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【20,000字試し読み】SNS時代の危うさを問うジェットコースター・エンタテイメント──藤井清美『#ある朝殺人犯になっていた』

ドラマ『相棒』や「るろうに剣心」シリーズなどで脚本家として活躍してきた藤井清美さんは、2017年以降オリジナル小説にも挑戦し、「明治ガールズ 富岡製糸場で青春を」「偽声」「京大はんと甘いもん」を出版。続く4作目が本作です。脚本家として身近に見てきた芸能界と、ご自身がTwitterのトレンドを追いかける中での気づきを、SNSの功罪を描く怒涛のサスペンスに仕上げました。SNS上で標的にされた若手お笑い芸人の苦悩と反撃の“ドキュメント”をぜひお楽しみください。


#ある朝殺人犯になっていた (1)


■著者紹介

藤井清美 (ふじい・きよみ)
1971年生まれ。徳島県で育つ。筑波大学在学中に舞台から仕事をはじめ、映像の脚本でも活躍。近年挑戦している小説では、大学で歴史学を学んだ経験を活かし、綿密な調査と取材を強みとする。舞台では小劇場から大劇場まで多くの作品を発表。『ブラックorホワイト? あなたの上司、訴えます!』(作・演出)など。ドラマ・映画のシナリオでは恋愛ものからサスペンス、スケールの大きなアクション作まで手掛ける。『相棒』『恋愛時代』『ウツボカズラの夢』『執事 西園寺の名推理2』(以上ドラマ)、『引き出しの中のラブレター』『インシテミル 7日間のデス・ゲーム』『るろうに剣心』シリーズ、『見えない目撃者』(以上映画)。小説では「明治ガールズ 富岡製糸場で青春を」「偽声」「京大はんと甘いもん」。


■あらすじ

浮気淳弥うきじゅんや(28)は、佐藤昌紀まさき(25)と漫才コンビ「スレンダーズ」を組んで3年の売れない芸人。ある朝、目覚めた浮気は、SNS上に自分がひき逃げ犯だという噂が広がっていると知る。6歳の女の子がひき逃げされた悲惨な事件が時効を迎えようとしており、ネット民は怒り狂っていた——。「俺は関係ない」と否定すればするほど、過去が暴かれ、プライバシーが晒されてゆく。人生を取り戻すなら犯人を見つけるしかない! 炎上や個人攻撃のメカニズムを赤裸々に暴き出す、迫真のジェットコースター・エクスペリエンス‼︎


■本文

1
「ご来場の素敵な女性の皆様。この世で一番ムカツク言葉は何ですか? 当てましょう。それは『浮気うわき』。ね、そうでしょ? その浮気と書いて『うき』と読みます。浮気うき淳弥じゅんやです」

専門学校時代の合コンでは、この自己紹介だけで結構盛り上がったし、その後も、「ねえねえ、ほんとに『浮気』って書いて『うき』って読むの?」と聞かれ、免許証を見せていれば時間は潰せた。──そう、『潰せた』。当時は、「俺、自己紹介して免許証見せるだけで、女子は全員爆笑で大騒ぎ。話題の中心になって、男どもに嫌われちゃうんだよねー」と思っていたけど……。

いまは、この自己紹介のあと起きるのは、鼻を鳴らすような小さな笑いだ。それでも、その笑いを律儀に待ってから相方は自己紹介をする。

「佐藤昌紀まさきです」

このあと、「二人合わせてスレンダーズです」と声を合わせて漫才が始まるわけだが、この、コンビを組んで三年間少しでも浸透させようと頑張ってきた自己紹介について、最近、同期から先輩までさんざんなことを言ってくれる。

「まずな、『佐藤昌紀です』のあとに、淳弥がちょっとコケるような動きを入れて、『お前はそんだけかい!』って言うくらいせんと」

と言ったのは、同期のコンビ、三野みの狩野かのの三野だ。三野は関西出身で笑いにどん欲だから、こんな提案をする。だが、俺はコケるのは勘弁だ。俺が目指しているのはもっと都会的な笑いだからだ。

「淳弥、お前ツッコミやろ。細かいとこもツッコんでいかんと」

三野・狩野と俺たちは目指している方向が違う。でも、それを口に出すと面倒なことになるのでやめた。

半年前までつき合っていた佐緒里は「『この世で一番ムカツク言葉は何ですか? 当てましょう。それは浮気』の部分を変えた方がいいんじゃない?」と言っていた。

「学生の頃はさ、『浮気』って言葉も冗談になったと思うんだよね。でもさ、淳弥ももう二十八じゃない? 『浮気』って言われるとなんか生々しくて、聞いてる女のお客さんたちがいやーな気分になっちゃうんじゃないかな? それって損だよね。この部分だけ変えたらいいんじゃん?」

佐緒里は養成所時代、抜群に面白いヤツだった。特に、ピン芸人をやるようになって面白さに磨きがかかった。でも、売れるまで頑張り切れなくて実家に戻った。自己紹介を変えろと言い出したのは、実家に戻る直前だった。辞めるつもりのヤツが何言ってんだよ、としか思えなかった。

マネージャーのみずきさんは、「淳弥の方はこのままでいいから、昌紀も自己紹介の前に何か言葉を入れてみたら?」と数ヶ月に一度の割合で言う。みずきさんが何を昌紀に言わせたがっているのかはわかる。昌紀にだってよくわかっている。でも、昌紀の答えはいつも同じだ。

「俺、名字もよくある佐藤ですし、特徴になることってないんで」

みずきさんは、昌紀がそう答える度に何か言いたそうな顔をするが、結局言わない。みずきさんはいつも俺たちの意思を尊重してくれる。俺たちの良き姉貴って感じだ。


「ご来場の素敵な女性の皆様。この世で一番ムカツク言葉は何ですか? 当てましょう。それは『浮気』。ね、そうでしょ? その浮気と書いて『うき』と読みます。浮気淳弥です」

「佐藤昌紀です」

「二人合わせてスレンダーズです」

今日のネタは、男子高校生が告白しようとする話。片方はアニメ部のオタク、片方はサッカー部のスポーツ少年という対照的な二人が、「最近、理想の女性に出会ったんだよ」と言う。「どんな人なんだ?」と聞くと、それぞれが全然違う理想の女性を語る。「そんな人がいいのか?」と相手の趣味に引きながらも、恋に燃える情熱では共感し合い、互いの告白に協力しようということになる。だが、実は相手は同じ女性だった、というオチだ。

ネタは俺と昌紀で作る。最初に二人でアイディアを出してああでもない、こうでもないと言い合ったあと、俺が一人で家にこもってたたき台を作り、また二人で集まって練り上げていくのだ。このネタには俺の高校時代の実体験が入っている。自信作だ。

「自分が安全な場所にいて笑いをとろうなんて甘いぞ。自分の恥をさらし、かっこ悪いところ、無様なところと向き合って初めて、人を笑わせられるんだ」と、大先輩の濱中はまなかさとしさんが言っていた。俺がまだ生まれる前のバブルの頃、一回の漫才のギャラを入れた封筒が立ったという、伝説の漫才師だ。いまは、コンビは解散してしまったけれど、仕切りと喋りの巧さで司会者として幾つものテレビ番組で活躍している。全ての先輩を尊敬できるわけではなかったが、濱中さんは特別だった。ただ売れてるだけじゃない。俺が自信を無くしていると、どういうわけか「最近何してる? 飲みに行くか?」と声をかけてくれるのが濱中さんだ。濱中さんには俺の不調を察知するセンサーが付いているのかもしれないと、本気で思ったこともある。だから、濱中さんの教えには、ぐだぐだ言わずに従うことにしている。

俺と昌紀はいつも通り、出番の二時間前に劇場に入った。俺たちが所属している事務所所有の小さな劇場の楽屋は大部屋で、大先輩から今年初舞台を踏んだばかりの新人までが詰め込まれる。部屋には、会議用の長机が十個置かれていて、その周りにはパイプ椅子。他には貴重品を入れるロッカーと、洋服を掛けるシュテンダーが置いてある。

「今日の出演者はこんな感じ」

俺は、スマホで撮影した今日の出演者リストを昌紀に見せる。それを見ながら二人で、「三番目? いや、四番目か」と数えた。一番下の新人から数えて俺たちが何番目かを確認したのだ。

楽屋は、新人がドアに近い場所を使い、ベテランほど奥を使う。今日は下から四番目。だから、ドアから入ってちょっとだけ奥に進んだあたりが俺たちの居場所かな、と当たりをつけて荷物を置いた。

まだ誰も来ていない楽屋は、空気がこもって埃っぽい。消臭剤の安っぽい柑橘系の香りの向こうに、汗なのか涙なのかの生臭い人間の匂いがする。

芸人の世界は、入ってからの年数で先輩後輩が決まる。年齢は関係ない。そして、どんなに売れても、先輩には敬語だ。後輩の方が先輩より売れていようが、その関係は変わらない。

この業界に入ったばかりの頃、謙虚に先輩に頭を下げる売れっ子をかっこいいなと思った。でも、最近は同じ光景が別の意味を持つようになってきた。遠くない将来、後輩が俺たちを飛び越して売れてゆき、その売れた後輩から頭を下げられる──楽屋での居場所だけはどんどん奥になっていくのに、生活レベルも世の中の認知度も全く変わらない──なんてことを想像したら震える。

「今日は絶対、俺たちの漫才、認めさせような」

自分たちの席の奥に広がる空席を見ながら俺が言うと、昌紀が「おお」と言った。昌紀はこういう話を茶化さない。そこが好きだ。

近くの弁当屋のおばちゃんが今日の出演者用の弁当を届けに来たのと入れ違いに、俺たちは楽屋を出て非常階段に向かった。ここで出番の十五分前まで稽古を重ねるのだ。

昌紀は真面目で完璧主義だ。にこだわる。自分の理想が見えないと、あからさまに苛立った。

「ごめん。ごめん。ちょっと待って」

昌紀は俺を待たせたまま、ぶつぶつ台詞を言いながら自分を追い詰めて答えを探していく。イライラ歩き回る昌紀を見ていると、眼鏡をかけて、アイロンがきっちりかかったシャツを着た小学生が目に浮かんだ。

出会ったとき昌紀は二十二歳だったけど、こういう真面目さは小学校時代から同じだって断言できる。芸人になろうなんてばかなことを思いつくまで、理想を追い求めながら真っ直ぐ生きてきたんだろう。ずっと優等生で、ずっと律儀で。

昌紀は「俺の理想の女の子はね、息をしないんだ。ぐふふ」という台詞で突っかかっている。俺は、缶コーヒーを開けて、慌てずに待つ。こういうときの昌紀を変に刺激すると、ますます悩みが深くなるとわかっているからだ。

昌紀は眼鏡を外して、長く伸ばした前髪を「あぁぁぁぁ」とかきむしる。普段は隠している貴族的な整った顔が見えた。

「俺の理想の女の子はね、息をしないんだ。ぐふふ」

昌紀がホンイキで言ったので、

「それって、死んでるか──アレだよね」

と続ける。昌紀が先に進んだ。

「それでね、俺の理想の女の子はね、目が大きいんだよね。このくらい」

昌紀は、指で輪っかを作って自分の顔に当てる。「ぐふふ」

「その目の大きさは、たぶん──アレだね」

「それでね、俺の理想の女の子はね、嫌な匂いもしないし、トイレも行かない」

「それ、完全に二次元だね」

冷たい口調でツッコんだあと、ふと思いついた。「待って」

当たり前すぎる気がした。二次元に恋するクラスメートをばかにするって、なんていうか──古い。

「昌紀、もう一回、『俺の理想の女の子はね』からやってくんない?」

昌紀は、俺の意図を知ろうと目の中を覗き込む。でも、きっと何も見えない。俺にだって、いま頭の中でぼやっと湧いていることが、どういう形になるかはわかってない。

「いくよ」

昌紀はそう言って、スイッチを入れる。

「俺の理想の女の子はね、息をしないんだ。ぐふふ」

ここは、いままで通り返す。

「それって、死んでるか──アレだよね」

「それでね、俺の理想の女の子はね、目が大きいんだよね。このくらい。ぐふふ」

この返しは、台詞はそのまま、表情だけ変える。眉を寄せて、ちょっと泣きそうな感じ。

「その目の大きさは、たぶん──アレだね……」

昌紀が俺の変化を感じて、芝居を盛ってくる。さっきより興奮した感じで昌紀が言う。

「それでね、俺の理想の女の子はね、嫌な匂いもしないし、トイレも行かない」

ここだ! ──俺は昌紀を羽交い締めにする。

「よせ! それ以上言うな!」

クラスメートをばかにするんじゃない。友だちのために泣いてやる。

「……いまからキツイこと言うよ。それはアレだね。きっと、二次元だね」

でも、恋に夢中のクラスメートは気づかない。

「いやだなぁ、ちゃんと学校にいるよ。二階の、渡り廊下のところにある教室で会ったんだよ。ぐふふ」

「そこ、アニメ部の部室だから!」

俺が絶叫すると、昌紀の力がふっと抜け、に戻った。俺も羽交い締めにした手を離す。

胸の鼓動がうるさい。手応えと、いい結果が訪れそうな予感のせいで、心臓がはしゃいでいる。

昌紀が呟く。

「本番前に言うのはなんか恥ずかしいけど……俺、今日頑張るわ」

「おお」

俺も言って、残った缶コーヒーを飲み干した。

昌紀はまた眼鏡をかけ、小さな鏡をポケットから取り出して前髪を何度もなでつけて慎重にたらす。額と目の半分が隠れて、冷たい目だけがギョロッと覗く気持ち悪い男が出来上がった。

せっかくの高身長も、猫背のせいで五センチは小さく見えた。俺なんか背筋も伸ばして、靴を買うときはソールにこだわって、髪だってちょっと膨らませて、これでプラス一センチ、こっちでプラス一センチと細かく刻みながら稼いで、やっと昌紀の肩くらいなんだけどな……。

「今日だよな」

昌紀が、ちょっとだけ緊張が籠もった声で言う。

「うん、確か」

「確か」って答えてみたけど、絶対に間違いない。三週間前からこの日を待っていた。

今日はみずきさんがテレビ局のプロデューサーを連れてきてくれる。それも若手じゃなくて、かなり力のある人らしい。スレンダーズを面白いと思って欲しい。いや、名前だけでも覚えて欲しい。

俺たちはいま、ものすごく売れたい。

俺たちの稽古場と化している非常階段の手すりを摑んで、めいっぱい身を乗り出し、深呼吸する。すぐ下の弁当屋から、揚げ物の油の匂いが漂ってきている。古い油を何回も使ってるんだろうな。売れたら、その弁当屋から配達される楽屋弁当なんか食わないで、劇場の出番が終わったら、後輩を連れて高級焼き肉に行く。もしくは、モデルか女優と待ち合わせて、個室のある店に行く。

売れたら……非常階段で稽古はしない。濱中さんのように、自宅の地下の稽古場で稽古する。そして、劇場には出番直前にやって来て、楽屋では後輩たちと雑談して、スタッフが「お願いします」と呼びに来たらやっと立ち上がって舞台に向かう。そしてあっさり爆笑をさらって、後輩たちから「天才」と呼ばれるのだ。

「でもな、俺たちだって昔はそこの非常階段でずっと稽古してたんだよ」

そう言って後輩を励まし、この非常階段は「あそこで稽古すると売れる」と伝説になるのだ。

俺たちは、満を持して舞台に出た。

「ご来場の素敵な女性の皆様。この世で一番ムカツク言葉は何ですか? 当てましょう。それは『浮気』。ね、そうでしょ? その浮気と書いて『うき』と読みます。浮気淳弥です」

一人だけ、「フフッ」と高い声で笑った女性の客がいた。下手の後ろの方の席。派手めの柄のブラウスが、舞台を照らす照明のハレーションで見えている。顔は暗くてわからないが、声からすると三十代。

ラッキーだ。こういう、率先して笑ってくれる客がいる回は、他の客も照れずに声を出して笑ってくれる。

「佐藤昌紀です」

急に身体が勝手に動いた。俺は右足を前に出して、コケたのだ。

「短いよ! お前も何か言えよ」

昌紀は一瞬だけ、本気でムッとした顔をして、それから、

「俺、特徴ないし」

と言う。

「特徴はあるだろ。その前髪、猫背、嫌な目つき。盛りだくさんだよ、渋滞してるよ」

派手なブラウスが「キャハッ」と言い、他の客の笑いが続く。いい流れだ。

「そんな二人でやってます」

と言って、右側に立つ昌紀を見た。昌紀の目も輝いている。昌紀にも伝わったのだ。あの、派手めのブラウスから攻めていこう。最初はちょっとしつこめにして、アドリブを増やしてお客さんを温める。でも、しつこすぎるとお客さんは引く。それは、先輩たちの舞台を見たあと、二人で何度も語り合ったからお互いわかっている。お客さんが温まったなと感じたらすぐ、アドリブはやめて台本通りに戻す。そのタイミングは、アイコンタクトで決める。

一瞬の視線のやりとりで方針は決まった。

声を揃える。

「二人合わせてスレンダーズです」

派手なブラウスが拍手してくれた。

俺たちは、十年後、今日のことを話すんだ。

「派手なブラウスを着た女の人が客席にいてさ、その人が最初っから笑ってくれたんだよな」

昌紀もきっと鮮明に憶えていて、言う。

「あの人、それまで劇場で見かけたことあった?」

「ない。あったら憶えてるよ。ちっちゃい劇場だし、あの頃の俺らのファンって、五人くらいしかいなかったし」

「いまがあるのはあの人のおかげだな」

「お礼したいんだけどな。いつか名乗り出てくれるかな」

十年後はきっと明るい。この、沸きつつある客席のどこかに、俺たちの未来を握るプロデューサーがいるから。

「俺、好きな人が出来たんだ!」

いつもより声を張る。客席の奥まで声が飛ぶのが見える気がする。

「理想の人に会ったんだよ」

昌紀が、猫背の背中をますます丸くする。

「実は、俺もなんだ。俺の理想の女の子はね、息をしないんだ。ぐふふふふ」

稽古のときより長い「ぐふふふふ」に、客席の女性たちが「ひゃぁぁ」と声を上げた。

「それって、死んでるか──アレだよね」

派手なブラウスが「キャハハ」と笑う。他の客もクスクス言っている。今日の客は察しがいい。

「それでね、俺の理想の女の子はね、目が大きいんだよね。このくらい」

昌紀が指で輪っかを作って自分の顔に当てる。「ぐふふふ」

また「ひゃぁぁ」という声。

「その目の大きさは、たぶん──アレだね……」

客席の派手なブラウスが揺れ、「フハハハハハ」という声が響いた。前より大きい。昌紀への「ひゃぁぁ」に対抗しているんじゃないかって気が、ちょっとする。

「それでね、俺の理想の女の子はね、嫌な匂いもしないし、トイレも行かない」

派手なブラウスがまた笑うと思った。だから、俺は昌紀を羽交い締めにするタイミングを少しだけ遅らせる。でも、派手なブラウスは反応しなかった。

あれ?

慌てて昌紀を羽交い締めにする。

「よせ! それ以上言うな!」

さあ、ここからだ。俺たちの新しいスタイル。めいっぱいの泣き声を作る。

「……いまからキツイこと言うよ。それはアレだね。きっと、二次元だね」

「フハハハハハッハハ!」

派手なブラウスの笑い声が前より長くなった。昌紀の間が崩れる。本当なら自分の台詞を言いたいタイミングで、派手なブラウスの笑いが続いているからだ。

昌紀が必死に立て直す。

「いやだなぁ、ちゃんと学校にいるよ」

その瞬間、客席で誰かが大きなくしゃみをした。観客の集中が一気に削がれる。

昌紀の首筋を汗が伝う。コンビを組んで三年。こんな昌紀、見たことがない。

「ちゃんと学校にいるよ。二階の、渡り廊下のところにある教室で会ったんだよ。ぐふふ」

「そこ、アニメ部の部室だから!」

「フハハハハッハハ!」

他の客の笑いを吹き飛ばすような不自然な爆笑に、客席の空気がざわめく。観客の中にはきっと、派手なブラウスは俺が仕込んだサクラで、俺を持ち上げて昌紀に恥をかかせようとしていると思う人間もいる。勘弁して欲しい。こんな笑い方、むしろ俺への嫌がらせだ。

その証拠に、さっきから俺が何か言う度、派手なブラウス以外の客の笑いは、どんどん減っている。

マズイ。なんとかしないと。今日の客席にはマネージャーのみずきさんが連れてきたプロデューサーがいるんだ。まさかプロは、派手なブラウスがサクラだなんて思わないよな?

「なあ、お前が好きな人って、奥に座ってるブラウスの彼女? だったら両思いだよ」

昌紀が台本にないセリフを言って、長い腕を客席に向かって伸ばした。

「は?」

俺は、馬鹿みたいに口を開けて腕の先を見た。その向こうに派手なブラウスがいる。

「彼女、さっきからお前が何か言う度に笑ってるし。絶対両思い」

彼女は一瞬黙ったあと、

「フハハハハハッ」

と盛大に笑った。それを追うように他の客も笑う。大爆笑だ。

俺は馬鹿みたいに「なんで?」と呟く。また客が笑う。昌紀が続いて派手なブラウスのことを持ち上げる。俺は何も言えない。昌紀の言葉はちゃんと耳に入っているのに、まるで理解できず、ただ目の前を通り過ぎていく。昌紀がこちらを見た。「早くネタに戻してくれ」と言いたいのだとわかる。でも、頭の中に台本の文字は見えているのに、どこに戻ればいいかわからない。ただ、呼吸だけが荒くなる。そんな中、昌紀が無理矢理一人で話し続けている。その声がだんだん遠くなる。

昌紀が何か言った瞬間、派手なブラウスが手を叩いた。つられた他の客も拍手する。待ってくれ。まだオチの前だ。

俺は客席を見る。手を叩く人たちを。

動けない。言葉も出ない。

昌紀が俺の頭に手を載せて、無理矢理お辞儀をさせながら言った。

「ありがとうございました」

俺たちの出番は終わった。


本番が終わったら弁当を食べるのがルーティンだ。いつもなら限界まで腹が減っているから、舞台から戻ると立ち止まることなく積み上げられた弁当を取り、席に座って蓋を開け、箸を割る。死んだ父親が「いただきますだけはちゃんと言え」とうるさかったからその瞬間だけはちょっと手を止めるけど、そのあと食べ終わるまで、動きが止まることはない。

だが今日は、弁当の蓋を開けてサバの味噌煮の匂いと、隣の唐揚げの匂いを嗅いだだけで吐き気がしてきた。

最悪の舞台だった。

昌紀は俺の方を見もせずにご飯をかき込んでいる。偏食の昌紀は魚介類を食べられない。だから、いつもならこういう弁当を見ると、昌紀は「あ、ダメだ」とまず俺に向かって弁当を差し出す。俺はサバの味噌煮を貰い、昌紀は「これいいか?」と聞きながら俺の弁当から欲しい物を取る。なのに今日はそのお決まりの会話もない。

昌紀が、自分のアドリブに乗っからなかった俺に怒っているのか、呆れているのかはわからない。真面目な昌紀のことだから、自分のやり方が悪かったと反省している可能性もある。

でも、どんな感情であれ、昌紀には弁当を食べる気力があり、俺にはない。今日の舞台での勝者は昌紀で、敗者は俺だからだ。

俺は、対応できなかった。

首筋を冷や汗で濡らしている昌紀を心配していたクセに、結果としては俺が役立たずだった。

スレンダーズにとって初めての局面だった。俺のほうが年上だ。経験もある。だから今日までスレンダーズを引っ張ってきたのは俺だった。それが変わった。

サバをつついているうちに、三野・狩野が出番を終えて戻ってきた。

「いやぁ、お客さんをあっためといてくれたおかげで、やりやすかったわ」

三野の顔は昌紀を向いている。当然だ。

「……偶然ああなっただけだから」

昌紀はそう言って、ペットボトルのお茶をあおる。

三野が声を潜める。

「立原さんが、今度飲みに行こうって言うてはった。昌紀も呼べって」

「そう……」

チビの狩野がわざわざ俺の前に来る。「浮気も来ていいって」

三野・狩野は、イケメンの三野と、小柄でぽっちゃりの狩野という、キャラクターがはっきりしたコンビだ。三野は関西出身で、狩野が東京の出身。二人の漫才は、関西と関東の違いをネタにする。

今日この劇場に出る中で一番売れっ子の立原さんが二人を買っている、とみずきさんから聞いていた。

立原さんは、ピン芸人として、いかつめの顔でやる不良ネタでブレイクした。後輩思いで礼儀には厳しく、𠮟ることを恐れないうちの事務所の長男みたいな人だ。去年四十歳になったのに、落ち着きだけ手に入れて全然おじさんっぽくないのはまさに『ああなりたい大人』って感じ。

立原さんの性格なら、俺が昌紀と一緒に食事会に行っても、「おお、そこに座れ」と言ってくれる。でも、三野は、立原さんの言葉をたぶん、正確に再現した。「昌紀も呼べって」と。「スレンダーズも呼べって」ではなく。

三野と狩野は、弁当には手をつけず、鏡を見て髪を直している。

「食わないのか?」

「うーん、腹は減ってんねんけどな」

三野が意味ありげに言った。

「このあと、食事会に呼ばれるかもしれへんし」

「立原さん?」

「いや。立原さんは仕事やて。今日、みずきマネが、プロデューサー連れてきてるやろ。あとで面談の時間貰えるみたいやから、そこで盛り上がったらそのまま食事会かなーって」

なるほど。そんな夢が待っているなら、サバ味噌と冷えたご飯を食ってる場合じゃない。でも、俺にはありがたい一食だ。

食おう。

止まりがちだった箸をもう一度動かしたとき、みずきさんが入ってきて、「ねえ、三野・狩野、ちょっと来て」と言った。二人は勢いづいて出て行く。

飲み込もうとしていた白米が、喉のあたりで急にもたつく。

「スレンダーズも、少し待ってて」

返事をする間もなく、みずきさんは三野・狩野を追って行った。

俺たちに待っているのは、食事会ではなく説教だろうか。俺は、これ以上何かを飲み込む自信が無くて、弁当の蓋を閉めた。

みずきさんは、十分後に迎えに来た。

「プロデューサーの隅田さんがお時間くださるって」

「うそ」昌紀と俺の声が揃う。もうそのチャンスはないと思っていた。

「三野・狩野と飲みに行かれるんですよね?」

俺が聞くと、みずきさんは「隅田さん、今日はお仕事があるらしくて、帰っちゃうって」と言う。

「二人のプロフィール見せたら、会ってみたいって言ってくれた。ほら、急ご」

多分、「会ってみたいって言ってくれた」は噓だ。みずきさんが頼み込んで隅田さんの時間を貰ったんだろう。それがわかる程度には、俺も昌紀もテレビ局の人たちと接している。彼らは興味がない人間に会うくらいなら、一本でもメールを打ちたがる。俺と昌紀は、隅田さんのもとへ急ぐ。

喫煙室でタバコを吸っていた隅田雅美さんは、いかにもやり手という感じの、洗練された女性だった。

「隅田さんは元々、ドキュメンタリーなんかも作っていらしてね、よくうちの芸人をナレーションに使ってくださってたの。そのときからお世話になってる」

「まだみずきちゃんが先輩から、『みずき!』って呼び捨てにされてた頃ね」

「あの頃は、パワハラ当たり前だったんで。隅田さんなんかはもっと苦労なさったでしょうけど」

「わたしは局採用でもないからね。小さな制作会社で雑用ばっかりしてた」

二人は思い出話で盛り上がっている。面白いことを言ってアピールしたいけど、入る隙がない。

「科学で家庭の悩みを解決するって番組とかやってたの。知ってる? 二人は若いから、あの頃はまだ子どもだったでしょ?」

年上の女性から年齢に関わる話を振られると、上手にかわせなくて目を逸らして曖昧に微笑むしかない。

二人の話を総合すると、隅田さんの年齢は五十を越えるかどうかというあたりだと予想がつく。ただ、その前情報無しに彼女を見ると、小柄で、ほっそりしていて、歳より若い。服装も、五十代の業界人にありがちなブランド志向はなくて、ノーブランドのくたっとした革のバッグにスニーカーを履いている。それがまたかっこいい。こだわりは強くないけど、嫌いなものは嫌いな人なんじゃないかなと想像する。

隅田さんは、俺たちのプロフィールをちらりと見て言った。

「今日の客席はやりにくかったよね」

低めの声が、温かい。

「はあ……」

昌紀の声は、疲れ切っている。

それを聞いて隅田さんが「ふふふ」と笑う。頭ごなしに𠮟るタイプではないらしい。

「でも、俺たちが悪いんです」

と俺は言った。

「対応して当たり前でした。調子を崩したのは俺たちの……いや、俺のせいです」

賭けだった。でも、この人には潔く謝った方が好かれると思ったのだ。効果があったのかどうか、隅田さんはプロフィールにもう一度目をやって「そうだ、浮気と書いてうき君だ」と呟く。

「はい」

「自己紹介はインパクトあるんだけどね……」

「だけどね」のあとはわかっている。このところずっと言われていることだ。

「いまってね、よく知ってるとは思うけど、芸人目指している人の数がとっても多いのよ。だから、相当個性がはっきりしてないと突破口を開けない。突破口っていうのは、新人時代に、どういう話をするためにテレビに呼んでもらうかってことね。実家が貧乏とか、離島出身とか、前職が特殊とか、その人じゃないと話せない話題を持ってると強いんだけどなー」

隅田さんはそう言いながら、プロフィールをめくっている。そこには確かに、特別なことは何も書かれていない。俺の学歴は、東京の外れの普通の公立小・中・高が並んでいるだけだし、その後はマスコミ系の専門学校。卒業後、コント集団にいたことがあって、しばらくして養成所。この業界では珍しくもない経歴だ。

十歳で父親を亡くしているけど、これに関してはありきたりなことしか話すつもりはない。いくら芸人として成功するためだからって、このとき起こったことを全部人前で話す気にはなれない。

「資格は普通免許だけ?」

「はい。十年間ペーパードライバーです!」

少しはウケるかと思ったが、隅田さんは俺のプロフィールからスレンダーズの突破口を見つけるのは諦めて、昌紀の方に移った。昌紀のプロフィールには、長野の小・中・高を出た、までが書いてある。

「昌紀君の方は気持ち悪いキャラにしてるみたいだけど、そうやって猫背にして髪の毛で顔を隠すのって、舞台だから通用することじゃない? テレビのバラエティに出て、ひな壇に座っているところをいろんな方向から撮られたら、実は整った顔立ちだってすぐにバレると思うのね」

さすがプロデューサーだ。昌紀のことを見抜いている。

「実はイケメンでした……っていうのは、一度は面白いと思うけど、それだけじゃ飽きられちゃうよね。他にも何かないと……」

隅田さんは本気で悩んでくれているようだ。それがツライ。プロデューサーを悩ませるほど、俺たちには魅力がないんだって身に沁みる。

「二人のバランスはいいし、ネタも独りよがりじゃなくてわかりやすいんだけどな……」

で? で?

みずきさんが、昌紀から目を逸らしながら割って入った。

「昌紀は東大卒なんです」

「え、そうなの?」

困り顔が一瞬で輝いて、隅田さんはもう一度プロフィールを見る。

昌紀が口を挟む前に、みずきさんが慌てて言い添えた。

「本人が、そればっかりイジられるのが嫌だって言って、書いてないんですが」

「ダメだよ、そういうことは大々的にアピールしないと」

言いながら隅田さんがペンを取り出した。声が一気に熱を帯びる。「昌紀君、英語は? しゃべれるの?」

みずきさんが、何も言わない昌紀の代わりに答える。

「英語はもちろん、中国語も話せます。ドイツ語も少し」

「ドイツ語、いいね。話せる人少ないもんね。じゃあピンでクイズ番組出たり、レポーターやったりするなら誰かに紹介するよ。そうだ、この前うちで企画が通った新番組で、日本在住の外国人を解答者にして、日本の伝統についてのクイズを出すっていうコーナー作るのね。その番組のプロデューサー、わたしもよく知ってる子だから、昌紀君の名前、出してみるよ」

隅田さんは、『英語、中国語、ドイツ語』とメモをし、その下に『田島に紹介』と書いた。

タジマニショウカイ。

こんな日が来る気がしていた。相方が俺を見捨てて羽ばたいて行く。俺は小さなアパートで発泡酒を飲みながら、元相方の姿をテレビで観るのだ。

俺は、何も言えずにただ、息を詰めて隅田さんのメモの字を見つめる。

昌紀が、部屋の大きさに釣り合わないボリュームの声を出した。

「俺は淳弥とコンビでやっていきたいんで。一人でテレビ出るのは考えてないです。もう一回二人でチャンスをください。一ヶ月後の舞台で、今日より笑い取ります。見に来てください!」

深く頭を下げた昌紀の後頭部を見つめたまま、俺は動けなかった。

昌紀とは、養成所で出会った。向こうは大学を出てからの入所で二十二歳。こっちは専門学校を出てからしばらく友人たちとコントをやっていて、その集団も解散して、また別の集団に入って辞めて……と色々あって二十五になっていた。

色々あった俺のことを、「あの歳まで売れなかったヤツ」と言った同期もいた。でも昌紀は、「俺が知らないことを色々知ってる」と言ってくれた。

「俺は、本に書いてあることは知ってるけど、それ以外は何もわかってないです。だから教えて欲しい」

真剣にこちらを見た昌紀の目は、いまでも憶えている。二十二にもなってこんな顔ができるヤツはきっといいご家庭で、両親に愛されて育ったんだろうなーと思った。

昌紀は頭がいい割に、人間関係に対しては驚くほど無策だった。講師の話を律儀にメモし、理解できないと「それはどういう意味ですか?」と真っ直ぐに質問する。講師は途端に嫌な顔になる。昌紀は東大出だってことを自分から話さなかったけど、このイジりやすい事実はいつの間にか漏れて知れ渡っていたから、講師は昌紀から質問を受けると、自分の説明がわかりにくいか、言葉の使い方が間違っているか、なんにしろ、昌紀に間違いを指摘されたような気持ちになるからだ。昌紀の方はただ、自分の疑問を解消したいだけなのに。ちょっと上手くやれば気に入られるのに、ただただ真っ直ぐ進んで壁にぶち当たる。俺は、そんな不器用な昌紀がおかしくって、好きになった。

昌紀といると、俺は安心できる。俺が人生の最初の十年を生きるときにまみれていたごまかしが必要無いからだ。

そして、「淳弥とコンビでやっていきたい」が噓ではないと信じている。俺だってそうだから。

ただ、それを口に出すのは恥ずかしい。隅田さんを「今日はわざわざありがとうございました」と頭を下げて送り出したあと、俺たちは無言になった。そして、昌紀は、

「今日、これからバイト」

と言い、俺は、

「俺は帰る」

と言っただけで劇場の前で別れた。


アパートの最寄り駅の階段を下りると、廃業したばかりのパン屋のシャッターに、落書きがされていた。

【人殺し】

今朝はなかった落書きだ。

数ヶ月前、近くの幼稚園で集団食中毒が起こった。クリスマス会に出た子どもたちが、その夜から次の朝にかけて次々具合を悪くしたのだ。しかも、その中の一人は亡くなってしまった。

「原因は、昼食に食べたサンドイッチだった」と報道され、納入したこのパン屋に抗議の電話が殺到したという。

老夫婦がやっているパン屋だった。昔ながらのクリームパンとか、甘めのカレーパンを売っているような店で、特に何が美味しいわけでもないが、かといってマズくはない。もしこの店の商品で食レポをしろと言われたら、「あ! 懐かしい味ですね」と答えただろうな、と思う。それでも、毎日閉店前には思い切った値引きをするので、結構お世話になっていたのだ。たまにおばあちゃんが「若い子はいくらでもお腹が減るでしょ」っておまけしてくれたし。

もう四十年もこの駅前で商売していたという店が、食中毒で幼稚園児が亡くなったと噂になってから一ヶ月せずに廃業した。

確か、パンを作っていたおじいちゃんが心労で亡くなったのだ。

ひどい話だよな。子どもが亡くなるのも、おじいちゃんが死んだのも。

そう思いながらシャッターの前を通り過ぎて、コンビニに入った。明日の朝メシ用のパンを買う。申し訳ないが、あのパン屋の代わり映えのしないパンより、コンビニの新製品を選ぶ方がわくわくする。

コンビニを出て、袋を振り回しながらシャカシャカ言わせていたら、幼稚園児とパン屋の悲劇は遠い昔の気がしていた。暗い話は、こっちに気持ちの余裕がないと、とても受け付けられない。だからさっさと蓋をしたのだ。

アパートの方角を向くと、道が闇に向かって伸びているのが見える。その道を進むと、前を行く人たちが、一人消え、二人消えして減っていく。特急が停まらないこの街で、比較的駅の近くに住んでいるのは戸建てを買った家族持ち、その次が二つほど離れた駅の大学に通う学生、一番駅から離れた静かなエリアに住むのが、利便性よりも家賃の安さを優先する人種だ。

俺の前を歩いていた最後の大学生がアパートに消えると、前を行くのはサンダル履きのおっさんだけになった。まだ二月。寒いのに裸足だ。片方の脚が悪いのか、ズーッザ、ズーッザという特徴的な足音が聞こえる。

このおっさんとはたまにこの道で一緒になる。同じアパートの一階に住んでいて、めったに外出しない。何の仕事をしているのかわからないけれど、時々通販の配達が来るから収入はあるんだろう。

独り者で、友だちが訪ねてくることもない。いつもだらしない恰好で、まともな仕事をしているようにも見えない。笑っているところも見たことがない。たまに、ご近所と揉めている。俺にも「足音がうるさい」と突っかかってくる。部屋の中で独り言を言う声が聞こえる。

このおっさんは、絶対になりたくない将来を煮詰めたみたいだ。いつもこのおっさんに会うと、何かを吸い取られる気がする。

おっさんがだらだら歩いているせいで、距離が詰まりそうになる。でも、近寄るのも追い抜くのも嫌で、俺は足音をなるべく立てないようにしながら、おっさんと距離を保つ。

なのに、おっさんは部屋に入る前、振り返ってこっちを見た。一応会釈したが、向こうはノーリアクション。おいおい、いい大人が無視かよ。

階段を上がりながら部屋を見ると、明かりがついていた。

半年前なら中にいるのは佐緒里だが、あいつはもう栃木の実家だ。今日いるのは母ちゃんか姉ちゃんだ。

部屋に入ると、両方がいた。俺の基準で言うと、母ちゃんだけが一番マシ、母ちゃんと姉ちゃんのセットが次にマシ、最悪が姉ちゃんだけという状態なので、この状況はひとまず、「まあまあ」だ。

「お母さんの誕生日が近いでしょ? だから、プレゼント買いにデパートに行った帰りに寄ったの。あんたもちょっと出しなさい」

姉ちゃんは、俺がまだ靴も脱いでないのに金を請求する。こいつの前で財布を開けるのは嫌だ。

「あとで渡す」

「あんた、またお金ないの?」

「銀行行く暇がないんだよ」

言いながら、目の端に母ちゃんの心配そうな顔が入ってくるのがツライ。

俺たちの父親は俺が十歳のときに死んで、以来母ちゃんは俺たちを女手一つで育ててくれた……と言うと、みんな自動的に母ちゃんの苦労を想像して眉のあたりに皺を寄せて「それは大変だったね」という反応をしてくれる。

でも、そんなに単純でもない。

父ちゃんが死んだあと、残された俺の中に浮かんできた気持ち、母ちゃんがぽつりと言った言葉、姉ちゃんがあの食卓で取った行動は、どれもけなげとか、痛々しいとかとかけ離れていた。あんな場面は、父の死という悲劇に見舞われた家族をドラマで描くときには絶対に登場しない。でも、本当に起こったことだ。

思い出すだけで、封印した瓶の中から罪悪感が漂ってくる。

だから俺と母ちゃんと姉ちゃんは、あの日のことを思い出して語ったりしない。全員で力を合わせて忘れたフリを続けている。

母ちゃんが父ちゃんに人生を狂わされたのを、俺よりしっかり見て記憶している三つ上の姉ちゃんは、母ちゃんの前に現れた第二の要注意人物である俺に厳しい。

「財布見せなさいよ。幾ら持ってるの?」

「いまの時代、現金なんか持ってなくても何とかなるんだよ。PASMOにもスマホにもチャージしてあるし」

見え透いた噓を、姉ちゃんが鼻で笑う。俺を助けるつもりなんだろう、母ちゃんが話を変える。

「ご飯は食べたの?」

「食べたよ。劇場の弁当」

「また、そんなので済まして」

「劇場のすぐ隣に弁当屋があるの。おばさんが三人くらいで手作りしてて、美味しいし、栄養もあるんだよ。立原さんも、ここの弁当が一番いいって言ってるし」

「一番いい」はだいぶ誇張だけど、家族の面倒な会話を終わらせるためだ。

「立原って、立原誠?」

姉ちゃんが口を挟む。

「呼び捨てにすんな」

「お母さん、淳弥があのくらいになってくれたらわたしたち、息子さんは何なさってるのって近所の人に聞かれてもごまかさなくていいし、新しい家も建ててもらえるよ」

「家はあるから」

母ちゃんは、東京の外れにある古い家と、ちっちゃな庭に作った家庭菜園をとても愛している。

「わたしは新しい家がいいよ」

「あんたはそのうち嫁に行くでしょ?」

姉ちゃんが嫌な顔をした隙に、俺は手と顔を洗って、一息ついた。

家族との会話って、どうしてこんなに代わり映えがしないんだろう。もう何年も俺は「ご飯はちゃんと食べているか?」と生活を心配され、姉ちゃんは結婚を心配されている。

くだらない。家族なんて。

母ちゃんと姉ちゃんはしばらく言い合ってから帰って行った。あの二人が、顔を突き合わせて生活しているのが信じられない。しかも、元々は父ちゃんもいた家で。タフさが半端ない。

シャワーを浴びて、頭も身体も同じボディソープで洗った。シャンプーが切れているのだが、次のバイトの給料日まで買えない。ボディソープで洗った髪はキシキシする。それを、少しだけ残っているコンディショナーでなんとか落ち着けて、ざっと湯を被って終わりにした。

ベッドに身を投げ、スマホでニュースサイトをチェックする。読むのは、安い食材で美味しい料理が出来るって記事と、コンビニの新商品のレポートだ。

だって、政治家が何かズルしたとか、「なんでそんなこと言っちゃうかな」と俺でも思うような失言をしたとかは俺の人生になんの影響も与えないし、向こうだって俺のことなんか気にしてない。つまり読むだけ時間の無駄だ。

子どもが虐待されたとか、イジメを学校がもみ消したなんてニュースも、うんざりだ。子どもが大人に人生を翻弄されるのはよくわかってる。いまさら知りたくもない。

読みたい記事だけをサッと読んだあとは、窓から逃げようとして柵にはまった子犬とか、いたずらをごまかそうとして飼い主から目を逸らす犬の動画を見て、

「ばっかだなぁ」

と言いながらひとしきり愛でた。次はTwitterだ。まずトレンドをチェックする。

【くるみちゃん】がトレンドに上がっていて、「お」と興奮した。【くるみちゃん】はTwitterで人気が出たアイドル猫だ。飼い主の【リーサ】に何かねだるときに立ち上がって挙手するという芸を持っていて、その姿がめちゃくちゃ可愛いと人気だった。

また新しい動画が話題なんだろう──と思ったら、長い文章だった。

【みなさんにご報告があります。くるみちゃんが今日、天国に旅立ちました。わたし【リーサ】だけでなく、家族みんなショックを受けています。まだ気持ちを整理できない。だから、感情的なことを書いてしまうかもしれません。不愉快な思いをさせたらごめんなさい。実は、みんなに愛してもらったくるみちゃんは、元々はわたしの親友の猫でした。親友は幼稚園のとき、ひき逃げされました。十年前の三月十二日。犯人はまだ捕まってなくて、時効が来月に迫っています。わたしは悔しい】

え? 幼稚園児がひき逃げ?

三ページあるらしい文章の一ページ目で手が止まった。

ひでーな。犯人が捕まってないって……なにそれ? ひき逃げってタイヤこんとかで車種がわかったりするもんじゃないの?

何で逃げ切れるの? 警察の怠慢?

それか、犯人は偉いヤツの息子とかで、何かの力が働いて捕まってないとか?

まさかね。

怒りが湧いてきて、【ひき逃げに時効はいらない】という【芋ようかん】なる人物のツイートに『いいね』してから、自分のアカウントで呟いた。
【幼稚園児をひき逃げなんて、人間じゃない。警察はちゃんとしろ。犯人捕まえるのが仕事だよね? こういうことは茶化せないのでボケはなしです】

ハッシュタグは他の人が使っていた【#ひき逃げゆるせない】にした。

俺のフォロワーは二百人ちょい。ほとんどは芸人仲間とバイト先で出会った人たちで、反応はあまりない。

いつも即レスしてくるのは【かっちゃん】。この人は俺のファンだ。【全くその通り! ゆるせない】とリプライが来た。ファンは大切だ。もちろん無視はしない。

【今日はライブでした。充実した時間に、嫌なこと知った】

【この事故憶えてる?】

【憶えてない。十年前は専門学校とバイトでニュース見る余裕がなかった】

【あとで詳細教えます。それより今日の漫才、よかったですよ。面白かった!】

【かっちゃん】が男か女かは知らない。出待ちをしてくれたことも、プレゼントや手紙が届いたこともない。でも、劇場にはだいたい来てくれているらしく、ライブ後は感想をくれる。

【昌紀さんの「ぐふふ」のあとの、泣きそうな淳弥さんのツッコミ、最高】

あの荒れた客席の中に、たった一人でも俺たちのファンがいたとわかってほっとする。

【かっちゃん】は、その後も思いつくままに色々と感想を送ってくれた。でも、派手なブラウスの女性にも、漫才が本題から逸れたことにも触れなかった。ちゃんとわかってくれている。ああいう客がいたのは偶然の不幸だ。夕立にあったり、乗っていた電車が急に止まって遅刻したりするようなものだ。悪いのは俺じゃない。

【かっちゃん】の連投の感想を読んで心が落ち着いてきたところへ、【真のお笑い好き】が乱入してきた。

【十年前、専門学校? ニュースを見ないほど真面目にお笑いに取り組んでたのかな?】

なんだ、こいつ。俺の何を知ってる?

【お笑いに真面目だったかどうかは、人に言うことでもないので】

変に刺激しないよう、適度に突き放す。この【真のお笑い好き】は、俺が何を言っても絡んでくる。言わばアンチだ。フォロワーの少ない俺に突っかかっても注目を浴びるわけじゃないから、よっぽどヒマなんだろう。

【事故のときって、まだ実家にいただろ?】

その投稿に、写真が貼り付けてある。見覚えのある制服の少年が写っていた。

俺だ。

まじめくさった、卒業アルバムの写真。

なんで?

こいつ、元同級生か何かか?

正直言うと、【真のお笑い好き】は、養成所の同期の誰かだと思っていた。もっと言うと、狩野じゃないかと思ったこともあった。でも、狩野が俺の卒業アルバムを持ってるなんて考えられない。

しかも事故は三月の半ばらしいから、よくよく思い出すと、俺はギリ実家にいた。こいつ、それも知ってんのか? 気持ち悪っ。

【かっちゃん】が反応した。

【高校の制服、似合ってますね】

【かっちゃん】はこういうところがある。能天気で、時々俺の気持ちとズレる。応援してくれているのに申し訳ないけど、たまにイラッとする。

「似合ってる」にお礼を言っている余裕はない。【真のお笑い好き】に何と返すべきだろう。これまで何度かツイッター上のキャラを変えてきた。前の毒舌キャラならバシッと返せるが、相手が地元の友だちなら面倒なことになる。じゃあ、もっと前にやっていた電波系でいこう。

【高校生の頃、俺はお告げを受けました】

さすがにディスり方がわからなかったのか、幸い【真のお笑い好き】は黙った。

落ち着いて、【リーサ】の投稿の続きを読む。

【あのひき逃げ事故、覚えている人も多いと思います。幼なじみの男の子と一緒にいた女の子が、ひき逃げされた事件。現場は、地元では魔のカーブって呼ばれてた所。子どもたちが大人に「あそこは行っちゃダメ」って言われてるような場所。でも、美鈴ちゃんは、あの日、行っちゃったんです。でも、わたしはいまでもわからない。それって悪いこと? 悪いのは車の方でしょ? ちょうど事故を見ていた人がいて、すぐに救急車を呼んだけど、美鈴ちゃんは助からなかった。確か出血多量。一緒にいた幼なじみの男の子は、美鈴ちゃんが事故に遭ってから救急車が来て運ばれるまで、ずっとその様子を見てたんですよ】

ああ、幼稚園児のひき逃げって、この事故か。

思い出した。実家のある西東京市で起こった事故だ。俺の行動範囲内じゃなかったけど、当時、新聞に載った地図を見たらだいたいあの辺だな、とわかった。

【かっちゃん】が律儀に、事故のまとめサイトのリンクを送ってくれる。

事件は、十年前の三月十二日の十一時過ぎに起きた。

こばと幼稚園の高梨幸太君が、家を出て近所の丸山美鈴ちゃんの家に遊びに行こうとしていた。いつもは子どもだけで道路に出ることは禁じられていたが、この日、幸太君のお母さんは具合が悪くて眠ってしまい、その一瞬の間に幸太君は家を出たのだ。

幸太君の家の前の道は大きくカーブしており、また、抜け道にもなっていたせいで、スピードを上げて疾走する土地勘のない車が事故を起こすことが多々あり、『魔のカーブ』と呼ばれていた。

幸太君も美鈴ちゃんも、この道が危険だと親から言い聞かされていたという。だが、どういうわけかこの日、自分の家に向かって走ってくる幸太君の姿を見て、美鈴ちゃんも飛び出していってしまった。

目撃者の男性によると、美鈴ちゃんが幸太君の名前を呼んで走ってくる途中で、幸太君が何か言い、美鈴ちゃんの足が止まった。

美鈴ちゃんが立ち尽くしたので、目撃者は危ないなと思い、声をかけたという。だが、美鈴ちゃんは動かなかった。幸太君が美鈴ちゃんに向かって手を伸ばして呼んだ。だが、次の瞬間、車が突っ込んできた。目撃者はすぐに携帯電話で救急車を呼んだ。通報後十分で救急車が到着。だが、美鈴ちゃんは助からなかった。

目撃者は、「車のナンバーも車種も憶えられなかったが、濃いめの紺色だった」と言い、「よく見えなかったが、運転席に座っていた人は若い男性で、学校の制服を着ていたような気がする」と警察に話した。

この証言は、地元の人間にはしっくり来た。事故が起きたのが三月だったからだ。

事故現場に一番近い公立校──俺の母校の都立あけぼの高校──は、半分が進学し、半分が就職するようなレベルだ。就職する連中は、進学組が受験に奔走している時期に自動車免許を取りにいく。学校は卒業するまで公道での車の運転を禁じているが、守らないヤツもいる。

ひき逃げは免許を取ったばかりの高校生が起こしたんじゃないか──と、当時地元でも噂になった。俺もちょうど自動車学校に通って仮免を取ったばかりだったから、そこでこの事故の話を聞かされ、「車を運転するというのは大きな責任を伴うことだ」と何度も言われた。

そうだよ、この事故、忘れるわけないじゃん。だって……。

ネットで検索してみる。

【ひき逃げ事故 幼稚園児 涙の訴え】

探した動画はすぐに見つかった。亡くなった美鈴ちゃんの幼なじみで、事故を目撃した男の子、幸太君の証言だ。事故の数日後、幸太君はカメラの前に立った。当時流行っていた『電撃戦士キックマン』という戦隊モノの靴を履いた小さな足を震わせて、ひきつけを起こすんじゃないかと思うような泣き方をしながら、それでも必死に訴える。

「僕、美鈴ちゃんを助けたかったのに、手をこうやってしたのに……」

言いながら幸太君は手をいっぱいに伸ばす。

「僕……小さくて届かなかった。僕……小さくて……」

隣にいるお母さんが「頑張って」と幸太君に囁く。幸太君は「僕が、もっと大きければ……うぅ、うぅ、うぅ」と必死で息を落ち着けてから、顔を上げてカメラを見て、

「犯人を、見つけて下さい」

と言った。

この映像に日本中が泣いた。それに続く、「目撃者は、犯人は制服を着た男子高校生に見えたと語っています」というナレーションで、その犯人を憎んだ。

【このひき逃げ、憶えてた。あのときの、男の子の訴えに泣く】

【#ひき逃げゆるせない】をつけてツイートしようとしていたら、また【真のお笑い好き】が【この事故憶えてないのひどいな。実家の近所だろ】と絡んできた。

「だから憶えてたんだよ。いま思い出したんだよ。てか、俺の実家把握してるとかキモいよ」

わざわざツイートするのも面倒で、スマホを放り出した。

これ以上起きてたら、身体が冷えて風邪をひく。

俺は、眠ることにした。

一ヶ月後にはもう一度、隅田さんが来てくれる。そこでどんな漫才をやるか、それがいまの俺にとって、人生で一番大切だ。


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