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【11/20発売に先行して冒頭を大公開】山内マリコさん最新作『逃亡するガール』

ねえ、あたしたち これからどうする?
不条理に居場所を追われた高校生2人が、
街を、テリトリーを拡張していく。

山内マリコさんキャリア初 地元・富山を舞台にした青春小説
『逃亡するガール』
11月20日発売。現在予約受付中です。

以下、冒頭、
とある出来事で知り合った2人が再会するまでの約1万字を大公開!

     スタバ

 スタバほど勉強に集中できる場所はない。家より塾より学校より、スタバが好きだ、ここが世界でいちばん落ち着く。週二回、高校の授業が終わって塾がはじまるまでの時間を、あたしはいつもスタバで過ごした。
 学校の最寄り駅から〈富山地方鉄道〉に乗って電鉄富山駅で降り、マリエ一階のスタバに直行して席を確保するのがルーティン。この店舗はなぜかフロアが二つに分離している謎なつくりで、小さいほうの飲食スペースはいつも勉強する学生でいっぱいだった。ここの窓際、カウンター席を取れたらラッキーだけど、満席だったんで仕方なくメイン側の、一つだけ空いていたソファ席に滑り込んだ。大人の客に挟まれながら、リュックからペンケースや世界史探究の教科書、ノート、ワークシートを取り出して茶色い丸テーブルに広げる。傍らにはいつものバニラクリームフラペチーノ。透明な半円形の蓋に刺さった紙ストローでくらくらするほど甘いミルククリームを吸うと、脳みそが覚醒してペンを持つ手に力が入る。テーブルのガタつきを足で押さえながら教科書をめくった。
 あたしは世界史が好きだ。正確にはこの四月に、世界史探究の教科担任が岡部先生になってから世界史が好きになった。教科書の今日やったところをめくって、宿題に出されたワークシートを埋めていく。いま習っているのは古代ギリシア。岡部先生は白髪まじりのおじさんで、とても世界のことに詳しいとは思えないほど富山弁がえぐかった。

「いまみんなが住んどる富山ちゃ、中心みたいなもんはあんまないねか? 昔は富山駅が中心やったろうし、あんたらちみたいな高校生は電車通学の人もおっから駅にも行くかもしれんけど、先生らちみたいに車乗っとったら駅にちゃわざわざ行かんねか。富山の中心市街地いうたら西町になっけど、廃れしもて、行く人おらんやろ? 今やったらファボーレとか高岡のイオンとかコストコとか、そいとこが中心になるがかもしれんちゃね。
 ほやけど古代ギリシアちゃ、いいがになっとって、街に中心があったん。みんなパルテノン神殿ちゃ見たことあっけ? ギリシアゆうたらパルテノン神殿なんやけど、知っとっけ? あんたらちアテネ・オリンピックのときまだ生まれとらんかったから、見たことないかもしれんね。柱がたくさん立っとる白っぽーいやつながやけど、どんなとこにあると思っけ? あれ実は、小高い丘みたいなとこに立っとんが。あとでGoogle Earthでも開いて見てみられ」
「せんせー教科書に写真載ってまーす」
 クラスの男子がおちょくるように言った。どっと沸く生徒に動じず、「そうけそうけ、なーん前は世界史もAやらBやらやったんに、世界史探究になって教科書も変わったねか。ああ、ほんとやね、載っとるね。あんたらこの写真で、丘の上ってわかっけ?」と岡部先生はのんびりした調子でつづける。
「神殿ちゃ、小高い丘の上にあんが。こういう丘のことを〈アクロポリス〉いうが。覚えとかれ。ほいで普段はみんな麓の、丘の下のとこにある広場に集まっとったんやわ。こういう広場のことを〈アゴラ〉って呼ぶが。いいけ? 覚えとかれま。古代ギリシア人ちゃ神殿と、このアゴラを中心に集落を作ったん。神殿の立つアクロポリスがあって、麓にはアゴラがあって、その先に市民が住む家があって、さらにその先には果樹園とか農地が広がっとったんね。ほんで、みんなアゴラに集まってなにしとったんかゆうと……あーまた時間なくなってしもたわ。ほしたらこの続きはまた明日やっちゃ」

 アクロポリスは丘、上に立つのは神殿、その麓にはアゴラと呼ばれる広場。こういうフォーマットの都市国家がポリス。授業を反芻してワークシートを埋めていく。
 勉強は精神安定剤みたいに、あたしの心をしーんと静かに保ってくれる。定期テストに備えて教科書のポイントを書き出していると、他のことはなんにも考えなくて済むし、自分はやるべきことをやってると思えてほっとする。
 こんなふうに無になって集中できる場所はスタバのほかにない。家はノイズだらけ、学校だと勉強してる姿はあんま見せられない、塾の自習室はなんかピリピリしてる。その点、スタバは自分を取り巻く世界から切り離して、放っておいてくれる。あたしを誰でもない人にしてくれる。だからここは世界でいちばん居心地がいい。店内の耳障りなおしゃべりも、Bluetoothイヤホンが完璧にシャットアウトしてくれる。他人に紛れ、無心でノートにペンをさらさら走らせていると心が穏やかになった。いちばん好きな時間。安らかな午後のひととき。
 そこへ突然、くしゃくしゃに丸まった物体が飛んできたんで、
「うわっ」
 思わず変な声を漏らしてのけぞった。
 広げたノートの上にぽとりと転がるものを見ると、スタバの紙ナプキンだ。イヤホンを外し、なんだなんだと客席を見回す。サラリーマン、おばさん三人組、大学生風、またサラリーマン、OL風。いろんな大人がごっちゃにちらばる店内で、目が合ったのは、知らないJKだった。
 一瞬、あたしたちは無言でお互いを見つめ合う。
 あれはどこの制服だろう。小さなエンブレムの入ったネイビーブレザーに青いリボン、青いタータンチェックのプリーツスカート。肩よりだいぶ長い髪。大きな丸い目がまっすぐにこちらを見ている。視線に棘がなくて親しげだったから、知り合いかなって思ったけど、ふつうに全然知らない子だった。
 彼女が片目をパチパチ、閉じたり開いたりして合図を送ってきて、「え? え?」と戸惑う。どぎまぎしてると今度は紙ナプキンを指差しジェスチャーで、開けて、と伝えてきた。促されるまま、半信半疑にナプキンをそうっと開き、中を見る。勢いよく右上がりの文字が目に飛び込んできた。
〈気をつけて トーサツされてる〉
 トーサツ? とーさつ? ……盗撮!?
 顔をあげて彼女のほうを見た。奥の二人掛けの席に座っているその子は、瞳を器用に動かして、となりの席の男を指す。見ると、サイズの合ってないグレーのスーツをぶかっと着た、痩せた男がいた。眼鏡は曇り、椅子からずり落ちそうな角度で座っている。ぱっと見ただの冴えない男の人って感じだけど、手にしているスマホのカメラレンズは、たしかに不自然にこっちを向いていた。
 瞬間、体が硬直するのがわかった。
 知らないうちに見られていた、勝手に撮られていたんだと思うと、怖気が全身を走り抜け、肌が粟立つ。触られたわけじゃないのに侵食された感がすごくて、自分がハムスターとかカブトムシとかの、人間に弄ばれる小さな生き物になったみたい。え、でも待ってこれ、どうしたらいいんだ。スカートの中を撮られたわけじゃないし、ギャーギャー騒ぎ立ててもみんな「はっ?」って感じだろう。ていうかそもそもギャーギャー言えない。この状況で大きな声を出すなんて無理だ。どうしたらいいかわからなくて、頭が真っ白、ただただ固まる。
 そのとき、カタッと音がした。
 顔をあげると目の前に、女の子が座ってた。
「店員さんに言う?」
 紙ナプキンを投げて教えてくれた、青い制服リボンの子だった。こっちのテーブルに移動して、助けに来てくれたんだ。彼女はスクールバッグを胸に抱いたまま「大丈夫?」と、こちらを心配顔で覗き込む。あたしはうまく笑えなくて、引き攣った顔で「大丈夫大丈夫ごめんね」と言った。
 全然大丈夫じゃないのに。悪いことしてないのにごめんとか。なんでそんな言葉が口から出るんだろう。助けて助けて、どうにかして。でも、やっぱりそんなSOSは出せなくて、あたしはなおも「大丈夫大丈夫」をくり返し、騒ぎにならないよう自分を押し込めた。
 すると、いきなり目の前の女の子がけっこう大きな声で言った。
「撮ってんじゃねえよ!」
 くるっと男のほうをふり向き、ドスの効いた声を響かせる。
 一瞬、店内がしーんとしたけど、すぐにいつもの喧騒に戻った。
 男はわざとらしく、え、ぼくですか? 人違いですよ、ぼくは何もしてませんよ、冤罪ですよって顔で、しれっとスマホを横に持ちかえてゲームをはじめてる。
「うわ……見た? ありえない」
 男の開き直った図々しい態度にあ然として、あたしと彼女はただただ「はあ?」って顔で、遠巻きに盗撮犯を非難するしかできない。このままあいつがいなくなるまで居座ってやろうかとも思ったけど、同じ空気を吸うのも嫌だった。これ以上あいつの視界に存在したくない。顔を覚えられてマークされて、ストーカーみたいになられたら最悪だし。もしそんなことが起きたら、いくら警察にかけあったところであたしが殺されるまでなにも動いてもらえないんだ。そういうの前にニュースで見た。
「出ようか」あたしが言うと、
「そうだね」彼女もうなずいた。
 教科書やノートをまとめ、テーブルに広げたマイルドライナーやフレフレオプトをペンケースに仕舞う。そうして初対面の女の子と一緒に、スタバから立ち退いた。


     駅前ロータリー

 夕方の富山駅前は少しずつ人が増え、バス停にささやかな行列ができたり立ち食いそば屋に客が出たり入ったりしている。あたしたちは足早に駅前を歩き過ぎ、肩を怒らせながらマルート側へと逃げ込んだ。マルートは二年前にできたショッピングビル。無印スリコマツキヨ、もちろんここにもスタバが入ってる。あたしたちは市電横のベンチに腰掛けると、ホースの先をギュッとつぶして水を撒くみたいな勢いで、さっきの盗撮男を糾弾しまくった。
「あああああああ! 信じらんない! キモすぎるんですけど!」
 口火を切ったのは青いリボンの子だった。
「ほんとほんとまじで、無理無理無理無理……最悪ううう!」
 あたしもやり場のない怒りを大声でぶちまける。
「なにあれ、あいつ、あの態度」
「許せん。あいつスタバ出禁じゃない?」
 彼女はあたしと完璧に同じテンションで怒ってくれた。なんならちょっと、あたしの怒りを上回ってた。おかげで被害者っていう惨めな気持ちが少し薄まったけど、あの男のスマホの中に、自分の画像データが収監されたと思うとたまらなく嫌な気持ちがしたし、髪の毛を勝手にべたべた触られたみたいな嫌悪感がいつまでも体に纏わりついた。それをどうにか拭い去りたくて、機関銃を放つみたいに口から「あーキモいキモい」ペッペッと吐き出した。ゴキブリに遭遇したらとにかくキャーッて大声を出すみたいに。あれは怖いからっていうより、Gを見てしまった気持ち悪さを、ただアウトプットするためのキャーだから。
「あーまじむり、スタバで盗撮なんてほんと最悪」
「そうだよ、スタバでやんなよ、クソが。スタバはマックじゃないんだよ」
 まったくその通りだ。どんな田舎者だろうと、スタバにいるときだけは他人に干渉せずスマートにふるまうことができるのに。スタバでだけはみんなお行儀よくするものなのに。ここは自宅のリビングの延長みたいな、マックやモールのフードコートとは違うってこと。店内には適度な緊張感があり、客同士は都会の人のようにドライな距離感を保つ。店全体に張られたスタバというブランドの結界が、いつもあたしを守ってくれてたのに。
「盗撮するなんてスタバの客として恥じるべき」
 と彼女が言ってくれたので、あたしも調子に乗ってますます盗撮野郎を糾弾した。
「マジ腹立つわ、あいつ社会人のくせに小学生男子の雰囲気だったし」
「ハハ! そうそう、おじさんなのになんかガキっぽいのウケるキモ死ね~」
 三十分くらい罵詈雑言を吐きまくったところで塾の時間が迫っているのに気づいて焦った。「え、塾とか行ってんの? すご」と言う彼女に、ごめんねもう行かなくちゃと謝る。
「全然オッケー」
 彼女は颯爽と立ち上がると、じゃあね~と手をふり、去って行った。ブレザーと、青いチェックのプリーツスカート。てっきり連絡先を交換する流れになると思ってたから、別れがあっさりだったんでさびしかった。え、あたしたちもうおしまい? これだけ? 駆け寄って自分から名前と連絡先、訊こうかな。うじうじ迷っているうちに、彼女は駅の中に消えてしまった。


     富山駅

 北陸新幹線が通っていまの富山駅が完成したのはあたしが小学一年生のときだ。
 一度だけ乗ったことがある。家族でディズニーランドに行ったけど、なにも憶えてない。そのとき撮った写真は紙焼きされないまま親のスマホに埋もれてて一度も見たことがないし、写真という物理的証拠を見ていないせいで、ディズニー旅行の話はなんじゃないかとあたしは密かに疑っていた。親に言えば見せてくれるんだろうけど、うちの家族はもうそんな話ができる空気じゃない。
 駅には中二階みたいな待ち合いスペースがあってテーブルと椅子が置いてあるから、ここも時間帯によっては高校生の自習室化してる。階段をのぼると、テーブルを占拠してる男子学生たちの姿。こっちに気づいた途端、ミニオンみたいにきぃきぃと小突き合いをはじめたんで、あたしはBluetoothイヤホンをスッと耳に挿してノイズを遮断した。手すりに体をあずけ、行き交う人の中にこないだのあの、青い制服リボンの子がいないか探した。
 あっという間に去って行ったあの子。あたしを助けてくれたあの子。ちゃんとお礼も言ってなかったと、思い出すたび自己嫌悪で、手の甲をキュッとつねった。ネットで富山県中の制服を見たけど、結局どこの高校かわからなくて手がかりはなし。けど、あの日スタバにいたってことは、きっとまた富山駅に来るに違いない。
 新幹線が到着するたび、東京からやって来る人と出迎える人が交錯して、JR側の改札は瞬間的に賑わう。その波はすぐに静まり、穏やかな日常が戻ってきたと思ったら、数十分後にまた新幹線が着いて同じ光景がくり返される。となりには〈あいの風とやま鉄道〉の改札があって、そっちは通勤通学で使う人がほとんどだから、みんなのテンションは低く淡々としてた。
「あいの風」とは北陸の日本海に面した地域で使われている言葉、春頃から夏にかけて吹く東風のこと、沖から吹く夏のそよ風、という意味だと検索して知る。何度か調べたことはあるけど、いつもなぜかすぐに忘れてしまうのだった。
 そういうことはたくさんあった。うちから車で十分くらいのところに穴の谷の霊水という万病に効く霊水スポットがあって、子供のころからお父さんに連れられてよく水を汲みに行ってたけど、そこの由来も何回読んでもいっこも頭に入ってこなかった。お父さんに訊いても「知らん」って即答された。立山信仰の伝説も、小学校の立山登山のときに聞いた気がするけど、鷹が出てきた印象が残ってるくらいで、あとは見事に忘れてる。当たり前みたいにあるものは、当たり前であるがゆえに、あたしの中を華麗にスルーしていく。
 駅はいろんな人が来ては去っていく。時間に追われて焦って走っている人、暇そうに柱沿いのベンチに腰掛けて動かない人。歩き方だけでどんな人かだいたいわかるのが面白い。気取ってる人、自信のない人、尊大な人、気が小さい人。あの子はどんな歩き方だったっけ? 駅に消えていった姿を頭の中で再生させる。跳ねるように歩く後ろ姿、シャラシャラと光の粉が尾を引いて、ティンカー・ベルが通り過ぎたみたいに見えた。だいぶ思い出補正かかってるけど、見たら絶対にわかるはず。塾がはじまるギリギリの時間まで、そこでそうして、青いリボンの子を探した。


     古代ギリシア

 一限目は岡部先生の世界史探究、あたしの心は古代ギリシアへ飛ぶ。
「前回やったとこ覚えとっけ? 丘ちゃ、なんやった? 丘の上になに立っとった? 覚えとっ人おるけ? ……おらんみたいやから先生言うけど、神殿やねかねぇ、神殿。小高い丘がアクロポリス、その上に神殿、そいでアクロポリスの下にはなにあった? ……アゴラね、広場があったん。ここまではいいけ?」
 みんなノーリアクション。
「はい、じゃあ先進めっけど、アゴラで人々が集まって、なにやっとったかっていうと、喋っとったんね。ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、喋っとったん。市民がここに集まってきて、アゴラで自由に議論したん。なんでだかわかっけ?」
 おしゃべり好きな国民性だったから? って考えが浮かんだけど、手なんか挙げない。岡部先生はしーんと静まる教室を見回して言った。
「みんな暇だったん」
 あーハズレた。手挙げなくてよかった~。
 にしても暇? 暇とは? 実はちゃんと授業を聞いていたクラスの人たちが一斉に顔をあげた。
「本当の話やけど、古代ギリシアの人らちは、みんな暇しとったん。ほいで、暇やからアゴラで立ち話しとったんね。なんで暇なんかゆうたら、古代ギリシアの市民ちゃ、仕事しとらんかったん」
 仕事をしていない???
 クラス中、いまや岡部先生の話に首ったけだ。
「市民ゆうても、十八歳以上の男の人らちに限った話ながね。古代ギリシアでは市民権のある男一人あたり、だいたい二人から三人の家内奴隷を所有してこき使ことったゆう話なが。工業奴隷もおって、仕事はみんなその人らちに丸投げしとったんね。女の人は結婚したら家の中に縛り付けられて働かされとったし、外出も制限されて、一人で自由にふらふら外出たりちゃできんかったが」
 岡部先生は白髪まじりのぼさぼさの髪をかきあげて話をつづけた。
「つまり、市民の男が仕事も家事も奴隷と女性に押し付けて、自分たちは暇だからアゴラでくっちゃべることで、いろんなことを考えるようになったんね。そっから生まれていったもんちゃ……なんやと思う?」
 岡部先生は、カンカンカンッと白いチョークで奴隷の横に、哲学と書いた。 
「哲学やけども、いまでいう数学とか医学とか物理学とか、学問全般のことやちゃね。ソクラテスとか、その弟子のプラトンとか、その弟子のアリストテレスとか、名前聞いたことないけ? この人らちの名前は必ずテストに出っから、全部覚えとかれ。哲学を誕生させたんはすごいことやし、偉い人らやけど、奴隷や女性の犠牲の上に築かれていったものやってことも、一応覚えとかれ。テストには出んけど」
 それから岡部先生は黒板を消しながら、「これは余談やけど」と話した。
「日本にもよぉ公共空間に・広場・あんねか。自治体ちゃ市民のために集まれるスペース作っけど、実際に作ってみたらなかなかうまく機能せんもんなんやちゃ。おいちゃんらちはベンチでぐーぐー寝とっし、家のゴミ捨ててかれる人もおっしで、吹き溜まりみたいになったりすんが。日本ちゃなんでだか広場が機能せん国ながね。なんでやろうね」
「トー横だ」と誰かが小さく言い、笑いが漏れる。
「まぁそうやね。トー横やらには居場所のない子供らちが集まってくっがやろ? 子供ちゃ、仕事したらあかんし、家のことさせるわけにもいかんがね。勉強しといてもらわんと困っがやけど、そう都合よくいかんちゃ。いろんな事情あろがいね。富山やと広場にくっがはじーはんが多いちゃね。リタイアしたじーはんもある意味、古代ギリシアの市民と同じ立場なんやわ。仕事もせんでいい、家事もおっかちゃんらちに押し付けて、ほんで行く場所ないから金のかからん公共施設に行って時間潰そうとすんが。せっかくならアゴラみたいにそこにおっ人と喋ればいいがに、誰とも喋らんちゃ。喋ってもケンカになるだけやから、喋らんほうがいいわ」
 ぷぷ。
「ギリシアちゃ地中海沿岸やし、あったかくてカラッとしとって気候もいいやろうから、人の性格も陽気で開放的で、みんな人懐っこく喋っとったんやろうね。うらやましいちゃ。まーでも、暇やからアゴラに集まってものを考えるようになって哲学を生み出したんも、ごくごく一部の頭のいい人らちだけの話やろがいね。古代ギリシアやろうとなんやろうと、普通の人は暇やからってものなんか考えんちゃ」


     ロフト

 中間テストが終わった直後の喜ばしい放課後。
 マルート三階にあるロフトの文具売り場に直行して限定商品をチェックした。このところのお気に入りは、MONOやキャンパスノート、ドクターグリップがコラボしたミネラルカラーシリーズ。アプリコットピンク、シェルベージュ、ピスタチオグリーン、シアーパープル、ソルベブルー。ドリーミーな名前のついた淡い色味のシャーペンやノートや修正テープがあれば、勉強のモチベーションが上がったし、渇いた心が慰められた。コンプリートにはほど遠くてまだまだ欲しいものがあったけど、売り場はすでにずいぶん縮小されてもう品薄状態。自分へのご褒美を物色していたあたしはちょっとがっかりしながら、人生を彩ってくれる可愛いシールや付箋を求めて売り場を彷徨った。
 韓国文具のコーナーに立ち止まり、日本のとはちょっと違うテイストをへぇ~っと思いながら見ていると、「あっ」という声が聞こえて顔をあげる。そこにはあの、青いリボンの女の子の姿があった。
「あ!!!」
 顔を見合わせるなり二人とも、生き別れた双子の姉妹と再会したみたいにぴょんぴょん飛び跳ねて抱き合った。あたしはこのあいだのお礼と、名前を訊きそびれてすごく後悔したこと、また会いたくて探してたんだよと捲し立てる。彼女は飛びかかってきた大型犬をなだめるように、あたしの背中をよぉーしよぉーしとさすった。
「あたしもまた会いたかったよー。なんかカッコつけて連絡先も訊かずに去っちゃった、ごめんね」
 彼女はブレザーのポケットからスマホを出して両手でぽちぽちやると、「インスタがいい? それともLINE派?」とたずねた。
「じゃあインスタで」
 アカウント名を伝え合い、フォローし合い、DMを送り合う。
〈山岸美羽です〉打ち込んで送った。
「ミウ?」
「そう」
「名前めっちゃ可愛い」
〈浜野比奈でーす〉DMに彼女の自己紹介が届いた。
「ヒナで合ってる?」
「うん」
「そっちも可愛いよ!」
 名前を褒め合う。「比奈って呼んで」と言われたから、「じゃあ、あたしのことも美羽って呼んで」と返した。

(続く)

ねえ、あたしたちこれからどうする?
不条理に居場所を追われた高校生2人が、
街を、テリトリーを拡張していく。
山内マリコさんキャリア初 地元・富山を舞台にした青春小説
『逃亡するガール』
11月20日発売。現在予約受付中。


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