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負け犬の遠吠え 日清戦争9 三国干渉と台湾平定

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伊藤博文は下関講和会議で台湾の割譲を要求します。

しかし清国の全権大使・李鴻章はこれを固く拒みました。


戦争で多くの自国民が血を流して占領した敵国の領土を戦勝国が割譲する事は、当時の常識としては至極当然の事です。


しかし日本軍はまだ台湾を占領どころか、上陸すらしていないのです。


清が日本に台湾を渡す理由などありません。


ならばこれから台湾を占領すれば良いとばかりに、日本軍は台湾へ派兵し台湾への足がかりとなる澎湖諸島(ほうこしょとう)へ上陸しました。

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日本は、占領した遼東半島の割譲を考えたのでしょうが、清国本土は欧米列強が目を光らせており、日本が領地を獲得するのは困難な事でした。


日本政府は既に「日本の領土獲得に欧米列強が干渉してくる事」を予測していたのではないでしょうか?だからこそ交渉のテーブルに「遼東半島+α」として「台湾獲得」にこだわったのではないかと思うのです。


こういった日本の領土的野心をあげつらって「日本は侵略国家だ〜」などという論調もありますが、外交は仲良しごっこではありません。


国家間の戦争に勝利しても何も得られないようなマヌケ国家は潰される時代だったのです。


日清両国の思惑が交錯する中、台湾に住む人々は不安と恐怖に襲われていました。


日本と清が戦争していたとはいえ、戦場ははるか北方であり、台湾に住む島民にしてみればまるで対岸の火事のように思えていたのですが、ある日突然日本軍が隣の島まできているのです。


1895年3月30日、日本と清は停戦協定を結びました。


しかしその停戦地に「台湾」は含まれていませんでした。


古くから清国に「化外の地」と呼ばれていた台湾は、日本との講和のために見捨てられたのです。


そして4月17日、下関講和条約が結ばれます。

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「清国は、朝鮮が完全無欠なる独立自主の国である事を確認し、独立自主を損害するような朝鮮からの貢・献上・典礼などは永遠に廃止する」と第一条に記されている通り、戦争目的であった「朝鮮の独立」は果たされました。その他、2億両もの賠償金、遼東半島・台湾の割譲や捕虜の扱いなどが取り決められました。


しかしそのような条約も虚しく、日本兵の捕虜で生きて帰ってこられたのは「1名のみ」で、多くの捕虜たちは既に殺されていました。

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ところで、伊藤博文は李鴻章とこのようなやりとりをしています。


伊藤「台湾ってどんな所?」


李「台湾には『三年小反五年大反』という諺があり、非常に治めるのが難しい土地です。」


伊藤「何その諺どういう意味?」


李「台湾では不良浮浪の輩が島民に暴行、略奪を行い、政府にも反抗し、三年に一度小反乱、五年に一度は大反乱が起きる、という意味です。」


伊藤「一度我々が統治すれば、日本政府は責任を持って平和と秩序を保って見せる!!」


このやりとりを聞いた欧米列強は

「日本は戦争には勝ったが、統治の失敗者になるであろう」


と鼻で笑ったそうです。

この下関条約の締結によって、日清戦争は終結します。


そしてすぐに欧米列強による威圧的な干渉が始まるのでした。


朝鮮半島への南下を画策していたロシアにとって、遼東半島を日本が割譲し、軍隊を進駐でもされたらたまりません。


ドイツは、そんな悩めるロシアをそそのかし、ついでにフランスも誘って日本に圧力をかけました。


「三国干渉」です。


三国干渉の発案者はロシアだという事になっていますが、私は「ドイツ黒幕説」を支持します。


かつてドイツは、鉄血宰相ビスマルクの外交政策「ビスマルク体制」によって、複雑に近隣各国と同盟・協商関係を築き、フランスを外交的に孤立させ、軍事的均衡を維持していました。

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しかしドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が即位すると、ビスマルクを更迭してしまいます。


それによってビスマルク体制は一気に瓦解し、東のロシア、西のフランスが「露仏同盟」を組み、大国による「ドイツ包囲網」が完成してしまったのです。


そこへマックス・フォン・ブラントという外交官が意見書を提出し、ヴィルヘルム2世を動かし、三国干渉が実現する事になったのです。

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ちなみにこのブラント公使は、かつて戊辰戦争の時に北海道をドイツに売り渡そうとした人物です。


ドイツが三国干渉を推進した目的は、ロシアの目を東方の日本へそらす事でした。


フランスも誘ったのは、恐らく露仏同盟を尊重しての事ではないでしょうか。


何はともあれ、この三国干渉によって日本は遼東半島を手放す事になりました。


外務大臣・陸奥宗光はこの事態を予測できていなかった、という説と、ロシアが介入してくると予測した上で、あえて遼東半島の割譲を要求したという説があります。


私は、陸奥外務大臣は三国干渉のような欧米の介入は予測していたのだと考えています。


だからこそ、まだ占領してもいない台湾を清に要求したのです。


「強国が干渉すれば、日本は屈する」この現実を目の当たりにした清は、「唐景崧(とうけいそん)」を総統に据えて「台湾民主国」を建国し、さらなる列強の介入を呼び込もうと画策しました。

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台湾民主国独立維持のための軍事支援には、フランスが興味を示していましたが、フランスはマダガスカルの植民地化に忙しかったので結局軍事支援は行われず、他の列強国も三国干渉で満足しており、台湾民主国は日本軍の台湾上陸を防ぐ事ができませんでした。


あっという間に台湾民主国政府は瓦解し、日本軍の侵攻を恐れた唐景崧は老婆に変装して台湾から逃げ出してしまいます。


台湾民主国の成立からわずか10日後の事でした。


しかしその後もゲリラ戦などの凄惨な戦いは続き、台湾を平定できたのは三ヶ月後の事となりました。

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