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エセー「なぜ自分の能力を数値化できないか」

前回Note

では前回Noteに続いて将棋で考えてみよう。
たとえば将棋の能力を以下のように分析してくれる機械は作れるだろうか?
ユーザーA
序盤力-X 中盤力-X 終盤力-X
勝負強さ-X 将来性-X

問題は次の点である。
「そもそも、上の評価を人間ができるだろうか」


人間の評価について

もし人間が判断できないということは、
人間が入力する正しい情報を選別できないことになる。

具体的に考えてみよう。
序盤が得意とか、中盤が得意、あるいは逆に苦手と考える基準は何なのだろうか?

将棋は序盤、中盤、終盤と通り、
最終的に相手の玉を「詰ませる」ことで勝利するルールである。
相手が降参、投了しても勝利となる。

となると客観的に取りやすいデータはもちろん勝率である。
勝ったか負けたかはルールがある以上動かない。
ここで意見が割れないのは重要である。

他方、その将棋の勝負(棋譜、対局)がどこが巧みであったか、
決定的だったかは意見が分かれる。

ある人は勝った人の序盤の構想力を褒めれば、
別の人が、終盤の玉を詰ませる力を褒めることも不思議ではない。
「勝因」と書くと一気に怪しくなる。
勝ったのは事実で疑いはないが、なぜ勝ったのかは判断しなければならない。

将棋指しでない人からすると驚くべき情報かもしれないが、
将棋では序盤と中盤、中盤と終盤の区別でもかなり意見が分かれる。

序盤は当然将棋が始まってからであり、
終盤は勝負が終わる直前である。
しかしこの間の中盤というのは、将棋指しの間でもだいぶ意見が分かれる。

慣れた将棋指しなら「今まで勝負は中盤だったが、今序盤(の状態)に戻った」など、
個々にかなり明確な基準をもっている。
しかしこの基準は言葉にならない。

将棋のプロ棋士の書いた本ではどこからが中盤か書いている本もある。
しかしその定義もプロ間でも多少の違いはあり、
序盤と中盤、中盤と終盤の違いを判断する難しさを物語っている。

さて、人間がこの始末では機械に一体何を読み込ませればいいのだろう。
何を基準に情報を集めるか、
何を良いと判断し、何を悪いと教えるのか。
何を機械に教えるかは人間が決めねばいけない。

将棋AIと人間の関係

実のところ、将棋を理解するAI研究はかなり進んでいる。
すでに将棋AIが人間の強さを超えたのはニュース等でも確認できる。

しかし、実はこのAIは勝率から逆算したような作りになっている。
3駒関係や独自の評価関数等、多くの工夫が行われているが、
基本的に勝利を基準としているのは変わらない。
※詳しくは参考文献の山本一成さんの本を参照

それゆえ、将棋AIもまた「どれぐらい勝っているか」、
あるいはある場面からの勝率は予測できるのだが、
序盤と中盤の違いや、ある人の「序盤の強さ」などはもちろん判別できない。
将棋AIは人間より強いが、ある人を説明する言葉を持たない、
というかそうした機能と仕組みを持たない。

現状がこうである以上、人間を評価するAIの作成は遠い先であり、
何よりその骨格がいまだに作られていない。

その原因は、人間自体の不安定さによる。
言葉が不完全で個人によって意味が違うのだから、
その言葉が決める序盤や中盤、終盤の強さはもちろん、
勝負強さのような更にあやふやなものは全く分類ができない。

しかしこれもまた面白いのが、ある程度の力量のある将棋指しは
序盤や中盤の区別、更にその「良さ」についても語ることができる。

もちろんこれは主観的なものである。
しかし現状客観的な指標がない以上、判断は常に主観的にならざるをえない。

客観的という幻想

さて、ここで疑問を更に足してみよう。
「そもそもある出来事に完全に客観的な事実は存在するか」

1+1=2ならある程度は客観的な事実と言えるだろうか。
これは単純に、反論があまり想像できない。

しかし言葉の意味、将棋の良し悪しは喧々諤々の議論となる。
なんならそれで1冊の本が書けたりもする。
※参考文献の『イメージと読みの将棋観』参照

このような訳で、人間を評価するAIの開発はまだまだ先である。
AIの開発のために、人間の価値観の共有が必要だというのは皮肉でもある。

逆をいえば、ある特定の人の価値観、ある特定の指標に基づくものなら
現在でも評価可能である。

そのため、人間が判断できるものはAIにも判断可能であり、
人間に判断ができないものは基本的にAIにも判断不可能であると言える。

人間側の、つまり「元データとしての人間の価値観」の重要性はエンジニアの山本一成も説く所であり、
AIは夢の機械ではなく、人間の想像力の延長にあると言えなくもない。

たとえば私達が想像する機械の原始的な形、
足踏み式のミシンだとか、これらは人間の行動がすでにあり、
その簡略化として存在する。

なのでもし人間が複数人で話し合い、「良さ」について合意が得られることなら、
それを模倣してAIにも判断を下すことができるかもしれない。

しかし合意ができないことや根拠が言葉にならない事柄は、
今でも人間の指導員に頼るのがむしろ簡単である。

人間の指導員による主観的な判断は世界に数多くあるだろう。
他方、人間は絶対的な正しさ「客観的判断」を求める性質がある。
しかしその客観的判断があるということ自体、疑う必要がある。

客観性と正しさの誤解

もし絶対的に正しい客観的判断があるとすれば、
それはたとえば将棋の場合「正解がある」ことになる。

しかしAIであれ、プロ棋士であれ、この正解に到達した者はいない。
どれだけ強い存在であれ、それは対戦相手より相対的に強いだけで、
「誰が相手でも絶対に負けない存在」は将棋で未だに存在しない。

更に正しい評価のためには強いだけでなく、
その強さを自ら説明できなければいけない。

普通、こうした万能の存在は神と呼ばれる。
将棋にもそれがあり、常に過ちを犯さない存在を将棋指しは「将棋の神様」と呼ぶ。

しかしこの神はあくまでたとえの中で現れる存在であって、
まさか将棋指しが将棋の神様という非科学的存在を信仰しているという意味ではない。
たとえば「将棋の神様が相手なら(理論上全く間違えない相手なら)、
この戦況は五分である」というふうに使われる。

将棋の神様は上記のように「理論上」という言葉で置き換えることができる。
そして将棋の神様はあくまで理論上の存在であって、
現実に存在はしていない。
「理論上、完璧に将棋を理解し、指せる人物」の仮称が将棋の神様である。

それゆえ、将棋における客観的評価はいまだ存在せず、
すべては主観的な評価である。
将棋の神様はいないのだから。
そして、主観的評価こそが現状唯一の指標である。
もしあなたが本当に神を信じる信仰者であるなら別だが。

参考文献
鈴木宏彦『イメージと読みの将棋観』日本将棋連盟 2008年
山本一成『人工知能はどのようにして 「名人」を超えたのか?』ダイヤモンド社 2017年
瀧澤 武信『人間に勝つコンピュータ将棋の作り方』 技術評論社 2012年
澤田純『パラコンシステント・ワールド』NTT出版 2021年
米長邦雄『われ敗れたり』中央公論新社 2017年
ティモシー・クラーク『マルティン・ハイデガー』青土社 2006年
E.H.カー『歴史とは何か』岩波書店 1962年
※主観と客観について考えた名著
増川宏一『将棋』法政大学出版局 1977年
〃『チェス』法政大学出版局 2003年
木村義徳『持駒使用の謎』日本将棋連盟 2001年