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【試し読み】『The Living Dead』ジョージ・A・ロメロ&ダニエル・クラウス著/阿部清美訳 ⑥

見えない手

 

 午後九時一七分、シャーリーンはメスを入れ、切開を開始。とりあえず全ての銃創を無視し、左耳の後ろから切り始め、自分のPM40メスを胸骨に向かってゆっくりと引いていく。身元不明遺体の肉がパン生地のように分かれた。右側も左側と同じように耳の後ろからメスを入れ、V字形に切り込む。次に、Y字カットを完成させるため、メスは腹部へと進んだ。フェイントをかけるかのごとく急に右に曲がってヘソをかわし、恥骨部で止まる。血は出ることは出たが、ごく少量だった。死んだ心臓は鼓動していない。彼女は、西部劇の酒場のスイングドアを開けるがごとく、胸部の皮膚と組織を大きくめくった。露わになったひと揃いの肋骨は、シャーリーンとルイスがステーキハウス「デーモンズ」でよく分け合って食べる一番人気のポークリブ──バーベキューソースがたっぷり塗られたあばら肉──とほとんど見た目に違いがない。

 ろくなんこつの石灰化がすでに始まっている。身元不明遺体はそれなりに年齢を重ねた人物、ということだ。シャーリーンは、解剖用ノコギリを使って肋軟骨の接合部を切断した後、ステンレス製の肋骨剪刀を手に取った。彼女は、両手で用いるこのクロームメッキが施されたハサミを操るのが好きだ。オートバイに乗ったり、オイル交換をしたりするのと同じで、肋骨を切断する行為は、自分をとりわけ大きな気持ちにさせ、大胆さを与えてくれる。そして、解剖作業の中で、最もうるさい音が出る瞬間だった。どこか湿った感じの、ポキンと骨が折れる音が室内に鳴り響く。

「私たちも彼にならってトップレスになるべきじゃない?」と、彼女は提案した。

「裸は、このミスター何某だけでいい」。ルイスは笑みを浮かべ、顎で死体を指し示す。「さ、仕事に集中しよう」

 シャーリーンは、かつて男の胸板だった、ひとつにつながっている肋骨前部を持ち上げ、カウンター上のステンレスのトレイに置いた。解剖台に向き直ると、ルイスは息を吸い、切り開かれた身体におおい被さるように上体を傾けていた。有能な検屍官なら、糖尿病の甘い香りやアルコール依存症の酒場の床の悪臭を嗅ぐことができると、事あるごとにルイスは──自分は有能だとほのめかしながら(実際、有能だが)──言う。ただし彼の様子から、今回はハッキリした結果は得られなかったのがわかる。

「何が見える?」と、ルイスが問いかけた。その声のトーンはシャーリーンの胸を躍らせる。彼が質問するときは、抜き打ちテストというより、専門知識のセカンドオピニオンを求める感じだ。

「微量の緑色の体液」。そう答えるシャーリーンの脳裏に、母のクレーム・ド・ミントが蘇った。「きっと肺炎ね」。彼女は、ルイスを咎めるように片眉を上げる。「つまり、彼が喫煙者だったのは明らか」

「ああ、そうだな。全体的な傷み具合からして、最も妥当な推測だ」

「右肺よ」

「証明してくれ、素晴らしき助手ケリーダよ」。ルイスが、親愛なる相手に使う「queridaケリーダ」というスペイン語で呼びかける。

 シャーリーンは自慢の安定した所作で、肺を胸の内側に張りつけている胸膜の癒着部分を切り取った。これは、高齢男性の典型的な病状だ。続いて気管と食道を切断した後、ようやく生温かい心臓の奥に手を滑らせ、肺を取り出すために、背骨の両側を大きく切開した。まずは右肺から掬い上げる。内臓は慎重に取り扱わなければいけない。小さな臓器類は〝逃げよう〟とするからだ。特に、アルコール依存症患者の肝臓は要注意。たっぷりと脂がのった脂肪肝は、水風船並みに滑りやすい。

 彼女は、右肺を身元不明遺体の足元にあるトレイに運び、次に左肺も同じくトレイに乗せた。しかしながら、ルイスから「証明してくれ」と言われたのに、それができなかった。右肺はニコチンで黒ずみ、胸膜炎の兆候を示していたものの、被弾の衝撃を示す挫傷が見られない。ルイスをチラリと見ると、彼はウインクをした。両肺では説明ができないことを知っていたらしい。シャーリーンは敗北を認めたくなかった。負けず嫌いの心に火が点く。内臓。もっと内臓を! 別の臓器を調べるべく、再び遺体に向き合う。Y字の切れ目の一番下の箇所を開いて直腸を切り離し、大網という脂肪組織が豊富な腹膜を裂いた。大網は腸を所定の位置に維持する役割を果たしているのだ。彼女は、ロープのような長い内臓を引き出し、スチール製のミキシングボウル風の容器に収めた。

 だが腸は、彼女が求めていた〝獲物〟ではなかった。ならば、腹部に当たった弾丸が隠れているのは、肝臓だ、と彼女は判断する。腸がすっかり取り出された今、肝臓ほど摘出がたやすい臓器は他にない。三本の血管と数本のじんたいを外してから、脂肪の多い大きな臓物を両手で包み込む。シャーリーンは、肺と並べてトレイに置いた肝臓をそっとさすってみた。

「ビンゴ!」。そう言って彼女はかんを掴み、銃弾を引き出し始める。

「致命傷か?」。ルイスが急いた感じで訊いてきた。

いいえニェット」。シャーリーンはロシア語で「NO」と返答する。「肋骨が弾を止めたんだと思う」

「なるほど!」と、ルイスが拳を、反対の手のひらに軽く叩きつける。彼の手袋は体液で濡れており、パシッと音を立てた。「そして、それが決定打キルショットになった可能性が大だな」

 シャーリーンはピンと来た。はっきりと理解した。ルイスは、四つのGSW──gun shot wounds(銃創)──が、彼の言うところの〝この男をシャット ダウンさせた〟原因ではないと証明したかったのだ。彼女は、サンディエゴ市警と彼の間の〝政争〟に全く関心はなかったが、自分が標本瓶に落としたときにカランと音を立てた、あの凹んだ銃弾を否定することはできない。

「私、アコセラ先生の〝妄想〟に同意しつつあるわ。この銃創なら、被害者は病院のベッドで休み、病院食のまずいお粥を食べ、ちょっと鎮静剤を打って、家に歩いて帰れる」

「最高だ。あのウォーカー刑事の野郎、終わったな」

 シャーリーンは、引きつった笑みを浮かべた。州の施設内で警察に対する反体制派に加担すると宣言したはいいが、ハイテク機械の全てに秘密のマイクが隠されていたら──? そんな不安が脳裏をよぎる。おそらく自分たちの発言は、ルイスが着けているマイクに拾われているはず。ボタンひとつで、彼のコメントは録音され、テキストに変換される。完成した非の打ちどころがない報告書は、市および郡の機関の所定リストにアップロードされることになるのだ。それとは別のコマンドで、同じテキストをワシントンDCのVSDC(生命に関する統計データ収集)システムにEメールで送信することもできる。国勢調査局の鼻持ちならない上昇志向を持つ誰かに、ほんを起こしかねない連中がいるとして自分のモルグが目を付けられるのは、どうしても避けなければならなかった。

「街の暮らしが、この男を殺したのよ」と、シャーリーンは言った。「いてはいけない場所、いてはいけない時間に、たまたまいたがために」

「うーん」。ルイスは録音ボタンに指を触れつつ、うなるように返事をした。

 音声認識装置は、病理医の仕事を楽にするために作られたのだが、その技術は控えめに言っても、不完全だ。一日の仕事が終わり、死体が保管用冷蔵室クーラーに戻された後、ルイスがオフィスで、二〇パーセントの確率で出ると言われている文字起こしの間違いを修正しているのを見かける。彼は検屍報告書には厳格だった。だからこそ、実際の手仕事はシャーリーンにさせる。彼はと言うと、解剖の一部始終を逐一マイクに吹き込み、それから間違いを正した文書を紙に印字してバインダーに挟む作業を担当するのだ。

白人ホワイト男性メイル」と言った彼はイヤホンの録音ボタンから指を離し、シャーリーンを見てニヤリと笑う。「この装置がどれだけ間違ってるか見てみよう。機内フライトミールになってるか。それとも不正資金ワイヤー電信送金ミュールか」

「アコセラ先生の英語にはなまりがあるでしょ。それで装置が聞き間違ってるって認めた方がいいわ」

「この国で訛りがある奴は許されないんだぞ」

「ねえ、私だって訛りがある。そう言われてるもの」

「訳のわからんこいつが君の素敵な訛りをどれだけ手荒く扱うか、見てみたいな」

「ただの機械でしょ。やれやれ」。シャーリーンは身元不明遺体の首の方へとすり足で移動していく。そこには、四つの銃弾のうちの二個目があるはずだ。「そのマイクも、あなたの手にいつも貼りついてる電話も、たかが機械。機械なんて、結局、私たちのことを正しく理解なんてしない。それくらいわかってるでしょ? 先生は、私の気持ちをいつもちゃんと気づいてくれる。それが問題だったこと、一度でもある?」

 すると、ルイスの録音ボタンを押す手が止まった。死体から顔を上げていたシャーリーンの目は、その様子を捉えた。彼女もハッとして、同じように動きを止める。自分が何を口走ったのか、彼女は一瞬気づいていなかったのだ。今は遅い時間かもしれないし、ここはモルグかもしれない。彼らの仕事は悪臭が漂う中での作業かもしれない。しかし、ふたりが静止したほんの短いひとときは、柔らかな砂のような質感と花の香りに満ち、その夜の早い時期のタバコに火を点けようとした行為よりずっと甘美だった。

「──全くない」と、ルイスが答えた。

シャーリーンは慌ててプラスチックのバイザーを下ろし、顔を隠した。

「ふーん」と、彼女が言うと、ルイスが噴き出したので、ホッとする。それでも、胸はドキドキしていた。

 解剖室に身元不明遺体が到着して一時間四〇分も経っていないが、ルイス・アコセラが几帳面にメモを取り、マイクに音声を吹き込む一方で、シャーリーン・ルトコフスキーは頭の先からざっと作業を進め、銃弾三発と複数の重要臓器を死体から摘出した後、何度か休憩を挟み、のちの検査のためにメスで切り取って採取した生検組織をホルマリン固定液に入れた。身元不明遺体とて〝誰か〟なのだというルイスの主張は、死体を〝物〟として淡々と切り刻む作業をする彼女に対する嫌味にも聞こえたが、彼は彼で何か大事なことに気づいているのだとシャーリーンは認めなければならなかった。歯は、死体のタイムカプセルのようなもので、生前の歴史を語る。身元不明遺体の臼歯は、適切な治療が行われた形跡が見られた。最後に右大腿部を深めに切開した彼女は、大腿骨にはかすりもしない場所で、血に塗れた鉛の塊を取り出した。

「それだ!  でかした」と、ルイスは歓喜の声を上げた。

「で、死因はなんだと思う?」。シャーリーンが問いかける。「心臓発作かな?」

「掘り下げて見てみよう」

 バイザーを上げた彼女は、青い医療用ペーパータオルで汗を拭き、「その必要はないんじゃないの?」と答えた。「この男性の重要な臓器には弾も何も当たっていない。彼は高齢で、健康体ではなかった。喫煙者の肺、アルコール依存症患者の肝臓。ハロウィンのコスチュームを着た子供が、この人を怖がらせてショック死させた可能性だってある。ウージー・サブマシンガンで四発撃たれた? そんなの忘れて。心臓発作よ。一〇〇パーセントの確率でね」

 ルイスはバインダーのメモを確認し、明らかに嬉しそうにイヤホンの録音ボタンを押した。

「死因は被弾による臓器損傷でない。繰り返す。被弾による臓器損傷ではない。心臓の摘出を進め、血管閉塞のチェックを行う。心筋症だ。左心室だけとは限らない。右心室が心室性不整脈を起こしている可能性も。あるいは、純粋に電気的機能障害。遺伝性疾患。ひょっとしてブルガダ症候群かも」

 彼が心から嬉しがっているのが、声の調子でわかる。シャーリーンは、それが、自分のそつがない仕事ぶりとは全く関係しておらず、些細な恨みとしか思えないものに大いに関係があるのを承知していた。気乗りしないまま、自分のPM40メスを手に取る。血でメスが紫色に見えた。解剖が終わってほしくなかったし、吸引チューブを掴んで洗浄を始めるのも嫌だ。これ以上馬鹿げたことがあるだろうか? 彼女はルイスと一緒に喜びたかった。お酒を飲んで祝おう、あるいは二本目のタバコを吸いながらでも、と提案したかった。

 身元不明遺体の心膜を切ったシャーリーンは、心臓の下に指を伸ばしたまま片手を差し入れ、指を臓器にまとわせる。それは、砂漠にある岩を思わせる温かさだった。PM40を用いて表面を取り巻く血管を分離し、そのメスを置いてから、心臓を持ち上げて取り出す。茶褐色に疲弊した心筋を両手で包み込み、観察用のシンクに運んでいったのだが、それを手から離す心構えができていない自分に気づいた。

 今まで何回、誰かの心臓を丸ごと両手で抱えてきた? こんな陳腐な感傷は、ひねくれたシャーリーン・ルトコフスキーの心にはないはずだ。ルイスが彼女の憂鬱な気分に無頓着なまま、マイクに向かってボソボソとしゃべり続けている傍らで、シャーリーンは、心臓の熟れた温もりが己の感覚を曇らせていく過程を味わううちに、それを身元不明遺体のものでなく、自分の心臓として感じ始める。彼女の胸の鼓動は、震えながら一拍ごとに遅くなり、とうとうこの手の中にある肉塊と同じくらい鈍くなった。シャーリーンは、自分の中に、見えない手が伸びてきたという奇妙な感覚を覚えた。何十億という見えない手。もしかしたら、地球上の全ての人の中に届いているかもしれない手だ。それらは、身体を調べ、突き、スライスして、人間が本当に生きているのか、あるいは人間の集団全体が生きていても生気を失って死んだようになっているのかを判断する、理解を超えるほど熟練したディーナーたちに属する手なのだ。

 数日後、生き延びること以外を考える隙が一瞬あったときに、シャーリーンは、あの心臓を手に持ち続けていたら、事態は違っていたかもしれないと己を責めた。見えない手が、彼女の背中をそっと抱き、あらゆる人々を支え、人類に道を正すチャンスを与えていただろう。しかし、彼女は持ちこたえることができなかった。彼女の傍らの内臓を抜かれた死体が動き出したのだ。完全に自力で。だから、シャーリーンは心臓を手から滑らせてしまった。心臓は床に落下し、ペチャッという軽い音を立てる。次の瞬間、見えなかった手が見えるようになった。それは、フレッド・アステアの細く白い手で、ゾッとする感覚が噴き出すのを覚えつつ、シャーリーンは、自分がその手を取るのを見た。相手に握られた自分の手は、もう逃れられない。

 フレッドは微笑む。その顔は歯もなければ、舌もない。黒い穴しかなかった。

「踊らないか?」と、彼は訊ねた。




(見えない手 終わり)

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