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消失点④

 昼夜を問わない。そもそも時間帯だけではなく曜日の影響もさほど受けることがなくて、いつ来てもこの街は若い人々でにぎわっている。
 長年勤め上げた会社を定年してからめっきりと外出は減り、毎朝決まった時刻の電車に揺られる習慣に終わりを告げてから久しく経つ。駅構内が最大級に込み合ったラッシュ時にしか縁がなかった私には、大抵座れる空いた車内には依然として戸惑いが少なくない。不定期の外出。だが、次第にではあるが多くなってきている。心身ともに若かった現役時代とまではいかないまでも、新たに打ち込める仕事が見つかり気持ちに張りができつつあって胸を撫でおろしている反面、自らの行いを私自身が辛辣に問い質しもしていて、同時に、私自身が精一杯庇ってもくれていた。
 大学生くらいの年代の若者が頻繁に乗降車する、一日中せわしない駅で降りた。ホームから、ビルの上部に掛けられた暖色系の看板の数々が私を迎えてくれる。
 主要の出口を出て、片側二車線の道路を歩き出した。若干翳りつつある太陽は私を正面から照らし出し、瞬きするたびに光の棘を八方に散らす。すぐに大きな交差点に捕まった。道路をはさんで待機するたくさんの人々が、前面を埋めていく。やがて行き場を失い後ろに溜まりはじめ、徐々に厚みを増して巾を利かせると、目の前の車の流れはまもなく止んだ。
 大挙して人の群れが、押し寄せる。
 西日に後押しされたその歩行者たちはまるで日射しに仕える従順な兵士のようで、忠実に私の行く手を阻んでくる。スーツ姿のサラリーマンたちが居、平日の、夕暮れにはまだ余裕がある今、こんなところを私服で歩いている男は彼らにはどのように映っているのか酷く気になった。
 外へ出るたび、社会とのつながりが切れてしまったことを痛感する。会社員である私がいなくても、世界はなんの支障もなくまわっている現実に淋しくもなった。今の私は、労働力ではない何か、生産性のない誰か、無用の長物、後は残された余生をひたすら消費するだけの獣なのかもしれない。ショルダーバッグを掴んだ。これが今の私の、よりどころ、存在意義、世の中との大切な接点であり、けれども、それも単なる弁解でしかないのかもしれないと簡単にその自信は雲散してしまい、前後不覚に陥りそうになる。
 二の腕が、背広の肩パットをかすめた。横目で、おたがいに頭を下げた。
前を向くと視界一面に大勢がなだれてくる。友人たちと夢中で喋り、うつむいて携帯電話をいじり、足早に駅へと急いで行って、皆が皆早送りのようにせわしなく、面喰らってしまい横断歩道の途中で立ち往生した。陽光が明るく、直視できない風景はただでさえ鮮明さに欠けるのに、加えて群衆の増援を得た街並を歩くのはとても大変だった。
 私の速さが減退しているのか、街が速度を増しているのか、わからない。
 十分も歩けば、駅前の喧騒を置き去りにできた。膝は、まだまだ頑丈だ。今でも、駅ひとつ分の距離くらいなら余裕だと思う。大病もまだ罹ってない。強いてあげれば、視力の低下、やけに高い血圧、物忘れ、皮膚に湿疹ができやすくなったことくらいか。
 大通りから、一本内側へずれ込んだ。たったそれだけで、自動車のエンジン音が、底から全身を打ち据えてくるような都市の振動が、遠くなる。
 低層住宅の一角を歩いた。左の袖に右手を入れ、吹出物のかさぶたを爪でつまんで引っ張りつつ、同じ道を右折し、右折して、さらに右折をくりかえした。歪な円を描きつづけた。
 地面に根を張った不動産は決して様相を変えるはずもないのに、日中のそれと、日が暮れた時分とでは、まるで別世界のように私には感じる。おそらく日射しの強さ、角度、雲の具合や季節とか、気分も湿度とかも、様々な要因によって家々の色味は微妙に違ってくるのだろう。
 前から歩いてくる金髪のロングヘアの男がこちらを凝視する。サテンの生地に日光を反射させ真っ白い畝を波打たせながら近づいてきて、直前になってやっと、羽織っているその上着には架空の動物がいろいろと刺繍してあるのだとわかった。上目遣いで、私は視るでもなく観、たすき掛けしたショルダーバッグを小さく叩いた。肯いた。金髪の握り拳から突き出された親指の方向に従い、キャラメルの集合体のような外壁をしているマンションの玄関へと向かった。
「パケ、先もらっていいすか。」
 なぜかヘラヘラ笑い、男が云った。
 ショルダーバッグの二重底を開け、彼に渡した。海外旅行に行く際、妻に買ってもらった品だ。防犯のため、隠しポケットがいくつもついている。
 物事をそつなくこなし、相手にもそれを望んでやまない妻は、私の紛失癖にいい加減うんざりしているところがあって、だから愛する夫へのプレゼントという類の物でもなく、私が旅先で大事な持ち物を失くさないための、多いポケットひとつひとつにルールを課して徹底させ、いらないトラブルに妻自身が憤慨しなくて済むための、予防接種みたいなものだったのだ。そういえばあなたってファッションとか今更気にします? 別にしませんよね? 興味ないですもんね。毎日毎日おんなじジャージでウロウロしてるんですし。どこへ行くにもおんなじジャージなんですし。いつもの仏頂面に、苦く笑うしかできなかった。
 そして合理的に出来ている彼女は機能を、達成すべき目的を最優先し、調べてみたところ一番安かったというサイトで購入した。もったいぶった包装はなかった。そもそも私が、配送業者から玄関で受け取った。手に取った時の第一印象を云えば、私の年代が持つには少々派手な色味ではあったのだが、それでも、いまでも大切に愛用している。
 そんなふうに判で押したようにいっつも暗い色ばっかりで。お葬式じゃあるまいし辛気臭い恰好ばっかしなさんな。
「数は合ってますか?」
「うん。OKOK。」
 差し出された万札をつまんだ。開けたままの鞄の口に目を落とした。受け渡しは滞りなく済んだと思ったのに、けれども彼は逆の端を離さずに持ったままで、アハ、と一言だけ発し、自分の胸元に代金を引きもどそうとする。
愛想笑いした。小さく、瞳だけでお礼を伝えた。どうも。遅れて呟いた。アハハ。開いた瞳孔がまた笑った。急速に動悸が激しくなり、下腹部にあるショルダーバッグをなんとなく左掌でにぎった。いけないんだぁ。おじいちゃん。こんなもの売ったりしちゃあ法律違反なんだよ、知ってた? 面目ない。うつむき、囁く程度の大きさで答えた。
「おじさんさぁ、これどっから仕入れてるんすか?」
 口の両側に、いやらしいほうれい線が窪む。
 金を引っ張っても動かず、その場で膠着した。
「私も雇われてるだけなので、それはなんとも。」
「やっぱそっち系の方々なんすか? 仕切ってるのって。」と頬に人差し指を走らせた。具体的には何も答えず、私は細かく肯き、来た道を指差した。
「こっちもはやく車にもどらないと怪しまれますので勘弁してください。私は借金抱えてて、ずっと監視されてるから多分こういうことはやめたほうがいいかと思います。今もすぐそこで待ってますので。正直危ないですよ。」
 恐怖から、自然と饒舌になった。指がはずれた。突然破られた均衡に、金を掴んだ腕がすこしうしろに飛んだ。ウェーーイ! 腕を振り上げた。掌を高く掲げて、金髪の彼はハイタッチを強要した。もぉう冗談っすよぉ、そんなに怒んないでくださいよぉ! おそるおそる、挙げられた手にそっと掌を合わせると彼の体温が伝わってきて妙に気持ち悪く、意識もしないのにすばやく掌が引っ込んだ。チャックが空いた上着から、レッドツェッペリンのTシャツがちらりと覗いた。やっと自由になった札を角度の小さな扇にひろげ、目算すると、ひとつに重ねた。半分に折り曲げ、もう一度折り曲げて、拳で硬く握りしめた。温厚を自認する私がめずらしく頑なになり、私は相手を睨みつけた。
 若い世代への対抗意識ではなく、断じて金への執着心でもなくて、目上の人間に敬意を払わない彼の態度にはらわたが煮えくりかえったというわけでもなかった。この時私が堅守しようとしていたのは、もっと大事ななにかだったのだと思う。
 きれいごとではなく、人生を豊かに送るうえで、必ずしも稼ぎ出す金銭の多寡が物差しではないとは思う。しかし対価を得るたび私は自信をみなぎらせていき、働いていた頃の感覚を取り戻していって、充実が心にひろがっていく感覚に酔いしれた。
 まだ社会の歯車一枚くらいは担えると、証明したかったのだろうか。それとも何かから逃げ出したくて、何かを忘れていたかっただけなのだろうか。
「ツレの云う通り質がよかったらまた買わせてもらうんで。」
 媚びを売りはじめた彼に返事をする気も起きず相手が動き出すまでその場に粘り、建物を出て右に曲がった彼の反対を私は選んだ。

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