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愚か者の雪像

7月8日。岩手県北の文化施設で働く新卒のもとに、その案内は届いた。
岩手芸術祭文芸作品戯曲シナリオ部門公募――。

この新卒というのは7年間演劇を続けてきた男である。高校では演劇部、ミュージカルで東北大会まで進出し、大学ではサークル4年間、中心核として舞台監督・演出・脚本・音楽制作・役者なんでもこなした。4年次ではコロナという災禍・卒業論文・就職活動に揉まれながら、なんとか学務課を説得し、30分ほどの小さな公演を成し遂げたものの大目標であった卒業公演は中止。有終の美を飾ることなく、不完全燃焼なままであった。

そんな彼である。公募に釘付けにならない理由が無かった。しかし、公募の案内を一通り目を通したところで、複雑な気持ちになってしまった。彼の就活は3月上旬まで内定ゼロという酷い有様で、災禍を恨み、激減する募集を恨み、自分の不甲斐なさを恨み、自分を落としたところの求人票は1cmの破片になるまで破き続けた。この公募の主催団体はそのうちの一つであった。

デスクで睨めっこしているうちに、気不味さより「あの日の雪辱を晴らすは今この時!」というような念が浮かび上がってきた。彼は、小説書きに勤しむ同居人にこれを共有し、暫くはキーボードを叩く日々が続いた。今まで書いた既成作品のいずれかを錬磨して応募しようかとも考えたが、とにかく書きたい気持ちが強かった。締め切りは8月31日、一心不乱に考え続けた。

そして、8月中旬頃、やっと彼は初稿を書き上げた。しかし恐ろしいことに原稿用紙70枚という大作であった。20枚分を削らなければならない。彼は顔をしかめながら「戯曲という形式はト書きと台詞が入り混じるのだから改行は多くなる!原稿用紙には不釣り合いだろう!」などと言い訳を垂れ流していた。それからは死に物狂いで何度も作品を読み、締め切りの48時間ほど前になってやっと50枚まで削りきった。凄まじいほどの達成感、その裏側で懺悔の気持ちに駆られた。「きっと僕は、いつか殺した20枚分の言葉たちに復讐される。」

2か月に満たない期間で書き上げ、公募のために最大まで圧縮・最適化された戯曲。メールで応募完了した後、彼はまさか自分が受賞するとは思っていなかった。だから奨励賞受賞という文書が届いたときは世界の全てを疑っていた。「この世は狂っている。」ちなみに同居人は佳作であったが、某読書感想文コンクールで優秀賞を成していた。

そして12月11日、彼にとって授賞式は初めてだったので服装も分からず、無難なスーツに決めて車に乗った。これであれば写真に写っても恥ずかしくないだろう。しかし、思いも寄らず会場に早く着いてしまったので、駐車場一台分を借りて車を置き、スーツを隠すようにジャンパーを上に着て、周辺を適当に散策していた。

そしていよいよ授賞式の会場に入ったとき、彼は顔を青ざめた。誰が悪いというわけではない。彼は、まるで自分が庶民の分際で社交場にパッと出てきてしまったような場違いの念に駆られたのである。飛び込んで挨拶ぐらいした方が印象は良いはずだとは思いながら、どうしてもその勇気は出せず、ただ自分には荷が重いような賞状を受け取るであろう壇上を見上げていた。隣席の、優秀賞を受賞された戯曲家の存在を知覚しながら、気まずい思いであった。その戯曲家とはSNSを通じて簡単な交流をしていたので、せめて……とは思いながら話せたのは授賞式終了後のロビーであった。そして中身のある話もできずに、あまりの空気感にやられて、逃げるように会場を去った。実際、この後東京に行く用があったので言い訳こそ作れたが、彼は貴重な時間を無駄にしてしまったような後悔に駆られていた。

「演劇に正解は無いから」という戯曲家の言葉が、やけに彼の脳裏に焼き付いていた。野球の投げ方、打ち方、走り方とは異なり、演劇の芝居論にはこれという決まった型は無い。戯曲なんて日本劇作家協会に『自分が戯曲だと思ったものが戯曲です。』と書かれているぐらいである。そのうえで、授賞式で頂いた文芸作品集の巻末、選評を読んだときは酷く苦しい気持ちであった。演劇とはなんだろう、芝居とはなんだろう、エンターテイメントとはなんだろう、それらをひたすらに自問自答していた。彼の信念の中枢には『もっとも崇高な芸術とは、人を幸せにすることだ』というP.Tバーナムの名言がある。授賞式の後日、東京のミュージカルを観劇したとき、自分のやっていることとの差に愕然としてしまった。高校のミュージカルをやっていたころの自分の強さに嫉妬した。さらに正直な話、地元劇団のレベルは、あまりにも馬鹿馬鹿しく低いのだと痛感した!

井の中の蛙、大海を知らず。ならば大海の鯨、井の中を知らず。なんて啖呵を切っていた彼である。その真意は、都会の芸術体系が全てではないという小さな田舎者の抵抗であった。しかし本質、大海は井の蛙を呑み込み、彼のベールを塵一つ残さず剥ぎ取った。ただ都会を毛嫌いし、東北の土地が好きなだけ、そこに中身など存在しない!何事においても、意味付けや理由付けなどは後だ。彼の戯曲でさえ、コミュニケーションの功罪だなんだと評価を受けたが、100人読んだら100通りの後付けが成される。そこに確固たる正解は無い。そのテーマは時世によって、読む人によって、演じる人によって変わり続ける。流れに逆らおうとしても無駄である、流れに身を任せさえすれば、いつかは岸にたどり着く。

彼の書いた戯曲は、どこまで行き着くだろうか。きっとこれを踏み台にして、どこかの誰かを、何かをネタとしてただ無意識に消費していく。今までの何十枚と冷たく降り注ぐ言葉たちの骸を背負いながら次の物語を紡いでいく。

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