よるあるき
ふと思い立って外へ出た。生物が寝静まり、穏やかになった暗闇へと歩みを進める。光といえば、コンビニエンスストアと自動販売機と少しの街灯のみである。車の通りも少ない。あてもなく、なんとなく知ってるような知らないような道を歩く。
彷徨っていると、白い猫がいた。猫はこちらを一瞥したかと思えば、何処かへ駆け出していった。野良猫はよく見かけるが、白い猫は珍しかった。数メートル走って追いかけたが、いつの間にか見えなくなってしまった。
スマホも持たず、ジャージで空を見上げて歩く。星々が鮮明に綺麗に見えた。砂漠にいる気分だった。光もなく、方向も分からなくなってしまっても、この夜空が、私をオアシスか、または桃源郷か、導いているような気がした。
思えば、この1年間、色々な場所へ行った。仙台、福島、東京、沖縄。旅行費でお金は無くなったけれども、相応の、いやそれ以上の価値や経験を得た。ただ遊んだだけじゃない、断じてラブホで友人と爛れた行為をしていただけじゃない。様々な人の人生を、人生観を、文学を、美学を、苦悩を、葛藤を見た。色々な場所の空気を、形を、色相を、映像を、光を、人間を見た。
時に、躓いた。8年間付き合ってきた彼女が居た。ずっと遠距離であったが、一年に数回は必ず会っていた。しかし彼女は性行為ができない身体であり、人目や、友人の目や、家族の目を酷く気にしていた。殆どは電子媒体の文字だけで、直接、現実世界で『好き』という言葉がなければ、ハグや手を繋ぐことすら無く。高校卒業間際、私は親父を亡くし、酷く悲しみに心を溺れさせていた時だった。強く抱きしめられ、彼女にこう言われるのだ。『私は、ずっと一緒に居るから。』
私はその言葉を信じた。思春期から抑圧してきた、今にも彼女に暴走してしまいそうな性欲を、二次元の同人のコンテンツで昇華させた。親父の遺してくれた金を容赦なく投じた。だが、それだけでは足りなかった、遠距離で、満たされることのない欲情、ぐちゃぐちゃになって裏垢を作った。私の性欲のために彼女に迷惑をかけられなかった。何度直接相談しても、明確な回答はなく先延ばしされ、誤魔化され、耐えられなくなった。間違いなく好きだったからこそ、他に心の拠り所を求めてしまった。
彼女も、どうすればいいかなんて分からなかったのかもしれない。時々、彼女は言っていた。『私と一緒になっても、良い事なんて何も無いよ。』と。うるさいな、だったらとことん落ちるところまで一緒に落ちていくよ。それが私の本心からの答えだった。しかし停滞していた。遠距離で、年が経てば経つほど、空虚感に襲われ、性欲に襲われ、あまりの思い出の無さに苦しんだ。
そんなとき、2日年上の、朋友と出会った。SNSで出会って、毎日通話するほどの仲になり、福島でも会った……初めてのラブホだった。もちろん彼女にも説明した、そういう人と出会ったこと、福島で会うこと、もしかしたら『そういう行為をする』かもしれないこと。彼女はあっさりと了解してくれた。『ちゃんと分かってる』と。『信じ続けた甲斐があった』と。『欲の吐き出し場所を見つけられてよかったね』とーー。
9月18日、8年目にして突然この恋愛は終焉を迎えた。『大事な話です。親とも相談をして、自分のせいで辛い思いをさせ続けるくらいなら離れた方がいいと言う結論が出ました。急にごめんなさい、返信は入りません。今までありがとうございました。』
積み上げてきたものが崩れる恐ろしさを再び知った。心が壊れた、人間というものが怖くなった、地元に帰れなくなった。分かっていた、自分のせいだ。でも、お前だって、8年も付き合っていて、何も心の内を伝えてはくれなかったじゃないか。『迷惑をかけたくないから、私と一緒になっても幸せになれないから、好きだからこそ、もっと他の好い人と幸せになってほしい、そしてそのきっかけを見つけてくれた今だからこそ、私なんかよりもっと良い沢山の人と出会って』そんなところなのか。私はお前を想像でしか読み取ることしかできなかった。でも、私は超能力者ではないんだ。
猫は喋っているか、それとも黙っているか?奴らは救いを求めるように鳴くが、実際ひとりでも生きていけるのだ。媚を売っているように見えて警戒を怠らない瞳は私を見ているか?猫は語らない。語らないが、一挙手一投足に意味を持たせている。視線、立ち居振る舞い、尻尾の僅かな震え、何もかも。それを一方的に受け取るだけ。対話というより受信。
同じような目に遭っていた泣き虫の虎の子たちは、肩を震わせて抱きしめ合いながら泣いた。いつから虎は強いと錯覚していたのだ。私達は生物だ、ナイフで刺されれば死ぬのだ、病気で簡単に死ぬのだ、言葉で殺されるのだ。今は辛うじて一命を取り留めているだけなのだ!
心の雲を晴らしたいのなら会いに行けばいいじゃないか、『するべきこと』をすればいいじゃないか、どうして変化を怖がるのだ、と人は簡単に言う。馬鹿者め、同盟とも中立とも敵対とも分からぬ領地に備えもなしにどうして入り込めようか。簡単に背中は刺されるのだ!変化を怖がっているのではない、停滞前線が晴れるのを待っている、それだけ。
知り合っておおよそ1年になる朋友は、福島、東京、沖縄、そして秋田と四回、会いに来てくれた。今では毎日のように通話している。なのにお前はなんだ、一度たりとも私に会いに来てはくれなかったじゃないか。なんだったのだ、8年間も遠距離で恋愛を続けてきて、私達の関係はその程度だったか、思い出ですら、スマホの中の数枚の写真とLINEのトークだけだ。
暗闇の中に自動販売機の光が見えたので、立ち寄る。ラインナップは特に魅力を感じない。財布の中の小銭が足りないので仕方なく1000円札を崩す。飲んだこともないような缶コーヒーに手を出す。冷たいのに、温かかった。
私はあまり外界に出たがらない、地底人であった。外出といえば、大学に行く、買い物へ行く、サークルに行く、その程度だった。しかしこの一年を通して、朋友と出会って、引っ張り出されて、自分は変わってしまったように思う。福島へ行けた、ラブホへ入った、東京へ行けた、舞台を観た、沖縄へ行けた、ショップへ入った、飲食店も居酒屋も、映画館も美術館も、何も怖くない、といえば嘘になるけれど。
暗闇の先、砂漠、どこまでだって行ける気がする。