【試し読み】女による女のための短編シリーズ「ままならない私の体」最終の第5弾『ブルーチーズと瓶の蓋』
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■あらすじ
■本文
揚げものって、ひとつも食べなくても揚げているだけで太るような気がする。気化して空気中に舞っている油の粒子を、鼻や口から吸い込んだり肌から吸収したりしているんじゃなかろうか。以前気になって調べたところ、油が蒸発する温度は三百度から五百度とあり、私の想像はあり得ないらしいとわかったけれど、納得はできていない。
壁の時計に目をやる。六時四十四分。あと一分以内に米が炊き上がるはずだ。炊飯器がメロディを奏でた。蓋を開けてしゃもじで切るように混ぜ、重箱みたいなサイズの二個の弁当箱のそれぞれ六分目まで詰める。二時間目のあとに食べる早弁用と、四時間目のあとの昼休み用のふたつ。中二でこの量だと、高校生になったらどれだけ食べるのか。男子の食欲のピークって何歳ぐらいなんだろう。
以前、夫の志朗に「二個つくるのも三個つくるのも手間やコストはほとんど変わらないから、お弁当つくろうか」と提案したことがあったが、「おれのささやかな楽しみを奪わないで」と却下された。昼にどの店でラーメンを食べるか考えるのが志朗の一日のハイライトらしい。彼のSNSにはラーメンの写真だけがずらりと並んでいる。いくら塩分量や栄養バランスに気をつけた食事をつくっても、毎日ラーメンを食べられたら焼け石に水だ。一時期「もう中年なんだから」と糖質と塩分を控えた食事を出そうと心がけていたが、いまは諦めて夫と息子の味覚に迎合している。
コンロに戻ると天ぷら鍋のなかの唐揚げは焦げはじめていた。網を敷いたバットに引き上げる。唐揚げの油を切っているあいだに、卵を割って砂糖と醤油を入れてかき混ぜた。卵焼きフライパンをコンロに載せ、サラダ油を引く。フライパンが熱されるまでの数十秒がもどかしい。菜箸を油につけるとじゅっと音がしたので卵液を流し込む。
卵焼きができると、同じフライパンに油を足してウィンナーを炒めた。粗熱が取れたご飯に醤油で和えたかつおぶしを載せ、その上に海苔を敷く。唐揚げと卵焼きとウィンナーを詰める。隙間が残ったので、冷蔵庫からミニトマトとあらかじめ茹でておいたブロッコリーを出して押し込んだ。「彩りとかいらないから」と言われる対策として、不本意ではあるものの、陸の好きなマヨネーズをたっぷりと絞り出す。食べてくれるかわからないけれど、つくりおきのきんぴらごぼうも詰める。
トイレの水を流す音が聞こえた。志朗のトイレタイムは毎日規則正しいので時報代わりだ。「りくー、そろそろ起きなさーい」と廊下に向かって声を張り上げる。
炊飯器に残っているご飯を茶碗に盛り、三口コンロのいちばん奥であたためていた味噌汁をよそう。余った卵焼きと唐揚げを小皿に取り、志朗の好きな甘ったるい海苔の佃煮を冷蔵庫から出し、それらをトレイに載せて食卓に持っていく。
「おはよ」
夜にお風呂に入る派の志朗の髪は少しべとついていて、ボリュームのなさが目立っている。本人は毛が細くなっただけだと言い張るけれど、明らかに毛量が減った。女性の同僚に清潔感がないと疎まれていないだろうかと心配になるが、そんなのは本人の責任だと思い直す。
「そうだ、このあいだ言った転勤の話、本決まりになりそう」と志朗はご飯を口に運びながら切り出した。
「名古屋?」
「うん。今日の午後に支社長と面談が入ってるから、その話をされると思う」
「……単身赴任でいいの?」
「うん。お母さんのこと心配だろ。数年でまたこっちに戻ってくるだろうし、わざわざ家族で引っ越すほどじゃないかな」
「そうだけど……」
もやもやした気分のまま台所に戻り、冷凍庫から食パンを出してトースターに入れた。朝食は志朗は和食派、陸はパン派なのだ。
「りくー、いい加減起きて! 遅刻するよ!」廊下に向かって再度叫ぶ。
弁当箱の蓋を閉めてバンダナで包んだ。朝食を終えた志朗が食器を下げにきたので、受け取って流しに置く。
「今日の昼はどこのラーメン食べるの?」
「新潟ラーメンの店かな。背脂チャッチャ系」
「……せめて食後にトマトジュース飲んでカリウム摂ってね。塩分不使用のやつ」
「生たまねぎが入ってるラーメンだから血液さらさらになるよ」
真顔で言われて、本気か冗談か判断しかねた。
入れ替わりでどたどたと足音を立てて陸がやってくる。制服の肘や背や尻がてかてかしている。今日帰ってきたらスチームアイロンをかけてやろう。クラスの女子に不潔だと思われたら気の毒だ。
「なんで起こしてくれなかったの?」
「何度も起こしました。朝ご飯は?」
「いらない」
これで今週は全滅か。一時期、陸が朝ご飯を食べたかどうかをチェックする表をつくって壁に貼っていたのだが、「当てつけかよ」と怒って破られた。
ふたりが家を出てから、陸が食べなかったトースト(トースターに入れっぱなしになっていたので干からびていた)と残りの味噌汁(煮詰まってしょっぱい)を台所で立ったまま食べた。化粧下地を塗って眉だけ描き、着古したジーンズとニットとキルティングジャケットを着て、自転車で職場に向かう。近所にある会社の社員食堂だ。
九時になるとミーティングがおこなわれ、チーフから献立と工程と作業分担が伝えられる。本日の定食はカツ丼とマカロニサラダとわかめの味噌汁、麺ものは味噌ラーメンだ。私はカツの担当に指名される。また揚げものか。どうせなら卵でとじる工程がよかった。
豚肉の筋を包丁で切り、小麦粉をまぶし卵液にくぐらせてパン粉をつける。昼休みの時間を迎えると注文状況を見ながらそれを揚げていく。ばちばちと跳ねる油が手に当たる。熱気が顔を覆う。
ピークを過ぎて注文がまばらになると、揚げ作業をとなりの卵とじ担当の山下さんにまかせて、下げ膳を手伝った。セルフの下げ膳口に置かれたトレイを回収してスクレーパーで残飯を拭い取り、食器を分別して流し台に入れる。
「ごちそうさまでした」と目を合わせて笑顔をくれるひとと、むすっとしたまま無言でトレイを押しつけるひとがいる。志朗はどっち側だろう。せめて陸はごちそうさまでしたと言える側になってほしいけど、いまはつくり手への感謝とは無縁のようだ。
まかないはカツ抜きのたまねぎだけの卵とじ丼にした。全身に染みついた油のにおいで胸焼けして、揚げものなんて食べられない。
掃除を終えて職場を出ると三時過ぎだ。帰宅の途中でスーパーに寄る。そろそろ米が切れそうだから買わねば。つい最近買ったばかりなのに恐ろしい消費量だ。冷蔵庫に入っている食材を思い出しつつ、今日明日あさっての献立を決めて食材を選んでいく。週末なので昼食を用意する必要を見越して、三食パックのソース焼きそばと冷凍うどんも買い足した。
さらに銀行とクリーニング店に寄ってから帰宅した。洗濯機をまわし、朝の食器を洗っていると、玄関のほうから音がして陸が帰ってきた気配があった。
「なんか食べるもんない?」にきび面が台所を覗く。
「さきに『ただいま』でしょ」
「はいはい。で、食べるもんは?」
「冷凍庫に肉まんがあるよ」
「あんまんは?」
「ない。嫌いだってこないだ言ってなかった?」
「好みが変わった」
「たった数日で?」
「男子は三日で変わるみたいなことわざあるじゃん」
「男子三日会わざれば刮目して見よ。それより早くお弁当箱出しなさい」
洗濯が終わった音がしたので洗面所に向かった。空になったばかりの洗濯かごは陸の柔道着でいっぱいになっている。洗うのは明日にしようかとも思うが、時間が経つと目につんと刺さるような激しい臭気を発するので、再度洗濯機をまわすことにする。
ミルクのにおいがするふわふわの赤ちゃんはどこへ行ったのだろう。しょっちゅう女の子と間違われていた幼児のときから、それほど時間は流れていない気がするのに。
「三日会わざれば」ではないけれど、陸は三ヶ月前の写真とは明らかに顔が変わっている。半年前の写真と比べると変化にぎょっとしてしまう。いまはバランスが崩れて未完成な状態といった感じだ。
見てわかる外見よりもっと、内面の変化は激しいはずだ。感情は揺れてささくれ立ち、ときには自分でコントロールできないほど暴走してしまう。性別は違うが私だって思春期だった時代はあるから、そのたいへんさは知っていた。陸の反抗期は比較的穏やかなほうだと思うけど、それでも彼の部屋の壁には蹴って開いた穴があって、いまは本棚で隠してある。
チョウやカブトムシはさなぎのなかでどろどろに溶けて、成虫のからだをつくっていく、と陸が幼いころに好んで眺めていた昆虫図鑑に書かれていたことを近ごろよく思い出す。陸はどんな成虫になるのだろうか。べつに華麗なオオルリアゲハとかじゃなくていいから、無事にさなぎの時期を抜けてくれれば、自分なりの人生としあわせを摑んでくれれば―と思うけど、やっぱりハエや蚊にはなってほしくない。
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8月4日に本シリーズの短編を編んだ単行本を刊行します。
タイトルは『窮屈で自由な私の容れもの』
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