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【第1話まるっと全文公開】小泉今日子さん小林聡美さんW主演ドラマ『団地のふたり』の続編『また団地のふたり』

NHK BSP/BS にて放送中のプレミアムドラマ「団地のふたり」。回を重ねるごとにSNSでの反響も増しています。早くも"ロス"の声がちらほら。
そんななか、10月25日に原作の続編『また団地のふたり』が発売されます。
前作から2年、変わらないあの二人がカムバック!
noteでは一足早く、第1話を全文公開します。

第一話 バターをやめた(い)日

 1

 5のつく日は、駅前の喫茶店〈まつ〉のホットケーキが安い。
 プレーンの二枚重ねが、二〇〇円で食べられる。
 一時は、その日にホットケーキを食べると、次回以降に使える割引券をもらえるシステムに変わったのだけれど、最近、また以前のように、当日食べるホットケーキが安くなった。
 もちろん、利用客としては、そっちのほうが断然いい。
「行くよね、それは」
「行くよ」
 誘い合わせて食べに行った帰り、桜井奈津子が友人の太田野枝と笑いながら団地内を歩いていると、
「なっちゃん、なっちゃん」
 共同菜園のツツジの陰から、ぬっ、とおばちゃんが顔を出した。同じ棟の三階に住む、佐久間のおばちゃんだった。
「わ。びっくりした。こんにちは」
「なっちゃん、イチゴ、いっぱいできてるよ。食べて」
 手招きされて足を踏み入れると、ところどころに白い花が咲いたイチゴの葉の陰に、小ぶりな赤い実がたくさんついている。
「いただきまーす」
 奈津子はさっそく一つつまんで、口に放り込んだ。
 顔に近づけたときの甘い香りとともに、熟れる直前といった様子の、イチゴの味が口の中にふわっと広がる。
「甘い!」
「でしょ!」
 つばの広い、メッシュの帽子をかぶったおばちゃんが嬉しそうに言った。「ほら、野枝ちゃんも食べて」
「……はい」
「遠慮しないで」
「はい……」
「どうしたの、ノエチ」 
 動きの鈍いノエチにかわり、なるべく大きな一つをつまんで差し出すと、
「(なっちゃん、それ、洗ってない)」
 とノエチが小声で言った。
「え?」
「(洗ってないよ)」
「ああ! 洗ってない、ね。いいじゃん、味見の一粒くらい」
 奈津子は無駄に神経質なノエチを笑った。「ゴミがついてたら、指で弾き飛ばしなよ」
「あら、気になった? ごめんね。じゃあ、お部屋に持って帰って、しっかり洗ってから食べて。おいしいわよ」
 いつも親切なおばちゃんは、べつに気分を害したふうもなく、むしろ申し訳なさそうに言った。「ねえ、なっちゃん、好きなだけつんじゃってね」
「いいんですか」
「いいわよ、こっから、ここまで。どーんと行っちゃって」
 イチゴの植わった一帯、幅一メートルくらいを、佐久間のおばちゃんは大きく手で示した。イチゴの葉の向こうには、ブルーベリーの木が繁っていて、そちらも実をつけはじめている。
「じゃあ、遠慮なく」
 奈津子は答えると、本格的に腰をかがめ、一粒、もう一粒とイチゴをつまむ。「増えましたね、イチゴ。最初、五株……とかじゃなかったですか?」
「そう、五株だったの! よく覚えてるわね。毎年どんどん増えてるのよ」
「ていうことは、来年、もっと収穫できますね!」
 つんだイチゴをつぎつぎと左手にのせ、山盛りいっぱいになったところで、奈津子はノエチを手招きした。
 仕事がお休みのノエチは、明らかにオーヴァーサイズの、だぼっとしたTシャツを着ている。
 その裾を両手で前に持ち上げさせて、そこにイチゴを全部のせた。
「やだ、面白い。そうやって運ぶの?」
 佐久間のおばちゃんが笑い、自分もイチゴをつまむと、陽気な収穫仲間のように、鼻歌まじりにノエチのTシャツに赤い実をのせはじめた。
 一つ。二つ。三つ。
「ほら、なっちゃんもどんどんつんで」
「ありがとうございます」
 奈津子も笑いながら、イチゴを新しくつむと、ノエチのTシャツにぽいぽいとのせていく。

 五十歳を二つ過ぎても、奈津子もノエチも相変わらずだった。
 イラストレーターの奈津子に、本業の絵の依頼は少なく、日々多くの時間を、フリマアプリやネットオークションでの売買に費やしている。
 一度、大学を追われたノエチも、やはりよその学校の非常勤講師の掛け持ちで収入を得ている。
 どちらも実家の団地に出戻ることで、どうにか生活ができているようなものだったけれど、示し合わせたわけではなく、本当にたまたま同時期に戻ったのが幸運。
 一番親しい友人が、昔のまま近所にいるのは心強かった。
 というか、楽しかった。
 うっかり忘れ物をしても、急な相談も、頼みごとも、じゃあ今から行く、で片づいてしまう。
 実際、隣の棟なので、ドアからドアまででも、一分ほどしかかからない。なんの約束もなく歩いていても、あちこちでバッタリ顔を合わせるくらいだった。
 建て替え目前の古い団地だったけれど、まだ具体的な日取りは決まっていない。
 ゆったりと庭があり、公園があり、顔見知りのおばちゃんたちがまだ何人も住んでいる。

 2

 一階の奈津子の部屋に入って、そろーりとキッチンへ進み、イチゴをザルに空けた。
 さっと水洗いして、まだ味見をしていないノエチに一つ食べさせる。
「甘い!」
 とノエチはようやく感心したように言った。「小さいのに、ちゃんとイチゴの味がするね」
「まあね、イチゴだからね」
 奈津子も一つ、口に放り込む。「甘い!」
 ノエチの着ているTシャツには、奈津子のオリジナルキャラクター、ふわふわと飛ぶ天使のような、小さな「ソラちゃん」がいくつも描かれている。
 おっとりとしていて、やさしく、花の名前に詳しい友だち、同じ団地に住んでいた空ちゃんがモデルだった。
 その「ソラちゃん」を主人公に絵本を作ろうとしていて、そちらはまだ完成しなかった。もちろん奈津子が絵を描くのだけれど、小さい頃に気に入って、くり返し読んだ記憶のある絵本は、あかから生まれた「あかたろう」だけ。
 話を考えるのが難しいと泣きつくと、
「しょうがないな~、じゃあ、そっちはまかせて!」
 と、本好きなノエチが請け合ってくれたのだった。
 なのに、一向にストーリーが上がってこない。
「いくらのんびりした空ちゃんだって、いい加減呆れてるよ」
 一度、奈津子が文句を言うと、
「空ちゃんは、これくらいじゃ呆れないよ。いつもしゃがんで、じっと木や花を見てるから」
 ノエチは調子よく言い返し、少しも慌てるそぶりがなかったから、奈津子はひとまずオリジナルのグッズを作ってみたのだった。
 イラストや写真なんかを用意すれば、一個からグッズを製作・販売できるサイトを使い、「ソラちゃん」のTシャツと、エコバッグを作ったのだ。
 もちろん買って持っているのは、奈津子とノエチのふたりだけだったけれども。
「いいよね~同じ団地に部屋がふたつあるのって。便利!」
 最近、遊びにくると、ノエチはよくそんな調子のいいことを言う。
「家はひとつずつ、ひとつずつ」
 奈津子はきっちり訂正した。もっとも、口では堅いことを言っても、来客はもてなすタイプだ。ノエチも両親と同居の部屋へ帰るより、ここでのんびりしているほうが楽なのだろう。
「っていうか、もう二拠点生活かな、これは」
「いやいや、二拠点って。同じ団地だって」
 奈津子は笑いながら首を横に振った。

 ノエチとは違うタイプの神経質な奈津子は、外から来た荷物は、基本、一日寝かせることにしている。
 昨日届いた荷物を、玄関脇に置いてあったので、奈津子は運んで来て開いた。
 親戚の裕子ちゃんからの宅急便だった。
 茨城の笠間市に住む遠縁だった。親同士が〈はとこ〉くらいのつながりだったけれど、裕子ちゃんが若い頃に東京の画材店で働いていたから、当時、奈津子の家(ここ)によく遊びに来ていた。
 十歳年上で、絵がうまい。少女漫画雑誌のコンテストに応募して、特賞のヨーロッパ旅行をプレゼントされたこともある。
 奈津子には、憧れのお姉さんだった。
 茨城の菓子舗の屋号が印刷された、八十サイズのダンボール箱の中には、新聞紙でくるまれた陶器と、奈津子の好きな「将門煎餅」と栗羊羹、それと手作りのアクセサリーが入っていた。 
「やった~! 将門煎餅だ! メグちゃんのお皿もある!」
 しっかり声に出して喜び、新聞紙にくるまれた陶器を丁寧に開いていると、
「きれいなお皿」
 ノエチが言った。素朴な平皿に、馬の絵が刻まれている。
「ね、いいでしょ」
 と、奈津子は答えた。絵と色使いがあたたかく、でも可愛らしい。「ハネモノなんだって、これで」
「ハネモノ?」
「自分の作品として、売り物にはできないってことらしいよ」
「あ~、ハネるものね。がしゃん、って地面に叩きつけて割っちゃうやつだ、ガンコな陶芸家が」
「そう、ドラマでしか見たことないけど」
 奈津子も同じ光景を思い浮かべた。お皿を焼いたのは裕子ちゃんではなくて、近くに住む彼女の友人で、プロの陶芸家の女性だった。「売り物にはできないけど、使いたかったらどうぞ、って。前にひとつもらったことがあって、それ、気に入ってずっと使ってるって裕子ちゃんに言ったの、憶えててくれたんだね」
「へえ、いいね」
「得しちゃった。電話していい?」
「どうぞ」
「じゃあ、これでも読んでて」
 ノエチの暇つぶし用に、売り物にするつもりの雑誌「JUNE」を二冊渡すと、奈津子は裕子ちゃんにお礼の電話をかけた。
 裕子ちゃんは家にいた。
 昔は東京と茨城を行き来していたし、特賞でヨーロッパにだって行ったのに、遠縁とはいえ血筋もあるのか、三十歳を過ぎた頃から、奈津子と同じようにどんどん乗り物が苦手になったようで、今ではまったく県外へは出ないらしい。
 もちろん奈津子は都内でもすぐに具合が悪くなるくらいで、とても茨城へ行ける気はしなかったから、裕子ちゃんと直接会うのは難しかった。
 そのぶん、こうやって定期的に荷物を送り合い、近況を電話で話している。
「最近、どんなふう?」
 お皿のお礼を言ってから、奈津子が訊くと、
「どんなも、こんなもないけどね」
 裕子ちゃんは笑いながら言った。
「おじちゃんも元気そうだね」
 荷物と一緒に、裕子ちゃんがお父さんと並ぶ写真が入っていた。たくさんの、大きな菊の花と写っている。「これっていつの写真?」
「写真? ああ。去年の秋、笠間の菊まつりのときのやつ」
「へえ、行ったんだ」
「行った、久しぶり」
 秋ということなら、半年くらい前の写真だったけれど、今していることを、なんでもすぐにインターネットにあげてしまう世代とも違う。
 特に裕子ちゃんは、SNSをやるタイプでもなかったから、親切な荷物と一緒に、思い立って去年のおまつりの写真を送ってくれるくらいが、本人にとって、ちょうどいいスピードなのだろう。
 もちろん受け取る奈津子の側だって、本来、それくらいの速度で十分だった。
「お父ちゃん、なかなか車の運転やめてくんなくて、それは困ってんだよね」
 裕子ちゃんが言った。お父さんは八十代の後半、あと何年かで九十歳を迎えるくらいだった。「こないだなんて、川の土手走ってて、タイヤがパンクしてさー、それなのに停めないで走ってんだよ」
「わー、それは怖いね。さすがに免許を返納してもらったほうが」
「でしょ~。でも、私が今から免許取るっていうのも、難しいんだよね、乗り物がダメだから」
「そっちも危ないよ」
「東京ならいいんだけどね、こっちは車がないと、どこにも行けないってのもあるし。もうタクシーにしな、って言っても、そんなお金はないとか、電話で呼んでもなかなか来ないとか言って、ちっとも聞かないんだよね」
 高齢のお父さんにだいぶ困っている口ぶりで、裕子ちゃんは言った。ただ周りにもっと高齢の運転者が大勢いるせいか、本人はまだまだ大丈夫な気でいるし、教習所の高齢者講習でもいい調子だったらしい。まったく問題なし、成績優秀と担当の人に言われたとか。
「でも、事故起こさないうちに、うまくやめてもらうのがいいね。今まで運転してもらって感謝してるからさ」
 裕子ちゃんの言葉に、奈津子は、うん、とうなずいた。
「あとさ、お父ちゃん、最近、起きてすぐに散歩行っちゃうんだよね。なんか今、おじいさんが散歩するのが流行ってるらしくて。だからってさ、手ぶらで、水も持たないで出かけて、一時間も二時間も帰ってこないから心配なんだよ」
「それもまた怖いね」
 以前、外で熱中症になったことのある奈津子が言った。それから経口補水液は常備している。「水は持とうよ」
「だよね」
 裕子ちゃんが笑った。「そんでお父ちゃんが散歩に出かけると、こっちは、ゆっくり朝ごはん作ることにしてんだよね。支度にたっぷり二時間くらいかけてると、ちょうどお父ちゃんが帰ってきて、食べるのが十時とか」
「和食?」
「うん。ご飯炊いて、お味噌汁もちゃんと出汁とって、お漬物と、あとは魚。焼いたり、煮たり。朝は魚に決めてるね。お父ちゃんにはピーナッツ味噌も」
「へえ、いいね、憧れるね」と、奈津子は言った。自分もそんな朝食にしてみたい。
「なっちゃんも時間あるんだから、やれるよ! 朝、ご飯炊いてみい」
「たしかに……でも夜、ノエチと食べることが多いから、そこで炊いちゃうんだよね。で、その残ったぶんを、冷凍しておくんだけど」
 ノエチに会ったことのある裕子ちゃんに説明した。大昔、この団地でも会ったことがあるのだけれど、それだけではなくて、五年ほど前、笠間に仕事の用で行くノエチに、裕子ちゃんに案内してもらえば、と会いに行かせたのだった。
 その日、ノエチが撮ってきた写真を見て、どれが裕子ちゃんなのか、奈津子はすぐにはわからなかった。それくらい裕子ちゃんとは会っていなかったのだけれど、久しぶりすぎて、だれが裕子ちゃんかわからなかったよ~、と正直に伝えると、それ以来、荷物と一緒に写真も送ってくれるようになった。
「で、なっちゃんの朝は、どんな感じ?」
 写真で顔を知っている裕子ちゃんが訊く。
「朝? NHKの朝ドラ見ながら、まずトマトジュースを飲むでしょ。それから千切り野菜のなます。その後、ご飯かパンだね。パンにはバター塗らないで、とろけるチーズをたっぷりのせて焼くの。ご飯のときはね、夜炊いた残りの、赤米と麦入りのご飯に、じゃこ、お醤油、梅干し、のり、おかか、むいてある枝豆、ゴマを混ぜて、一〇〇グラムずつのおにぎりにして冷凍してあるから、それをチンして、お味噌汁と、最近自分で漬けてるぬか漬けと、あれば、ゆで卵かな」
「なっちゃんのも、いいね。健康食」と裕子ちゃんが言った。
「うん、前は朝から菓子パン食べてたんだけどね。ジャムコッペとか、銀チョコとか。でも、朝から甘いパン食べると、なんかだるくなる気がして、それでやめたの」
「へえ。それで毎日、朝ドラも見てるんだ。すごいね、健康的。早起きになったんだね」
「えっと、昼の再放送だけど」
「あ、そっか」
 電話の向こうの裕子ちゃんが笑った。

 電話を切って、まず様子を見ると、ノエチは冷蔵庫から水出しの緑茶を取り出して、それを飲みながら熱心に雑誌を読んでいた。
 奈津子はさっそくもらったお皿に、佐久間のおばちゃんのイチゴをのせた。
 小皿にマヨネーズを出して七味をふりかけ、それと「将門煎餅」を、ノエチの前に運ぶ。
「これね、こうやって食べるとおいしいよ」
 七味をかけたマヨネーズは、お煎餅用のディップだった。醤油味のシンプルなお煎餅に、つけて食べるのが絶品。
「ほら! うまいって」
 奈津子がお手本を示すと、
「お! うまいね」
 ノエチも真似して食べた。それから奈津子のほうを不思議そうに見た。
「なっちゃん、朝の菓子パンやめたんだ? あんなに好きなのに」
 裕子ちゃんとの会話が聞こえたのだろう。
「うっ」
 奈津子は痛いところをつかれ、ちょっとひるんだ。正直なところ、ノエチに話すかどうか悩んでいた。「いや~、じつはね、こないだ受けた区の健康診断で、悪玉コレステロール値が去年より高いって警告されて、今、すごく気をつけてるところなんだよね」
「なんで隠してんの、そんなこと」
「まだ時機じゃないかと思って」
「悪玉コレステロールって、なに食べるとよくないんだっけ」
 奈津子をじっと見ながら、ノエチは首をかしげた。
「加工肉とか、カップ麺とか、菓子パンとか、ケーキとか」
 奈津子は答えた。「あと乳製品、チーズとかバターとか。それと卵、魚卵も。っていっても、程度の問題だとは思うんだけどね」
「全部なっちゃんの好きなもんじゃん。バター好きだもんね、魚卵も」
「魚卵は、やめないよ」
「っていうか今日だって、〈まつ〉のホットケーキ、二枚にたっぷりバターつけてなかった?」
「それは……5のつく日だから」
「お煎餅にマヨネーズはいいの?」
「その食べ方は、伝えたいし」
「あ、急にぬか漬けとかはじめたのって、もしかして、そのせい?」
「まあ、そうかも」
「ずっと家にいて、動かないのもいけないよね」
 保育園からの友に注意をされ、奈津子はうなずいた。
「でも、ノエチも運動なんてしてないでしょ」
「私は、大学まで通勤してるから」
「そっか」
 立ち上がって、仕事用のデスクまで歩き、血液検査の数値の記された紙を取って戻る。
「これ」
 ノエチに渡して、数字を見てもらった。
「あ~、たしかに、ちょっと高めなんだね」
「うん」
「でも、これくらいの年になると、みんなそうだって言うよね」
「うん……多いらしいけど」
 それからもう一枚、奈津子は紙を渡した。
「こっちはなに?」
「私の見る走馬灯。もう死ぬのかもしれない、って思ったんで、自分が死ぬ前に、見そうなものを描いてみた」
「これって……食べものばっかり?」
「うん。今まで食べておいしかったものが、くるくる回りながら、私の目の前に浮かぶの。きっとそうなると思うんだ、死ぬとき。そのラインナップを描いてみた」
「これ、肉まん?」
 奈津子の描いたイラストを、ノエチが指差した。
「紀文の、キーマカレーまん。個包装のやつ」
「あ~、おいしいよね、あれ」
 ノエチは半分呆れたふうに笑っている。悪玉コレステロールくらいで大袈裟な、と思っているのかもしれない。それでも奈津子がそういった不安に、極端に弱いことも知っているはずだった。
「これは?」
「大砂丘の、マスクメロン味」
「大砂丘?」
「食べたじゃん、ノエチも」
「そうだっけ」
「静岡のたこまんっていうお菓子屋さんの、クリームのはさまった、ブッセっていうのかな。こっちで言うと、ママンとかナボナみたいなやつ。それの期間限定のマスクメロン味を通販で買ったら、ことのほかおいしくて」
「あ! 食べた、食べた!」
 思い出したノエチが言った。「精神的ストレスを緩和するGABA入り、みたいに書いてあったやつね」
「そう! ノエチがいっつも仕事のストレス抱えてるから」
「すんません」
「でもおいしくて、あれから私、すっかり、たこまんファンだから」
「なるほどね。……これは?」
「弁松の、濃ゆい味の煮物」
「これ」
「南国酒家の春巻」
「これは」
「焼きたらこ」
「どこの?」
「どこのでもいい……あと、やっぱり、ご飯もほしいなって」
 湯気の立つご飯茶碗のイラストを自分で指差すと、
「それ、ただの好きなメニューじゃん」
 ノエチが小さく鼻を鳴らして言った。
「いいの。この世を去るときに、それが浮かんだら幸せでしょ」
 甘栗、海老フライ、村上開新堂のロシアケーキ……などなどのイラストも描いてある。
 昔からの付き合いだからか、それともふたりの中身が年齢通りには成長しなかったからなのか、話している内容は、おそらく十代の頃とほとんど変わらない。
 食の好みも、年を重ねて渋くなったというよりは、奈津子の場合、若い頃からそのままだった。

 3

「なっちゃん! 数値を気にしてるんだったら、運動したらいいよ。付き合うから」
 インドア派のノエチの珍しい提案で、外に出かけることにした。
 まず郵便局で、奈津子が今日売れたお品物の発送をしてから、夏野菜の植わった畑を抜け、大きな道路を渡り、ノエチと遠い公園まで歩いた。
 大人向けの、アスレチック器具が設置されている公園だった。
 ボードの目盛りに合わせて足を開くフットストレッチや、鎖の吊り輪、その向こうに鉄棒がある。
 もう花のないソメイヨシノの木の下で、小学生くらいの子たちが集まって、アリの生態を観察している。
 三つ高さがある鉄棒の、一番低いのに奈津子は飛びついた。
 どうにか鉄棒に摑まって、足を地面から離す。
「やばい! これ、本当やばい! 自分の重さで、脇の下がちぎれる!」
 十秒ほどで手を離して、べたっと地面に下りた。
 ふう、びっくりした。
 思わず肩で息をすると、
「なっちゃん、むかしは鉄棒に足引っかけて、ぐるぐる回転してたのにね」
 ノエチが嬉しそうに言う。
「してた~、今じゃ信じられない」
 奈津子はもう一度、同じ高さの鉄棒に挑戦した。今度は少し頑張って、十二、三秒ほどで地面に下りた。
 そんなに太ったつもりはなかったけれど、よほど筋肉が衰えたのだろう。
 本当に脇の下が、ちぎれそうな痛さだった。
「ノエチもやってみなよ」
「え~、やだよ」
「早く」
「やだって」
「なんで~、付き合うって言ったじゃん」
「一緒に来たけど」
「本当にやばいから! やってみて」
 と促して、場所を譲る。ふだん仕事へ行くときの、かっちりした服装とは違う、「ソラちゃん」の絵がついた、大きなTシャツを着たノエチが、仕方なさそうに鉄棒の下に立った。
「私、嫌いなんだけど、鉄棒」
「知ってるよ、そんなの。ノエチ苦手だったじゃん、鉄棒も跳び箱も。ていうか体育」
 昔を思い出して言う。どんなに勢いをつけているようでも、絶妙なタイミングでブレーキをかけて、直前でスピードを殺すのがノエチの運動だった。鉄棒は逆上がりができなかったし、跳び箱もよほど低い段しかとべなかった。
「だって、怖かったし。そこで頑張る意味もわかんなかったから」
 得意なのは勉強、運動音痴だったノエチが鉄棒に摑まり、
「わっ」
 と、声を上げて足を地面から浮かせると、さすが根っからの運動嫌い、わずか二秒でもう重力に負けた。

○本日の売り上げ 
キン肉マン 東映まんがまつり 交通安全シール一〇〇〇円。
ピーポくんハンドタオル 亀有警察署 亀有交通安全協会(未使用)六〇〇円。 
 
○本日のお買い物
〈まつ〉のホットケーキ(プレーン二枚重ね。5のつく日の特別価格)二〇〇円+紅茶五〇〇円。

(第一話 終わり)

一番親しい友人が、昔のまま近所にいる。心強い。というか、楽しい。
『また団地のふたり』
10月25日発売。現在予約受付中。
〇目次〇
第一話 バターをやめた(い)日
第二話 収穫びより
第三話 ちょっと出ようよ
第四話 思い出の食器たち
第五話 いる? いらない? わからない

藤野千夜(ふじの・ちや)
1962年福岡県生まれ。千葉大学教育学部卒。95年「午後の時間割」で第14回海燕新人文学賞、98年『おしゃべり怪談』で第20回野間文芸新人賞、2000年『夏の約束』で第122回芥川賞を受賞。その他の著書に『ルート225』『中等部超能力戦争』『D菩薩峠漫研夏合宿』『編集ども集まれ!』などがある。『じい散歩』シリーズは続巻含めた累計20万部を超えるヒットとなった。本書につながる『団地のふたり』はテレビドラマ化し話題に。

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