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【試し読み】朝倉かすみさん短編『みんな夢の中』

(イラスト:millitsuka デザイン:アルビレオ)

    

 蟹江かにえ立夏りつかは児童公園の入り口で足を止めた。後ろの二人も立ち止まった。小学校低学年の男児と、猫背の中年男性だ。立夏に連なり歩いてきていた。
 立夏は二人を振り向いて、ジャングルジムを指差した。飛行機のかたちをしていて、その児童公園のシンボリックな遊具である。テニスコート三面ほどの敷地の真ん中に位置している。
「なんかびっくりした!」
 男児が声をあげた。目を丸くして中年男性を振り向き、ジャングルジムを指差す。
「うん、なんか驚いた」
 中年男性は口元をゆるませた。男児と同じくジャングルジムを指で差す。ちょっと顎を上げ、立夏へと視線を伸べた。男児も立夏へと視線を移す。
「なんか、突然、現れたって感じしなかった?」
 立夏は二人に向かって腕を伸ばした。人差し指でいまきた道をなぞってみせる。一本道だったから、向こうからこちらへと引っ張ってくる動きになった。公園側には大きな桜の木が並んでいた。どの桜もいまを盛りと咲きこぼれている。
「なんにも見てなかった! なんにも見てなかった!」
 男児がちょこまかと足踏みをした。それから足を前後にひらき、上半身をやや倒した。大きなモーションで公園外周に植えられた満開の桜と、ジャングルジムをたしかめて、「知らなかった!」と大声を発し、「知ってるけど、知らなかった」と発し直すやいなや「公園がここにあるってずっと前から知ってたのに、さっきまで全然知らなかった」と更に訂正し、猫みたいに首をかしげた。眉間に皺が寄っている。思ったことの半分も言えていないという表情だ。
「分かるよ、あっくん」
 中年男性は男児に相槌を打った。優しく穏やかなトーンで続ける。
「ぼくもおんなじきもちだもの」
 ほとんど白髪の長い前髪を搔き上げながら、
「桜も公園も見えていたはずなのに、なぜか見ていなかった。すごく不思議だけど、でも、そういうことって、なぜかよくあるんだ」
 と公園を見回した。
「そうかもね」
 立夏はうなずき、思い立ったように中年男性をよく見た。
 柔らかそうな白髪の毛先に薄い茶色のボカシが入っている。白髪染めの名残りだった。メイクブラシ、と連想がくる。立夏の使っているメイクブラシセットの毛もちょうどあんな色づかいだった。分け目から覗く頭皮が桃色をしているのにも気づいた。おじいさんみたいだ、と思う。白髪の高齢者の地肌は、たいてい、赤ちゃんの歯茎みたいなきれいなピンク色だ。
 今年四十。立夏の頭に中年男性の歳が浮かんだ。まだ四十か、とトートバッグを掛け直す。三十六、と立夏自身の歳を口の中でつぶやき、手持ち無沙汰につま先で地面をほじくり始めたあっくんのぼんのくぼに視線を落として、六月で八歳、とホールケーキに蠟燭を立てるように思った。明日は始業式。小学二年生になる。
「ちょっと寄ってく?」
 目で公園を指し、あっくんに声をかけた。
「うん」
 とあっくん。同時に、
「あ、じゃ、ぼくはここで」
 と中年男性。早くもちいさく手を振って、その場から離れようとする。ここから最寄り駅までは歩いて十分もかからない。公園内の公衆トイレ側の道路を真っ直ぐいけばロータリーにでる。右からでも左からでも半周歩けば駅口だ。お蕎麦屋さんのあるところ。
「いいじゃない、少しくらい」
 立夏は微かに笑って、
「あっくん、逆上がり得意なんだよ」
 ね、とあっくんにうなずきかけたら、
「空中逆上がりもできる!」
 とあっくんが胸を張った。
「これがめっちゃ華麗でね」
 体操選手みたいなんだ、と立夏が中年男性に言うと、あっくんは小鼻をふくらませて「連続もできるよ、最高記録いちおう三十回、や、三十一回だったかな」と中年男性の腕を揺すった。「えっ、そんなに?」と驚く中年男性を「よゆう、よゆう」と鉄棒まで引っ張っていく。
 立夏は二人の背中を眺めた。目に映っているのは、レンガ色のハーフパンツとセットアップのぶかぶかTシャツの裾を風になびかせ弾むように駆けるあっくんと、へっぴり腰で引きずられるマドラスチェックのシャツにキャメルのベストを合わせた中年男性だ。「息子と元夫」、「息子とその父親」。二通りの呼び方を思い浮かべ、「あっくんとゾウおじちゃん」に落ち着いた。うん、それがいちばんしっくりくる。うなずいて、児童公園に入っていった。

     

 立夏が離婚したのは産休中だった。理由は夫の不貞である。(続く)

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「みんな夢の中」を含む単行本の発売が決定しました!

幸せかどうか分からないけど、生まれてきたから生きている――
愚直に今日を生きる人物を生々しく描きとる。

「棺桶も花もいらない」

2025年4月25日刊行です。

朝倉かすみ
1960年北海道生まれ。2003年「コマドリさんのこと」で第37回北海道新聞文学賞を、04年「肝、焼ける」で第72回小説現代新人賞を受賞し作家デビュー。09年『田村はまだか』で吉川英治文学新人賞、19年『平場の月』で第32回山本周五郎賞を受賞。他の著書に、『ロコモーション』『静かにしなさい、でないと』『満潮』『にぎやかな落日』など多数。最新刊『よむよむかたる』が第172回直木賞の候補作に。

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