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桜木花道によろしく⑤

 鉄の棒を湾曲させて象った留め具の隙間に前輪を固定させた自転車が点在し、天井から細長い蛍光灯の光が白々と落ちてくる。朝と比べて停めてある数は格段に減っていて、こうしている間にも車体をバックさせて引き抜き、サドルにまたがって駐輪場から漕ぎ出ていく。暗闇に融けていく。
 日に日に陽は短くなってきていて、すでに辺りは暗く、数百台も収容能力がある巨大な駐輪場だけが妙に眩しく浮かび上がっている。夜の中から、制服姿が滲み出てくる。校舎の明かりは全部落ち、この付近以外は先端の部分が地面にお辞儀をしている照明が所々をほんのり照らしているだけだ。
 教師が乗った車のヘッドライトが闇を放射に切り取りながら、正門をすり抜けていく。
 嫌いな先生の車に内緒でイタズラしたら問題になるだろうかと、真剣に考えた。フロントガラスの端をわずかに割っておくとかボンネットに悪口を刻み込むとかしたら、高校生でも逮捕されるのだろうかと、実行を悩んだ。
 低いダミ声が挨拶してきて、片手を挙げると消えていった。一年たちは俺たちの代とは違い、結構仲良くまとまっている。
 下校時刻は決められていて、それにともなって部活の時間も制限されている。クラスの事情にもよるが大体十六時過ぎにはホームルームが終了し、十八時半までには全員が校外へ出なければならない。だから着替えなどを入れたら二時間にも満たない短いひとときが、練習のために開かれているだけだ。思いの外、費やせる時間は多くない。公立高校だから目覚ましい成績を毎年残している部活はなく、時々個人が県大会まで勝ち上がったりするだけで、そもそも長時間の根を詰めた練習は禁じられている。代替わりしてから早くも半分以上が経過しつつあり、再びチームを組み上げなおしてからも案外時間が経った。
 客観的に見て、つつがなく移行できたわけではないと思う。自分の指名が間違っていたとは考えてはいないけれど、ここまで強権的に、排他的に、二年生が試合に出る機会を奪っても赦されるのだろうかと自問もする。
「チーズたい焼き喰ってかん?」
 岩沼に提案した。
 一年の時に同じクラスになり、部活も一緒。中学時代に話したことはなかったけれどお互いに顔を憶えていたので、仲良くなるのは結構早かった。ウマが合った。今は文理で分かれてしまい教室がある階も違って部活まではほとんど会わないが、大体一緒に帰る。
「ヒガサキんとこのならいいぞ。」
 ぶっきらぼうな声が返ってきた。
 一言で『チーズたい焼き』と言い表しても、岩沼とは理解が違った。俺の言葉が意味しているのは学校から自転車で十分くらいの所にある店が焼く、アンコにチーズをブレンドしているそれであり、だが彼がこの言葉で真っ先に連想するのは帰りの途中に通る名鉄東咲丘駅横にある店の、ハムとチーズを鯛の型押し生地で焼き上げた物のことなのだ。俺から言わせれば総菜パンみたいな中身が入っているたい焼きは邪道であるけれど、岩沼は絶対に認めようとはしない。お互いに譲らない。
「『たい焼き』は甘いのが前提だろ。」
「だって遠いやん。」
 俺の指すチーズたい焼きの店は距離は近いけど帰り道の逆方向にあり、そのせいで毎回分が悪かった。
 正門から三方へ、自転車に乗った生徒たちが散っていく。右に折れる。ちらほらと歩いているのは家が近いか、電車通学のため最寄駅に向かっているかだ。
 部活があった日の帰りは三人でよく帰っていたのに、今はこの面子だ。清々した部分もあり、苦行がひとつ減った気もする。そして、愉しみが増えた気がしないでもなかった。集団でいる分には苦にならないけどふたりきりになったら話題に困ってしまう相手もいる中、岩沼とはそういう付き合いの難しさは感じなくて延々と喋っていられるから楽だった。
 校門から百メートルも離れていない距離でしかも敷地に面して建っている、我が校に寄生した個人スーパーの前で何人かが買い喰しながら管を巻いていた。薄暗い店内の棚はいつもガラガラで、申し訳程度のお菓子が並んでいるだけで、二、三人がそれを物色していて、ドラッグストアよりも高いので誰も買わない洗剤やトイレットペーパーも少し置かれており、レジ横には肉まんやピザまんが蒸されたガラスケースが白く曇って見えた。
「じゃあなぁ!」
 集団に混じっていた本木が俺たちを見つけて、左手を挙げた。
 逆の掌には青いガリガリ君のホセがつままれている。彼は裏表がない乾いた性格のせいか、同性にも人気がある。男前でもちゃんと勉強ができないから、厭味がないのかもしれない。
「アホか! 年がら年中アイスばっか喰っとんな!」「あなたのカノジョさん、今、部室でセックスしてますよ。」
「るっせえ! ヤクチュー! とっとと帰れっ!」
 各々が別々の悪態をついて走り抜けた。
 彼とは帰り道がまったくの正反対で、中学時代には一度も公式戦で当たらずに終わり、学校同士が遠かったせいもあって練習試合で対戦した経験がなかった。
 街の主要道路の右を走る。等間隔で設置された街路灯の光が所々心許なく降り注ぎ、暗くなった歩道にはうちの学校の生徒や違う高校、南城の制服も多く見かける。途中で幅の広い川を渡らないといけないので橋が架かったこの道を通るしかなく、南の方面に家があるほぼ全員が選ぶコースだ。
「亮爾がおらんかったら中学ん時は何もできんかったもんでね。」
「そうなんだ。」
 耳痛く、応えた。
 よく聞く。とりとめもない日常会話をしている最中でも、一年の時分から何かとよく耳にする名前だった。本人には負い目があるらしく、当時の思い出話になると必ずこの一言を添えてくるし、口調が急にしおらしくなる。
 たった今しがた話に出たその彼もミニバス出身者でAチーム、いわゆるレギュラー組だった選手で、岩沼の中学の頃のチームメイトでありエースだった男だ。左利きで身長は一八〇センチをゆうに越えていて、そのせいで小学校時代のフォワードからセンターに移ることになった、楠とは逆のパターンの選手だ。
 この街でバスケットボールというスポーツを選んだ俺たちのような人間は、誰もが咲丘バスケ教室の呪縛にかかっているのかもしれない。岩沼にかぎった話ではなく、皆が皆、もちろん俺も、彼らに本気で憧れ、彼らに辛酸を舐めさせられ、彼らの華に引き寄せられて、すり寄り、崇め奉り、自ら配下に名乗りを上げて、親衛隊のごとく後ろに付き従っていたのだ。
 一校に一人でもいれば洩れなくこの病気を発症し、もしも誰もいなければ健康に過ごせるけどまるで試合に勝てないという屈辱にまみれて中学バスケを終えるしかない。どちらが部活する上で幸せなのかの答えは、いまだに出せない。
 とにかく、幸い、彼は解き放たれたようだ。
 でも、本心は知らない。突然チームの柱を失った時、彼だって当事者の一人であるはずなのにこれからの部活の運営を放棄して無関係をよそおったのだから、それを遠まわしに謝っているのかもしれないとも、ふと考える。真意はわからない。問い質す気は起きない。
「中学ん時は遊ぶのも何でも亮爾のあとについてっとったからね。」
「おん、そーなんだ。」
 素っ気なくつぶやいた。
「わりーかよ。」
「別に責めてねえだろ。」
 そうだ、ミニバスの選手など絶対ではない。恐れる対象ではない、祈りを捧げる偶像ではない、心酔するべき教祖様なんかではない。突出した能力を持った個人がいなくても、チームから性能の良い飛び道具がなくなっても、団体スポーツなのだから戦い方はいくらでも練ることができる。ならなおさら、控えのメンバーも試合に出られるように工夫しなければならないのではないか、毎回ごく一部の選手だけが試合に臨むのであればそれはそれで団体スポーツを否定する歪んだ構造なのではないのか、矛盾だらけの自分自身に吐き気を催す。
「いや、でもマジで亮爾の金魚のフンだったからねぇ。」
 自分に自信が持てないから、反省か批判なのかを確かめられない。
 本心はわからないけれど、それでも、ひそかに、岩沼をうらやましく思う。そうやって当時の自分の弱さを素直に言葉で言い表わせている時点で、彼はすでに、完璧に醒めているのだから。そして、抗うことだけに躍起になっていていまだに羨望からいまいち抜け出せていない俺との違いは、物理的に高校進学で離れ離れになったせいなのか、それとも吉永亮爾が高一の早い段階でバスケを辞めてしまったからなのかは、さだかではない。
 旧友とは自然な形で適度な距離ができ、新たに出会ったミニバス経験者は向こうのほうから居なくなってくれたおかげで、深い耽溺に陥らなかっただけ運が良かったのだと思う。どちらにせよ、岩沼は一早く、咲丘バスケ教室から卒業できたのだ。
 吉永が進んだのは同じ市内の森山高校で、そこには俺たちの代のミニバスやら各校のレギュラークラスが大挙して入学したせいもあり、真剣に南城大付属高校を打倒しようと猛練習に励んでいるとかと聞いた。一年にも一九〇センチ近いセンターが入ったらしく、空中戦でも対抗できる目途が立ったので、俄然やる気に拍車を駆けたみたいだった。勃発したのであろう熾烈なレギュラー争いに思う所があったのかもしれないけれど、層の厚さはうらやましく思う。いや、そうやって簡単に考えられるのは自分がスタメンを掴んでいるからだろう。
「そういえばなんで辞めた? 吉永君。」
「知らぁん。遊びたかったんやね?」
「上手かったやん、背もデカいし。もったいない。」
「彼女とヤリまくっとるから腰痛めたんじゃね。日曜は女の方が絶対にデートしたがるみたいだし。」
 さりげない内容にうらやましさが募る。近しい人間の情報だから嘘ではないだろうし、知らない世界をすでに経験している吉永を、別の意味で尊敬してしまう。
「そういうの、ふたりだけで話さんかった?」
 突然、深く踏み込んできた。
 うろたえた内心を隠しつつ、無言を答えに替えた。
 それ以上の追求はなかった。
 普段、帰りの道すがら、自分からバスケの話や部活の話題はほとんど出さない。後ろめたさを感じていないわけはないし、岩沼も加納も納得できていないのは確かだろうから、会話が白熱したせいで核心を突かれるという逆襲が怖いからでもあった。吉永の名前を聞くたびに謝罪を受けているような、暗に批判されているような、消化できない冷遇への怒りをぶつけたいがためにキッカケ造りをしているようにも勘繰ってしまって、相槌を打っているだけでも思考が複雑に絡み合っていくので気分はあまりよくない。
 彼の目から見れば、俺はいまだに楠の子分のように映っているのかもしれない。
 いつもの交差点が遠くに見える。片側二車線ある大通り同士が交錯していて、横断歩道はなく、正攻法で渡るには地下道を通らなければならない、大きくてやたら面倒くさい交差点だ。
 ここが分岐点で、本来なら俺たちは真っ直ぐ、岩沼は右が帰り道だった。
 地下道なんかほとんど使わない。自転車を降りて階段を下るなんて、その後に昇らないといけないだなんて、とんでもなく煩わしいからいつも車道に出てやり過ごしてしまう。朝の通学時ならたまに警察が立っていたりするけれど、この時間帯なら注意される心配はほとんどない。「まあぁアイツはああ見えてけっこう気難しいとこあるで、部活のノリに馴染めんかったとかかもな。」と、とうに終わったはずの話をまた蒸し返しながら減速し、左側を走っている俺のさらに左に割り込んできた。
 後輪に、前輪が触れた。
「あぶねえって。」
 後ろから突っ込んでくる岩沼のほうが叫んだ。
「なんだよ、おまえこそあぶねえから迫ってくんなや!。」
 結局車道には舵を切れなくなり、右折を強要された。
「俺まっすぐだって。」
「たい焼き喰ってくんだら?」
「ハムのならいらんわ、オレ。」
 寄り道は関係なく、毎日繰り返されるせめぎ合いだ。話していて楽しいと思ってくれているのだろうか、若干遠回りになるけれど、迷惑ではない。
 そして、帰り道がふたりきりになってから始まったじゃれ合いでもある。
「そういえば富士見って今誰と付き合っとるの?」
 部内のゴシップを交換する。
「アイツ嘘交えてくるからわかんねえ。人のことは根掘り葉掘り訊いてくるくせに自分のこととなると煙に巻くクセがあるからムカつくんだよな。」
「細野の乳首をコリったってのはマジ?」
 岩沼が額に皺を走らせ、驚いた。マジで?
「いや、ある筋から仕入れたんだけどほんとかどうか何とも言えん。なんかぁ家に遊びに行った時に押し倒したらしいんだけど。」
「そこまでやれたんなら最後までイったじゃねえの?」
「だよなぁ。こういうの全然教えてくれねえじゃん、あいつ。どうも胡散臭えんだよな、富士の野郎。」
 レギュラーと補欠の格差、そういう優位に立っているから気分よく喋っていられるのか、嫉妬もなく溌剌と笑っていられるのか、それなら岩沼は心の中で本当はどのように考えているのか、ときおり脳裡によぎる時がある。大した実力もないくせに楠と仲が良かったから五席のうちの一つを射止めて、まったく機能していないのにいまだに居座っている、ずるくて厚顔無恥なフェイク野郎とでも軽蔑されていないだろうかと不安になる。言い訳をこねくり出す。無意識に、頭に声が木霊する。一度たりとも負けたことがなかった当時の戦績を思い出し、だから当然今の立ち位置こそが正しいのだと確信と強めてしまう始末だけれど、いつまで昔の力関係を引きずっているのだと我ながら情けなくもなる。それにこの俺が岩沼の中学を蹴散らしたわけではなく、全部楠の活躍が産み出した戦果なのだ。
 新しいチームの方向性に自信が持てない。こんなふうにほぼ全員を排除したようなチーム構成がちゃんと支持されているはずがないし、でもこれが間違っているのならば何が正解なのかもわからない。とうの昔にみんなは割り切ってしまっていて、他人事として引退の時期が来るのを待っているだけになってしまい、虚無感のせいで誰も思いを口にしてくれないのかもしれないとも考える。でもその反面、本音を包み隠さず言われてしまった場合に困るのは俺の方だから、こちらから気持ちを確かめようとしないのかもしれない。部内で一番仲の良い岩沼に相談もしないのは、できないのは、意見を聞きたいのにどうしても唇が動いてくれないのは、自分を否定されるのが怖いからなのかもしれない。
 強引に引っ張っていかなければすべてが雲散しそうだった、これが唯一の拠り所だ。
 後一歩だった。並のチームであれば、今の面子で打ち負かせるようになった。とは言っても、日を追うごとに明確なかたちを帯びはじめているこの手応えを同級生の彼らはまったく共有できていないのかもしれない。
 県大会に出場したいがために一年生を中心にスタメンを選び、二年生を納得させたいがために県大会に固執して、それこそが、さらに、より一層、出番がない二年生たちの不満に油を注いでいる感じがする。
 鎮めようとしているのに炎は燃え盛りつづけ、必死で喰い止めようとしているのに際限なく燃えひろがっていってそれどころか火勢が強くなってしまい、肉が炙られるような感覚に耐えられないから、早くこの苦痛から逃れたいのに喉から手が出るほど欲しい結果はまだ出てくれない。「ちょっと勝つことにこだわり過ぎじゃない?」この前、富士見に冗談っぽく言われた。立てた二枚の掌で両方の目尻に壁をつくり、自らの視界を真っ直ぐしか見えないように狭める素振りをしつつ、彼は言った。こうなりすぎてない? 元野球部の、高校からバスケをはじめたばかりでまったく使い物にならない部員の言葉に全然重みなんか感じなかったのに、やたらと耳が痛かった。
 自分で自分の首を絞めている気がしてしまい、窒息しそうに息が苦しい。
「たい焼きって言ったら普通甘いもんだろ。俺は甘いアンコの中に混ぜられたチーズの濃厚な味わいとか塩気とか、そいつらが合いまったハーモニーを味わいたかったんだわ。ハムとかの具も合わないわけじゃないけど、食べ物のジャンルが変わっちゃうんだよ。だから違うネーミングで売り出してくれたら俺は認めるけど、今のままじゃ納得ができん。おまえは全然そういうニュアンスが理解できとらん。ありゃハンバーガーとかサンドウィッチと同じだ。甘味を食したい、俺は。」
「うるっせえ。喰いに行くぞ。」
 後ろ盾を失った今だからこそ、引き返さず、引き返せず、引き返すわけにはいかず、このまま突き進まなければならないのだと思う。是が非でも勝ちを奪い取りにいって県大会へ進出する以外には、自分の存在を証明する術は残されていないように感じる。もしも妥協してしまったら、中学時代のように負けに慣れ親しんでしまったのなら、その瞬間にペシャンコに圧し潰されてしまうような気がする。
 
              *
 
 独りではなかった。
 三階にある理系クラスの一階上に位置している、文系を選択した生徒たちの教室が並んだ廊下には三人がたむろしていた。その中には、バスケ部崩れもいた。二年になってから入部してきただけでなく、気分だけで練習に参加したりサボったりしていて、腕前は素人に毛が生えた程度だから、在籍しているという実感も乏しい面々だった。一人は才能が売りの奴だった。口を開けば、中学の時に所属していたハンドボール部で一切練習もせずに優勝してのけたとか試合中にムカつく相手選手の顔面にボールをぶつけてやったとかと自慢げによく話し、たとえ退場しても一定時間の経過後に再出場が赦されているスポーツでの、その回数を武勇伝のようにいつも誇らしげに語っていた。特に、簡単に市の頂点に立ったことをことさら自画自賛していた。けれども市内にハンドボール部がある中学は三校しかなく、運よくクジで一回戦を回避できれば、初戦の決勝を勝つだけで優勝の環境だったということは、この街の誰もが知っている事実だ。
 取り巻きから離れ、独りで、教室の真ん中あたりに立っていた。一瞬、顔見知りにするように掌を挙げかかったが、途中で止まった。外に面した窓際に座る背中に従った。
 校舎の最上階である四階からは校庭が一望できた。
 放課後の今は野球部や陸上部が練習していて、緑のフェンスで仕切られた一番奥のテニスコートでは米粒くらいの生徒たちが黄色い点を打ち合っていた。
 三階の理系の教室からは、右手に建った体育館に併設しているプールが横から張り出していて絶妙に邪魔してくるし、校舎と校庭を区切っている植木が眼下から枝や葉を生い茂らせているから、こんな広がりには臨めない。席替えで窓際の席になったとしても、葉と住宅街で上下に圧し潰された横長な土しか目にすることができない。だがそんな窮屈な景色でさえ、三年に進級すればこじんまりした中庭を挟んで正門に近いほうの棟に教室が移るから、二度と拝めなくなる。
 小高い樹々の先にハンドボール部のコートが横に二枚並んでいて、右の男子側で、同じクラスの橋口がムササビみたいに飛んでシュートを放った。根明なその性格の頭ん中は、麻雀一色だ。
 縦に並んで座り、後ろの席の俺のほうに身体を捩じらせた。一日のチョークの汚れが綺麗に拭き取られている黒板が、視界の右を大きく占める。
「で、何?」
 椅子の背もたれに肘を載せて、額に皺を寄せた。
 ツーブロックでサイドを青くし、ちょうど真ん中から分けていた髪がいつの間にか短く刈られていて、本木みたいな髪型に様変わりしていた。知らなくて当然だ。普段生活する階が違って、部活でも会わないし帰りも一緒ではないのだから、容姿の変化に気付く機会は限りなく少ない。
「呼び出したのそっちだろうが。」
 背もたれに身体を預けながら、とても小さくつぶやいた。
 冷静を誇張している感じが鼻につく。罪の自覚がなさそうな態度に総毛立ちそうになり、急いで外を眺めた。
 左側を占めているトラックでは中学が一緒なのにいまだ一言も言葉を交わしたことがない無口な女子が、黙々と独りでハードルを跳んでいた。
 西日はいつも以上にグラウンドの色を淡く脱色していて、生徒たちの姿がまるで見え隠れするかのように移ろいでいく。時々、真横に倒れた影だけにもなる。
 フォームをチェックするようにいくつかの障害を軽快に跨ぎ、上体を起こして緩やかに速度を落としていく。スタート位置にUターンしてくる。もどる途中、前蹴りするみたいに、脚を高く上げる。彼女は、俺よりもアトピーが酷い。顔にも出ている。明日は我が身みたいで直視するのが難しい。
 ハンド部女子の横に敷き詰められた砂場に、海老ぞりになった男子生徒がその反動を利用してドロップキックみたいに飛び込んでくる。黒い飛沫が舞った。
 他にもグラウンドの一番左側の直線では短距離の選手たちがクラウチングスタートから数メートルのダッシュを幾度となく繰り返しおこない、出だしの練習に余念がない。陸上は才能だ。掛け値なしの才能が具わっていなければ、いかに努力しようが上に昇り詰めることは困難だ。俺も、脚は遅くない。けれども同じ学区に異常に速い人がいっこ上に居て、そしてその先輩は小学生の頃から短距離で優勝しまくった挙句、何百メートルの種目だったかまでは覚えていないけれど、中三の時にその年代の県新記録を打ち立てた。だから多少まわりよりも速かろうが、陸上で何者かになれるかもしれないなどと露にも思うことはなかった。それでも最近では、活躍の噂はとんと耳にしない。
 何も、陸上だけにかぎった話ではないな。どんな世界でも、ごく一握りの天才たちだけが、檜舞台へと飛び出していくのだ。
 哀しいことに、他者をひれ伏させる才能は自分自身のどこにも潜んではいなかった。
「だから文句あんならはっきり言えよ。黙ってねえでよ。」
 眼前に座った楠が口火を切った。
「別になんもねえよ。」
「嘘つくなや。裏で俺のこと言っとるだろうが。」
 はじまった小競り合いを潮に、廊下でわざとらしく談笑していた三人が中に移動してきて、教室とを隔てている白い磨りガラス窓あたりをうろつきだした。
 彼らは「ルパン」とか「不二子ちゃん」だとかとアニメの登場人物にそれぞれを当てはめて、人工的にニックネームを付け合い、お互いに呼び合っている。馬鹿か。くたばれ。あだ名は、自然発生するものだ。こんな基本的な物事の本質でさえ理解できていない連中に、虫唾が走る。わざわざ古い作品を選び、時代真っ只中のアニメを外したあたりに独自のセンスを見出しているつもりかもしれないけれど、やはり幼稚でしかない。
 発案は、多分、いや確実に、楠だ。これが楠だ。
 すぐに仲間だけが共有できる何かを考え出し、てっとり早く友情を擬製しようとする。珍しい物を学校に持ってきて仲がいい特定の生徒にだけ、それなのにまわりの眼にも触れるような脇の甘い内緒の体で見せびらかして、関心を集めて自らの価値を高めようとする、そういう姑息な手段を弄してばかりいる、バスケを取ったら酷く臆病な、ただの俗物だ。
 三人は遠くから聞き耳を立てているくせに、話題に花を咲かせる。明るさで、賑やかさで、内容の下世話さで、自分たちの余裕を醸し出そうとしているのだろうか。
 グラウンドの西側である右端には、肌寒い季節なので慎重に肩を温めている、至近距離からのキャッチボールに勤しむ二人組がテニスコートに向かって列をなしている。野球部の掛け声はいつ耳にしてみてもなんて叫んでいるのか、まったく聞き分けられない。
 照明をつけても薄暗く、季節を問わずどこかひんやりした空気が溜まっているその空間は、その日も、汗臭さを芳香剤でねじ伏せたような異様な香りが漂っていた。
 二年の十二人が一斉に入ると、部室は身動きも取れなかった。重大発表らしく、全員に集合がかかったみたいで、普段練習でほとんど見かけない部員とここで会うのが新鮮だった。
 縦長な部屋の一番奥で楠がパイプ椅子に座り、他のほとんどが立ったままで話を聞いた。俺の視線の先には左横の壁に張り付いた鼠色の四段スチール棚がふたつ並んでいるのが見え、各々の私物が他人面で寝そべっていた。体育の時の緑のジャージやら鞄やら、ナイキのバッシュ。背後にはカイリー・アービングのポスター。俺が貼った。右横に置かれたプラスティック棚の上段に木製の救急箱が乗せられていて、それにスコアブックがもたれかかっている。女子マネージャーたちがこの集まりを知っているのか、さだかではなかった。歴代の先輩たちが引退とともに捨てていったボロボロのバッシュが詰め込まれたまま手つかずになっている汚い下駄箱が、重い扉のそばで控えていた。
「全部背負わされてる感じがマジできつい。」
 たかが高校生に、一人に一個、縦長なロッカーが割り当てられるはずがない。スチール棚の一段を二人で半分ずつ使う、それが実情だ。
 前もっての相談も連絡もなかったのに、別に動揺はしなかった。
「そりゃあないやん。新チームで頑張ってきたのに。」
 間髪入れず、本木が呻くみたいに吐き出した。全体的には相当粗削りだけど攻撃に関して言えば楠とタメ張れる彼ですら頼りにしていたのが、意外に思った。
「楠みたいなことは俺らはやろうと思っても誰もできんだし、頼っちゃった部分はあったかもしれんけどそんなに負担になった? 考えは変えられん?」と、平静に努めている岩沼がつづけた。
 全員が、楠に依存していた。
「辞めたい?」
 無言だった。
 他にも、みんなが意見を口にした。質問に答えた。用意よく、律儀に、お飾りの顧問にも話は通してあるらしかった。そういえば、アシックスの一足がスチール棚のどこにも見当たらなかった。
 コンクリートの壁が冷たかった。
 一様にして翻意をうながす意見が集中したが、気持ちに変化はないらしく「休養」が部員たちに受け入れられた。
「薬内はなんかねえの?」
 誰かが水を向けた。
 首をふるのも面倒くさく、かすかにだけ首をふった。
 なんだ、「退部」じゃないのか。
 内心に湧き上がった感想はそれだけだった。いつか帰ってくる時までの留守を預かるなどという殊勝な気分は驚くほど湧いてこなかった。楠がいない部を想像できないとかではなく、自分がバスケをする意義を見失ったからでもなくて、ただ素直に現状を飲み込んでいた。
 出来上がりつつあったとはお世辞にも言えないかもしれないけど、とっくに始まっていたチームが秋を目前にして、壊れた。
 以来、白々しさに包まれた。
 部が呆然としていた。
 誰も口には出さないけれど明らかに意気消沈していて、残った部員で話し合いの場を設けようと音頭を取る人物もいないから、練習には身が入らず、どこか散漫な雰囲気が漂い、そして足がすくんでしまったみたいに空気が停滞していた。
 部活の出席率はあからさまに波ができたし、集まりも悪くなって途中参加で徐々に人数が増えていくような日が多くなったし、順番を待っているちょっとした合間にもすぐにふざけ合うようになった。突然プロレスがはじまったりはザラで、数人がいなくなったと思うと舞台袖に隠れて失神ゴッコで遊んでいたりもした。
 重苦しい脚を引きずりながら、次のメニューに移っていった。この時、部内に蔓延っていたのは、多分嫌気ではなく、燃え尽きたわけでも当然なくて、矢面に立つわずらわしさだったのだろう。
 本当の意味でのリーダー不在が、ここに来て表面化した。
 空いた左フォワードのポジションには、一年の芦田を指名した、この俺が。
 急ごしらえであろうともとにかく動き出さなければならないのに誰も口を開かない歯痒さに業を煮やしたところもあったし、単に得手不得手の問題でもあって、ゲームメイクはやはり本木に向いていないのではないかという当初から感じていた特性の齟齬は、心の中で大きくなりすぎていた。攻めたがりの彼はもっと自由にプレイをさせたほうが光るタイプだったし、だからこそ欲しいのはボール運びができて、パス回しを一任できる技術だった。
 兜城中でフォワードを張っていた彼こそが適任だと思ったし、この人選以外に正しい答えはないという自信はあったけれど、俺は本当に、兜城の看板に、ミニバスの名声に、彼の身体に付着した見えない何かに、絶対に惹かれたわけではないと胸を張って断言できるのだろうか。
 
 なんだか、身体が軽かった。
 自然と力みが消えているらしく今までよりも視界が広く拓けていて、執拗に2ー2ー1のゾーンプレスでスティールを狙ってくるのに、不思議なほど相手の細々した動きまでが俺には透けて見えていた。上がって。ボールを受け取り、プレスに及び腰になっている本木をフロントコートへうながした。八秒以内にセンターラインよりも前に持っていかなければ、バイオレーションを喰らってしまう。ディフェンスの詰めが甘い。ドリブル。右ならば、多少は自在だ。センターサークル手前でノーマークになった芦田がボールを要求してきたので、そのコースを塞ごうとするひずみが生じる。俺は、片手でパスを出せる。大きく振りかぶった。上半身の向きに、顔が見ている方向に、最後の一枚が過敏に反応してくれる。ゴール付近の右と左に散っている二人の、右側、宅間めがけて走り出す。手足の長い体型や天パーの髪質、読み勝ったというややほころんだ表情さえも鮮明に映る。初辺が難なく、バンクショットを沈めた。
 獲ったら獲りかえされる。平均身長は向こうが勝っていて、攻守問わずにリバウンドを制され気味だった。それでもゾーンプレスで圧力をかけてくるかぎりは俺が突破すれば、俺がパスを供給しさえすれば、いまの点差を維持したままで終了の笛を聞くことができる流れだった。
 エンドから球出しが楽になった。タイムアウトの後、前線がセンターライン近くまで下がったので、球入れの際の当たりは急になくなった。コートを中央から分断する線を境にして2ー2と並び、前後で巾がわずかに異なりすり鉢のように搾られていて、残りの一人は相変わらずフリースローラインの若干後ろから目を光らせていた。スティールという最初の目的を捨てて、バックパスを誘発させる狙いに移行したのは明らかだった。
 オフェンス側が一旦フロントコートに持ち込んだボールをバックコートにもどしてしまうと、バイオレーションで相手にボールが移ってしまう。その判定の肝となるセンターライン付近に守備を集中させて、混乱の最中でそのミスを犯させる腹積もりのようだった。
「OKOK。やるよ。」
 作戦の変容にとまどったPGに肯いた。芦田を見た。球運びは二人で行う。この頃には、本木には変な役割を負わせず奔放に動かしたほうが断然活きると確信に至っていた。同じチームでプレイしていくうちに彼の頼もしさは制約の中には存在しないのだと、実証もできていた。
 メンバー同士で具体的に示し合わせたわけではなかったけれど、当初それぞれに設定したポジションには囚われない柔軟な変化が内部で起きはじめていて、自然と棲み分けができつつあった。立場を表す、便宜上振り分けられていた名称が、各々を窮屈に縛っていたのかもしれない。
 俺はというと、いまだにチームの得点源になりたくて一対一を仕掛けているのに、その都度目も当てられないターンオーバーを献上してしまうから出しゃばっても攻撃のチャンスを潰すだけだったし、ゲームメイクすべき本木はその役割があっても試合が進むにつれ自ら加点するという快感にくじけ出すので、これが正解だったのだと思う。月並みな言い方だけれども、これをチームワークと呼ぶのかもしれない。
 芦田に高さはないが裏方にまわれるし、アウトサイドで必要とされる様々な能力が均一に揃っているので使いやすかった。不本意な成績で終わった上の代につづいて努力が実らなかった低迷期の兜城中メンバーといえど、やはりよく訓練されていた。「早く一線当たって! おいっ!」色白で艶のある黒髪をナチュラルに七・三で分けているのに、試合中に必要とあれば、相手が上級生であっても遠慮なく大声で指示を出した。
 二年生の選手層は厚くはない。目ぼしい選手の退部があって、ここまで薄く削ぎ落ちたのは俺に原因があるとはいえ、十二人の中には高校からバスケをはじめた人間も一人ではないし、怪盗の一味も含まれているわけだし、中学時代を補欠で過ごした選手も少なくなかった。冷静に判断して、楠の穴は埋められないにしても、試合で戦力になることができるのは二人だけだった。
 岩沼が加わるならガードかフォワード、けれども欲しい役割を多く任せられるのは一年生のほうだった。同様に、中学でセンターを担っていた加納なら一層アウトサイドが弱くなってしまうので、最初から選択肢にはなかった。
 勝利に執着するがあまり、二年のメンバーを全然使わず、結果として一年生ばかりを重用してしまっている。
 だって勝ちたいから。是が非でも県大会に行きたいから。
 晴れて上への切符を手に入れられたなら、この歪な体制についても、部員のみんなはきっと認めてくれるだろうと淡い期待を抱く。褒めてくれないまでも、赦してくれるだろうと。でもNBAを目指しているわけじゃないんだから、バスケ推薦で大学に進学できるわけじゃないんだから、全国大会進出なんかどう転んでも無理なんだから、厳然たる実力のみで出場者を独占するのは間違っているのではないかと迷いもする。勝ちを追求するのか、純粋にスポーツを愉しむのか、その中間の関わり方が別に存在するのか、いくら考えても答えが出ない。
 人の技量を客観的に、独善的に、手心を一切加えようともせず、残酷に推し測ってしまう自分の性格が嫌いだ。そうやって自己分析できているのに改められない自分自身が、心底憎らしい。
 でも本当に理由がそれだけかと言うと、自分自身に問いかけてみたところどうやら怪しかった。もしかしたらチームメイトよりも優位に立っていたいからなのかもしれないし、友達なのに上下関係を持ち込んで高い階級を気取っていたいからなのかもしれなくて、バスケ部以外の他の同級生たちに一目置かれたいからなのか、特別な、そういう選ばれし民だと思われたいからみんなを排除しているのかもしれない。
 本能が楠と本木を上だと見なして服従し、まだ対抗できる連中に姑息な手段を用いて自分との間に線引きを施したのかもしれない。
 こんなものを、チームワークと呼ぶのだろうか?
 空中で、味方の位置を確認する。
 大体の目星をつけて、跳んでから、パスの出しどころを隈なく探す。今のままボールを離さずに着地してしまえば、トラベリングのファールを取られる。時間がゆっくりと流れ出す。待ったなしの状況に脳がヒヤリと冷たくなるのにも関わらず、なぜだかしんと落ち着いている。ノーマークで手を挙げ、ディフェンスがひきつけられ、最後のひとりも前ににじり寄ってコースを断ち切る準備をする中、視界のそこかしこで刻々と移ろいでいく人間の群れを、とても冷静な気分で見つめていた。本木、初辺、宅間、芦田、順調に、全員が得点を重ねていった。
 浅い場所からかけられ出すプレスをかいくぐり、パスを送る。センターラインの手前あたりで脚を止め、球を通した後の、伽藍堂のフロントコートを眺めた。今度シュートを決めるのは誰なのかを、興味深く見物する。そらで、自分の得点を数える。見せ場を譲る気は毛頭ないらしく、パスを受けると脇目もふらずにゴールへとドリブルしていく頑丈そうな本木の後ろ姿が、とりわけ面白かった。
 でも俺だってたくさん点を獲ることを、まだ諦めたくはない。
「あそこだ、あそこ。この前の公式戦でやった。」
 知らないうちに、楠不在で迎えた大会の話に移っていた。
「校名が出てこん。あのお、最近やったとこだ。」
「富岡。」
「おおそうだ。そこだ。」
 本人は意識していないのかもしれないが、やはり昔より態度が横柄だ。故意にそんな喋り方をしているようにも聞こえる。
「プレスで来たの、うまいことかわしたんだろ。」
 名前を呼ばない。ずっと、二人称もない。
 小学生の頃から、お互いに、面と向かって「おまえ」と呼んだ記憶はない。正確には、俺は何度か口にした経験がなくはなかったけど「おまえ? 俺には楠準哉っていうちゃんとした名前があるぜ。」とそういう変なこだわりを押し付けたかった時期らしくうるさいことを言い出したので、それ以来使うのをやめた。だからかつては相手の尊厳の尊重だったり敬意みたいなものだったり友達として認め合っている証明のようなものだったのかもしれなかったのに、今、「おまえ」と使わない意味合いは確実に違っていた。もしもそうやってぞんざいに呼んでしまえば、まだかろうじて繋がっているのかもしれない糸が切れてしまう気がする。雑な言葉遣いひとつで抜き差しならないいがみ合いがはじまってしまい、本格的なケンカに発展してしまう予感がする。
 とりあえず憎しみ合う出来事もないのに言い争いはしたくないので、面倒くさくても最悪の事態を避けるために用いるわけにはいかず、だからといって「君」とか「貴方」とかを代わりにはできないから、ならば省いて喋るしか方法はない。
「いい感じで勝ったんだろ。」
「ああ。」
 おまえ抜きでな。
 グラウンドを見下ろした。
 ちっぽけだった。
 手を届かせようと必死で後を追っていた、あんなに偉大だったミニバス選手が、消え入るほどちっぽけに思えた。
 そうだ忘れとった。銭形のとぉっつぁんさぁ、あの漫画貸してよ。
 意外なほど、不二子ちゃんの声がこちらまで届いた。
 恥もなく、銭形とかと呼ぶ感性に反吐が出る。横で逐一経過を窺っているくせに静かにすることもできなくて、不自然に饒舌を気取ろうとする態度に血の気が引く思いがした。
 いたたまれなくなり、グラウンドに目を凝らした。相変わらず、ミニチュアみたいな人型が動きまわっている。数十人の挙動が手に取るようにわかる。なんてことはない、ガキの頃からこうだった。いつも徒党を組んで行動していたし、仲間内だけで使う複雑なハンドシェイクなんかをよく考案していた。腹が立つ。うんざりする。実は独りでは何一つできない腰抜けのくせにちょっとバスケが上手いだけで、ちょっと遠い昔に全国大会出場という実績を築いただけなくせに、まわりから別格扱いされている楠に嫌悪が噴き上がる。
「とりあえず、影でグダグダ言うなってこと。なんかあんなら直接言ってくれよ。」
 俺の返事も待たず、もう帰っていいよとばかりに、楠が腰を上げた。
 椅子の脚が引かれて、ワックスのかかった床と擦れる低い軋みがやけに大きく響きわたった。出口を左腕で指し示した。廊下近くの机に尻を引っ掛けていた取り巻きがノロノロと立ち上がりはじめ、紺の、学校指定のバッグに手を伸ばし出した。
 三人が、次元大介を受け入れた。
 眺めた。
「ルパンさぁ、帰りにモス寄らん?」
「自分問題ないすけど。」
「不二子ちゃんたち行ける?」
 呆れるほど陳腐で安っぽい仲間意識を聞いていると、こちらのほうが強烈な羞恥に襲われてしまい、急いで顔を伏せた。やるせなさか、失笑かもどかしさか、どうしようもなくニヤついて仕方がない頬の肉をなんとか硬く引き締めた。
 教室を出て、右に歩いていく一団の逆を選んだ。校舎の端にくっついている屋外の階段に出ると、地上から高いせいか風が冷たかった。
 今日は稀にある、体育館の割り当てがない日だ。うちの高校は校庭にはバスケットゴールが設置されていないので、こういう日は大抵休みになる。
 岩沼にスマホで連絡しようかと迷ったが、やめた。時計を見ると授業が終わってから結構時間が経っているし、事前になんの約束もしていなかったので、とっくに帰ってしまっている可能性も高いからあえて確認しなかった。
 硬質に螺旋を描いている階段の踊り場から、地上を見下ろした。校庭へ出る比較的狭い通路を間に挟んで、向かいに建った部室棟を目で追った。自然と、一階の右角を探した。
 岩沼が待っててくれた。嬉しかった。俺が楠から呼び出されたのは当然耳に入っていただろうから、とても嬉しかった。
 けれども、そんな彼の友情に俺は報いているだろうか。レギュラー五人の枠のうち、三つまでも一年に使い、上級生みんなの面子を軒並み潰している。他を試す気もなく、チャンスを与えるつもりもない。そもそも、こんなふうに考えている傲慢な俺は一体何様のつもりなのだろうか。監督でもないのに駒のように人を扱おうとし、プレイヤーとしての特性のみで冷酷に選りすぐって、最上段から同い年の部員を操縦しようとしている自分自身はどういう立場なのだろうか。
 何を判断の基準にすればいいのか激しく悩む。殺伐とした競争なんか望んでいないはずなのに、独占するほどスタメンが勝っているわけでもないし、万年ベンチを温めなければならないほど劣っているわけではないのに、人生を賭けたプロの世界でも全然ないのに、頭で考えているようには行動できないでいる。
 劣等感を慰撫するため、浅ましい虚栄心を満たすため、さらには諸々の精神がとてつもなく未熟なせいで、部員みんなを犠牲にしているのかもしれない。

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