメ声優を意識したような演技体で演じていて。悲劇的な出来事が起こり俳優の一人が悲鳴をあげるシーンがありました。客席で見ていた、ヒエラルキーの上位に位置していた不良的な人たちの一人が「せーの、」と掛け声をあげると、周囲にいた仲間たちが声を揃えて「きっもー!」と叫びました。
それを見て僕は他の友達とへらへら笑っていました。舞台上の人たちの気持ちを考えられるほど成熟していなかったし、何よりその時の僕にとって舞台上の人たちは全く別の生物に思えるくらい、距離を感じていました。

中学生のころの僕と言えば、いじめの対象の予備軍という位置に居続けていました。真っ向からいじめの対象になるわけではなく、ただ週に何度かは痛い目に合うようなバランスでした。ヒエラルキーで言うと、下層の上の方。
部活は剣道部に所属していました。
剣道部にはヒエラルキー上層の下の方の人たちが集まっていて。剣道部の活動場所は校舎から離れた武道場にあり、その独立した空間の中は彼らのテリトリーとなり、かなり下品な場になっていました。
よく覚えているのは僕と他のいじめられっ子が、剣道の面の中に水風船を詰められた状態で試合をさせられました。パンパンに詰められた水風船は、強く面を打つと中で割れるのです。
今考えるとよくそんな創意工夫できるな、ルールにとらわれない自由な発想生み出しすぎだろ、ゆとり教育ここに極まりだなと感心すらしてきます。
彼らはそれを囲んで笑いながら、ヤジを飛ばしたり水風船を投げ込んだりしていました。

武道場の二階には柔道場があるのですが、柔道部はなく。演劇部が活動場所にしていました。
一度、部活から逃げて二階に忍び込んだ時があります。その時演劇部は活動していなくて。小道具や衣装がある倉庫のような部屋に入り、そこで見つけたひょこひょこナイフで遊んだのを覚えています。

中学時代

当時僕はコンプレックスの塊でした。
ただ、どうすればいじめから逃れられるかだけを考えていました。そのために、友人だった他のいじめられっ子を、いじめっ子たちの前で罵ったりもしました。
いじめっ子たちを心底憎んでいたけど、運動神経からテストの点数まで、彼らに勝るものがなにもなく感じていました。
努力して自分がヒエラルキーの上に立とうとか。或いは演劇部の人たちみたくいじめを無視して全く別のものに打ち込もうとかは全くありませんでした。
本当に自分は、全人類の中で最底辺の人間かもしれないとすら思っていたのです。

そこまで思ったのは小学生の頃の影響もある気がします。
小学生のころの自分と言えば学年一の人気者と言っても過言じゃないくらいでした。ぱんぱんに太っていて、一発ギャグやダジャレで周囲を笑わせたり、斬新な遊びのルールを提案して皆を引っ張っていました。

小学生時代


中学になり、思春期に突入すると同時に周囲と自分の価値観が変わり、落ち込んでいったように思います。
小学生のころに目を輝かせて自分の後をついてきてくれた友達たちの全員分の荷物を持たされた中学時代の下校時間の経験は自分の性格を捻じ曲げないわけがない。

・演劇を始める

将来の目標など到底ない自分は、母が探してきてくれた高校の中からまず同じ中学の人がいなそうなところを基準に選びました。そんなに頭のいい学校でもないのですが、補欠での合格でテスト成績ほぼ最下位での入学だったらしいです。
運よく早々に友人を作ることができ、その友人が演劇部に入ると言っていました。その学校は「演劇部が強い」ということで有名な学校で、友人は芸人やテレビタレントへのあこがれから演劇部に入りたかったようです。
僕はなんとなく帰宅部というのに抵抗があり、友人について行く形で演劇部の見学に行きました。
歴史ある小劇場のような面持ちの演劇教室に足を踏み入れ、見させられたのは大量のスモークとビームライトの中で大勢の部員たちが山口百恵のイミテーションゴールドを歌って踊るという怪しいパフォーマンスでした。
全く知らない世界を見せつけられて、ぼーっとしていたのですが。なんか格好いいなと感じました。
そこからほぼノリって感じで入部して高校の3年間を演劇漬けで過ごすことになるわけです。

そこから演劇に夢中になった、というわけでは全くありません。むしろ相変わらずコンプレックスを引きずったままの生活だったし、演劇部強豪校というだけあってかなり厳しい部活動でした。休みなんてほとんどなかったし毎日朝練だし、帰りは22時ごろなんてザラでしたし。ずっと辞めたいと思いながらやってました。
高校の3年間はそれだけで本一冊書けるくらいに目まぐるしく色んなことがありました。
あれよあれよと引退のタイミングになり、最後に挨拶する時間があって。
その時に、なんとなく中学の時にいじめられてたことをカミングアウトしました。軽くしゃべるつもりがボロボロ涙が出て来て嗚咽を漏らして泣いていました。
何者でもなかった自分を評価してくれる懐の広さが演劇にはあって。自分で気づかないうちに、そのことに救われていたのだと思います。

その経験から、自分の演劇活動の大きなテーマとして「隙間を評価する」ということがあります。それは「8hのメビウス」にも繋がっていきます。

・「演劇、好きなんやな」

演劇漬けの高校生活を経たわけですが「演劇で食っていこう」など思うことも特にありませんでした。他にやりたいこともなく、なんとなくで演劇の学科がある大学に進学してそのまま惰性のように続けてきました。

大学時代(右)


演劇以外のやりたいことが見つかったらいつでもやめるんだろうなと思っていました。
ただ、何年もやっているとさすがに、演劇が自分にとって特別なものだと気づいてきました。
演劇以外にもいろいろなことに手を付けては、やめてきました。そんな中、演劇だけが残り続けました。
演劇は僕にとって、「残り続けたもの」です。故に自分の中の強固なものになっていきました。

2020年。コロナ禍に入り、活動を頻発できなかった辺りで自分が作る演劇に如実に迷いが出始めました。
それまでただ続けてきたのですが。続けるということに対するハードルが突然目の前に立ちふさがってきたように思います。
「なにをしよう」から「なにをしなければならないのか」という風に考え方が変わっていき、思考が停滞していきました。

この時期から黒澤多生くん、豊島晴香さん、藤家矢麻刀くんとの四人での演劇活動を暫く続けることになります。僕の迷走をともに走りぬいてくれた盟友です。

2022年の秋、兵庫県の加西市というところで「モノリス」という演劇作品を作った。同じイベントで作品を上演していたバストリオという団体の演出家の今野さんとアフタートークがあり、今野さんから「本橋君は演劇が好きなんやな」と言われた。
その言葉が、なにかすごく腑に落ちたのです。
演劇と出会って、続けて来て、僕は一度も自分が演劇好きだなんて思ってこなかった。演劇に対して、どこか後ろめたさすらありました。演劇をどこかで斜めに見ることで何かから逃げてきました。
自分が作る演劇を模索するのは、もうやめようと思いました。

まっすぐ演劇を作ろう。演劇が持つマジックのど真ん中をやろう。なぜなら演劇が好きだから。それでいいじゃんと。

・岸田國士戯曲賞

そこからさらに何作か経たうえで、2024年春に「旅の支度」という戯曲を書きました。上演時間70分程の2人芝居です。
自分としては少し気恥ずかしいくらいまっすぐな会話劇でした。
「ウンゲツィーファ最高傑作」という感想が幾つかありました。
この方向で良いのだと確信しました。

見て頂いた劇評家の方から、「人数を増やして2時間以上の作品を作った方がいい」「今の規模の作品だと岸田國士戯曲賞は難しい」というアドバイスをもらいました。岸田國士戯曲賞というのは戯曲における芥川賞のような位置づけの賞です。
岸田國士戯曲賞の存在は、さして演劇に興味なかった高校のころから知っていました。とりあえず「一番すごい賞」というような認識で。
演劇をやめていった部活時代の友人らから、「岸田賞とれるといいね」など適当に言われることがあります。自意識過剰かもですが、僕には慰めのように聞こえています。
ずっと頭の片隅に岸田賞の存在はありました。
とったら何か変わるのだろうか。
未だ自分の中に呪いのようにはびこるコンプレックスを払拭できるんだろうか。

言われた通り、人数を増やした長尺の作品を作ることにしました。手法は「旅の支度」の時のままで。

そして、「8hのメビウス」に至ったのでした。

千秋楽の挨拶の話しに戻ります。
なんてことのない挨拶でした。「以上になります。ありがとうございました。」と言ってお辞儀するだけ。
この公演でなにか達成できたのだろうか。自分にとって演劇公演とは常に「過程」でしかないです。中間発表のような感覚で。
その先になにがあるのかはわからない。ただ、やるたびに、「次はこうしよう」と考え始める。その繰り返しをしている。だから続いていくのだ。

先のことを考えている最中、ふと拍手の音が耳に入る。
振り返り、あ、こんなところまで来たのかと気づく。
何者でもなかった自分が、確かに歩き続けてきた。
そんな感覚がよぎったのでした。

○8hのメビウスを経て

気付けば年を越して新年を迎えてしまいました。
明けましておめでとうございます。
年末に、2024年のベスト観劇をSNSで挙げている人がいて、「8hのメビウス」の名前もちらほら見かけました。他者にとって特別な作品になったこと、とても嬉しいし光栄です。

自分としても今回の作品で何かずっと超えられなかった峠を越えたような感覚があります。先が見えず、この道で合ってるのか?引き返した方がいいのか?と何度もくじけそうになった峠だったので、今は足取りが軽く、意欲にあふれています。
春ごろに行う次回公演の準備がスタートしています。来月頭ごろには情報公開できたらと思っています。

それと、これからの目標をここで宣言しておきたいと思います。
ウンゲツィーファはこれから公演規模を拡大していきます。知名度を獲得したいんです。
その先で自分たちの公演を劇場に買い取ってもらえるようになったら、他者(見てくれる人たち)にとって特別な作品を量産できると思っています。

まずは3年後、2027年に中ホール規模の劇場で公演を行うことを目指します。
それに向けて次の公演は毎度のスタジオやギャラリーでの公演ではなく、ブラックボックスの小劇場での公演を行います。

もちろん小さな空間での公演もやっていきたいので、合間合間でやっていこうと思っています。

…と言った感じで、『8hのメビウス』あとがきを締めくくろうと思います。

これからもウンゲツィーファを何卒よろしくお願いします。

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