見出し画像

消失点③

 信号が青に変わり、アクセルを踏み込んだ。
 足の裏でペダルの硬い踏み応えを味わいながら、徐々に加速していく。前方を、右横を、左脇を、同様に車が発進していく。風景がうしろに向かって流れ出す。あたりを取り巻いていた景色はいつの間にか消え失せてしまい、遠くの景色はヌルヌルとにじり寄ってきて、彼方でかすんでいる街並は一向にその場から動かない。
 速度を増しはじめた車体に身体が置いていかれ、シートに押しつけられた。
 前方では街道と交差し、それと平行に、首都高と私鉄が頭上を流れている。重苦しい振動が、常に尻に伝わってくる。高架を電車が左から右に猛スピードで駆け抜けていき、なんとなく途切れるまでを眺めていると、逆方向からの車両で視界は阻まれた。
 車間を保って走る。同じ速度で群れをなし、足並みを乱す不届き者はなく、巨大な一台の乗り物になったように感じる。
 幹線道路沿いに建ち並んだ高層ビルが滲み出し、建物が、左右を走る車が、すべての輪郭がほどけていく。境界が重なり合い、同化して、反発する。街を構成している様々な色が混ざり合った、濁った彩りがフロントガラスを覆い尽くした。やわらかい、形。手をつないだ、人。女、子供。その姿はボンネットを透け、目を剥いた顔がフロントガラスに吸い込まれてくるように近づいてきて、こちらに背中を向け、女を見上げている小さな身体が私を貫いていく。小ぶりな耳が、私の胴をすり抜けていく。コマ送りに、つむじが流れ去る。見開いた、焦点も合わず漠然と見つめて動かない、真っ黒な瞳が私をとらえた。目が合った。ブレーキを蹴った。
 ふわりと身体が軽くなって一瞬宙に浮き、腰回りがひやりと涼しくなり、タイヤはロックし全身が前につんのめって、車体が斜めに尻をふった。何も、音がしなかった。かすかに、誰かの息遣いだけが聞こえた。首筋に汗が沁みた。突然エアコンの風が一気に噴き出しはじめ、急激に汗が乾き出し、やけに不快で、急いで空調のスイッチをOFFにした。クラクションが鳴った。唾を飲んだ。目の前にはついさっきまでとなんの変哲もない街並がひろがっているだけで、真正面に昇った太陽の日射しはとても眩しく、サンバイザーに指を引っ掛けるとうしろからクラクションが長く鳴り響いた。
 住宅街の中に埋もれた、二台しかスペースのない、捲れたアスファルトから砂利が覗いているコインパーキングの右に頭から駐車した。
 横には逆向きですでに車が停められており、運転席側の屋根に覆いかぶさって両肘をついた若い男が、携帯電話で喋っていた。外へ出ると用心深そうに眼を跳ね上げる、鋭い視線から目を逸らした。バックドアを開け、ほぼ伽藍豪の荷台を見渡して、たいして工具も入っていない腰袋を巻いた。ヘルメットで髪の毛を押し潰し、白いマスクを耳に引っ掛ける。そばにあった自動販売機で、天然水を買った。別に水道の水でも構わないし、飲みかけのお茶でも問題ないし、なんなら泥水でも事足りるのだけれど、我ながらのささやかな礼儀みたいなものだった。
「ドアの横にパイプスペースあんだろ? それ開けてみ。その中にキーボックスが入ってるはずだから。いや、その部屋の管理会社さ、社員研修とかで今日休みなんだわ。だからほかの業者が内見したくてもできねえからさ、問題ねえってわけ。あった? えっとね、番号がな……。」
 いつの間にか見つめていた私を、彼は横目で睨んだ。口も閉じずに生返事をくりかえし、緩慢に開けた唇のまま、目を逸らさないまま、四本の爪で頬を撫でた。
「なんか用?」
「いや、別に。」
「じゃあなんなんすか、センパイ。」
 首を横に振り、水を腰袋に差し込んだ。
「ならとっとと失せろ。おっさん。」
黒目だけで謝った。車のロックを確認して、歩き出した。
「道具は三和土んところに一式用意してあっから。じゃあ終わったら連絡しろ。いいな。」
 車の屋根にまた寝そべり、顎を乗せて男は指示を出した。
 目的のマンションに着くとエントランスに赤いカラーコーンを置いて、臨時工事を知らせるA4用紙を貼った。入り口付近に設けられた小部屋は、カーテンが閉められていた。予定通り。普段通り。ここだけが例外ではなく、管理人常駐であっても管理体制は土日休みが多いのだ。そして大規模修繕が行われるような築年の古いマンションに、監視カメラの心配はいらない。
 猫背の老人と出くわした。大げさに仰け反って道を譲り合い、それなのに何度もご対面してしまって、双方苦笑いし気まずさを分かち合った。お互いに、右に進んだ。肉体には覇気がなく、とぼとぼと、覚束なく歩を進めていく。立派な骨格に弛んだ皮と肉がかろうじて引っ掛かっているようで、なんとなく気の毒になった。年齢に似合わず、瑞々しい色のショルダーバッグをたすき掛けにした格好が妙に愛くるしかった。眼鏡の内側にあるギョロついた視線から顔を背け、広大な集合ポストの前を素通りした。さりげなく、膨大に並んだ投函口から見える郵便物の溜まり具合を確かめて、目ぼしい部屋番号を頭に入れた。
「あのぉ、埃って飛びます? 洗濯物を干しちゃったんですけど。」
 貼り紙に気付いた主婦に呼び止められた。
「いえいえ大丈夫です。今日は汚れる作業は一切行いませんので。たぶん少しだけ音がするくらいだと思いますので安心してください。」
「でも週末もやるのね。」
「ちょっとクラックが想像よりも多かったんですよぉ。このままだと工期に間に合わなくなっちゃうんですよねぇ。結構タイトなスケジュールを組んじゃったんでぇ。」
 語尾を甘ったるく伸ばした自分の卑屈さに鳥肌が立った。言い訳がましく反芻すると、全身が粟立った。かすかに耳をこちらに向ける怪訝な面持ちに、ヒビ割れのことです、と補足した。
 マンションを取り巻いた足場を歩く。ときおり繋ぎ目が金切り音をあげ、鉄板のわずかな軋みですら耳障りに感じる。室内を横目に進み、干されたギンガム柄のシャツの色味が網のほのかな影のせいで黒だか紺だかよくわからず、凝視すればするほど判別が難しくなっていき、やがて通り過ぎ、とにかく留守宅を探した。テレビの音がとどく。会話。笑い声。泣き声。電子音。甲高い、まだ声にもならない声。一部屋ごとに日常が溢れていて、酷く平和で、彼らの生活が平凡であればあるほど、私は自らの存在がことさら際立っていくように錯覚する。
 晴天なのに、遮光カーテンで閉ざされていた。
 どうやら長い期間このままらしく、ベランダの床は朽ちた植物の残骸で散らかっていて、透明なプラスティックの容器に植えられたなにかは、木乃伊のように萎びている。点々と、退廃した小さな塊がころがっている。それらの傍で唸りを上げて回転している室外機を視、窓ガラスを内側から着色した焦げ茶色のカーテンの、コーティングされた生地の表面に視線を残しながら次に向かった。
 私を見るなり、瞼を剥いた。「ちょっと! あらやだ今日もなの? 週末は工事お休みじゃなかったっけ?」
 髪をうしろで縛った中年の女が驚いた。
 まだ着手もしていないので別に動じる必要もなく、住人の狼狽ぶりに付き合い、ひょうきんに慌ててみせた。素の肌に照れて、乙女みたいに焦り、ぞんざいな家着の言い訳をする。唐突な来訪というこちらの非礼を、両掌で拝んでおおげさに謝った。卑しくへつらった。泣く泣く休日出勤しなければならなかった事情を説明して、同情を買った。会社員のころには身に付かなかった臨機応変、プライドが邪魔して演じられなかった道化、いつの間にか器用にハリボテの私を使い分けられるようになった私は、救いようのない屑なのだろう。
「塗料とか飛んだら厭よ。」
「それは平気です。今から行うのは汚れる工事ではないので。でもちょっと音がする時があるかもしれないです。ご協力ください。」
 折り目正しく一礼をして、隣に消えた。
 垂直に近い梯子を昇り、再び端から端へと突き進む。
 ひと気がなかった。念のため、小石を窓に当てた。織の多寡で花柄を象っているレースのカーテンにほんのり影が現れ、即座に私は歩き出し、中央の合わせ目から突き出された顔に、落ち着いて会釈した。
 たかが七、八階程度の高さでも部屋から見る景色とは雲泥の差だった。風を感じる。けれど地面が近くに見える。勇気を振り絞って前に一歩踏み出してしまえば、怪我もなく簡単に着地でき、そのままテクテクと家路にも着けてしまえそうだった。空を遮るものは非常に少なく、街並は乱高下の激しい折れ線グラフのように地上から突き出していて、西新宿の高層ビル群が掌で握りつぶしてしまえるくらいの細さで連なっていた。交通量の多い道路が街をおおまかに切り裂き、ミニカーほどの車が流れていく。亀裂だ。動脈ではない。血流ではない。街に張り巡らされた道々は、街という身体に刻み込まれた、無残な傷痕なのだと実感する。
 澄んだ空気にも音がある。とても静かな、無音という響きがあるのだと思い知らされる。こうして頻繁に高い所に立つと感覚が麻痺してしまい、自分が地上から遠く離れているのではなくて、世界が地下に潜り込んでいるのではないかと目を疑いたくもなる。双眼鏡で探した。網でへだてられた側から、レンズで拡大された風景を覗いた。次の獲物を、外観を鼠色の足場で覆い尽くされた、鉄パイプでがんじがらめに緊縛された、憐れな巨大なマンションを。
 黒い網はその見た目にそぐわず、さほど眺望を損ねたりはしない。灰色であれば霞がかった風景に変わるのだが、光をあらかた吸収してしまう黒い網は、比較的普段通りの景色を愉しませてくれるのだ。行為を重ねるごとに着々と積み重ねられていくいらない知識に、途方もなく虚しくさせられる。
 上階に向かえば、施錠されてない窓とお目にかかることも少なくはない。カーテンの先を想像し、人影でも物音でもない、温かみや気配、在宅時に中から伝わってくる違和感に注意を払う。手練れをきどって第六感というやつに身を委ねて、息を殺す。だが結局確証も持てずに、爪の先で窓ガラスをノックした。
 不織布でできたカバーを片方の靴に履かせた。一歩忍び込み、室内で、残りの一足にもそれをかぶせた。日光が射し込まない奥の暗い部屋を物色してまわり、現金を盗った。商品券を見つけた。新品同様の、NIKEのレアなスニーカーが目に留まった。かさばるので一瞬だけ逡巡し、けれども腰からズタ袋を引っ張りだし、ちゃんと箱ごと三足とも失敬した。首尾は上々だった。先週はボウズだった。
 通常より順調すぎるので早々と切り上げることにして、衛星放送のまん丸いアンテナが斜めに首を傾げているこの部屋を最後と決めた。
 鍵に面したガラスをバーナーで炙る。低く咆哮をあげる青い焔で熱しはじめ、けれども、透明なガラスに変化が現れるほどの時間はかからない。天然水をかけた。
 割れた隙間からドライバーを差し込み、鍵のハンドルを押して回転させた。
 例外はない。ここでも、やはり、独特の匂いにつつまれた。主のいない部屋からは、ある種の停滞も感じる。同じ間取りであっても、雰囲気が、まとっている空気が、確実に違う。家具などのインテリアが異なるからではなく、いつでもどこでも、喩え隣同士の家であっても同じだったことは一度たりともなくて、毎回初めて嗅ぐ匂いが鼻腔をくすぐってくる。臭いとかではなく、香水や芳香剤とも違う、それぞれの家族が醸し出している生活の香りが必ず漂っている。靴のまま歩くフローリングの感触にはいまだに慣れずにいて、心臓の鼓動のような足音が脳の髄に直接鳴り響いてくる。
 窓から入った他人の家は日中の日射しがそれなりに降り注いでいるのにも関わらず、一層暗く見える。リビングに小さな木馬が置いてあった。底がゆるやかに湾曲したそれは、側面にキリンの絵が描かれていた。揺らすと、木が軋んだ。惰性で乗り物は前後に往復し、一点で揺れつづけ、残念ながら動物が走っているようには全然見えなかった。だが、走っている。むやみに駆けている。怒らせた肩、硬直した身体、凍りついた瞳、気付いてもいないボーダー柄の小さな背中。薄く開いた唇、やや長い顔立ち、クセのある髪質、吊り上がった眉山の高さから、化粧も肌のキメまで、赤いニキビですこし荒れていた頬、まつげも小鼻も、なだらかな鼻筋が描く線も、無造作な毛先まで、額の皺、薄い首の皮膚も、今でも忘れず忘れられず、全部鮮明に覚えている。もう一度、木馬を揺らした。
 あなたが最期に見た光景、それは私だったのか。
 それなら、君が見ていたものは。
 揺れる木の乗り物を、靴のつま先で止めた。
 いちいち、冷蔵庫のモータ音に焦ったりはしない。すばやく薄暗い室内を見まわして、不在を確認した。
 現金、金券類、腕時計。基本的に、それ以外のものには手を出さない。値打ちのある骨董品など置いている家はまずないし、盗ったとしても、閉鎖的なマーケットに流せばあっという間にアシがついてしまう。以前、高価な金魚が盗まれたとかニュースで放送されていたが、程なくして店の前に返却されていたらしい。価値だけに目がくらみ、一般性のないものを盗んだとしても、換金に困るだけなのだ。
 重厚な飴色をした腕時計ケースを見つけた。隠れ素封家か、相当なマニアなのか、掌に慄えを覚えた。とたんに息苦しさを感じて右耳のゴム紐だけを外し、結局頬で揺れるマスクがくすくぐったくてポケットにねじ込んだ。唾を飲んで、針が留まっているスイス製の腕時計を何度か振った。ムーブメントが回る感触がかすかに伝わり、秒針がじわりと動きはじめた。
 振っても留まったままなら電池切れのクォーツだ。だが、喩え動いていても秒針が一定の間隔で一歩一歩カチカチと歩みを刻むように進むのもクォーツで、偽物だ。機械式時計のそれは、ヌルヌルと、じわじわと、滑らかに時を重ねていく。
 数枚の万札を財布に移し替えた。ときめく想いで、ヴァシュロンとパテックフィリップを左の手首に巻いた。いつになく超大物を捕まえたので気分が昂ってしまい、恥ずかしいほど息が躍ってしまって中々冷静になれず、腕に何個も並んだ高級時計を見てゲバラが憑依したかのように、「オレは革命家だ。」などとそんな柄でもないのにおどけてみせた。捲り上げた作業着の袖をもどし、ボタンを留めた。自分が、姿見鏡に映っていた。笑っていた。薄気味悪くほくそ笑んでいた私の弛んだ頬の肉に寒気がし、幾度となく掌で擦りまわした。その手首には、知らない誰かの腕時計がつけられていた。
 久しぶりに会った自分自身は昔よりも皺が増え、顔の中に落ちる陰影が多くなっていた。ヘルメットを脱いだ。首が楽になった。特に暑さも感じていなかったのに急に涼しくなり、自然と溜め息が洩れた。額に汗がぬるついた。生え際が若干変わっていた。鏡に顔を寄せてまじまじと眺めるともみあげに白髪が見つかり、抜こうかと迷い、だが顎を四方に振ると頭にはまんべんなく生えだしているがわかったのであきらめた。ベランダへ出た。天然水がコンクリートを黒く濡らしていたのに新鮮な空気のおかげで気分がとても晴れ、言い知れぬ高揚が湧き上がり、足場に掛けられた黒い網を目の当たりにして我に返った。
 ズボンのポケットを上から叩いた。歪んだワイヤーを整えなおし、マスクをつけた。
 小学校、中学、高校、大学、社会人、あのころの自分は今の自分の体たらくを想像していただろうか、こんな未来を果たして思い描いていただろうか、修学旅行ではしゃいでいたころ、部活でレギュラーを獲得できて喜んでいたころ、初恋、就職、必死で仕事を覚えて自分の立ち位置を造り出そうと躍起になっていたころ、昇進し名刺に冠された肩書を見て小躍りしたころ、同期たちと居酒屋で会社の愚痴を散々わめいていたころ、浮世離れしたこんな自分自身の姿を予期していただろうか。タバコの臭いがした。恐怖で目をつむった。隣の家を警戒して足場に載るとフックがパイプをわずかに打ち据え、思いの外、強烈な金属音が響き渡った。息を飲んだ。身を低くした。気配を殺して、あたりに注意を払って、静かに歩き、それでも消えない足音になすすべなく、平静をよそおって当たり前に歩き出した。うるせえよ。同じ階か、下か、上のほうか、無限とも思われるべランダの数々のどこかから文句が聞こえた。
「どうもすいませーん。ただいま外壁の臨時工事中でーす。お休みのところご迷惑をおかけしておりまーす。まもなく終了しますのでご容赦くださーい。申し訳ありませーん。」
 野太く叫び、故意に足を踏み鳴らした。
 大胆に、堂々と、悪びれる様子を見せなければ怪しむ住人は意外なほどいないものだ。またいらない経験則。けれどもこれは、今の私にとっては一番重要な処世術でもあった。念のため、耳を澄ました。住人の罵声がつづかないことに安心し、地上へと、足場を下っていった。階が低くなるごとに歓喜の雄叫びをあげたくなる猛烈な解放感に取り憑かれていき、そんな自分を叱咤しなんとか我慢して、首筋に気味悪くかいた脂汗を袖で拭い取った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?