もう親孝行できない娘の備忘録 7
母と私のルーティン
私「携帯持った?」
母「持った」
私「お財布持った?」
母「持った」
私「お茶持った?」
母「持った」
私「塩タブレット持った?」
母「持った」
私「PASMOは?」
母「バッグに入れっぱなし」
私「入館許可証」
母「これも入れっぱなし」
私「マスクは?」
母「新しいの出した」
私「横断歩道のない道路は?」
母「渡りません」
私「んじゃ、行ってらっしゃい。くれぐれも気をつけて」
母「行ってきます」
母が一人で病院へ出かける前、こんなやり取りをするようになった。玄関で私は母の姿が見えなくなるまで見送る。それからドアを閉め、鍵をかける。
単なる気休めにすぎないのは解っている。だが、行ってらっしゃいと送り出したその人が無事に帰ってくるとは限らない。そのことを私は思い知らされてしまった。8月13日のあの日から、父は家に帰ってきていない。だから、私はできるだけ母の姿を目に焼き付けることにしている。
そして、帰宅時間になるとカーテンを閉め、ダイニングの灯りをともし、母を出迎えるのだ。
もちろん毎日必ずできるわけではない。体調を崩して横になり、見送りも出迎えもできなかった日があった。その時母は「電気が点いてなくて、誰もいなかったらどうしようかと思った」と泣き崩れた。母もギリギリの精神状態でいるのだ。それ以来、よほど体調が悪くない限りは、母の帰宅時間に合わせて起きるようにしている。
人間はちっぽけな生き物だと思う。だから、誰かの助けがなければ、支え合わなければ、生きていけない。
さよなら日常
父の車が売却された。保険の期限が近づいおり、父が車を運転することはもうないだろうと判断した結果だった。父の愛車は買った時の約七分の一の値段であっけなく持っていかれた。交通の便が不便な土地で、買い物に行ったり病院に連れて行ってもらったりした。母が言うには私と父の会話はまるで漫才のようで、とてもおかしかったそうだ。
父は車の運転が大好きだった。知人の運転で酔った時は父の運転技術の高さを知ったものだった。
思い出というにはささやかすぎる。けれど知らぬ間に日常生活に欠かせなくなっていた。
父の運転を体感することは、もうできないのだ。
窓を開けたまま、流れる昭和歌謡に合わせて熱唱しながら運転する父に「頼むから窓を閉めてくれ」とあきれ顔でツッコミを入れることもない。
こうやって、当たり前だったものが少しずつ欠けていく。けれどそのことに慣れなければならない。
車を駐めていた庭の一角に、雑草が生えていく。砂利の隙間から、たくましく根を生やし、葉を伸ばす。
まだ、私はそこまでたくましくはなれそうにない。
父はこのところ目を開けている時間が増えてきたそうだ。焦点の合っていないぼんやりとした時もあるが、何かをじっと見つめているようにも見えると母は言う。目が合うということはないのだが、大きく目を開いている顔は、とても植物状態とは思えない。父の目には何が映っているのか。父の脳は視神経が受信した映像をどのように映し出しているのか。それともその機能は損傷しているのだろうか。そこまでの詳しい検査はしていないから判らない。
意思の疎通ができない状態で、そもそも父の意思とは何なのだろうかと時々考える。意識はどこにあるのだろう。どこかにふわふわと浮いているのだろうか。
こころは?
父のこころは何処にある?
脳みそなのか、心臓なのか。それとも思いもよらぬ場所にあるのか。
そのことをずっと考えている。
胃ろう増設手術…の前に
胃ろう増設手術の日の朝、M医師から電話があった。午前中のどの時間になるか判らないので手術には立ち会わなくてもいいと言われていたのだが、「来て下さい」と毎日面会に行っているのにわざわざ電話があったことに胸騒ぎを覚えて、私も付いていった。
病室で何事もなくすやすやと点滴を受けながら寝ている父を見て、「手術お疲れ様」「痛がりなのに頑張ったね」などと声をかけているとM医師登場。処置室で説明を受ける。
その日、父の胃ろう増設手術は行われなかったそうだ。胃と腹壁の間に別の臓器があったのか? それとも皮下脂肪が厚すぎたのか?
「内視鏡で見たところ胃潰瘍ができており、そちらの治療を一週間行うことになりました」
胃潰瘍、という単語に私も母もぽかんとした。いつの間にそんなものができていたのか。
「潰瘍の細胞を採り、病理に出しています。もしもガン化するようなものでしたら、そちらの治療も考えなくてはいけません」
胃がん…?
父の家系はガンで亡くなった方が多い。父の両親(私の祖父母)も肺がんであったし、胃がんや白血病など、近親のみでも数えれば両手の指では足りないのではないだろうか。
おそらく父自身もガン家系の自覚はあったのだろう。がん保険にはかなりお金をかけていた。
けれど、植物状態でその上胃がん…?
検査の結果が出るには一週間はかかるという。実際に内視鏡で見た外科チームの医師によればガン化の可能性は低いそうだが、念のための検査ということだった。
そう言われても、背筋を氷が滑っていくようなゾクリとする感覚は止まなかった。
この状態で、一週間過ごさなければならないのか。
病室へ戻り、父を見ると、鎖骨が浮き出ていることに気づいた。体格のいい父だが、一ヶ月の寝たきりで、もうこんな風になってしまうのだ。
目を開けると、母が言うようになんだか父と目が合っているような感覚に陥る。不思議な感じだ。
あくびをした時に喉の奥に白いものがたくさんへばりついているのが見えたので、看護師さんに痰の吸引を依頼する。念入りに取ってもらうのでつらいのか、時々顔がクシャおじさんみたいになる。自力で痰を吐き出せないので、定期的に吸引してもらわないと誤嚥して命に関わるからだ。
帰りの道すがら母から聞いたが、事故の前あたり父は食欲があまりなかったらしい。食欲がなかったのは胃潰瘍が原因かもしれないと母は話した。
父の食欲がなかったとは知らなかったが、何となく原因は判るような気がした。
コロナ禍でのステイホーム期間、ゴルフと囲碁とカラオケが趣味だった父は、そのどれもできなかった。囲碁はリモートでやるようなものでもないし(直接対局するのが醍醐味だと言っていた)カラオケができるスナックは狭く飛沫が危ない。ゴルフは腰が痛くてできない。父は生きがいを見失っていたのだ。腰痛と脚の痛みでよくベッドに横になっていた。このままでは脚が萎えてしまうと母がなんとか毎日散歩に連れ出していたのが精一杯だったと思う。あとは買い物や、自分と私の通院で車を出すくらいであったか。
好きなことを何もできないのが、彼には大きなストレスになっていたのだろう。
「こんな状態で生きていてもな~…」
と言う父が嫌で、母は毎日買い物と夕方の散歩に連れ出していたそうだ。
それでも脚腰の衰えは加速し、ついには転倒―脳挫傷―植物状態となってしまった。
父の現状は、新型コロナの蔓延によって引き起こされたものとも言える。
一日も早く、収束して欲しい。
――8へ続く
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