誰がための人生か ーユンヒへー
私にも当てはまる。
自分のためではない人生。
家族のために選んだ人生。
結局選ばなかったのだ。
結局は選ぶ勇気がなかったのだ。
私は結婚もしていないし子供もいない。
それは、自分が好きな人とは法律上の誓約である結婚ができないからで、
自分が望む人との間に子供を作ることが出来ないからだ。
私は愛する人との法律上の繋がり、そして血の繋がりが欲しかった。
どうしようもない憧れは消えることはない。
でも、それらが出来ないとしても選べるものはあった。
ただ愛する人と一緒に生きたかった。
でも、私は敢えて選ばなかったのだ。
そして、彼女も選ばなかった。
家族というしがらみを捨てられなかった。
母は私の収入無しに生きられない。
母の生活力が無かったわけではない。
国政によって年金を削られ、一人では生活がままならない金額だと年金を受け取る年になって突き付けられたのだ。
母もそんな国民の一人で、私もそんな親を持つ国民の一人だ。
母は身体が丈夫ではない方で、高齢になっても働き続けることは出来なかった。
そして、母を一人で生活させるほどの収入を私が得られなかったし、今も得られていない。
かつて私の愛を『勘違いだ』と言った母と、かつて私に『あなたは、あんな病気ではなない』と言った母と、今も一緒に暮らしている。
父は生きている。
でも父は『他人』と一緒に暮らすことがままならない。
『自分本位な神への信仰』を振りかざし、社会の中で他者と生きる事が非常に困難な人。
『ユンヒへ』は、自分と重なる部分が多い。
どうしようもない焦燥感。
どこにも行けない閉塞感。
時折思い出す彼女。
もう、手紙は書かなくなったけど。
たまに書きたくなる。
私の好きだった人は結婚して子供もいる。
私は『ジュン』の立場に近い。
雪が積もって、世界が見えなくなってしまえば良いのに。
そう願う日々と、降りしきる季節が過ぎ去ってほしいと願う日々。
どうしようもない孤独の中、密やかに息をする。
いつ終えるとも知れない雪を眺めて。
親の死とは皮肉だけれど、一つの慰めにもなる。
自分を引き留めていた足枷が消え、自罰的な日々はある兆しを見せる。
きっとジュンは、父親が生きていたらユンヒの娘と会わなかっただろうし、予感していた再会を選ばなかっただろう。
叔母もジュンに愛情を示さなかっただろうし、あの瞬間、叔母自身も自分を許したのかもしれない。
正直、私にもそんな時がやがて訪れると思っている。
ようやく許されたと思える日が。
そして、誰かが幸せになって自分の元を去ることも、時には慰めになる。
別れた夫が再婚すること、娘が一人前に巣立っていくこと。
許されたと、解放されたと安堵する。
空っぽになって初めて、自分だけを見つめられる。
自分が求めるものだけを見つめられる。
それでも、私たちは一人では生きられない。
だから、全ての人の願いを同時には叶えられない。
何かを選ぶということは、何かを捨てるということでもあり、何かを後回しにすること。
でも、後回しにした何かも、やがてその日はやって来る。
その時、自分の心に嘘をつかずにいられるかは、やっぱり自分次第で、その日までに立ち上がれる勇気を自分も持てたらいいなと思う。
勇気を持つ準備に、それだけの時間が必要だったということじゃないのかな。
物語のその先に、今度は二人のための人生があったらいいと切に願う。
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