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あの一言で変わった人生ーー。”怪物の弟"が誰かの背中を押したいと思う理由。

その決定的な瞬間に何が起こっていたのか。その瞬間に至るまでに、一体どんな想いがあったのかーー。スポーツ総合誌「Sports Graphic Number」が、パフォーマンスアパレルブランド UNDER ARMOUR のHead of Brand Marketing・松坂恭平さんにお話を伺いました。

■Introduction

もっと、背中を押せるクリエイティブはないのかーー。

2021年夏。午前7時の新潟市内のジムに、朝日が差し込み始める。松坂恭平はトレーニングの手を止めて、思いにふけっていた。

「自分を変えたい」

誰もがそう思う。そのためにはアクションを起こさなければならない。大量に集めたインサイトデータは、その一歩を踏み出すことが難しいと、はっきりと示していた。15年マーケターとして勤めてきた身に、数字の持つ意味は重い。大半のユーザーは「やらなきゃ」と頭ではわかっている。調査結果に裏付けられた多くの「踏み出せない」人たちの背中を押すにはどうしたらいいのか……。

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自分は人生の節目で、ある人にいつも背中を押してもらっていた。一番身近で、一番遠い存在。いつか同じ舞台で、と願いながら、ついに叶わなかった。その人の率直で真摯な言葉に背中を押されて、自分は大事な決断をしてきた。思い切って、次の一歩を踏み出すことができた。

背中を押すものとして「誰かの声」はあるかもしれない。手早く汗を拭うと、トレーニングルームを出て仕事に向かった。

■「自分にできることは、なんでもやろうと」

松坂恭平さん、39歳。

アスリートのためのブランド「UNDER ARMOUR」などを取り扱う株式会社ドームで働くマーケターだ。現在の肩書きはブランドマーケティング部長で、主に商品プロモーションの企画などを担当している。この冬の基幹企画も手掛けることになっていた。朝のトレーニングをしながら、頭では「いかにアスリートの成長を後押しできる企画にするか」を考え続けていた。

松坂さんはそうした仕事のかたわら、社業を伝える発信もしている。昨年の年初にはYouTubeチャンネルを開設した。大きな反響を呼んだのが、noteに綴った記事「松坂大輔と松坂恭平の兄弟の差はどこで生まれたのか」だった。

松坂恭平さんは、あの「平成の怪物」と呼ばれたスーパースター、埼玉西武ライオンズ・松坂大輔選手の実弟だ。

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「自分からは語らないようにしてきたんですけどね」

松坂さんはそう明かす。

「ブランドマーケティングの仕事を始めるにあたって、少しでも社業にプラスになればと思って書きました。自分にできることは、なんでもやろうと。兄弟ネタは禁断の一手でした」

兄は甲子園で名勝負を重ね、春夏連覇も果たして高校生にして国民的なスターになり、プロ入り初年度から3年連続最多勝。メジャー移籍後の2008年に挙げた年間18勝(3敗)は、現在も日本人歴代最多記録だ。

松坂さんも名門・法大などでプレーし、卒業後はプロを目指して野球に取り組んだ。それゆえに、兄と比較され続けた。

「でも、早々に気にならなくなったんですよね」

東京六大学野球のリーグ戦で登板した際に、相手ベンチから「兄貴があんなにすごいのに」とヤジが飛んできた。ああ、高校生だけでなく、名門大学の学生でもこういうことを言うのか。その瞬間、ふっと気が楽になったのだという。

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ずっと気にしてきたことは、別なところにあった。良かれと思って受けたインタビューで、兄について好意的に語っただけなのに、その記事がきっかけで兄が批判される。そんなことが何度もあった。何か発言をすると、兄に迷惑がかかるのではないか……。

「兄はいつも『俺のことなら気にするな』と言ってくれるんですよね。でも、兄の家族や親戚にまで批判が飛び火をすることがあって、そういうときは、さすがに辛そうにしていた。ああ、兄について迂闊にしゃべってはいけないんだな、と」

■アスリートへの深い理解

兄の背中を、ずっと追い続けてきた。同じ競技じゃなければ、ここまで比較されることはない。

もちろん、理解していた。身体能力もセンスも、他の競技でも一流になれるだけのものを持ち合わせてもいた。だがそれでも、野球をやめようと思ったことはなかった。

「いつか兄貴と一緒にやりたい、という気持ちがずっとあったんですよね。簡単じゃないのはわかっていたけど、ずっとそう思っていました」

大学卒業後も、野球を続けるつもりだったが、内定をもらっていた企業の野球部が、入社直前に廃部になった。しかたなく、数カ月間たった一人で練習を続けることになった。そんな時、叱咤激励してくれたのは、兄だった。励ましながら、「今のままではダメだ」とも言ってくれた。兄に背中を押されて、再びの就職活動でたどり着いた先が、UNDER ARMOURの日本総代理店である株式会社ドームだった。

会社のスタンスは、想像以上にアスリートへの理解が深かった。入社間もなく、幹部に「本当は独立リーグに挑戦したい」と心の内を明かすと、「他の競技でも事例があるので、会社を辞める必要はない」と言って休職扱いで送り出してくれた。

「本気で『アスリートを応援したい』と考える会社なんですよね。アパレルやシューズのデザインが他の海外ブランドと比べると、ものすごく無骨だなあ、と感じていたんです。でも、それも『アスリートのため』を突き詰めた結果だとわかり、納得しました」

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2006年、松坂さんは四国アイランドリーグのトライアウトに合格し、愛媛マンダリンパイレーツに入団する。兄と同じNPB入りを目指し、野球を続けることになった。独立リーグでは、年間90試合以上もプレーする機会を得られた。

「法大でもレギュラーではなかったので、そこまで機会をもらえるのは人生ではじめてでした」

練習を重ね、自分の中で眠っていた可能性が花開いていくのを感じた。その年の年末。株式会社ドームの幹部に「もう少し勝負させてください」と申し出て、許可される。2年目はショートでレギュラーに定着した。周囲は「NPBにいけるぞ」と鼓舞した。

だが、松坂さんは上手くなって試合の出場機会が増えるにつれ、あることに気が付いた。

「独立リーグには素晴らしい選手がたくさんいました。NPBに入れる選手もいた。でも、NPBで活躍した選手は、ほとんどいない。リーグで通用するようになって、そういうところが見えてしまったんです」

自分はきっと、NPBでは通用しない。決断しないといけないのは理解していたが、友人や知り合いに相談すると皆、「可能性があるのだから、とりあえず続けた方がいい」と口をそろえた。

一人だけ、まったく違う考えを示したのは、兄だった。

「もう、やめた方がいい」

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■兄の言葉

「20歳ならともかく、今の年齢のお前をとる球団はない」

直球だった。だからこそ「頭で理解していながら動けなかった」恭平さんの背中を押した。周囲が「続けた方がいい」と励ましてくれたのは素直に嬉しかったし、今も胸に残っている。

一方で、兄の言葉には、覚悟や重みを感じた。

「これまでの経験はかならず、社会人になっても生きる」

心は決まった。

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恭平さんは株式会社ドームに復職する。配属されたのは、スポーツマーケティング担当。主な業務は有力アスリートと契約を結び、UNDER ARMOURブランドのギアを使ってもらうように提案し交渉することだった。

「主にプロ野球の担当でした。試合がある日にスタジアムを訪れると、とにかく選手や関係者みんなに一度は話しかけていました。当時の球界に、話をしたことのない選手はほとんどいなかったですね」

恭平さんは、単に気さくな営業マンではなかった。
福岡ソフトバンクホークスの松田宣浩選手はこう証言する。

「選手の気持ちがわかる担当さんが来たな、と思いました」

各メーカーとも、野球の経験のある者を担当にしていたが、プロ経験を持っている担当となると、なかなかいない。

「選手の要望を汲み取った提案をしてくれる。そしてなにより、選手のパフォーマンスが上がる用具を仕上げてくれる。この人は違うなと」

独立リーグでの経験を活かした細やかな気配りで、「アスリートファースト」の姿勢が伝わり、多くの選手がUNDER ARMOURを使うようになった。

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経験は生きる。兄がかけてくれた言葉どおりだった。

「大学を出てすぐの僕だったら、ああはいかなかったと思います。独立リーグでプロの経験をしたからこそ、選手の気持ちに寄り添えたんだと思います」

松坂さんは実績を買われ、商品開発部に異動した。そこでもヒット商品を生み出し、社業に大きく貢献した。マーケティングの勉強は性に合っていた。本を読むのも、データを集めて検証するのも、楽しいと思えた。加えて「アスリートはこういうものを求めている」という知見も生きた。天職があるとすれば、こういう仕事なのだろうか。兄にとって、野球選手がそうだったように。

2020年4月。松坂さんは、ブランドマーケティング部に異動した。個々の商品だけでない。UNDER ARMOURというブランド自体を、どう売っていくか。そんな重要な仕事を任されるチームの一員になった。

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■伴走し、さらなる高みを目指す

松坂さんが手掛ける今年の冬のプロモーション企画は「勝者は冬に創られる」と銘打たれることになった。冬場の地道な努力こそが、自分を大きく成長させてくれる。頭でわかってはいるが、一歩を踏み出せずにいる。そんなアスリートの手助けになりたい。自分も背中を押されて、今がある。

「アスリートの声が、やはりなによりも大切ですね。みなさん、すでに答えを持っている。でも、それをそれなりの立場の人がもう一度言ってあげることが、すごく大事なんじゃないかと」

誰かが背中を押してくれることが、どれほど大事なのか。
トップアスリートである松田選手もこう言う。

「僕らプロ野球選手でも一緒です。『がんばろう』とは誰もが思っている。でも、最後に背中を押してくれるのはいつも、ファンのみなさんの『がんばれ!』という声なんです」

「勝者は冬に創られる」は、ユーザーにUNDER ARMOURが伴走し、さらなる高みを目指す企画だ。

「僕らの声で多くの人々の背中を押すことができるなら、そんなにうれしいことってないですよね」

入社が内定していた会社の野球部が廃部になった。そんな偶然も手伝って入った会社との縁は、もう15年も続いている。

「長く勤務できているのは、やっぱり会社の文化とか、理念とかに共感できたからだと思うんですよね」

会社のトップ、安田秀一CEOの忘れられない一言がある。

「パイの取り合い、というような仕事をしなくていい」

例えば、他社のサプリメントを使っているアスリートと会ったら、安田さんは「ちゃんと使い続けてくださいね。続けてこそ、身体は変わりますから」と声をかけるのだという。自社の製品を薦める前に、まずアスリートとしての成功を願う。そんな理念に共感して、恭平さんはUNDER ARMOURで働き続けている。

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今年からは、新潟に拠点を移してフルリモートで働いている。スポーツを通して、地域を活性化する。そんな事例をつくりたいからだ。

「スポーツを通して、一喜一憂する。人は、そういうものを必要としている。それはコロナ禍で再確認したことです。スポーツには、社会価値を創造する力があります」

■自分なりのスタイルでスポーツ界を盛り立てていく

弟は自分の道を歩みだした。そして、兄にとっての「節目」を見届けることになった。2021年、松坂大輔さんは現役を引退。「同じフィールドでプレーする」という弟の夢は、夢のままで終わった。

「今は、それだけが『一緒にやる』ことの全てではないような気がしています」

野球で、スポーツで、価値を生み出していく。

「兄貴はこれからも野球界にとって、スポーツ界にとって、大きな存在であり続けるんだと思います。僕は僕で、自分なりのスタイルで、スポーツを通して社会に貢献していくつもりです」

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text by Daisuke Shiohata
photographs by Hideki Sugiyama

唯一無二のスポーツ総合誌「Sports Graphic Number」。創刊から1000号を超えたいまもなお、アスリートやスポーツに携わる人たちの物語を、ダイナミックなビジュアルと独自の切り口で描いている。そんなNumber編集チームがおくるBrand Storyは、その瞬間の物語に焦点を当て、個人のみならずチームや企業の熱い想いをお伝えします。