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桜木花道によろしく④

 ボールの縫い目が、掌の中を滑る。
 ザラザラした手触りとほのかな轍が規則正しく交互に走り抜け、程よい摩擦を皮膚に感じさせて、やがて掌に密着する。斜め下に強く打ち出す。切り返す。利き腕のほうが強く、正確に、ボールを反射させることができる。コートの板目にバウンドする音だけを聴き、ディフェンスの左に身体をふる。一回だけ苦手なほうのドリブルをついて、抜きに行く。不安をよそに、大人しく軍門にくだってくれた、左手におさまった感触が心地よい。
 自分自身が起こす音か目の前でチェックしにくる相手校の選手のバッシュなのか、コート上にいる他の八人の誰かのものなのか、ゴム底の甲高い悲鳴が鼓膜を刺激する。
 結局、いまだに左を満足に使えない自分と対峙する。けれども幸い、暑いので指先の調子はすこぶる良い。皮膚がパリパリしているくらいで、ヒビ割れはまだ起きてない。
 おそらく、もうそんなに猶予期間は残されてはいない。
 だから一刻も早く存在意義を見つけなければならず、まわりを認めさせなければならないのに、どうしても結果がともなわない。それでもまだ潔く自ら身を引こうともしないで、図々しくこの地位に居座っている。点か。得点なんだろうな。みんながひれ伏してくれるプレイというものは直接勝ちに結びつくような、コンスタントに高い数字を叩き出せるもののことだろう。
 右の肩に汗で濡れたユニフォームがもたれかかってきて、擦れ合い、半歩遅れたマークをふりきって、右四十五度からインサイドに向かって切り込んだ。宅間が外に広がる。ヘルプが来る。背が高い。のろい。頭上のゴールに影がかかったように、上背が壁となった。両腕を少し上げつつタイミングを合わせるように接近してきて、跳ぶために、ブロックショットで阻止するために、腰を落としてわずかに身長を縮ませる。
 居る。居た。アウトサイド。
 俺の一対一に引き付けられペイントエリアに閉まりかかったゾーンの、外側へとパスを散らした。視線の先には左四十五度のスリーポイントラインに位置して膝を柔らかく沈めた男が、目的物の到着を待っている。
 ボールは自画自賛したくなるほど乱れもなく胸元へと進んでいき、縫い目も、メーカーのロゴも、茶色い革の表面にないようであるささやかな模様までも、規則正しい回転がきれいに融かしてしまう。悪くはない、はずだ。大切なボールが無事に手元を離れたので、一息つく。キャッチの音に安心する。とたんに声援が木霊し出し、コート上の選手たちの息遣いや意思疎通までが鮮明に聞こえはじめた。
 隣でも繰り広げられている白熱した公式戦が視界にちらついて、様々な思惑や意識が複雑に絡み合っていくように感じる。見えてくる気がする。マークが追う。曲げた膝から押し上がるように上半身が連動していき、全身で造り出した勢いが指の先端へと集束していく。フォームを見、ゴール下の攻守各々が、それぞれの立ち位置をすばやく確かめ、少しでも相手を締め出そうと背中で押し合い、へし合う。
 緩やかな投射角で放たれる。
 ミスなく、アシストまでたどり着けた。力になれた。ターンオーバーを犯さず最後につなげられたので、肩の荷が降りたみたいに肺の底から溜め息が洩れた。これからのリバウンド争いは守備側が有利なのだから、たとえ獲れなくても責められる類のプレイではない。どちらに転んでも、俺の減点にはつながらない。
 彼は伸ばしきった腕の先を直角にお辞儀させ、静止画みたいに空中を泳いでいる。時間が留まる。絶対に、確実に、時が止まってしまう現象など起きるはずもないのに、静寂に包まれる。それは両チームが当然に抱く両極の期待がなせる業なのか、風光明媚な絶景に片時心を奪われるようなとりとめもない感情なのか、山なりに飛んでいくボールと、コートから三・〇五メートルの高さで待つゴールに注目する。
 脈動したように感じる。
 ボールが、猛烈に回転しはじめる。
 下から眺め、恍惚に浸り、知らないうちに気持ちが試合から離れていた。リバウンドのスクリーンアウト合戦の真っ最中だったはずなのに、我に返ると目の前は相手選手の背中に遮られていて、不利なポジションに陥ったのに今更かいくぐる気も起きず、それが怠慢だとすぐには悟れないくらいに、ボールが描く軌跡に陶然としていた。
 ぼんやり立ち尽くしてシュートの行く末を見守り、ゴール下で戦わないなら速攻を防ぐために急いでもどらなければならないのにその方向をふりかえるだけで、中から締め出されたのに前を奪い返す動きもしないで茶色い一点に群がっていく腕の数を数えていた。でもわからなかった。もしかしたら、数えてなんかいなかったのかもしれない。リングに拒まれたボールは敵と味方が入り混じった指先の水面で跳ね、跳ねて、再び、軽く舞い上がった。着地して、間髪入れずに初辺が跳んだ。宅間の視線を引きつれながら、まるで届かない先へと、ゆっくりと落ちていった。
 違う色のユニフォームがルーズボールを拾った。手際よく左サイドに散らす。球が自らを離れたところですかさず前方をえぐるかのようにダッシュし出し、斜め後ろからリターンを受け取った。
 人の密度が高いエリアから抜け、素早く、真ん中にボールを預ける。突き離された。置いていかれた。一足早く敵陣に走り出している、自陣にもどっている、彼らふたりの元めがけて、六人が走り出した。相手チームの塊がなだらかにほぐれてコートを均一に満たしはじめ、攻めうる可能性を増やしていき、守らなければならない範囲を最大限にまで押し広げる。
 すぐさま起こさなければならない行動は俺の頭の中に浮かんでいるのに、気持ちとは裏腹に身体が反応してくれなくて、歩いてのんびりと戻っていた。
 暗に抗議していたのかもしれない、用意していた感情と自身の折り合いがつかなかったからなのかもしれない、期待していた結果が訪れてくれず、もたらしてくれず、なんとなく幻滅していたのかもしれない。さっきリバウンドに入らなかったのはスリーポイントシューターへの信頼を示したかったのかもしれないし、敬意のつもりだったのかもしれない。最後までリバウンドを争ったひとりが脚を止めて、次の展開を目だけで眺めている。
 二人で、顔を見合わせた。
「初辺! もどれっ!」
 思わず叫んだ。
「ヤクも!」
 俺の視界から、薬内は消えた。
 来たるべき攻撃に備えて視野を割いた。さっさと切り替えなければならないのに、どフリーのシュートを続けて落としたことが、気持ちに尾を引く。
 試合球の特徴を掴みきれていないのだろうか、スロースターターというわけでもないのに3Pの感覚がいまいち芳しくなく、守備にもどりながら掌を揺らした。いまだに理想の軌道にうまく合わせられなくて、ゴールに届く頃には誤差が大きく生じてしまう。まだ二本。変にリングに嫌われてしまい運がないとも弁解できなくもないけれど微妙な狂いを修正できずにいて、なかなか調子に乗れない。重く感じる、ボールが大きく思えてしまう。苛立たしく、五本の指を蠢かせる。右の掌を、左手で揉んだ。
「ディフェンス!」見ずに叫んだ。
 アウトナンバー。
 ゴール下から薬内がまだ戻ってこない。初辺の機動性は織り込み済みだが、あいつはもっと走れるプレイヤーのはずなのに。他の連中も切り替えが遅く、相手の数のほうが多かった。首尾よく両サイドに二人の翼が伸び、三人がまず雪崩れ込んでくる。中央から右サイドに流され、即座に数歩寄ったが、逆サイドの選手から狙われる裏にも気を払わねばならないのでボールを所持している一線を放棄し、後ずさりして二・五線くらいで攻撃を待った。やっと本木の三線が産まれたおかげで少し前に上がることができ、すると相手は高いドリブルをつきはじめて、ペースを弛め出した。
 ロングは捨てる。第一に、高い確率を阻止する。
 サイドライン際のそのポジションからパスが繰り出されうる敵を視界の隅に置いて、決して外さず、微妙に位置をずらして警戒した。しかしもはや速攻にこだわってはいないらしく、ディフェンスが整うのを承知で、黒い瞳が味方の充分な上がりを待ちつづけ、その場で何度かドリブルをついて溜めを造り出した。得意なのかもしれない。躊躇がなかった。突然放ったボールはバックボードを反射し、リングに触れることなく通り抜け、実直にネットが絡みついた。
 所在なく、弾む。弾む。
 癪に障る。確率が、案外、高い。
 フロントコートを見た。すぐに渡してくれれば、今なら、俺ひとりで右から決められるイメージがあった。歩速を上げつつ、ふりかえった。ゴール下に、紫色のユニフォームは誰も寄りついていなかった。たった今、相手のスコアに3点を加えたマイボールがコートで跳ね、転がり、次第に高さを失いつつスローインされるのを待っている。
 その場に立ち止まり、全員が俺を眺めていた。脚が止まった。
 審判が取りにいく。エンドから入れなければならないボールを拾うのも譲り合い、速い展開で得点後の隙をつこうとするイキのいい奴もいなかった。歩いた。なんとなく疲れた。終盤どころか、第3Qも丸々残っているのにも関わらず、ふくらはぎがだるくてつりそうにもなり、走る気力すら消え失せた。ゴール下からの球出しの時に相手チームは強烈なプレスをかけてくるわけでもないので、体力の回復も兼ねて後ろをふりかえる気遣いもせず、ゆっくりと上がった。
 隣のコートでは県大会常連の高校が縦横無尽に走りまわり、そういう演目みたいにパスをカットして粛々と加点していく。顧問がパイプ椅子の前で片方だけ膝を立てて低い姿勢から指示を送っていて、生徒たちは皆が皆整然とベンチに腰をおろし、上品に腕を組んで静かに見つめていたり、掌を筒にして声を張り上げている。対戦相手はうちの市の商業だから、確かに楽な相手ではあるかもしれないけれど、あの学校なら、一回戦くらいは勝って当たり前か。
 ミニバス時代の仲間が4番を背負ってゲームを組み立てている。自在なドリブルでディフェンスを引き寄せてから、いきなりビハインド・ザ・バックパスなんかを披露する。虚を突かれてしまい、なんなくレイアップだ。
 毎年、全国大会出場が当たり前だった。俺たちの代も疑う余地もなくそこがスタートラインのつもりで厳しい練習に打ち込み、問題はその本番の舞台でどこまで勝ち上がれるか、二年振りに全国制覇を成し遂げられるか、そういう世界でバスケと向き合ってきた。俺は主力で、おまえは補欠だった。ルール上、とりあえず全員出場しないといけないからコートに立てていただけの、なんの取り柄もない平凡なプレイヤーだったくせに。
 ついこの間まで同じクラブチームにいて俺よりも格下の選手だったのに、全然差なんてなかったはずなのに、むしろあの頃は俺が圧倒していたはずなのに、高校では同じ風景を見ることができないでいる。進む学校を間違えたのだろうか。でもだからといって、バスケに人生を賭ける度胸もそこまで突出した才能も持ち合わせてはいなかった。けれども地区大会程度であれば席巻できた。一対一で止められた経験はなかった。相手が兜城中であっても引けを取らない戦いができた、この俺だけは。
 斎藤のマッチアップからでも点を決めたし、板倉の目の前で3Pを沈めてやった。いつでもどこが来ても、一試合のうち大半が俺の得点で占められていた。それでも、そんな活躍に胸を張ったからと言って、全部市大会レベルでの話でしかない。たった二回勝てば進出できる東河田大会への出場は結局叶わなかったし、全国大会など夢のまた夢で終わった。
 小学生で多少まわりよりも身長が高かったという理由でセンターに抜擢されて、それなのに今では一七〇センチちょっとしかない。当時ズバ抜けて高かった身長が、今や周りに埋もれてしまって目立ちもしない。ものの見事に成長は止まり、これ以上の背丈は望めそうもない。そんな高さでは中学でもギリギリで、高校なら絶対に通用しないのは早くから気付いていたので、自分の存在を誇示するために死守するために必死で3Pを磨いた。
 ゴール下の得点能力だけでなく、遠くからでもできることを証明してみせた。褒められた。驚かれた。二個上の先輩からも一目置かれ、頼られ、早くからレギュラーになった。でもただで手に入れたわけではない。
 事情が違う。覚悟が違う。
 絶望の深さが比べものにならない。
「あそこのミニバスって補欠だった奴らのほうが高校で伸びるよな。」
「中学で全盛期終わる奴けっこう多いよな。」
「練習しすぎで伸びしろ全部使っちゃったんじゃない?」
「子供の頃は外のポジションをやってたほうが後々プレイの巾は広がるっしょ。」
 たまに耳にした。
 普段からろくに練習もしないで遊んでいるだけの傍観者たちが無責任に語り合っている姿に、無性に腹が立った。
 もちろん悪気のない分析なのかもしれないが、それなりに的を射ているのかもしれないが、子供が自由に選べる道ではない。右も左もわからない小学生たちが希望を主張できる余地はなく、与えられたメニューを必死でこなすのみの選択肢しかなくて、指導者の指示に従って決められたポジションに専念する以外に路はないのだ。
 簡単に思われる。よく誤解される。なにも咲丘バスケ教室だからといって、全国の舞台は必ずしも約束された地ではない。特別なシード権を与えられて毎年楽して出場を決めているわけではなくて、なんのズルも特別扱いもなく決勝までの試合を全部勝って二度と俺たちと闘いたくないと思わせるほど完膚なきまで叩き潰して、実力でもぎ取った当然の権利なのだ。
 わからないだろう。放課後、みんなが愉しそうに遊びながら下校していくのを横目に市の体育館へ通わなければならない苦しさを、合宿に行くのが厭で厭で物置に隠れて息を潜めている時の恐怖の感情を。辛さを頭でわかった気になったとしても、実際に成し遂げるのは次元が違うほどに難しいのだ。
 徹底的に努力をすれば、曲がりなりにも成功は約束される。一歩も二歩も抜きんでることはできる。けれどその突き詰めた先で、それでもまるで歯が立たないほどの完敗を喫した時には自らの限界を思い知らされて、堪えられないくらいの絶望に苛まれるのだ。
 限界を超えろ、簡単に言うな。
 自分で限界を決めるな、そんなの戯言だ。
 諦めたらそこで終わりだと励まされても、綺麗事にしか聞こえない。
 努力によって世界は拓かれるのに、その努力によって無限だったはずの世界が限りあるものなのだと気付かされ、否応なく閉ざされてしまうことだってあるのだ。何者かになりたかったから必死でもがいたのにもがいたせいで八方が塞がれてしまい、あえなく退場しなければならなくなる時だってあるのだ。
 ミニバスはゴールの高さが低く、3Pもない。アウトサイドの腕前なら全員が横並びで、みんなゼロからのスタートだった。子供の時分はほとんどがツーハンドでシュートを撃つ中、成長が速かったから小六の頃にはワンハンドで狙えたのも救いだった。運よく、必要とされる感覚は優れていたのかもしれない。
 諦める形が違うのかもしれない。確かにセンターというポジションは自ら明け渡したが、バスケットボールという枠組みからは逃げなかった。
 3Pだけは誰にも渡さない、そういう覚悟がある。
 苦しまぎれの長いパスが上がった。
 端から端までのその大遠投は強すぎ、体育館の、防音の穴が空きまくった壁に直接当たって跳ね返った。短い笛の音でさえ、猛烈にうるさく感じた。
 薬内さぁ、
 おまえどこ投げてんだよ。
 思わず、天を仰いだ。
 注意したいのに、時には怒鳴りたいときもあるのに、とっさに我慢してしまう。小学校からの付き合いだからか、本当はそこまでお互いに腹を割っていないのか、意見を言えばすぐにヘソを曲げてしまう面倒くさい性格を気遣っているからなのか、いつも寸前で本音を飲み込んでしまう。できないならもっと練習しろよ。おまえは左がマジで下手なんだよ、バスケでドリブルが上手くつけないのが致命的なことくらいいい加減理解しろよ、ある程度は自在にドリブルできなけりゃプレイのイメージがイメージのままで終わるんだよ。頭と身体をつなげるものが、技術なんだよ。いまだに攻守の切り替えも遅くて、チームがボールを失ったのにオフェンスの意識がなかなか消えず、フロントコートにぼんやり留まっている時が少なからずある。昔から欠点を克服しようという努力がまったくないから、途中からとたんに成長しなくなるんだよ。そこそこの才能だけで乗り切ろうとするなら、あっという間に壁にぶつかるんだよ。
 スポーツ選手としてどこまで高みに登れるか真っ向から挑戦しようとせず、自らの限界を知って傷つきたくないという軟弱な理由で地道な練習から逃げまわるのは、お門違いだ。
 例のごとく本木が暴走をしはじめ、ボールを持ったら考えなしに攻め込んでいく。コンビネーションもチームプレイもなく、なりふり構わずペネトレイトしていき、リングに突進していく。ミドルレンジからジャンプシュート、時には内に入りすぎたせいでセンターにタイミングを合わされてしまい、その場しのぎのめちゃくちゃなダブルクラッチでブロックをかわすだけかわして自滅もする。PGを担っている人間の無軌道なプレイは、チームを機能不全に陥らせる。いつもの負けパターンだ。だが不幸中の幸いか、それでも率は悪くないから、まだ好きにさせていられる。
「ヘイ、ヤク。」
 トップから切り込み、ゴール付近からパスを受けた。
 もういいよ、外に広がって。
 てゆーか邪魔だし。
 左手でボールを同じ側に大きく振り、薬内めがけてリターンのパスフェイクを演じた。過敏に、相手のセンターが横に一歩飛びついた。ポンプフェイク。コツは緩急だ。直前のフェイントに乗ってしまって焦ったのか、ブロックショットの誘惑に屈したのか、ものの見事に引っかかった。無様に跳び上がった長身を尻目に、ドリブルインする。それほど背はなくても、平面の動きだけなら今でもそんじょそこらの連中には負けない自信がある。もしも君と変わらないくらい身長が俺にあったら、まったく勝負になってないよ。放ったボールは性急なドラミングみたいにリングの内側を跳ね返りまくった挙句、白いネットの間に垂れ落ちた。
 楠。楠。楠。
 楠。
 楠。
 あらゆる意味合いを持ったボールが際限なく集まってきて、戸惑いを覚える。脚が止まる。観ている。とにかくドライブインしていく。本木にまわしたらそこでチームとしてのオフェンスが途切れてしまうので、得点できても状況は悪化していく。個々が個人としてしか戦わなくなった攻め方はすでに対応されていて、容易にパスは受けられないし、ミドルレンジへの侵入は次のヘルプの餌食になってしまう。
 楠。
 待てよ。俺はそこまで万能じゃない。
 楠。
 うるせえよ、おまえ。
 ディフェンスを背にし、初辺がゴール近くで両手を挙げ、パスを要求した。頭の上にボールを構える。右サイドも宅間をもっと使えよ。プレイを盗めよ。うちの右センターが現状まるで機能していないのは、右フォワードの責任だぞ。俺をマークしていたひとりが初辺の手前まで下がって、供給を阻止する。俺と初辺のちょうど中間あたりに立つ。ならばのんびりと、急げば無理なく間に合うように、スリーポイントのモーションで誘い出す。左の掌に触れ、胸の前で両手に挟まれた。勝負。小細工せずに、ガタイ活かしてシンプルに行け。けれども眼差しがパスの出しどころを探しはじめ、見つからず、俺を一瞥した。
「自分から仕掛けろ!」
 この言葉を合図に、相手の圧がさらに上がった。
 プレイが連動せず、ボールを持った選手の打開だけを期待していて、誰も動かない。一旦もどせ。トップ方向に数歩上がってから零度に走りパスコースをつくろうとしたが、徹底マークをされていてデイフェンスを振りきれなかった。間延びした長方形の形をしているペイントエリアに、初辺のバッシュが半歩喰い込んでいる。三秒以内に外へ出なければ、バイオレーションをとられる。
 三秒、五秒、八秒、二十四秒、バスケは秒に束縛されるスポーツだ。
 誰かスクリーンでディフェンスを引っ掛けてくれれば助かるのに、すぐにパスを選択しないで一対一を挑んでくれればそこから守備の陣形にほころびが生じて攻めやすくなるのに、でもボールを止めて迷っているくらいなら自分に回してくれればいいのに、全部やるのに、点を決めてくるのに、何だってやるのに、チームだって勝たせてやるのに、そもそもスタメンの五人が五人とも俺であればいいのに、そうすれば球運びからゲームメイク、中も外の攻撃もリバウンドだって当然鉄壁のディフェンスも全部自分一人でこなして地区大会なんかで終わらずもっともっと大きな舞台に進出できるのに、と鬱々と考え、五人が引けていく敵陣に上がりはじめた。背中に衝撃が走った。驚き、予期していなかったからやけに痛くて、ふりかえるとボールが後ろに転がっていく。センターラインを越えていく。
 そういえば、なんか、直前に名前を呼ばれた気がしないでもなかった。
 エンドラインから、薬内が目を丸くしてこちらを見つめていた。
 今、メンバーの中で一番攻めやすい位置にいたから、さっきの反省からミスを挽回したくて陣形が整う前に一気に攻め入ろうと狙ったのに、何度名前を呼んでも楠はうつむいたまま歩いていた。
 一度敵陣に入った球が戻ってくる、近づいてくる。
 マイボールなのに、持った時点でバックパスを取られるいわくつきのマイボールだ。先に相手に獲られて速攻を決められないため、とりあえず早く触って一旦プレイを切らなければならないのに、転がってくる先に脚が動かなかった。走れば充分間に合うのに厭に遠く思えてしまい、ものすごく億劫に感じてしまい、誰なのかはわからないけどどうせ誰かがなんとかしてくれるだろうと他人事みたいに考えていて、一瞬だがとても長いこと二人は顔を見合わせ、パスを受けられなかった俺は謝ればいいのかゲーム進行の細部にいたるまで事細かに指示を出すべきなのか、やっぱり3Pとか一対一とかの揺るぎない自信を持っている部分に特化したくて、もしかしたら球運びとかの地味なプレイは気が進まないのか、もしそうならどのように声をかければよかったのか、俺は、皆目見当がつかなかった。
 ルーズボールを拾われ、なんなくネットを揺らされた。

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