雑文とも日記ともいえ6
6.19
昨日は、相生座にイオセリアーニの中短編映画3本をみにいった。
50年代後半から60年代にかけてのもので、戦後グルジアにもソ連社会主義の主導する近代化政策、都市化、工業化の波が東欧の中世におしよせていたのだろう。矛盾への反骨と意想外な芸術的発想をもちながらも、随所にあらわれるのは「滑稽」で、チャップリンだとか天井桟敷の人々にみるのと共通なものだった。それと同じ質のものを、落語や俳諧にも感ずるし、あるいは漱石や太宰くらいまでの文学もその滑稽的な世界を生きていたように思う。
柳田の「不幸なる芸術」はパラパラとめくってみただけだが、滑稽や笑いが棄てられてゆくことを書いていたはずだ。二枚目俳優とか三枚目だとかいうが、今日においても滑稽な役割、戯け者・お道化者が完全に排斥されたわけではない。しかし、脇役に追い遣られている。
「カッコイイ」「カワイイ」というのはおそらく「憧れ」の文化で、「滑稽」はもっと力が抜けていて洒脱というか、今日的な言い方をすれば頓に庶民的な自己肯定・自己許容の文化だといえるだろう。
そういう意味では、「滑稽」が第二義的にしか存在できない世間は息苦しい。
しかし、この社会は常に規範化のおこりうる装置をもっていて、きっと「滑稽」が重んじられれば、「滑稽であること」が価値化されて、要求される世間が生まれるだろう。それはそれで息苦しい。
すなわち、息苦しいのは憧れでも滑稽でもなくて、「規範化」「生権力」なのだとわかる。憧れも滑稽も、生まれた当初は規範への反骨であり、避難、迂回路であったはずだ。
「月曜日に乾杯」というタイトルなんてわかりやすいくらいに規律への反逆ではないか。それも、ささやかな。予告編で映ったのは、真昼間のベランダで男二人が乾杯する姿だけだったが、その映像に憧れて、みたかったのだが、気づいたときには終わっていた。
6.23
自由だとか、ただの楽しみだとか、そういうものためにやっていた、この記憶は9歳か10歳の頃だろうか、ひとり日陰になった居間で絵を描いていた。誰もいない寝室で、夢中になって本を読んだ。町の小道を自転車で好きに走らせた。それ以上の意味はなくて、意味があるとかないとかもなかった。その時間だけがあった。
6.24
『サラゴサ手稿』のレビューに、「この退屈さは本物、もし偽書ならもっと面白く書く」というようなことを書いている人がいた。
長く本文が散逸していて、翻訳も一部しかなく、なかなか日本語では読めなかったらしいが、それが今度岩波文庫で出ているらしい。
彼は、その退屈さについて、アラビアンナイトとデカメロンを引き合いにだしていたが、それは自分にも覚えがあって、ホメロスやヘロドトスもそういう意味で、退屈な本、というか退屈な部分がある程度の分量を占めている本だとおもう。退屈さと面白さは矛盾しなくて、退屈さが一つの作品から締め出されたら、作品のもつ豊かさも同時に消えてしまう。「息をつかせぬ面白さ」とか「最後まで一気に読める」とかに全てが覆われてしまう。
ヘロドトスの『歴史』は中編の途中で、流石に興味が停滞して、置いてしまったが、いつかまた読むことがあるだろうと思っている。ないかもしれないが、あるだろうと思っている。その退屈さのおかげで、自分にとってのヘロドトスの『歴史』は終わっていない。その書きようとか構成、存在の仕方の点で、自分の中でまだ『歴史』はひとつの問題として残っているし、今ではないが、またいずれ解決へむけて何かすることがあると思っている。
例えば、永福門院に興味をもって、その自家歌合百番を開いてみても、流石に読み通すのは苦痛だし、全てが、今の自分にとって重要な歌、面白い歌ではない。せも、そこにあって、形式に沿ってその全てがそこにあって、順番に並んでいる。退屈なものがあるから、それは人生に開かれていると思う。それは作者の人生でもあるし、自分の人生の時間に対してでもある。
しかし、その退屈があるというのは、無駄を削ぎ落とす、という文化と矛盾しないか?
6.25
矛盾しないというのが答えだ。
むしろ無駄を削ぎ落とされた文章は傍目からみれば、退屈なのではないか。読もうとしてもにべもなく門前払いを受ける。それでも、まわりをぐるぐるまわっているうちに、塀の継ぎ目に綻びをみつけて、入り込めば、言葉を絶する景色が広がっている。いや、いないかもしれない。
誰もが面白いと感ずるような物語は、実はむしろ、本当に大切なものを削ぎ落としているから、誰でもが楽しめるのではないか。
いや違う、結局、語るにしても何について語るかということが大事だ。漠然とした印象論に意味などなく、ただ心から心酔した作品、心からつまらないと感じた作品、その具体的で、個別的な名前、存在を名指しながら語ることが大事だ。