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第四章『心中市ヶ谷聖観音』(創作/26,888字) 小説家のデッサン 三島由紀夫『二元論』より


第四章 『心中市ヶ谷聖観音』(創作)

(26,888字)




一、 ”私小説”



苦しい、とても苦しい。どうしてなんだ?しかし俺にはその訳が判っている様な気がする。明確ではないんだ。俺が苦しい理由、それを全て書き連ねれば又一つ、俺を飾る紙束が出来上がるだろう。俺はそれを望まない。望むべくして望んだ全ては、何処か…生まれてより全て預けられて今ここにこうしている。俺は…そんな人間なんだ。

苦しい…何だ?これは?兎に角苦しい。本当に身体の具合が思わしくない。どういう事なんだ?雑念を紛らわす為に、煙草を呑む。煙を吐く。吐いた煙が、何処か…又何処かへ、際のなく、移動を遮る際のなく、糸を引いて霧散する。

む…苦しい。何故なんだ?何かがおかしいぞ?そして俺はその理由を知っている。知っているのだが、この心はそれを知りたくないのだ。続けよう、何だ?実に煙草が早く飛ぶな…む…駄目だ。

少しこの燻しを置こう…

又連絡か⁈何だ⁈何を俺に聞きたい⁈いい加減にしろ、俺は今、苦しいんだ…そうか…そうか…そうだったな…それは良く運んでいるんだな?そうか…それは良い。

何だ⁈今度は誰だ⁈ああ、君か…うん、そうだった、そうだったな。良くやってるな、うん。そう…そうだったな。しかし君、この現代に至って、君、この国に於ける芸術の…

んっ⁈苦しいっ‼︎ちょっと待ってくれ‼︎少し息を吐かせてくれ‼︎

おい…ちょっと例のを持って来てくれ…

良い塩梅だ…落ち着いた…

ん?いや、最近な、偶にあるんだ…

気にするな…

気にするな?…うん、気にするな…

そう、俺の書き物、そう俺の書いて来た物…

そうか、評が良い?そうか…

ああ、又燻し煙が吸いたい。うむ…

“有無”…

そう、芸術だったな。そう、俺の芸術。君の芸術。そして歴史上の芸術。そう…芸術というのはだな…む…苦しい。君な…芸術というのはだな…ううん…おかしいな…今日は普段にも増して苦しいな…君、今日の所は引けてくれないか?少し思わしくない。ん、有難う。又今度な。

今度は誰だ⁈それは今日は無理だと言ってくれ。今日は実に思わしくないんだ。何?そうか…そうだったな…通してくれ。

うん、そうか。それは良いな。何?ああ、あれは仕上げた。だからもう今は少しの身体の余裕が出来た。だから大丈夫だ。そう…これか…

これは使うか?俺は…

今日の目には眩し過ぎるな…

良い身をしている…

これを何処で?そう、そう、そうだな。しかし…

うむ…煙草が空いた。君、持ってはいまいか?

有難う。早速…

しかし君、冷え込んで来たな、今年も例年通り。

例年通り、か…

この国のこの冗長とした“例年”とは…いつから始まったんだろうなぁ。俺もな、君。思い出してみれば、こんな“例年”なんぞ、過ごす時が来るなど思いもよらなかったぞ。

“嘘つけ”

またか…いや…聞こえたか?気にせんでくれ。しかし何だ?随分と辛気臭い顔しやがって。少し煽るか?おい、持って来てくれ。

ん…

いかんな…いや、大丈夫だ。だから大丈夫だ!大丈夫と言ってるだろう!

泡盛か…美味いな…しかし君、俺はな、昔よく判らん泡盛を頂いてな、これが本当によく判らんのだ。そしてそれをな、一晩で空けてな、いや、一人ではない。そう…どの顔がいたかな…

もう思い出したくないな…

そうだな…何かこの今、余り思い出だのなんだの、と…

“嘘つけ”

うむ…どうにもな…いや、心配するな。大丈夫大丈夫。

思い出か…“嘘をつけ”…そうだな…何か君、嘘らしい嘘というのは纏わり付いては視界の届かない所まで消えて行って…そうだな…少し煩いな…何だ?君には聞こえないか?何だ?この騒音は?聞こえない?そうか…

又だ…

“嘘つけ!”

そうだな…俺達ってのはどれだけ嘘を吐けば気が済む生き物なんだろうな…

“嘘つけ!”

何だ?貴様ら!俺に会いに来てくれたのか?いや…そんな都合の良いものでもないだろうな…しかし…何だ?貴様ら!俺に…俺に会いに来てくれたのか?

“嘘つけ!”

何だ、随分と透き通った笑顔だな…何だ?この俺が“嘘吐き”だ、と言いに来たのか?この俺が?

“嘘つき!”
“嘘つき!”
“嘘つき!”

…皆、良い、実に良い顔をしてるぞ。何だ?此方まで嬉しくなるぞ。

んっ⁈眩しいっ‼︎

太陽の光線が俺の頭脳を刺す様に貫いた…

一人、又一人と…
一機、又一機と…

何だ…貴様ら…俺に会いに来たんじゃなかったのか?
何で飛び立つ?俺を置いて…
いや、そうでもない…
直ぐ次に、貴様らの後を追うぞ
待つ暇などないからな
うん…次は俺だぞ

ん⁈あ…済まん。そう…もう一つくれないか?いや、煙草だ。何?そうか…それは済まなかったな。君のも終わりか…

終わりか…

何だか一つの小説みたいだったな…

長い長い…
それで残りのページを繰る指に躊躇いが出て…
昔の俺達の幸福ってな、君、何だったんだろうなあ…

遥子に頼もう…

うん…

君も吸うか?
確か君は他人の煙草を好まない筈だったが…
俺ので良いなら…

しかし目が赤いぞ?
泡盛の仕業だな?
何?俺も?
そうか…はは…
いや、よそう。この後に及んでなあ…
そう、俺達は一心同体じゃないか。
言わずとも了解の段取りだ。

“嘘つけ”

“嘘”だって?そうかもな…“貴様ら”に言われるのならそれも已むない。しかし“貴様ら”だって…

俺を置いて行ったじゃないか?

“嘘つけ”

そう、そうだったな…何であの連中は俺達に“嘘”をついたんだろうな?

だが命が惜しい、とかそんな物じゃなかったぞ…

なあ、“貴様ら”よ。他でもない“貴様ら”よ。いっつもいっつも俺の身体に縋り付いて離れない“貴様ら”よ。“貴様ら”、どうしていっつも笑顔なんだ?どうしていっつもあの年代の男子そのものの表情なんだ?

そう、俺も“貴様ら”と良く戯れあっていたなあ…

なあ、“貴様ら”よ。俺がこんなにも“貴様ら”に申し訳なく思っているのに、何故“貴様ら”は笑ってるんだ?

“嘘吐き”

そうか…俺は多大な嘘吐きだな。そうそう、済まないな。俺は“貴様ら”の齢を倍程通り越して今ここにこうしている。大分、狡くなった。そう…

俺達に国家を背負わせた者共と同じう歳を踏み、高みに鎮座して指揮棒を振るっている

“嘘吐き”

そうだな。そうだな。俺は嘘吐きだな。済まないな。でも何故?いや、これは俺の勝手な想いだが、何故“貴様ら”は俺の事を

許してくれているんだ?

いつも、だ…こう問い掛ければ返事がない。
そして“貴様ら”は静かに微笑んで俺を見ている。

俺を許してくれている、それに応答なくば、俺は…

許されている

“貴様ら”に?

もう“貴様ら”は帰って来なかった…

帰って来ないか…曖昧にそう呟いては、特攻機の吹く煙の様に霧散した。そう、直ぐ次は俺だ。

帰って来ないか…そう、今なら大分良いぞ、この国は。あの巨大な蝿の王、ベルゼブブの麾下の様に喧しいあの連中も最早いないぞ。そして日々酒を嗜んではな、文学が如何にあるかを語らう。

“貴様ら”よ、“貴様ら”が飛び立った後、俺達は随分と良い思いをさせて貰っているぞ。

“嘘吐き”

そう、俺は“嘘吐き”だな…随分とな…

しかし、これは良い泡盛なんだ。中々気に入っている。

喉、舌と重たくもなく、飲み心地及び酒の後の夜も、良く眠らせてくれる。

そう…大分前にな…酷く大変な泡盛に当たったんだ。

これがな…

ん?又か…遥子、煙草…

全く幾つあっても足らない。ああ、ここにある分は気にせずやってくれ。

そうそう。泡盛の話だったな…君は好きか?俺は正直な話、そこまで好まない。ただな…この今、少しの、ほんの少しでいいんだ、少しな…しかし、何の躊躇いなく飲める様になったものだ。

そう…あの泡盛はな…甕に入っていて…これが凄い味がしてな…まあ、杯は普段通りの調子で飲んでいたんだが…後の始末が悪かった!はっは!なあ君!悪い酒に当たった事はあるか?はは、それもあれは相当の等級の物だった…それなのにな…はは…

それが酷い海岸にある洞穴に入り込む様な、そんな後の酔いだった…君、本当にずっと気分が悪かったんだぜ?信じられるか?この俺が。はは…大層な代物の酒なのに…まるでベルゼブブの一党にでも盛られた様な…

あの泡盛…そうだな…

靄の掛かった頭脳の中の林を進み、次第に思い出して来た。いやな…君、最近は兎角、思い出すって奴をしたくないんだ…ん?そうか…判ってくれるか…有難う。

そうだな…いつから思い固め始めたのか…今に臨んで、やる方なくなるな。それを思い出そうとする女々しさよ。なあ?君…まるで太宰の下手くそな感傷主義、とでも形容付すべきか?はっは…この後に臨んで“太宰治”か…あの頃はな、君。奴も奴で大した存在でなあ…

何か無性に懐かしい…

そんな事はどうでもいい…しかし止め処無く湧くもんだな…岩から滲み出る湧き水の様だ。

幼いも成人もない
思い思いは各人各様
そう、それは何処の誰に揶揄されたってなあ…君

しかしあの泡盛、酷かったんだぞ?そして、そうだな…もしかしたらあの時に決意を本気にしたかも知れん。何か、君、事の発端なんて、後の奴等がほじくって各人各様で勝手な屁理屈当て嵌めてなあ…何が文学だ、何が芸術だよな…そして何が、この俺が愛して止まない作家は“レイモン・ラディゲ”だ。勝手な事言いやがってなあ…ふふふ、それもまあ塩砂糖、この俺の存在がそんなに楽しいならなあ…はっは

そう…まるで洞窟の中で嘔吐している様だった。はっは、この俺がだぞ?戻してしまった。一頻り戻しては、寝床に戻る、だがその古来の禁忌の洞窟内の様な禍々しさ、そうだな…何かまるで東亜細亜の何処かの集落、原住民の祭典の催しにでも出て来そうな、妖などを空想してな、いや空想なんぞというものではなかった!いや、判るだろう?君!嘔吐している最中のあの苦しみは…んん⁈いや…何でもない何でもない。大丈夫だ…少し最近あるのだ。大丈夫だ…

そう…ん?そうか。そうか。うん。うん。そうか…

おい!これは下げろ!そしてもっと箱を持って来い!

ふふふ、君、見ろ。

震えてやがる…

いや…もうどうこう問い糺しはせん。せんがな…

君、今でも間に合うぞ…

うん…そうか…有難う…

頭の中にへばりついた妖がな…ああ、済まんな、止め処なく、いや、泡盛の話だ。だって…大丈夫なんだろう?もう今更ああだこうだ問い合わせんぞ…そう、話をさせろ。そう、俺個人の話を。聞きたくない、は通らんぞ。うん、許さんからな。はっは…

なあ君、俺はな、あの酷い泡盛の苦しい責苦の後酔いの最中に見えた洞穴が沖縄の島々の何処かに現実に在る事を疑っていないんだ。君、これは霊感なんぞでも何でもない。確かにその洞穴はある。そうだな…今から沖縄へでも飛ぼうか?ん?んんっ‼︎

………

大丈夫、大丈夫だ。

んんっ⁈んんっ…

目が霞むな。吸う息もな…近頃細くなった…何っ⁈煩い!…フーッ…少し落ち着いた。

しかし止め処ない。思いが止め処ないのだ…君、勘弁してくれ。ただ、話させてくれ。うん…有難う。

君、俺の『潮騒』は?読んだか?

………

有難う。そうか…

そう…あの島に…行った時だった…

俺は何を思ってあれを書いたのだろう?ふふふ、いや、済まん。しかし、ふふふ…んーっ⁈…うん!うん!大丈夫だ!君、聞けよ!その島だった…済まん、話が飛び飛びだな…うん…この話は初めてするぞ、他人に。俺はビーチに佇んで、何とも清々しい海風に当たりながらな…美しく清らかな若い男女の戯れなどに…するとな…

又だ…いや…初めてか?いや…

目にも鮮やかな日差しと海の光、巻き寄せる波…

ああ…“貴様ら”…

骸が波に絡まって流れて来た

一体や二体じゃないんだぞ⁈

皆、飛び立って行った者達…

いや‼︎違う‼︎

海兵、空兵、以下全員‼︎

この四海、この島を囲む海一帯に散った、無惨に五体の千切れた、腐った、ただ‼︎

我が大日本帝国の軍服だけは纏わり付いててだな‼︎

貴様、よっく聞け‼︎海藻だまた海中の塵屑に混じった、俺達国家の美しい設えが‼︎そしてそれをかつて纏っていた丈夫は魚という魚に屠られて…

貴様!何が青春だ!何が芸術だ!何が…

文学だ…

君…これが俺の『潮騒』の真実、本当の所だ。俺はな、君。生涯一度も美しい小説など書けなかったぞ…いや、本当の所だ。何故?何故?って顔してやがるな…君よ、俺に美しい小説を書かせるにはこの国家と幽体離脱しきった後の、何だか先の大戦の事など古の伝説と成り切った所で初めて物せるのかも知れない。

だから君よ‼︎

俺の『豊穣の海』は飽くまで俺個人の願望なんだ!それこそ俺達、魂の胚珠まで米国に屠られ尽くした、俺達世代のとろんと甘いフルーツの仰山乗ったカクテルの様な、自己喪失の後に辿り着いた飽食と繁栄と悪徳の結果なんだ!詰まり?詰まり⁈判らんか⁈詰まりは、死んでは自分の都合で調子良く蘇って又飽食と繁栄と悪徳を貪り齧りそれでも飽き足らぬ、と。永遠に私欲を満足せんとする…

ああ、“貴様ら”よ…俺は生き残って、“貴様ら”の想像の付かない程の悪徳を重ねたんだぞ…

ん?いや…ちょっとな…うん…良い光だ。そして刀身の色具合の奥深さよ…ん…フーッ…ふふふ、君、手始めに君の胴体でも真一文字にぶった斬って見せようか?ハッハッハッ!いかんな…ほろ酔いだろうと、飲んだ身で刀を抜くのはな…うん…

彼方か…何か遠い…遠く感じる…彼方か?あの者達がいるのは?ハッハッハッ!あのなあ、君。兵舎ってのは楽しいもんだぞ。ああ、知ってるか…そうか…そうだなあ…君、俺はな…よく虐められた。よく虐められたもんだ…それも上官ではなく。輩からだ…こんな事、初めて喋るな…泡盛のせいか?しかしあの甕に入っていた泡盛…奇妙だな…あれを頂いた後…そうだ…君は特攻隊の遺筆を…いや、何でもない。今日はおかしいなあ…そうそう、俺はな、君、よっく虐められた、虐められたんだ。

上官はな、俺を殴らないんだ。ビンタもな。全くせん。それを面白くなく思っていた連中が俺を目に付けて、事ある事にな…君…済まん…悔しいな、涙なんぞ!くそっ!いや、虐められた辛さを思い出してのものなんかじゃないぞ…判ってくれてるな…本当に有難う。やはり、君。一緒に死ねる友、とは…何を言わずとも通ずるものなんだな…あの時以来か…

煙草が足らんなあ‼︎ふっふ‼︎うん、それでなあ、俺はな、君。今のこの身から思い出せば、奴等の事に何の恨みも湧かんのだ。いや、そりゃあ陰湿だったぞ!だがな…いやな…殆ど倫理もへったくれもない酷い所業でな…恨みなど…何という逆説か…俺は今、連中一人一人を愛して止まない。俺にしてきやがった事が反転して俺の内で連中への愛に変換する。

そして連中よりもっと更に上の先輩達…へと…

全てが俺を過去への、未だ見た事のない過去の先輩達へと

愛が逆流する

それは満蒙で散った者

将又、広島及び長崎で原子爆弾に焼却された者

焼夷弾…

更には…

半島に進軍してその地で果てた者…

又は、明治の御一新で散った者…

遡る、この身に流れる血が

君、死とは?何だか俺達の紙上に書かれた凡ゆる記録は、何だ、全てが“死”じゃないか!

ハッハッハッ…

俺達は死んだら土に還るのではなく、将又墓石の下に入るでもなく、“記録”になるのだ。

それを後世の筆の賢しい輩が彩色施し自分の利得とするだけじゃないか。

“死”を恐れる、何物もない
それだけの事だ

何ぃ?違う?何が違う!言ってみろ!何?うん…うん…そうか。そうか。『葉隠』か…そうだな!うん。うん。そうか…俺はな、君。本当はだな、古典に寄る何物をもな、信を置く事軽いぞ。ハッハッハッ!そう吠えるな!判った!判った!ハッハッハッ!何だか今宵は実に楽しいなあ!ハッハッハッ!ん…

“七生報国”か…

“貴様ら”よ…もうほんの一時、もう少しだけ待っていてくれ。

所で君…基督の事などどう思う?ハッハッハッ!そうかそうか。悪かったな。それはそれだ。ただ君、今暫く堪忍してだな、その君が憎きこの欧米のイコンをだな…改めて、どう思う?

俺はな…

あっちだよな、市ヶ谷は…

何だか今、俺は磔刑にされる前夜の基督の様な…

そして今、強く…

“基督”を書いてみたい

そう強く感じるぞ

又か…臆病風なのか何なのか…

しかし、今の俺は俺のこれまでの人生の内で最も臆病でない、と言い切れるぞ。君はどうだ?怖がってもいいんだぞ、そして…今この場から、逃げ去ってしまっても…俺は追わん。そして我が麾下の者にも厳命して置く。約束するぞ。うん。君は今、逃げてもいい。

そう…“基督”だな…“基督”と“仏陀”、何が違うか言ってみろ。ん?うん…うん…そうだな。そう…そう…そうだな。しかし君、何だか一方に偏っているな…

偏っている?

俺達は…何だか随分と偏って…一方向に…そして何だか俺達に眉顰める連中に満足がいかない。なあ?そうだろう?だって俺達は嘗て

一致団結して亜米利加に立ち向かっていたじゃないか…

俺達は、俺達の輩の手を離してしまった…

それは何時迄もずっと、繋いでいなければならない手だった筈だろう?

俺達は何かの代償に、手を離してしまった…

“負けっぷりをよくする”

何がだ?トンチキ親父。

“国民の所得の倍増を…”

唐変木め、下がれ。

万事、半島の変事に乗っかった薄情者共め。

嘗て石原先生が仰ったぞ。

『何を油、資源を求めての進軍か⁈』

本当に強い軍とはな、君。利を求めての挙兵に在らず…

本当に強い人間というのはな、君。

明日磔刑にされんとも、恐れず心の矜持に従い歩を進める者ぞ。

ソクラテスがな…

アキレスがアキレス足り得る所以は、自らに下った神からの宣託に恐れ迷いなく進軍したからだ、と。

俺達は、ああ、今アキレス足らん。基督足らん。そう、俺達の志がな…んん…

“七生報国”

何だかこの旗、眩しいぐらいだな。不思議だ。はっは…もう少し、飲むか?おい、遥子…頼む…

ん…そうだな…もっともっと語りたいな…そして何でこんなに楽しいんだろうなあ。

自衛隊、だって?

ハッハッハッ!

自民党、だって?

ハッハッハッ!

どうかしてるよな?
ハッハッハッ!

お前らには理屈があるのか?
理屈を考える能力すらないのか?
お前らは一体、この列島に旗立てる何の

“大義”あらんか?

亜米利加を目の敵にしている俺達の方がよっぽど“亜米利加”的だよな!

左の連中が若人の心を真っ赤に染め上げて。
ただそれでいてマルクスの何たるかをまるで判ってやしない。そして…

真の意味で“マルクス”であるのは俺なんだ。

まるで…まるで判っちゃいない。

祭り、か…
戦争ってな…戦争ってな…何だかお祭りみたいだった…よく判らない民衆的な大衆的な動乱の中で、皆んな浮かれ騒いで笑って泣いて歌って踊って、気づいたら老いも若きも皆、命も財産も何にもなくなっていてな…

おい!君!
俺はまだまだ基督もマルクスも語れるぞ!
俺の命が今、語りたい情熱が、この一晩では足りないぐらいに燃え盛っているぞ!

朝が。夜が。

朝だか夜だか…

そう…目を瞑れば、俺達は朝夜となく脅かされてな…

始終、サイレンだ。

そして何だか機械的な迄に…

実に自動的に…

ああ、又…

なあ!君!俺はな、今生の別れの際にな、母様に御馳走をして貰ったんだ!俺の最後、かと思われた、今生の別れ…

母様、何であの時…いつもの母様じゃなかった…

母様が、俺の生きている間で最も“母様”に見えた…

女々しいな…済まん。だが語らせてくれよ!

俺が最も求めていた“母様”が、その別れの時にいた。

その手は優しく温かく柔らかく、その手から作り出された…

何だったと思う?母様の手料理は?

はははははは…

ずっと俺に触りもしなかった母がだぞ?

そして御婆様…

何故だろう?ずっと俺を支配し続けていた…

御婆様…

君、どうやら本当に強いのは女の様だな。

君、大日本帝国の為に殉じた国民は計り知れない。だがな、全て、戦地へ立った丈夫よりも遥かに遥かに女の方が偉いぞ。そして、焼かれた…

君、何故俺だけ生き残っているんだ?

教えてくれよ、なあ。

だから俺はそう!試しに行くぞ!

ああ…貴様ら…俺を許すのを止めてくれ!

寧ろ俺に渾身の力を持って鞭を打て!

何故許してくれるんだ?

何故、そんなに貴様らは…

優しいんだ?

他でもない、卑怯者のこの俺に…

…君、モーツァルトは聴くか?

ん?それは悪かった!悪かった!しかし聞けよ!冷静にな!君だって聴いた事はあるだろう?いいから黙って聞けよ!はっはっは!

モーツァルトの『レクイエム』は聴いた事があるか?

この期に及んでモーツァルトだと?って顔しやがって!

いいか!今、正に俺の心はモーツァルトの『レクイエム』だ!いいや!俺には、そう、俺のこの“三島由紀夫”にはモーツァルトの『レクイエム』こそ相応しい。

死の誘い、天使の呼び声が掛かる

そして彼の人は、迫る“死”から逃惑う

死の誘いを振り解く様に絢爛な音の重奏が

それが無上に楽しく、快く

…そろそろか?

いや、まだもう少し…

君。モーツァルトは聴かないのか?中々良いぞ。ああ、断言する。しかし、この後に及んで良いも何もないよなあ。君。だが今の俺の心には、耳には、そして想起する一切の全ては…これから起こる事から、年少時代、青年期、そしてそこから今日に至る日々…全てモーツァルトの楽曲で当てがえられそうだ。なあ、君。かつて荷風がな、洋を渡った先の欧州には何故?何故我々の心に合致する音楽があるのか?と…大きな世話焼きやがってなあ…貴様、この島に生を受けて、己の先達が作り上げた物を

知ろうともせず
探ろうともせず
日々、己の都合の良い物と人々に囲まれて
文化と芸術を語る

そしてこれは俺のポートレートでもある。

君、一体全体、“三島由紀夫”とは何者なんだ?

君は他人であるから、俺が一体他者から見たら、どんな“三島由紀夫”として映っているのか教えてくれよ。

そして、“三島由紀夫”を体現している俺は、実はもう“三島由紀夫”に…

飽き飽きしている。

まだ早い。早いぞ。はやる気持ちは判るがな。まだだぞ。

さあ、答えろ。一体全体、“三島由紀夫”とは何者だ?

俺の質問に答えろ。

答えんか?答えられんのか?ではな、俺の、俺なりの答えを開陳してやるか。

“三島由紀夫”とは…

或る一人の、過去から転生した霊的日本人である。

その“三島由紀夫”の前世は、何だったのか?

それはどうやら極めて貧しい、身分の卑しい者だった。

それはどうやら生活の困窮と絶望の中、ただただ生まれて死んだらしい。

時代はいつ?これがな、君。はっきり選別出来んのだ。そして当たり前なのだ。いいか、君。よく聞けよ。大体、生まれの環境で、教育云々、何もまともに学習を受けてなくば、自分が何処の国に生まれて何を目的に息を吸っては物を食ってるのか判らんぞ。我々は生を受け、学び、働き生きているが、ただ盲目的に生まれて生を営んで死ぬるに、意味を見出す所以や如何に?俺も君も幸いなのか不幸なのか、兎にも角にも“学び”を受けた。

誰に⁈

君、それでな、その前世の俺は…いや?前世の“三島由紀夫”はその魯鈍とした人生の最後に願った、強く願った。

来世は、この上なく身分の高貴な、人品の気高い丈夫として生を受けたい、と。

そして、この前世の男は、実は彼一人だけではない。

いつの時代、どの場所、凡ゆる時間上に存在した、己が何処の誰だかも判らん存在共の願いが…

君、夜空の無数の星の数よりも遥かに多い人間共の魂が、時と場所を問わず、昭和の、今上の帝の即位と共に凝縮されて去る家の赤子の脳内に憑依した。

君、“三島由紀夫”とは?

“三島由紀夫”とはな、世界の凡ゆる文献をその手元に寄せ集めて、其の思う所を世界に発信出来る一個の“天才”なのだ。そして今、“三島由紀夫”は…

一個の滅亡した“国家”を甦らせようとしている。

君、これは“三島由紀夫”にしか成し得んのだ。俺の、いや“三島由紀夫”の莫大な知識と輝ける理想と共に命を賭ける勇気は、あるのか?

今更だな…ふふふ、済まんな。戯言だ。

おい!君!文学とはかくも楽しいぞ!かくも命を捧げ得る、気高い代物ぞ!そして、笑え!君!はっはっは!俺はな!君!

彼処へ行って、何がどんな始末になるのかの結末迄しっかりと書き切っている。

それがどんなに情け無い結果になるかなど、百も万も承知だ。

俺が周旋した。この数年間。

それは常にこの情け無く終わらんであろう一つの劇中劇に、何を見て何を宣うか…

市ヶ谷に居る連中?判っているさ。
あれは、あれらは皆“三島由紀夫”の生まれる前に幾千も嘗て生きていた“三島由紀夫”の前世だ。

市ヶ谷に居る連中?ああ、あれらは毛頭、軍人ではない。おう、毛先程もな。だが俺は奴等を糾弾せん。

そして、誰が悪で誰が正しいのかも問わん。

全て、“三島由紀夫”の前世。
全て、“三島由紀夫”を求めて止まない人間共。
そして全てが、“三島由紀夫”の仇。
“三島由紀夫”は己の思想、志の為に立ち、君らは“三島由紀夫”に殉じる。

おう!支度が出来たか⁈
貴様ら!今が其の時だ!
我等、“三島由紀夫”以下、全て集結し一丸の火の玉と成りて眠れるこの国の全ての“三島由紀夫”の前世共に長き怠惰極まる春眠に閉じた眼をこじ開けんべくして意志を決行する!七生報国!我々の死は、一度の死を持って終わらぬ永遠の魂だ!この魂は、この国の続く限り、救国、憂国の志を内に蓄えた後世の魂共の生に甦る!信じて、疑うな!我々は永遠だ!そして、我等こそ日本男子だ!皇居を向けっ‼︎万歳!万歳!万歳!

“そうですよね!御婆様!公威は行って参ります!母の愛に、一時でも怯んだ公威をお赦し下さい!公威は今、本当の丈夫となって、生温くなったこの『日本』という国に、物申して来ます!”

二、 ”心中物”



おう、済まんな。さて…出してくれ。

“とうとうだな、市ヶ谷へ…”

おう、やけに静かだな。何だ、歌でも歌い出す豪傑はいないのか?はっはっは、では俺が歌おうか?

ふっふっふ…

何だろうな…不思議と笑いが込み上げてくるぞ。君らは?そうでもなさそうだな。それはそうか。ふっふっふ、いや気にするな。

ウーンッ!ちょっと停めてくれ!

…又だ、目が霞む。おい!これは臆病風ではないからなっ!少し安静にさせてくれ。うーん…いや…君、煙草をくれまいか?うん、君のが良い。うん…有難う…うーん…フーッ…うん…大丈夫だ。少し落ち着いた。

む?何か奇妙だな…

おい、ここはこんなに見晴らしが良かったか?

見晴らしが良い、というよりは…

おかしいな…

君…

うん、そうだよな、そうだよな…

何だ?何かが見せるのか?

いや、此方の事だ。

段取りの方は…そうだな。言わずもがな、か…

しかしおかしいな、この光景は。

おい…あの子供達…

奇妙だな…

何だと言うのだろう?

車を出してくれ。何かの気の迷い…

済まん。この後に及んで…

俺にすら迷いが生じるのか?

それを君らに見せてしまった事、死んだ後でも今この時を悔いるぞ。もう一言、謝らせてくれ。済まん。

七生報国の旗を見せてくれ…

そう、あ、有難う。

“七生報国”…

んっ⁈何だ⁈あれは‼︎

んっ⁈曲がった。おい!今のが見えなかったか?あれはお前…

“貴様ら”…

皆、笑っておったな…十人はいたか…しかし今日の目の具合は最悪だな…黎明に煽った泡盛のせいか?くそっ!何故この大事を為す前に酒など身体に入れたのだ?迂闊だ、この俺としたか事が…

あ…おい、君…泡盛の話、まだ中途だったな…そう、酷い泡盛でなあ…

停めろ。

時間はまだある。

君ら、末期の話だ。一聴しろよ。

あの大層な甕に入った泡盛はな…

どうも嫌な事を又異なる化物の様に変化させて飲んだ者に呼び起こさせる様だ。

だったとしたら、俺達のこの行動こそその泡盛と同義足らん。

俺達はそう…悪い酒。この国にとってのな。
しかし、これはこの上ない美酒でもある

東亜の一戦の後、我々は悪夢という悪夢を甕に封じ込め、それを何処か知らずの洞穴へと運び去った。

いや、知っているだろう?

知っているだろう?

そして、知っている癖に、何をどう操作してこうなった?俺のこの幾年、全てはこれに向かって運んでいた。

それでいて俺はこれが何か性質の悪い冗談とし…

それでいて俺はこれが何か誰の目にも明らかな真実とし…

平行が…

翼を直せ!
機体、右翼を上げよ!
落ちる前に撃て!

何が平行か?何の為の平行か?
この平行が正しくも平行ならば俺達のこの決意は?

有無…
彼処に笑って此方を見てる児童共が見えぬか?
そうか…見えないか…
ふっふっふ…


“やめておけ”

誰だ?何か言ったか?

“やめておけ”

ふっふっふ…

何だ?君ら。いつの間に着替えた?それは特攻服だろう?違うじゃないか。設えが…何故俺の言った通りにしない?

いや…独り言だ…霞む目にそう見えた。

しかし何故だ⁈ああっ‼︎芥川の『歯車』が脳裏に浮かぶ。俺はあいつの物が好きじゃないんだ…書く事も幼稚で、何が鋭利な知的観察眼だ。聞いて呆れる。大体、あいつの持って来る話の出本なんか一発で判るんだ。はっはっは‼︎なあ?君!この日本国、何が明治の御一新後きっての戯作者だ!何が“新思潮派”だ!はっはっは‼︎

あいつの場合は“歯車”だったのか…

俺の場合、“特攻服を纏った少年兵”達か。

どうにも不安定だ。身体の具合が思わしくない。

“それは都合の良い理由だな”

“やめておけ”

“『三島由紀夫』大先生!”

“私の作品を見て下さい!”

“どうしたら先生の様に成れるのですか⁈”

“先生の作品は有史始まって以来の史上の芸術です!”

“先生!次回作は…”

“先生の小説で大変救われました!”

“先生!海外の報道機関からお誘いが!”

“先生!是非私達の所へ!市民一同心よりお待ち申し上げます!”

“先生!先生!先生!先生!先生!先生!先生!”


煩いっ‼︎



済まん、ちょっとな…気にせんでくれ…何だ?まだ停まっているのか…ああ…だがもう一時待ってくれ。

おい、俺が躊躇しているなんて思ってくれるなよな。

文学的雑念がな…纏わりつきやがってだな…おい…女々しいか?しかし一つ君ら、他でもない君らに尋ねたい。

君らの好きな俺の物は何だ?

『葉隠入門』!
『憂国』!
『我が友ヒトラー』!
『英霊の聲』!

…おうおうおう!出るな!はっは!そうか…そうか…

そうか…

欲しがる子らは…

戦前も戦後も同じかな…

出征する前の青年を取り囲む子らも

米兵に甘菓子をねだり取り囲む子らも

同じかな…

俺の小説は

甘いか?怖いか?燃えるか?泣けるか?
正義か?悪か?訓示か?禁忌か?

欲しがるな…未だ
欲しがったな…この俺の描く人間ドラマを

お前達は本当に欲しがった、求めた
俺達、残された国民は何がと言って激しく求めた
何でもそうだった…
男も女も求め合った
金も富も求めた
一国上げて、一人一人が互いに求め合った

そしてその渇望がどこまでどこまで続くか、と思いきや…

俺達はやけに疲れているじゃないか?
俺達の子らは?
何だかやけに覇気がないじゃないか
俺達自身も何だかやけにしなだれているじゃないか

俺達は本能の求める所に“国家”が決定的に欠如していたのだ

…君ら、何て綺麗な目で俺を見やがるんだ

やめてくれ

“やめておけ”

なあ、君ら。作家にとっての無上の喜びとはな

自分の作品を愛している、と童心のままに告白してくれた時なのだ

童心でなければ如何ぞ!
そう、真心のままでなくばな…

もう一つだ、美しい瞳の君らよ
君らの目が闇雲に隠される前に

この公威が最も愛する“三島由紀夫”の作品は何だ?
言ってみろ。


おい、何故黙る。何故黙るんだ!言わんか?はっはっは!そうか…そうか…そうだなぁ…俺が最も愛する俺の作品は…

ん…

何だろうな…この景色も…いつかの景色じゃないか…

寒いな、おい…

寒いな…寒いな…

母様…公威は寒う御座います。
温めては貰えませぬか?
御婆様のお近くはもう嫌で御座います。
母様のお側に…
公威はお母様の側に居とう御座います。

何だ…閲兵か…?
其処へ向かうにはまだ早よ御座いますぞ…

悲壮に俯いて…

しかし一同、何という美しい設えなんだろう?

皆様は其処へ…

何という美しい顔を為さって…

今、それは為すべき事ですか?

そうです、ええ、そうです…

私、畢竟のいち戯作家の為す物は
とても貴方方の佇まいの美しさには及ばない

何という美しい心だった事か?

死を望む丈夫の顔とは…

君、俺の顔は美しいか?
おう、今だ
今の俺の顔だ
目だ
それは君の目に、美しく映っているだろうか?

御母様、公威はもう本当に嫌で御座います
御婆様の御心に御従いしているのが嫌で御座います
御母様の御手手をずっとずっと握っていとう御座います

あの方々…勤しむな…

待て!待て!
俺はな!今、事を起こした貴方方よりも上又は同い齢と達し、貴方方と同い道を又履行しようとしているが、貴方方は待たれるがいい!それがどの様な道なのか…

貴方方は判っておられる筈だ…

季節は如月か…
俺はこの霜月を季節に選んだ

貴方方は判って居られた
故に事を起こした
貴方方の志には露程も及ばないが…
なあ!君!俺の目は今、美しいか⁈

ここに留まって
通り行くあの方々が
この若干名の俺達を通り過ぎて行く
あの真の意味での軍神達を
その背中をただ呆けて口を開け見ている

俺は追いかけているのだろうか?
そうかもな…
俺は追いかけている
君らも…同じ心だろう?
よもや“三島由紀夫”を追いかけいる訳ではあるまいな!
だとしたら噴飯物だぞ!はっはっは!

“三島由紀夫”か…
随分と共に歩んだ“三島由紀夫”だったな…

これはもしかしたら御婆様が公威に作った幻だったのか…

だとしたら、御婆様、これは公威には重過ぎる妖で御座いました…

こんな弱音を吐く公威を、貴方はいつも厳しうお叱りして…

公威はいつも辛う御座いました…

けれども御婆様!公威には何よりもそれが大事でした!

そうですとも!公威は決して弱い男の子でありたくありませんでした!故に、矢張り、御婆様は公威にとって永遠に御美しうあります…

俺から御母様を奪った至上の女丈夫、女神様

俺が最も愛する俺の作品?
判らんか?
はっはっは!
俺のたっぷり引いた紅と塗り込めた白粉の字面の上の女達、彼女らは全て俺の最高傑作だ!
触ってみたいと思っただろう?
その呼吸を感じただろう?
そして共に快楽の果てへと昇り詰めたいと思っただろう?

俺達、戦の後に残された塵芥の様な男達に無限に欲情を催させる色香の生産に励んだ、それが“三島由紀夫”だ!

はっはっは!再び最良の丈夫が生まれる事を願ってだな!つまり俺こそ、そして三島由紀夫の作品こそが“七生報国”なのだ!


出せ

急くぞ

おう

あの方々の後を追え

何?見えぬ?

だったら君は来るな

何?いや、構わん

来るなら来ればいい

そう…段取りは…いや…この後に及んでな…

君ら、北先生の書物は…

うん、そうかそうか…

今の君らには『葉隠』しか要らんか…

それも良い…

皆…もし俺と共に明日を賭けるなら…

そんなな…日輪の昇った丘に佇む瓊瓊杵尊の様な…

陛下…貴方は…

何故あんなにも美しい志を持った方々に御怒りの情を持たれたのですか?

私にはそれが未だに信じられませぬ

陛下、彼の方々は誠に持って美しい心のみで
民を思い
国を思い
陛下を御思いになられてました

私にはそれが未だに信じられませぬ

貴方を汚すもの
国を汚すもの
民を汚すもの
これら全てに怒りを持って
やる方なき思い
その純粋な心のみで
意を御決して
事を為されました

何故に純粋な心というものは
本尊から拒絶されるのでしょうか?
彼の方々の思いは純粋、そのものでした
陛下、貴方の側で貴方を本当に御思いになられておられる側の者が一体、幾人居られるのか?

陛下、私は蘇りました
貴方を御救いする為
又は国を御救いする為
将又、民を救う為

私の心は今、燃えております
“七生報国”
今、私の内に彼の方々が蘇りまして御座います
もう私を

止める事は出来ませぬ

“嘘を吐け”

何?誰だ?

“嘘を吐け、と言っている”

誰だ?この…

“嘘吐き”

誰だっ⁈この野朗‼︎この俺に対して嘘吹きだと⁈一体何と心得る‼︎俺はなぁ‼︎

三島由紀夫だぞ!
天下の大作家様、三島由紀夫だ‼︎
その俺に対して、何をほざきやがる‼︎

この三島由紀夫が命を賭けると言っているんだ‼︎
この言葉、言行に何の嘘偽りがある⁈

“又逃げるんだろう?”
“貴様だけ特別扱いだもんなあ”
“俺達がどれだけの痛みを味わったか”
“何が七生報国だ、生き残った癖に”

生き残って
俺は至福の時を味わった
もう今や世界が俺を国を代表する作家だと認めている
日本国中の民草が
俺を先生、先生と慕い
俺の書く作品を心待ちにしている
俺は作家として幸福だった
だが平岡公威としては何ら幸福でもなかった

“嘘吐け”

誰だ誰だ⁈
俺を迷わせるのは?
それでいて俺を奈落に引導しようとする奴は?
俺はな、絶対生き残るんだ!
生き残る為なら何の手段も選ばんぞ!

決起せよっ‼︎

俺と共に国を守らんか⁈

君達、何の為の軍職者だ⁈

今こそ俺と共に立てっ‼︎

誠に持って美しい心とは…

…何?もう着いたのか?

何?暫く、俺は何をか言っていたか?
何を見ている?
そんな美しい目で…

君らはこんな公威に…
奈落の底まで追従してくれると言うのか?


さあて、行くか…
此処だ、此処
腑抜けどもの巣窟は
おう、貴様。何をびくびくしておる?
何?それはない?
おう、その言葉が本当であろうとも嘘であろうとも

ふっふっふ…行くぞ

「ああ、三島だ

ああ、んん、そうだ、そうだ…そう…

“何?はっはっは!そうか!そうか!はっはっは!

そうだろう?そう、そう…ん?そう、こいつらはな…ん?そう、そう…是非な、長官殿にな…ん?ほう…お目が高い。見てみますか?はっはっは!いや、気にせず、気にせず…そう…はっは…そうですか?ならば…しかし、うん…大分寒くなって…はっはっは…職務の方は?はあ…はあ…ん、成る程。しかし我々戯作家という者は、何ですな!ぐうたら、ぐうたら、と。寒さから逃げ、ぬくぬくと…紙に絵空事を記し…何っ⁈はっはっは!どうもそれは…いや!はっはっは!有難い有難い。はっはっは!」

(何が“有難い”だ)

「では失礼」

………

貴様ら、最後の質問だ
よっく聞け
一瞬しかない、ないからな

果たして貴様らにとってこの“日本”とは何だ?

“………!”
“………!”
“………!”
“………!”

そうか、判った
では、俺から
この俺にとっての“日本”とはな
“俺”だ
つまり、“三島由紀夫”だ
そして、“平岡公威”でもある
“日本人”とは?
“三島由紀夫”及び“平岡公威”にとっての親御であり友であり子であり惚れ狂った女でもある

なあ?諸君よ、“貴様ら”よ!
俺にとっての其れ等の為の行動に何を惑う事がある
この“日本”とは俺の“家”だ
俺と俺の愛する人々と俺の住まう家を護る事の一体何が悪い?

狂気だと?

気狂い沙汰?

“亜米利加”の混ざったこの“家”と“俺自身”のどこが正常だ!

諸君、純粋たろう、本物になろう、真実になろう
俺達は、そう…美しくなろう

美しくなろう…

君…

この扉だなぁ…

この幾年…

遂に此処に…

「長官殿!」

(入るぞ…何だ?俺の顔に何か付いているか?薄ら笑いはやめろ!はっは!)

“公威君の嘘吐き!”
“公威さんの嘘吐き!”
“公威!嘘をお吐きになるのはやめなさい!”

何をだと?
はっはっは…

「入室致しますぞ!

はっはっは!いやあ、どうも!

“三島”です!」

“公威君の嘘吐き!”
“公威さんの嘘吐き!”
“公威!嘘をお吐きになるのはやめなさい!”

「いやあ!はっはっは!御無沙汰致しております!

はっはっは!

そう?では…ん?彼等?そう…長官殿、実はですな…そう、そう…では一名ずつ…うん…うん…うん…うん…

そう、彼等を大いに讃えてやって欲しい!
そう、有難う御座います…
彼等はそう…

(ん?目が…こいつらがぼんやりと英霊の写し身に…)

私があの世へ行った際にも
引き連れて行きたい輩でありまして…

しかし…長官殿、最近は…
我らの国家というのは…
全く変貌してしまいましたなぁ…
いえ、これは長官殿への当て擦りではありませんぞ
しかし、信じるに耐え難い近年の…」

(耐え難きを…耐え)

「…ん?これですか?んんむ…見ますか?そうですか…おい…

中々で御座いましょう?」

“赤と白
俺の血はべっとりと濃いが
白粉の様に甘い”

“トリスタン…イゾルテ…
あんな風に死にたいものだ…”

“この抜き身を見ると、人を斬ってみたくなる”

「…そうですか…もう?結構か?…おい…」


「ん?何ですか?ん?やめたまえ、やめたまえ。何だ?おいっ!これは…ん?三島さん!何ですか?これは?やめさせて下さい!どうしたんですか?おいっ!ちょっとやめんか!やめろ!三島さんっ!ん?」

“三島さん…?”


教えてたき義、此れ在り
畢竟!聞き入れたき義、我に在り
もののふの端くれぢゃが
その弛んだ脂身見るにつけ
何と悔しや悔しや!
何処へ行ったのぢゃ
美しき心意気
忘れてもうたか
さむらひの心を
嘗てその手に広げていたぢゃないか
美しく散ろうといふ書物を
はづかしめ受けんをヨシとせず
我等の輩は
腹掻っ捌いて
鬼畜が船に飛び込み
泣く子ら抱いて断崖を飛び降りたぢゃないか
いざ、そのガサと目ヤニの付いた目を
掻っ切ったらん!

「おい!何してる!」

「んん?おうっ‼︎」


………斬れた
何だ、斬れるぢゃないか
そう、この日の為に鍛え抜いたこの体躯
この太刀下ろす為
占領国の惰眠断つが為
国の災いたる遍く邪気を払う為

斬った

虚空に跳ねたくれなひの
啜り、舐めずりたくぞもふ、この孫六を

何たる快さよ
人を斬った
人を斬った
血湧き肉踊る
もともともと斬らせろ、人を斬らせろ
俺は今、もともともと人を斬ってみたひ
人を斬る為に作ったこの身体

“やめろ!”
“ウワッ!ウワッ!”
“下がれ!”
“長官殿には手を出さん!”
“何を言ってるんだ!”

おうおうおう
騒がしひの
何を騒ひでおるのぢゃ
筋書きそのまま運べばええのぢゃ
儂は夜叉

おうぅぅぅぅぅ…

しおさひ聴こゆ
飛び立つ機体の風に運ばれ

ばくだんがそらからふってくるのぢゃ
あめ、あまつぶ、くろいつぶ
それがすべてはれつするのぢゃ

ともがらのいのちとられてなんとする
こらのいのちとられてなんとする
おんなころされなんとする

「おいっ!貴様ら!よっっく聞け!今この市ヶ谷にいる隊員全てを集めよっ!余計な事をしてくれるなっ!長官殿の命はないぞっ!直ちにだ!集めよ!」


少し、目が良くなって来た
不思議だ
今、この時になって目からぼやけが取れて

太陽が見えないな
真上にあるからか

あいつ、震えているな
あいつも…
あいつも…
あいつも…

この長官殿、哀れだな
何が起きたのか
これから何が起こるのか
まるで判っていない

だが俺にはこれから何が起きるのか
全て判っている
俺が書いた筋書きだものな

ああ、きざはしにきた
そのさきはならくのそこへと
ぢごくへおちるのぢゃ
おう、そうぢゃ
おれはそう、おもふままにすすみて
ぢごくのかえんにやかれるのぢゃ

「まだか?」

「そうか」

しぬるまぎわ
そこまでひかれるまが
とこしえのようぢゃ

綺麗な青だな
空が
こんなに空の青とは美しかったのか?
いや、前に見た
覚えている
もう生きられないと思い込んでいたあの時と
戦争が終わった瞬間と
まだ生きて良いと悟った時の
その三つの同時間

“三島由紀夫”

おれはあるいっぴきのあやかしなのぢゃ
このよにあってこのよにいきていないのぢゃ
そのはしるふではふきつ
そのおもひいでるものはにせ

「さはがしひ」

………


「長い」

ああ…五分程の想念が永劫の様に長い。
苦痛だ。気が遠くなるくらい1秒1秒が長い。
この狂った時間感覚から抜け出したい。
だからもっともっと人を斬りたい、斬っていたい。
噴き出る、迸る、紅を。

死ぬる間際とは、華の盛りぢゃの…

まばゆいは…



ながひの…
いくこくたつた?
わしはもうまちくたびれておるぞ

ばあさま
わしはいまうつくしゅうござひますか?
ばあさまのうるはしきまなこがみへまする
このきみたけをみるおうつくしきまなこが

ぢゃがもうきみたけをはなしてはくれませぬか?
きみたけはもうくるしふござひます
きみたけは…

かあさまのおひざにいこひとふございます
なぜあなたさまはかあさまからきみたけを
とりあげてしまはれたのですか?

「おう!」

“はっ‼︎”

「まだか⁈」

“はい…”

ちっ‼︎
まだか!まだか!何というのろま共だ!この俺が“乱”を起こしているんだぞ?この“三島由紀夫”が!そしてもう既に隊士を斬っているんだぞ⁈この遅さ!緩慢さと言ったら…むかつくばかりだ!

冬に眠る熊の様だ…

熊…

熊座…

ぜふすにみそめられ
はづかしめられたうつくしきおとめは
はらにみこをみもごもり
ばつとして
“くま”にすがたをかへられたのぢゃ

うつくしきままに
みさをとおさんとしたが
だめぢゃった
うつくしきおとめが
けがらはしきけものへと
すがたをかへられて
おひたてられて
うみたもた、そだつたそのをのこにも
みとめられことなく
ころされんところを

ぜふすがてんに
あげたのぢゃ

“北斗七星”

「おうっ!」

“はっ!”

「貴様は“熊座の淡き星影”は観たか⁈」

“はっ?”

「知らんのか⁈」

“…………”

「何だ…知らんか…つまんないの」

“はっ?”

「僕、つまんない」

“はっ?お声の方が…”

「いや!それにしても、まだなのか⁈」

“はっ!まだ…”

「そうか…」


おとふさま
きみたけはあなたのことがずつとずつときらひでした
おとふさまはいつもいつもきみたけに
おやさしふござひました
それがきみたけにはずつとずつとふまんでした
おとふさまはそふ
ばあさまにもかあさまにも
みつこにもちゆきにも
そしてごこふゆふあるかたがたすべてに
いつもいつもおやさしふござひました
きみたけがわるひことをしても
まつたくおこりませんでした
あなたといふひとは

でもいつかありましたね…

あなたはきみたけのかひた
かひてきたかきものを
ぜんぶおやぶりになつてしまひました

きみたけはそのとき
あなたさまに“さつひ”をいだきました…

せひおふでは
“おひでぷすこんぷれくす”と
おつしゃるそふです
そふ…

“さつひ”…

「おい」

“はっ!”

「帝国陸軍の星は大熊座の物だろうか?牛飼座の物だろうか?」

“はっ?”

「北斗の星は落ちる事が決してない様にゼウスに施されたそうだ」

“…………”

「不幸な処女はゼウスの細君に疎まれ、そして主のアルテミスに忠節を遠そうとした心を認められず…」

“…………”

「熊に、穢らわしい獣に変えられたそうだ」

“…………”

「長官殿、聞こえますか?嘗て美しい心のみで米兵と戦いたもうた我等の先達は、汚らしい“熊”と姿を変えられてしまわれた。私には彼等が美しい、美しく思えてなりません。なりませぬが、今…北斗の星は決して落ちる事がないと施された筈でありますのに…そう北斗は…」

“…………先生”

「何だ…」

“集まりました”

「んっ⁈そうかっ!うん、話に興じて…うん、聴こえる…聴こえるぞ…」

おひ、はたをみせよ、みせたもれ

“七生報国”

ほくとのほしはをちぬものぞ

「よしっ‼︎行くぞ‼︎抜かるなよ‼︎」

“はっ‼︎”


んーっふっふっふ‼︎

うんっ‼︎

「おうっ!愈々上に上がるぞ!」

“………”

「良い面魂をしてやがる!うんっ!」

そう………

こないだとつてみたえひが………

ぼくのし
とつてもとつてもきれいなし
“とりすたんといぞるて”のよふな

「うーん………何だ?これは?貴様には聴こえるか?」

“?”

「いやっ‼︎何でもない‼︎うん、そこだな‼︎そこへ‼︎」

音楽が鳴り止まん‼︎誰か止めてくれ、この忌々しい“オペラ”を‼︎

“三文オペラ!”


………

誰だっ⁈

何だ?

貴様が開けたのか?

そのドアを…

風が…

俺も飛ぶんだ!あの空に!

いざっ‼︎

「旗を掲げよっ‼︎」


………


何だこれは………

「何だこれは?」

“⁈”

「いや…何でもない」

これは…

違う…

おいっ‼︎

「おいっ‼︎」

“はっ⁈”

………

(いかんな…もうこいつも平静の顔をしていないな…俺だけ平静なのか?しかし………)

しかし………

しかしこんなのは全く違うぞっ⁈

一体どうなってやがるんだ‼︎

おいっ‼︎

俺は“三島由紀夫”だぞっ⁈

天下の“三島由紀夫”だぞっ⁈

何だこれは⁈


“三文オペラ!”


誰だ誰だっ⁈何言いやがるっ‼︎この俺の一世一代の大舞台だぞっ‼︎


………


何だ?こいつらは?…

おいっ!まるで違うっ‼︎違う違うっ‼︎こんな…何だこれはっ⁈おいっ‼︎違うぞっ‼︎これは…これは…

「何だ、“日本”の国民じゃないか…」

何処にでもいる、普通の人々じゃないか…

どこにでもひるふつうのひとびとぢゃないか…

おひ、あのかたがたはひずこへいつた?
そふ、あのかたがたぢゃ
ふりしきるゆきのなか
こくなんがためひのちをもやしたかたがたぢゃ
どこにもみふけられぬぞよ

「おい…これはまるで違う…」

“………”

おひ、おまへ、なんだ、さつきまでは
にをうのごときひかめしきつらしよりおつたのに

何だ…普通の男じゃないか…

なにかにをびえた、かぼそひひやうじやうぢゃなひか

どうした?どうしたんだ?この後に及んで…


どうしたっ⁈どうしたんだっ⁈
これではまるで…

“この俺が何処ぞにでもいる中年男じゃないかっ‼︎”

おひっ‼︎わしはみしまゆきをだぞっ‼︎なんとこころへるっ‼︎わしは、わしは、わしはなっ‼︎

“三島由紀夫なんだぞっ‼︎”

どうした事だっ⁈

目の前にいる全て

自衛官の群れ
側の者
そして俺

(全員、俗物じゃないか…)


誰だっ‼︎そこで撮ってやがる奴はっ⁈カメラなんぞ回しやがって‼︎映画の撮影かっ⁈冗談も大概にしろっ‼︎

(何だ…撮ってるのは、“俺”じゃないか…)

そこにいるのは誰だっ⁈何を書き留めてやがるっ‼︎腹正しい奴だっ‼︎

(何だ…あれも“俺”じゃないか…何かルポルタージュでも書くのか?)

あの自衛官の群れの中で、こっちに指差してニヤニヤしながら首を傾げてるのは誰だっ⁈

(何だ…やっぱり“俺”じゃないか…舞台劇の駄目出しでもしてるのか?良い気な者だ…)


良い気な者?
何だ、それは俺の事じゃないか…
この戦後日本で最も名声を勝ち得て富の上に踏ん反り帰って食も酒も男も女も貪り尽くした徹底的な俗物が…


ここはかぜがつよひな
たひよふはまふえだ


“下がれっ‼︎下がれっ‼︎”
“何だお前らはっ‼︎”
“帰れっ‼︎帰れっ‼︎”

“三文オペラ‼︎”

誰だ?今俺を罵ったのは?俺の…この俺の一世一代の大舞台が“三文オペラ”だと?

何という情け無い目で見ているっ‼︎
うーっ‼︎いいかいいかっ‼︎
僕の作ったこの最大の歌劇はなあっ‼︎
うーっ‼︎煩いっ‼︎煩いっ‼︎
失敗だっ‼︎失敗だっ‼︎

これはしつぱひぢゃ‼︎


軍服に身を包んだ数名の俗物が
市ヶ谷で喚き立て

しつぱひ?
ならばそれもよし…

「いいかっ‼︎貴っ様ら‼︎よっく聞けっ‼︎………

(なあ…舞台演劇の役者とはな、舞台上で台詞を喋り立回りをしていながら、だ。何か、今晩は何食べようかしら?と考えているそうだぞ)


“下がれっ‼︎下がれっ‼︎”
“何だお前らはっ‼︎”
“帰れっ‼︎帰れっ‼︎”

(…僕の人生は…真に持って奇妙でした?先ず持って、祖母が奇妙でした。お父様もお母様も奇妙でした。そして、それでいて周りの方々は僕らの奇妙な家族に何も言いませんでした。でも、成長して行く内に判りました。僕らは僕らが奇妙である事におっかなびっくり、声もか細く、それでいて日常を歩んで参りましたが、奇妙な家族とは僕ら家族だけでなく、家族が単位としていち家族いち家族ある各々、皆何処かしらの“奇態”を帯びている、という事を。それに関してどうこう言いやしません。僕ら家族は、奇妙。ではあなた方家族は?そんなにあなた方家族は、文部省できっちり画一された形通りの、“家族”ですか?僕は幼少の頃から、他人とは少し違った考えを持った存在でした。でもそれは特別、という程の物でもありませんでした。僕は空想が豊かだった物で、更に、筆を動かす事に数時間を掛けても苦にならない質だったもので、物を書く、書いて営む、という事が天職で、それに偶然好機にも巡り逢えただけなのです。そう僕は…)

“下がれっ‼︎下がれっ‼︎”
“何だお前らはっ‼︎”
“帰れっ‼︎帰れっ‼︎”


(…小説を書く、というちょっとは特殊な仕事に何とか就く事が、幸運にも叶えられたのです。でも本音を言えば、それはそれは苦しい、ただ文を書いていれば良い、といった趣きの物でもなく、やりたくない事、本人の意志に反した強制、将又欲得、自己の物も他者の物も…小説を書く、これは現実の話を書く事ではないのです。奇妙奇天烈な非現実を書くのです。そして騙し方が巧妙なら巧妙な程良いのです。正に今、目の前にしている事を書き取っている、かの様に…)

“下がれっ‼︎下がれっ‼︎”
“何だお前らはっ‼︎”
“帰れっ‼︎帰れっ‼︎”

“かの様に…”   森鴎外

(彼処にいる“三島由紀夫”が“俺”を書き取ってやがるっ‼︎無様な…無様な、大根役者の中年の“俺”をっ‼︎こっ酷く醜く書きやがるんだろうっ⁈くそっ‼︎何たる失態だ、俺とした事がっ‼︎)

(小説を書くとは………)

“下がれっ‼︎下がれっ‼︎”
“何だお前らはっ‼︎”
“帰れっ‼︎帰れっ‼︎”

「黙らんかっ‼︎黙らんかっ‼︎貴様らっ‼︎いいかっ‼︎この国はいつ迄アメリカの傘下なんだっ‼︎貴様らは本当に軍人かっ⁈俺はな、俺はこの時をなっ‼︎四年もっ‼︎四年もだぞっ‼︎四年も掛けてだなっ‼︎」


(嘘吐き…)

(公威君の嘘吐き)


何だ…彼処にいるのは?あの中にいるのは?あの自衛官の群れの中からこっちを見ているのは?

“三島由紀夫”か?”

(三文オペラだ)

ニヤけてやがる…


………“三島由紀夫”、世紀の………

失敗劇だ…この“俺”の、“三島由紀夫”の、人生初めての、生まれて初めての、“三島由紀夫”というキャリアの………最初で最後の失敗劇だ………

(大根役者が…)

何にも………これは何にも美しくないではありませぬかっ‼︎婆様っ‼︎


“下がれっ‼︎下がれっ‼︎”
“何だお前らはっ‼︎”
“帰れっ‼︎帰れっ‼︎”


大根役者…?
それはこんな気持ちになるものなのか?
晴れ舞台で何をもう為す事もなく、ただ茫然と…木偶の坊の様に…次の台詞、次の台詞、あやふやで…今日この日まで徹底して叩き込んだ台詞と段取りが、調子の狂った腕時計のゼンマイの様に、正確に時も刻めず…


〈とある伴天連が…〉


やめてくれ…それは最も俺が軽蔑する作家の小説だ…今、最も思い出したくないぞ…それを俺の脳裏で囁くのはやめてくれ…お願いだ…もうやめてくれ…


〈とある伴天連が…〉


判ってるよ。知ってるよ。読んだよ。しっかりプロットもあんたがこの小説で何を言いたいのかもしっかりと判っているよ。


〈とある伴天連が…〉


判っているよ。この国の基督布教の禁教時に流れ着いた調子っぱずれの伴天連の話だろう?知ってるよ、知ってるよ。


“下がれっ‼︎下がれっ‼︎”
“何だお前らはっ‼︎”
“帰れっ‼︎帰れっ‼︎”


あんたは…まるで今の俺の事を予見していて書いたのか?


(又この手合いかよ…いい?じゃあ何で今君はここに来たの?俺の事が嫌いなら、会いに来なけりゃいいじゃんか。…って君)

………


(君は本当は俺の事が好きなんじゃない?)


あの目、あの冷笑と蔑みの目、それが不健康で澱んだ黄と酒気を帯びた赤が混じって、非常に汚かった…

そして…

何という美男子なんだ!………と

整然とした作りの目の窪み
薄くなだらかに立った鼻
薄い唇、豊かな髪、
書かれた物とは似ても似つかない大きな体

あの時の敗北…
懐かしいな…

“下がれっ‼︎下がれっ‼︎”
“何だお前らはっ‼︎”
“帰れっ‼︎帰れっ‼︎”

…群衆の中の“三島由紀夫”が、あの時の“彼”と同じ顔してやがる…

もう帰ろう…

(かへりませふ、かへりませふ、きみたけ)

そふです、そふです、そふですねへ…

“待て”

だれだ、もふ、ぼくはかへりたい

「見てみろ、公威っ‼︎」

え、どなたですか?あなたは?

あなたは…

“みしまゆきを?”

りりしきぐんぷくですねへ…

「公威、いいか、目を逸らすな。見てみろ」

はひ…

「公威、貴様は今、燃え盛る境内、本尊まで後一歩の処まで来ている」

はひ…

「公威、貴様は一つ取り違えているぞ。貴様は貴様の書いた『金閣』の様に、本尊まで辿り着けず、扉は開かず、絶望している。だが違うぞ、公威。見てみろ、公威」

えっ………

「本尊にまで入れなかったのはお前ではないぞ。あのがなり立てている連中、何かに見えぬか?」

………ああ………

「そうだ、二元的に真っ逆様だ。“本尊”にまで辿り着けないのは、あの者達なのではないか?“扉”にどんどん身体をぶつけて開けようとするが、“本尊”から、金色の画に鎮座されます“聖観音”に“拒絶”されているのは…」

………ああ………

「公威、今お前は“聖観音”の御傍にいるのだ。そう、お前は今、“境内”に“いる”のだ」

………ああ………

「お前の“夢”は成就されたのだ。お前は今、純粋に“国家”と一体となっている。それに気づけ。美しく、純粋過ぎて、誰も入内出来ぬ領域に。誰もついて来れない、良いではないか。全てが調子の狂った、阿保者の大根演技と笑われようと、良いではないか。お前の目論んだ“意図”が全て純粋に美しくなくとも、良いではないか。お前はお前の傍に、何処までも

かたはらにひてくれる
ぢやふかんのんさまが
をはしてをられるではないか

………」

(貴方様は…“三島由紀夫”?其れとも…聖観音様?)

どこまでもひつしよですよ


“下がれっ‼︎下がれっ‼︎”
“何だお前らはっ‼︎”
“帰れっ‼︎帰れっ‼︎”


「ここまでかっ‼︎下がるぞっ‼︎」

うんっ‼︎良い“空”だった‼︎実に良い“空”だったぞっ‼︎

皇居の方を向けっ‼︎

万歳っ‼︎
万歳っ‼︎
万歳っ‼︎

………


下る…
階段を…
これから冥府へと…

なあ?おい、俺の人生ってなあ、何だったんだろうなあ…

“三島由紀夫”なんだか“平岡公威”なんだか…

どっちの人生も全く詰まらんものだった…

何にも手に入らなかった…

他人よりかは色々と手にした様に見えるだろう…

だが、何にも…何にも、だ…

俺の欲しかった物ってなあ、何だったんだ?

ほら、ハデスが待っている間に着いた

さっきまでの待つ時間が気の狂いそうな程長かったのに、ここまで来るのはほんの1分2分か?

時間感覚ってなあ、随分勝手なものだよなあ…

ん…まだ聴こえる…


まだ俺を罵っている…


それでいいのかもなぁ…


「戻ったぞ」


………


「何を間の抜けた面してる。戻ったぞ」

(遥子、戻ったぞ)

(こらこら、放しなさい。威一郎、やめなさい)

(………紀子)


………


(…ただいま)


………


「おい、戻ったと言うんだ。成果はな、失敗だった」


………


「おう、目を落とすな。君達。さあ、今生の別れだ。支度を…」


“先生っ‼︎”
“先生っ‼︎”
“先生っ‼︎”
“先生っ‼︎”


「はっはっは…どうした?そんな女みたいな声を出すな。君達、まるで出征する前の兵隊さんを送る女の子みたいに…朗らかに出来んか?なあ…」


さあてと


“先生っ‼︎”


「………いい。君は生きろ」


“先生だけを死なせません”


「………」


(おい、本当にこれが最後の質問だ。しかし…言葉に出す気が湧かない。故に、俺の目を見て感得せよ。いいか?君達、この三文オペラ宜しくの自爆劇、何故俺に連れ添った?一人一人、俺の目を見て、心で答えよ。

そう、その時…嘘など一変に判るからな…

さあ…)


“………‼︎”

「…そうか。それは…有難う」

“………”

「そうなのか?そうか。うん、君も、有難う」

“………‼︎”

「何だと?それならそうと何で前もって言わなかった?ははは、うん。有難う」

“………‼︎”

「よせ。よせと言うに。うん。その気持ちがとても嬉しいぞ。うん、有難う」

では…参る

ん?おい、長官殿を静かに。静かにさせんか。気が落ち着かない…俺の方を見えぬ様に…むむ…騒がしい…

さはがしひ………

皆、皆、皆、騒がしい、騒がしいぞ。何だ、ただ男一匹、腹掻っ捌くだけじゃないか…ん?

震えてやがるな…手が…

ん?何だ?何か見えるな?何だこれは?

短刀の抜き身に西欧人が映ってる…

これは………


じやん・こくとお………


ふふふ
ふふふふふふ
ふふふふふふふふふ


腹に刃を立てるのは、そんなに怖い事でもない。
それは本当なんだ、ああ、本当の本当なんだ。
何故かって?


おい、俺の輩は、俺達子らを繋いで来た先輩達は…

皆、死んだんだぞ?
有無を言わさずに、“時代”という魔物に…
生き残って良かった、だと?
生き残って、実際、本当に辛かったさ
楽しそうに見えたか?
その実、真夜中に魘されてな、毎夜毎夜と
お前、俺の知ってる仲間達が皆死んだんだぞ?

おい………その人達の苦しさと比べれば
おい、俺のこの刃を握る手は震えて見えるか?
でも、おい、それは勘弁蒙るぞ
最後まで強がらせてくれよ
だって最後なんだから………

いざ………

「ふんっ‼︎ぐっ、ぐぐぐっ‼︎」

おうっ⁈

…くびにたちがをろされました

…まだのこつたざんぞふが
まはりにひるひとたちが
まるでこくとおのかいたらくがきのよふに
みへました
ひとのみではありませぬ
このまのかべもたなもまども
すべてがこくとおのらくがきみたひになりました
もふきへる
ぼくのひのちがもう………

ぼくのゆめ
しぬるまぎはにこくとおにだかれること
こくとおにだかれた
れえもん・らでひげに

に・な・る・こ・と………

“聖観音様は最後に男の夢、叶えたまわれた
そして、男と共に付き添い冥府まで歩み行く事を了された”


“おいっ‼︎何をしてるっ‼︎切り落とさんかっ‼︎先生を苦しませるなっ‼︎”

“ウーッ‼︎はぁぁぁぁ………わあっ‼︎”


〈動揺〉

精神の内、一方に進行する精神作用又は意志と其れとは別方向に移行しようとする単意志又は複数意志で統一が取れない事。

即ち、“二元的”な………

人間精神の、大小程度はあるが危機的状況。


終幕/フィナーレ



ん………
何だ………
意識が戻った………
おかしいな………

おい、ここは家じゃないか………
あれ?皆いる、皆いるぞ?
どういう訳だ?

皆、泣いてる………
御父様?ん?遥子?
皆、泣いて、何事か言っているが

聞こえない………

どういう事だ?

しかし泣きながら、微笑んでもいる………

御父様が、俺の腹を摩っている

ん?あれ?おかしひな?
きつたおなかがぬはれてひる

母様も遥子も身体に齧り付いている

あれ?くびがつながつてをるぞ?

千之、お前も居るのか?

ちゆき、これはだふいふことぢや?

みんなみんな
ぼくのからだをさすつてをる

などかあたたこふござひます
げになにやらてれくさふごさひます

てにちからをかんずるぞ
のりこにひひちろふかへ?
ちちはひまかへりましたよ
まつてひましたか?
ちちもあひとふござつた
ありがとふ
ちちはしはわせものぢや
おまへたちのかほさへまみゆれば
せんにんりきのさむらひとなりて

ななたびとひはず
はちたびもここのつたびも
よみがへつてしんぜよふ
おとふさまはうそをつきませぬよ

でもしばしのわかれ
いつのひかあひましやふね
おとふさまとのやくそくですよ

しかし先程から、そこにいるのは“美津子”、お前じゃないか?“美津子”、どうして其処にいる?何故そんなに微笑んでいる?懐かしい………いや、懐かしいんだが、“美津子”、何故死んだ筈のお前が其処にいる?

いや………しかし、あの時のまま………
美しい、美しいよ、“美津子”

兄様はな、恥ずかしくてとてもお前に面と向かって言えなかったが………

“美津子”、お前は兄の自慢の美しい妹だったのですよ。何故死んでしまったのですか、ああ、“美津子”。ずっとずっと兄はお前に逢いたかったのです。だがしかしお前が其処にいる、というのは詰まり………

“兄様”

「何だ?」

“行きましょう”

「“美津子”、何処へ?」

“ウフフフフ………”

「こら、“美津子”。兄様を揶揄うんじゃありません。こらこら、“美津子”。そんなに引っ張るんじゃありません。兄様は………」

“兄様、やっと三島由紀夫ゴッコをおやめになったのね?お楽しかった?ウフフ”

「こら、“美津子”。兄様に向かってそんな事言って。この」

コツン

「“美津子”。何だい、ベロなんて出して。端ない。御婆様に見られたら怒られますよ。でもそんなに引っ張るんじゃありません。兄様は、もう兄様は、お前と一緒ですよ。もう寂しく思う事をさせませんよ。ねえ、“美津子”。何だい、これは?僕達は何だか宙に浮いているじゃないか?“美津子”、お前、宙に浮いているじゃないか?どうしたって言うんだい?そして僕も………“美津子”、お前は何だい?欧羅巴の魔法使いにでもなったのかい?何て不思議な女の子なんだ。兄様はちょっと驚いています…“美津子”、そしてこれは何処へ行くと言うんだい?“美津子”、兄様の行く所はお空の上じゃないんだ。暗い暗い地の底の底の冥府の王ハデスが統べる国に行くのです。決して決してあんな明るい青い所には行く資格がないのです。“美津子”、よしなさい。こら、“美津子”。よしなさい………」

“ウフフフフフ”


………

「何だい、“美津子”。ここはまるで希臘の建物みたいな物が建っているね。しかし“美津子”、雲の上というのは歩けるのだね。兄様は初めて知りました。何?あの中へ行くの?こら、こらこら、“美津子”。そんなに走るんじゃありません。兄様は疲れてしまいます」


………

「いつか来たか?ここは?あれ?“美津子”?」

“ウフフフフフ”

「何処へ行く?“美津子”。こら、“美津子”」


………

「何だ…お前は?」

誰だ?柱の側の白い椅子に座っている。白い丸テーブルに水の入ったカラフを置いて。まるで希臘の哲学者のトルソーみたいな男だ。

「すみません」

「何しに来たか?」

「いえ、それが…妹に手を引かれるまま、此処に来て」

「妹?」

「はい…」

「まあいい。此処へ。座ったがいい」

「良いんですか?」

「ああ、休め」

「はい」

僕は彼の対面にある椅子に腰掛けた。

「何だ、どこを治して貰いたい?」

「治して?いいえ、僕は別に」

「ふっふっふ」

「あ、何をするんですか?」

彼は腕を伸ばして来た。僕は外科医の扱うメスの様な物で、彼に胸を縦に切られた。しかし不思議な事に血は飛び出なかった。

「ほら見てみろ。真っ黒だ」

「えっ………」

僕は自分の開かれた肺を見た。本当だ。

「苦しかっただろう?」

「えっ?それは…」

「国が何だ、あれやこれや………はっはっは、まあいい」

「………」

「何故、お前の妹が此処にお前を連れて来たのか?」

「それは…」

すると外科医の様な哲学者の様なその人は今度は僕の切った胸を縫合しました。手付きが慣れていて神技の様でした。

「まあ………此処には居たいだけ居ればいい。もう時間の概念の無い次元だ。ではな」

彼は席を立ちました。

「あの、ちょっと待って。あの、ちょっと………貴方のお名前を伺っても宜しいでしょうか?」

「名前?」

「そう…貴方のお名前…」

僕はとてもこの人の名前を知りたく思いました。何故かは知りません。でも強くそう思いました。

「三島由紀夫」

「は?」

「“三島由紀夫”、とでも名付けられた様な気がする。それ以来、“三島由紀夫”と名乗っている。何故かは知らん」

「………」

「ではな」


………

何だ、やっぱり実在していた。“三島由紀夫”。見つけた。僕はずっとずっと長い間探していた。見つけられないなんて判り切った上で、探していた。けれど、“美津子”が此処に連れて来てくれたお陰で、僕は今やっと、“三島由紀夫”に逢う事が出来ました。

“美津子”や、有難う、有難うね………

いや?………聖観音様?

御有難う御座いました。

公威は平岡公威として、やっと休まれそうです。

………そして
………さようなら
………“三島由紀夫”

〈了〉


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💻WEB文芸誌『レヴェイユ』/編集者 柳井一平
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