在る、それだけの明るさ
昨夜、ミケランジェリとチェリビダッケの演奏する、ベートーヴェン『ピアノコンツェルト3番』を聴いた。
音楽は、観客の咳払いや物音とともに始まり、舞台までの距離も感じさせるコンサート録音だった。それが、本当に、そのときそこで演奏が行われているという実感。
今まさに、舞台上から音楽が生まれてくる感じと、ある実在する劇場で、そのときいた観客たちが耳を傾けている感覚、その実在感がものすごくて、あるときは笑みが、あるときは泪がこぼれるようだった。
1981年12月5日、ミュンヘンでの録音らしい。録音環境はあまり上等とはいえないし、音質も悪い方に属するだろう。
それにしても、ステレオで、全ての音がはっきりと聴こえて、、そんな音源がいい音源だなんて誰が言うだろう。音はほとんど、どの音も一体化してしまってちょっと聴き分けるのも困難だし、楽器個別の音色も効果的に再現できているとはいいづらい。
しかし、それが正しい音楽鑑賞なのではないか。コンサートで聴けば、舞台からは多かれ少なかれ距離があるものだし、楽器からも遠い。耳元で、全ての音が独立して聴こえて、なんていうのは変ださ求められていない。テクノロジックな目新しさでしかなかったのではないか。音と音とが一体化して、一つのメロディ、一つの音響を生み、それが進んだり静まったり、起こったりする。
小林秀雄は、当時のモーツァルトのレコードを聴いて心酔していたころ、「精神で聴く」という言い方をしていた。
音楽を聴く、という行為を、物理現象としての音を聴くというのは正しい言い方だが、精神で聴く、というのと昨夜正しいあり方なのだと知った。
音楽には、旋律には、演奏には精神がある。それは音を取り去った真髄に精神があるというのではなく、音それ自体が精神と化している。(いや、本当はそうなのだ。音も、色も、光も、その存在の精神そのものではないか。)
音楽を聴くうちに、自然と笑みや、泪が零れるようで、こんな底ぬけの明るさが音楽にはあったのだと深く思い出した。
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ミケランジェリのピアノは、その音色の隅々までロマンティシズムで満たされている。
イタリアの文化はある種の懐古主義をもっていて、しかし、それは暗いものではない。ミケランジェリのロマンティシズムも感傷的ではなく、むしろスポーティだ。現代においてクラシックを演奏したり聴いたりすることは、逃れようもなく懐古主義に属するが、その懐古が力によってなされる。しかし、その力はロマンティックな力なので殺伐としていない。音の感じは厳格だが、ユーモラスで優雅なのだ。
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こういう明るさは、他に自然の中にはあって、今日山の中に少し入ったが、少し休んでいると、杉の木立を下りる音がして、リスがこっちをみていた。林の向こうでは、トンビが旋回しながら鳴いていて、キツツキの叩く音も聴こえた。近よると、枝を伝い、隣の木、隣の木へと駆けて消えてしまったが、木立の先にはうす曇りの空。臭木や胡桃が実をつけている。
それは心地よくて、昨夜音楽を聴いていた時間にも似ているとおもった。
こんな感覚が、例えばどれだけの本で得られるだろうか。小説は結局人間(にんげん・じんかん)を語るもので、それを超えるものは少ない。たとえ自然を描いても、結局人間を描いているものが大半ではないだろうか。それはもともとそうなのだから、それでいいのだが。
少なからずの詩歌、紀行、日記文、、