【試し読み】亡くなった知人と似た人に出会い・・・奥田亜希子さん書き下ろし『バイバイ、フィクション』
■著者紹介
■あらすじ
■本文
アルコールにふやかされた退屈が神経を包んでいる。感覚はすでに曖昧で、店内に流れるEDMや近くのテーブルから上がる歓声は、まるで風に乗って運ばれてきた夏祭りのにぎわいのよう。宙をさまよう紫煙や飛び交う視線にも、もはやぎらつきは感じない。天井から降り注ぐ黄金色の光が、黒っぽい壁や床、赤っぽいソファをぼんやりと照らしている。すぐ隣に座っているはずの男の声も、なんだか遠い。
もう一度、さりげなく腕時計に視線を落とした。終了時刻まで、あと三十三分。込み上げるため息を嚙み殺したとき、僕もご一緒してもいいですか? と髪を淡いピンク色に染めた男がテーブルの向かいに立った。これまでの人もみんな若かったけれど、彼は雰囲気がずば抜けて幼い。少し高い声音もあって、少年が店に迷い込んだみたいだ。どうぞ、と私が応じると、ピンク髪は赤いピアスを片耳に着けた男と入れ替わるように、私の左隣に腰を下ろした。
「僕、幻夜っていいます」
ピンク髪が顔写真入りの名刺を差し出した。
「どうも、初めまして」
「さえさんって仰るんですね。よろしくお願いします」
「幻夜は先週、〈フィクション〉に入ったばっかりなんすよ」
少し前から私の右隣に座っていた英字Tシャツが、親指で幻夜くんを示した。
「へえ、新人なんだ」
「はい、新人です。あ、僕もお酒をいただいていいですか?」
「いいけど……幻夜くんは、二十歳は超えてるんだよね?」
「えっ、もちろんですよ」
だって僕、ホストですから、と幻夜くんは心底おかしそうに笑った。目は弓状に細められ、唇の隙間から白い歯が覗いた。
この顔を、知っている。
肌に電流のような刺激が走った。ピンク色の髪にばかり目が行くけれど、吊り目で面長で色白と、そもそもの造形に既視感があった。私はグラスに口をつけ、焼酎の瓶の蓋を捻る幻夜くんの横顔を見つめた。相手を遠慮なく観察できるのは、ホストクラブの客に与えられた特権かもしれない。私の視線に気づいたらしい幻夜くんが、ふたたびあの笑みを浮かべる。大きめの犬歯が、彼の顔つきを一層あどけないものに演出していた。
ああ、あの写真の彼だ。
黒縁に囲まれ、黒いリボンで飾られていた一枚の写真が、ホログラムじみた質感でまなうらに立ち上がる。記憶の中の彼と視線がぶつかったように感じた瞬間、私は目眩に襲われた。親指のつけ根に冷たい感触が広がる。さえさん、大丈夫? と英字Tシャツがテーブルの上のおしぼりに手を伸ばした。
「ごめんなさい、急にふらっときちゃって」
どうやら上半身が揺れた拍子に、グラスの緑茶割りをこぼしたらしい。幸い、手と服が少し濡れたくらいで、ソファや床に被害は見当たらなかった。新しいおしぼりで服の染みを叩く。そろそろ部屋着にしようかとも思っていた服なのに、なぜかおしぼりを動かす手が止まらない。
「服が白いから、目立っちゃうかもしれないですね」
幻夜くんが私の顔を覗き込み、残念そうに眉をひそめる。彼の黒目には私の影が映り込んでいる。
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