![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/133434309/rectangle_large_type_2_b518c6fe0f649dfc02bbe18e12c8f795.jpeg?width=1200)
【批評めいた感想 #01】『坂本龍一トリビュート展 音楽/アート/メディア』
『坂本龍一トリビュート展 音楽/アート/メディア』@ICC に滑り込みで行ってきた。
ぼくの音楽の中では、あえて「アンビエント」と謳ったものはありませんが、そこかしこにそういう要素は入っていると思います。
展示会場を出るとき、このように坂本龍一が『スタジオ・ボイス』誌の取材に答えていたことを思い出した。ブライアン・イーノがエリック・サティの「家具の音楽」から得たヒントを手がかりに、ジョン・ケージ〜現代音楽、サウンドアート、サウンドスケープの文脈から拡張した坂本龍一のサウンドにアンビエント性を見出すことはできると思うが、その音楽はアンビエントそのものを志向しているわけではなかった、ということを実感させられたというわけだ。
アンビエントは音楽の一種というよりも、ある精神状態を表す言葉
アンビエントは「作り方」の態度ともいえる
細野晴臣は『アンビエント・ドライヴァー』のなかでこう綴っていたが、「坂本龍一のアンビエント性」はこういった作家の内的な動機を重視するようなものとは全然種類が違うもののように思う。坂本龍一の鳴らす音は外的な動機に基づいている、もっといえば内側から社会とつながるためのメディアとしてのアンビエントではなく、社会のうねりに音で反応したり、西洋音楽以降のサウンドの発展の先でアンビエント的ともいえるものを模索していたのではないか……カールステン・ニコライとEnsemble Modernとのコラボレーションである『utp_』制作ドキュメントを見てそんなことを考えた。
「アンビエントはオタクたちの四畳半音楽として部屋のなかで自己完結せずに地球全体とつながっていくように感じられた」と、細野晴臣が書いていたことと裏表というべきか、逆の回路をたどって紡がれた音楽にアンビエント性を見いだしているというか……『Playback』のフィールドレコーディングにしても、「地球」とつながるためではなく、人と社会や都市、環境とのつながりを再確認するために、あるいは再定義するための実践だったのではないだろうか。さらに言えば、『設置音楽2』のインタビューではラ・モンテ・ヤングの名前を出しているが、『utp_』の時点でもエレクトロニカ以降の音楽を模索するなかでドローン的な表現に着目した結果、そのサウンドをアンビエントとしても聴くことができるのではないか、と。
その後、USアンダーグラウンドでドローンミュージックがニューエイジ的なものと接続していったのとは別の事象として、坂本龍一のドローンの実践はポスト・クラシカルの文脈にあっただろうし、その両方を備えたのがOneohtrix Point Neverの足跡のような気もしたし、何よりLaurel Halo『Atlas』はこの文脈を最良の形で推し進めた作品のように思えた。そんなことを4時間くらい考えさせられた素晴らしい展示だった。