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【試し読み】女による女のための短編シリーズ「ままならない私の体」第3弾『森林限界のあなた』

教会のバーベルスクワット』『保健室の白いカーテン』に次いで、蛭田亜紗子さんのシリーズ第3弾が配信開始されました。
タイトルは『森林限界のあなた』。
物語は、主人公が山のふもとにあるタトゥースタジオを訪れるところから始まります。彼女が彫ろうとしている柄は? そもそもどうして? そして、タイトルの意味が明らかになるとき、一気に心が摑まれます。
以下では、二合目付近まで公開しています。ぜひ登頂なさってください。

(イラスト:ばったん)

■著者紹介

蛭田亜紗子(ひるた・あさこ)
1979年北海道札幌市生まれ、在住。2008年第7回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞し、10年『自縄自縛の私』(新潮社)を刊行しデビュー。近刊『共謀小説家』(双葉社)では、明治期の文壇を舞台に、小説家の夫と妻の独特な絆を描いた。そのほかの著書に、『凜』(講談社)『エンディングドレス』(ポプラ社)などがある。

■あらすじ

山麓のタトゥーショップを訪ねる私にはその山に登った思い出があった。登山に連れ出してくれた会社の先輩・イサミさんは病休明けで、単独行動を好む素っ気なさもあって、当初は気後れしていたが、面倒見の良さに徐々に惹かれていった。しかし、あることがきっかけで逃げるように地元を離れ、そして六年後、イサミさんについて驚くべき連絡が入る―。私がタトゥーを彫る理由と、その絵柄とは? 忘れられない過日と、その先を見据える、心打つ物語。

■本文

 そのタトゥースタジオは山のふもとにあった。行き先が合っているのか不安になりつつ、普段利用しないバスに乗り込む。週末の朝、乗客はまばらで、このあたりの住民とおぼしきお年寄りばかりだ。途中で乗ってくる客もほとんどいない。気付けば最後のひとりになっていた。紫のボタンを押し、小銭を払ってバスを降りる。秋の朝のやわらかく澄んだ陽射しが歓迎するように私を包み込んだ。目を閉じて目蓋にぬくもりを受け止める。深く息を吸い込んだ。
 スマホを出して地図アプリを見ながら、紅葉がはじまりつつある山へと続く斜面を歩く。指定された予約時間は午前九時で、タトゥーが持つ薄暗いイメージと、朝の静かな山麓の住宅街とのギャップに奇妙な気分になった。
 運動不足のからだに坂道は堪え、息が上がる。だんだん家と家との間隔が広くまばらになっていく。いちばん高い位置にあるレンガ造りの一軒家が私の目的地のようだ。近づいてみると「Tattoo Studio Lingonberry」と書かれたプレートが壁面に嵌まっていた。
 時刻を確認する。三十分ほど早く着いてしまった。慌ただしい朝の貴重な三十分、自分だったら約束より早く来られたら迷惑だ。しかし付近にはコンビニすらなく、時間を潰せそうな場所は裏の山ぐらいしかない。
 登り口らしきものがすぐそばに見えた。引き寄せられるようにそちらへ向かう。踏み固められているものの、登山道とは呼びがたい道だ。土のにおいが鼻をくすぐった。前日に雨が降ったのか地面は少しぬかるんでいて、一歩進むたび靴が沈み込んだ。底の薄いスリッポンを履いてきたことを後悔する。
 ざわ、とすぐ横の笹の茂みが揺れた。なにか動物がいるのだろうか。熊じゃなくてリスか小鳥、と自分に言い聞かせる。倒木を這うカタツムリを踏みそうになってあわてて足をずらすとぬかるみで靴底が滑り、転びかけてひやりとした。立ち止まり、木々のあいだから空を見上げる。
 忘れもしない、イサミさんとはじめて登ったのはこの山だった。反対側にある登山道から登ったので山の面立ちが違ったし、遠足の小学生など登山客で賑わっていてひっきりなしに挨拶をした記憶がある。あらゆる生命が息を詰めて侵入者を窺っているこの空気とはまったく違う。
 だけど、季節は同じ秋のはじめだった。あれは何年前になるのだろう。すべてのはじまりから思い出そうとすると、胸がぎゅっと痛んだ。

     *

 新人歓迎会の席、乾杯からまだ十分も経っていない段階で、向かいにいた宮下さんがビールグラスを置いてずいと私に顔を近づけた。
「で、花谷は彼氏いるの?」
 これも社会人の洗礼か、と反発心をどうにか飲み下す。
「いえ、いません」
「この会社でいいなと思ったひとは?」
「まだ一部のひとしか会っていないので……」
「新人研修でいろんな部署のやつが講師やってたじゃん。そのなかではだれがいちばんタイプ?」
 だれの名前を挙げたら空気が凍るだろうかと考える。しかし最も無難そうな、つまりより多くの女性に好まれそうな外見の男性の名前を挙げた。
「あー、辻さんねー」
 一気にテーブルは微妙な温度になる。不正解だったらしい。向かいの席に座っていた私以外で唯一の女性である美馬さんが、むっつりとした顔で「トイレ」と言って席を立った。
「美馬、少し前まで辻さんとつきあってたんだよ」と耳打ちされる。
 ああ、そういう狭くてめんどくさい人間関係なのか。
「彼氏はいつからいないの? もしかして処女?」
「おいおいセクハラだぞ」とたしなめるほかの先輩も語尾に(笑)がついているようなニュアンスだ。なんとか話題を逸らそうと頭を巡らす。
「宮下さんの向かい、物置みたいになってる机がありますよね」
 宮下さんの表情から酔いが抜けた。
「ああ、そこはイサミさんの席。おれの一個先輩なんだけど、しばらく病気で休職してる」
 なんの病気なのか知りたかったが、訊ねるのは気が引けた。メンタルの病の可能性だってある。そこから部長の痛風トーク、となりの部のひとの痔の手術の話題になり、私はひっそりと嘆息した。美馬さんも戻ってきて、普段どおりの表情でカクテルをオーダーしている。
 数年ぶりに採用された新卒社員ということもあり、入社からしばらくは新種の生物みたいに扱われた。生まれた年や親の年齢を訊ねられ、答えると大げさに驚かれるというやりとりを何回繰り返しただろう。ほかの同期はみんな大卒の二十二か二十三歳で、私だけ専門卒のはたちだったということもある。
 グラフィックデザインを学んだので、お菓子や化粧品などのパッケージ、紙ものの雑貨などをつくる仕事がしたいと漠然と考えていた。そこでパッケージと包装資材を扱っているこの会社にエントリーしたのだ。就職試験は順調に進んだが、最終面接で過去作品をまとめたポートフォリオを出して説明しているときに「営業に向いているんじゃないか?」と社長に言われ、それが鶴の一声となってあっさり希望は打ち砕かれた。営業職が具体的にどんなことをするのかわからないまま、採用されたからと入社を決めた。
 新人歓迎会の翌日、呑み慣れていないお酒でひどい二日酔いのなか出社した私はさっそくやらかした。先輩とクライアントのもとへ挨拶に伺ったのだが、教習所以来の運転は壊滅的なありさまで、大幅に遅刻して相手の会社に到着し、焦って駐車場に停めてあったほかの車にぶつけてしまった。
 運悪くそれは担当者の納車されたばかりの自家用車だった。その日はぐっと怒りを呑み込んだ態度だったが、ほぼ決まりかけていた仕事は大手他社に奪われることになった。先輩が一年以上足繁く通い、何度も提案し、ようやくあとひと息のところまで漕ぎ着けた案件だった。
 翌日に同行した取引先では「女性らしい細やかな気配りのある仕事を期待していますよ」と悪気なくにっこりと言われ、もやもやした。気配りは苦手なほうだと自覚しているのに、性別ゆえにできて当然だと思われるなんて。
 二ヶ月も経つと細かい案件はひとりで任されるようになった。月替わりのレギュラー仕事はルーティンワーク化しており、クライアントの担当者はミスがないか確認する程度だったが、社内の担当デザイナーの大河内さんがくせ者だった。
「売り場の状況は把握してるの?」「競合商品は調査した?」と最初のころは確かにもっともだと反省するようなことを指摘され、自分なりに調べて資料をまとめた。すると「こんなことは求められていない」と先日の自分の発言を忘れたとしか思えないことを言われた。
 少しでも認めてほしくて、デザイン案をつくって社内打ち合わせに臨んだところ「自分の仕事もろくにできていないのに、こっちの仕事に口を出すの?」と責められ、それからは本格的に嫌われたのか理不尽な難癖レベルのことを毎回言われるようになってしまった。
 大河内さんとの打ち合わせという名の説教会四時間を終え、ぐったりと自分のデスクに戻ったところを、部長に声をかけられた。
「花谷さん、ちょっといいか?」
「はい、なんでしょう」
 あっちの部屋で、と言われて小会議室に向かう。
「ボニープロダクツの林さんからちょっと言われたことがあってね。いや、クレームってほどじゃないんだけど」
 自分では良好な関係を築けていると思っているクライアントだった。どんな言葉が出てくるのか身構える。
「最近、花谷さんがやたら疲れた顔でやってくるけど、あれはなんとかならないもんかって言われてね」
「はあ」
 なんとかならないもんかと言われても、実際疲れているのだからしょうがない。
「せめて少しはメイクしたりシャツにアイロンかけたり身ぎれいにしてほしい。うちの商品を担当してもらうには不安があるってさ」
 ボニープロダクツは化粧品や健康食品を製造している会社である。
「言っておくけどおれが思っていることではないから。こういう声をいただいたっていうだけで」
「……わかりました」
「女の営業は不利な部分もあるけれど、でも基本世間は若い女の子に弱いもんなんだから、もっとうまくやろうよ。いまだけの武器なんだからさ」
 若い女の子に弱いって、それは対等な人間と見なしていないということだ。
「あと、あらかじめ頭のなかで用意していた言葉をロボットみたいに述べるんじゃなくて、もっとやわらかい人間味みたいなものが出てくると円滑に進むと思うんだけどね。これは林さんに言われたことじゃなくて、おれからの意見」
「……気をつけます」

 なにひとつ仕事に慣れないまま初夏が来て、夏の盛りを迎え、秋の気配が近づいてきた。毎日毎日、辞めることばかり考えていた。周囲にひとがいるといつなにを言われるかと緊張で全身がこわばるので、だれもいない朝の七時半ごろに出社して、その日の仕事の準備をするようになった。
 新規営業でおとずれる会社に提案する資料に目を通し、どう挨拶してどんな世間話から入ろうかと考えていると、背後に気配を感じた。振り向くと、ぶかっとした大きめのスーツを着た短髪のひとが見下ろしている。
「だれ?」
 そのひとはぶっきらぼうな声で言った。
「あの、花谷実乃里です。四月に入社しました。よろしくお願いします」
 立ち上がって挨拶する。そっちこそだれだよと思いつつ。
「ふうん」
 名乗ることもなく鼻で返事をすると、宮下さんの向かいの荷物置き場になっている席の椅子を引き、大股を開いて座った。ああ、このひとが休職していたイサミさんか。どんな病気かは聞いていないけれど、なんとなく弱々しい感じのひとを想像していたので、若干の戸惑いがあった。
「イサミ」は伊佐見などの名字ではなく下の名前だ。フルネームは佐藤勇。佐藤姓のひとが社内に複数いるのでイサミさんと呼ばれている。私は最初の悪い印象を引きずり、怖いひとだと苦手意識を感じていた。
 イサミさんは個人プレーのひとだった。ひとりだけフレックスタイムを導入し、いつのまにか出社していつのまにか退勤している。そのわりに売り上げはいい。自力でクライアントを新規開拓するのが得意らしかった。
 それからまもなくして、私はまたやらかした。
 遅い時間だからと遠慮したのと、この段階での直しはもうないだろうと判断して、印刷にゴーサインを出したパッケージの原材料表示に変更があると出社してすぐに言われ、頭が真っ白になった。
 完全に自分のコミュニケーションの足りなさが招いたミスだった。工程の共有という最低限のことすらできていない。面接で「営業に向いているんじゃないか?」と言った社長はいったい私のなにを見ていたのか。ひとと話すことが苦手でひとりで絵を描くのが好きで、それが高じてデザインを学びデザイナーを志望したというのに。
 もともと担当していた宮下さんが刷り直しの手はずを整え、部長が謝罪に出向き、私はやらかした当事者なのにぽつんと会社に残された。
 気落ちしてほかの仕事に取りかかることもできず、パソコンの画面を見ているふりをする。はあ、とため息ばかり出た。
「……そのメール、ずっと開いてるけどいつになったら送信すんの?」
 いつのまにか後ろに立っていたイサミさんに声をかけられ、はっと振り向く。
「や、いま間違いがないか確認したら送ります」背後から圧を感じて身が縮こまる。
「花谷、明日の午後の予定は?」
「いまのところ四時から客先に行くのと、五時半から社内打ち合わせがあるぐらいです」
「じゃあ午後イチから二時間半ぐらい空けておいて。連れて行きたい現場があるから。服装と靴は動きやすくて汚れてもいいやつで。肌は出ない格好で」
「あ、はい。設営の手伝いとかですか?」
「まあそんなとこ」
 手伝いなんかに行ける余裕がないことぐらい、見てわからないのだろうか。

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