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英雄はうなだれる⑥

 駅に近いコンビニには十代と思しき若者がたむろしていた。コンビニ側の地べたに横一列で座り込み、向かいの、車道と歩道を区切っている湾曲した鉄パイプにも何人かが尻を引っ掛けている。
 一帯にはビールの空き缶がころがり、汁が残ったカップラーメンの容器がそのまま置かれていて、強い香料が独特の匂いをいまだに放ち、棒状のもの、薄く揚げられたもの、踏み潰されて粉々なもの、色々なスナック菓子があたりに散乱している。根元まで灰になったタバコが、ペチャンコになって無数にアスファルトに張り付いている。茶色いフィルターが、赤黒く焦げている。
 大声で騒ぎ、その中のひとりが持ったスマホから、英語ではない、聞き慣れない発音の音楽が流されていて、ひさしが平らな帽子をかぶったひとりが一心不乱にリズムに合わせて首をふり、隣では何人か陽気に喋っていた。ガードパイプに都合の良い切れ目がなく二列の間に歩み入ってしまった沢渡に、一斉に警戒の眼差しが向けられた。
 道路に片肘をついて両脚を投げ出して寝そべっていた男が銜えタバコの先を赤く発光させて、唇の端から鋭い煙を吐いた。歩く先が煙る。前に一歩踏み出されたスニーカーをよける。おそらくは侮辱、軽蔑、啖呵。意味のわからない言葉を浴びせられ、下卑た笑い声があがり、腫れぼったい唇が醜くゆがんだ。隣同士でハイタッチをする。再び、彼には意味がわからない、仲間同士だけの隠語が飛び交う。足もとに唾が飛んだ。驚いて立ち止まり、白い泡を含んだ唾液と見比べると、今度はきれいな日本語で恫喝された。
「許可なく勝手に入って来んじゃねえぞ、ポン人がよ。ここは俺たちの街だぞ。出てけよ。」
 二人が勢いよく立ち上がった。
 音楽に没頭していた帽子が身内の機敏な動作に驚いて顔を上げ、珍しそうにあたりを見まわした。上目遣いで沢渡を見つけると、とたんに眉間を険しくする。すばやく中腰になり、臨戦態勢に入った。何かを言った。立ったふたりが肯いた。仲裁ではないことだけは、その表情から察することができた。
 つぶらな瞳が輝いて、揺れる。二人が右を前に斜線となり、前をふさぐ。ガニ股でにじり寄るつま先が途中でインスタントラーメンのカップに引っ掛かったのに、そのまま足払いで蹴り倒した。白濁したスープがアスファルトに流れ出し、丸い卵の具や黒茶色をした肉の角切りが液体のなかを泳いでいく。食べ残しのわずかな麺が後を追ってからみつく。
「ちょ、待った待った。ここに住んでる友達に用事があって来たんだからやめてくれよ。」
「だったら入場料払ってさっさと失せろ。腰抜け。」
 シャツの釦を半分まで開けた胸板が真っ黒く鼻の穴をふくらませて、凄んだ。呼吸まで届いた。ラーメンの臭いがした。渋々尻のポケットから抜き出した財布から札だけを全部むしり取られ、とっさにそれを防ごうとすると左肩を突き飛ばされた。逆にも喰らわされ、よろめいた。
 うっすら影を落とした鎖骨や強烈なその眼光から目を逸らし、背後に控える醒めた瞳から、薄ら笑いから、とりわけ気性が荒そうな前のめりから、一足先に争い事から興味を失ったらしく指先で新しい選曲をはじめている若者からも逃げ出した。ケンカする気はないからマジで勘弁してくれ。無害を証明するために両方の掌を相手に向けて、痙攣するみたいに首をふり、沢渡は踵を返した。最悪の事態を脱すると全身から冷たい汗が噴き出してきて、それなのに熱くみなぎってくる体温を情けなく持てあました。
 うしろから吸い殻が飛んだ。
 背中に、何かが当たった。一同が爆笑した。
 唇を噛み、けれども、何もやり返せなかった。当てられたものも確かめないで、結局わからず仕舞いで彼は済ませた。
 都心からこんなに離れた場所からでも、ハイタワーマンションの姿は視えた。
 頂上近くは空に融け、ゆるやかに景色になじんでいる。いつの間にか夕方に近く、いずれ夜が訪れる。いま来た方向にふりかえることもできず一心に歩を進め、平静でいようと努めるのに吐き出す息がいつまでも慄えた。
「欲しているのは、片時でも欲に飲み込まれてしまった馬鹿どものあさましい復讐心ではない。この闘いは、そんな低俗な恨みの発散ではないのだよ。崇高な聖戦なのだ。純粋な独立宣言なのだ。私利私欲を貪るための、己の憎悪を満足させるための、そんな理不尽な活動ではない。これは不可侵な、使命に目覚めた清廉潔白な者たちだけが持ちうる特権なのだ。」
 あの時、剣持はそう言った。
 鼻の頭を人差し指でこすり、《Nの問題》なのだとつづけた。
 事は、私が想像していた以上に深刻だったのだ。とても切迫していて、一刻の猶予もないようなのだ。誰も彼も、もちろん私自身もふくめて、すこし惰眠を貪りすぎてしまっていたようだね。恥じ入るよ。反省している。だから最初の一撃を、もしかしたら最初で最後にもなりうる、趨勢を一気にひっくり返してしまうほどの痛恨の一撃にしなければならないのだよ。一人が一人では足らないかもしれない、脆弱すぎるかもしれない。一人ではなく二人、いや五人十人、もっと等比級数的な被害を与えないと彼らは目覚めてくれないのかもしれない。
 とどのつまりは宣戦布告、全方位的に対立軸を明確にすること。傍観を赦さず、自らの立ち位置を鮮明に打ち出さなければ直接的な危険がおよぶかもしれないという可能性を極大にまで引き上げるのだ。拒否は認めない、通さない。立場の留保という選択肢を持たせない、全員参加の反撃とし、同胞であっても他国に利するものは攻撃対象とする。。そりゃ、一般社会から孤立するかもしれない。国際社会からは制裁を受けるかもしれない。しかしね、これは純潔な、妥協する余地をあたえない、耐え忍ばなくてはならない、激烈なほど栄光あふれる孤立なのだ。身震いするほど高潔な孤独なのだ。所詮、この国はここまで追い込まなければ未来永劫覚醒しないのだろうという結論に至ったのだ。
「骨の髄まで奴隷根性が沁みついているからね。」
 濃密な雲がかかり、遥か彼方に建つハイタワーマンションの先端は視えにくい。道沿いは個人経営の飲食店が点在していて、そのほとんどがエスニック色の強い料理店であり、沢渡の家の近所で見かけるチェーン店の数は多くなかった。出くわすコンビニからできるだけ距離を置き、沢渡は歩いた。
 広大な敷地の入り口にあるスーパーには〈大売出し〉ののぼり旗が風も吹かないのになびいていて、店内に日本人らしき姿はひとつもなかった。違う国籍の女性が黄緑色のユニフォームを着、レジで商品のバーコードをスキャナに読み取らせている。夫婦が入っていく。家族連れが出てくる。口の周りに立派な髭を蓄え、ビニール袋を両掌からぶら下げて、彼の顔に視線を粘らせつつ去っていく。
 久しぶりに訪ねてきたものの、ひどく面倒でもあり、果たして彼が望むことなのかもわからなかった。
 彼に存在意義を持たせてやりたいなどという美談でもないし、誤った方向性を修正させるつもりでもないし、剣持の壮大な青写真を成就させてやりたいという応援や自らの理念があるわけでもなかった。他力本願。放棄、無責任。沢渡は、脳裡にふと浮かんだ言葉に頭をふった。依存。整理もつかない感情をふり払いたくて、普段通りに携帯電話のモニターに集中し、後腐れのない出会いを求めた。
 外観は清潔な白亜で整えられているのに、どこか不潔な感じがした。何かに感染しているような、今までの人生で感じ慣れた空気ではない、異なる雰囲気に包まれている。
 この地域に日本人は多数住んでいるが、新規のポン人はよほどのもの好きでないかぎり寄りつかない場所だ。
 一棟一棟がそれぞれ平行に何棟もならび、奥に向かって直線を描いている。青空を切り取る。終わりは見えない。どこまでも永遠につづいているようでもあって、平行なはずの直線は角度をつけて前方めがけて走っていき、やがて一点へと収束していく。高さも意匠も、すべてが画一的であり、横長の柔軟なヒダが何枚も揺らめているようでもあり、看板の注意書きやガラス戸のついた掲示板は日本語ではない言語で書かれていて、時々投げかけられる視線からは好奇の意味合いをありありと感じる。
 なんとなく背後に注意しながら、歩く。記憶を頼りに目指す。
 紅色だった。かわいかった。
 幼い子がおどろいて紐を手放してしまったみたいな、本人には取り返しのつかない悲しい出来事だろうし、とても儚くも見えるけれど、誰もが目を奪われてしまううつくしい光景だった。解放の瞬間だった。
 やわらかい塊が宙を優雅に泳いで楕円になり真球にもなって目まぐるしくかたちを歪ませながら、アスファルトに落下した。破裂する音を響き渡らせ、真っ黒い染みを地面に造った。見上げてみても、誰の姿も見つからない。棟と棟との間にある中庭に面した団地の通路に人影は一切認められず、周囲から物音ひとつ聞こえてこない。上に注意しつつ建物から距離を置いて歩きはじめ、徐々に小走りに変わっていった。一瞬見上げた。誰もいない。奥に建つ棟だけを見つめて早く屋根の下に避難したくてたまらず、一体何年かぶりも覚えていない全速力で駆け出していた。弾けた。何かが耳をかすめた。足もとにほんのり、茶色い砂煙が舞い上がる。わけがわからずとっさに頭を掌で隠し、さすがに犯人を捜す気も起きなくなり顔を上げることもできなくなって、その場に立ち尽くした。
 残骸を見つめた。
 植木鉢が粉々に砕けていた。
 手が届く距離で赤褐色の破片が八方に飛び散っていて、黄色い花が植えられた腐葉土はかろうじて円筒状を保ったまま力なくころがっていく。余韻が風に乗り、拡散していく。甲高い笑い声が反響する。成功を祝しているのか、惜しかった失敗に嘆いているのだろうか。いくつかの違う声色が愉快そうにはしゃぎまくる。向かい合う棟に跳ね返り、木霊して、やけに糸を引いて強弱があり、どれも聞こえてくる方角が違うから、まるで笑い声に包囲されているかのようにも錯覚してしまい、勇気をふりしぼり見上げて捜してみても声の出処の予想すらつかない。無数の視線が射抜いてくるようで、かといって誰一人としてここにはおらず、元々彼に関心を抱く人などなく、滑稽な一人芝居で被害妄想を肥大させているだけのようでもあった。誰かの感情に呼応したかのように、かろうじて鉢のかたちを留めている土の、鮮やかに押し固められた角が崩れ落ちた。中から、貧弱な色をした植物の根が顔を覗かせた。
 以前遊びに来た時よりも格段に治安が悪化しているのを実感した。それとも「日本人」である知り合いが隣に控えていないのが原因なのだろうか。
あちこちから監視されている気分に陥った。まだ実害は出ていないのにこっぴどく暴行を受けたような痛みを身体の至る所に感じはじめていたし、ひどい疲れが全身に圧し掛かってきていた。異世界に迷い込んだような、単なる日本の一地域に訪れているだけなのになにかしら禁忌を犯してしまっているかのような、根拠もわからない敵意が土地全体にみなぎっていて、確実に、雰囲気は殺伐としていた。
「ニッポン。チャチャチャ。」
「××××××××××××××。」
「△△△△△△!」
「ニッポン。チャチャチャ。」
「ニッポン。チャチャチャ。ニッポン。チャチャチャ。ニッポン。チャチャチャ。ニッポン。チャチャチャ。ニッポン。チャチャチャ。ニッポン。チャチャチャ。」
「△△△△△△!」
 閑散としている広大な団地のどこかから囃したてる声があがり、頼むからやめてくれ、と祈る気持ちでつぶやいた。両腕を挙げて歩いた。言葉で懇願したところで意思疎通ができるとは到底考えられなくて、だから取りうる最善の手段といえば、こんな屈辱的なジェスチャーしか思い浮かばなかった。でもこれだって効果があるかはわからないのに、たとえ気休めにしかならなくても手を降ろせなかった。
 団地の側面に描かれているアルファベットとハイフン、数字の配列を見上げて、玄関をくぐった。大音量の歌声が聞こえた。弱い照明の薄暗い中、エレベーター付近にたむろする人影が見え隠れする。スマホからスピーカーに音楽を飛ばし、会話もままならないほど洋楽が場を支配していて、周囲の気配にも気が付かない。
 曲の沸騰に合わせ、次第に、奇声が、ダンスが、微塵の羞恥もなく、とてつもない激情を帯びていく。短髪の男とパーマがかかった長い黒髪の女が陰部をこすり合わせるように腰をくねらせる。密着させる。歯止めをなくしてしまった猛烈な躁から身をかわし、後ずさりした。夜でなければ問題はないだろうと甘く見ていた。
 にわかに粟立ちはじめるような不穏な空気を察し、その棟から出ようとすると遠くから呼び止められ、急いで非常階段のほうにまわった。うしろを確認して、自然と足早になった。HEYHEYHEYHEY! 血の気が引き、無我夢中で逃げていた。
 直角に渦を巻いていく階段を数段飛ばしで登りつつ、自らの足音さえもうるさく感じ、乱れた息も必死で押し殺して、折れ曲がった手すりの隙間から下を見下ろした。制御不能になった飛行機がきりもみ降下するように階段は無限に渦を巻いていて、たった今登ってきた地上がちゃんとあるのかもさだかではない。気が遠くなる感覚におそわれて頭をふった。
 また、知らない音楽があふれ出した。訓練された張りのある声量が聞こえ、悪乗りしたズブの素人の歌声が遅れて重なり、関係のない会話が絶えず絡み合う。
「すいません、タナカさんはいらっしゃいますか? つい最近まで同じ職場で働いていた者なんですけど。友達の沢渡と言います。結構仲良くさせてもらってました。」
 自然と言葉が早口になった。
 気がまだ動転していてところどころで声が裏返ってしまい恥ずかしく、チェーンを掛けたままわずかに開けられたドアの隙間に、この時の彼は、あきらかに助けを求めていた。ダレダオマエ? 元同僚です。タナカさんに用があって来ました。縦長に空いた、片目だけがかろうじて覗く細い空間を右と左の目の玉が交互にあらわれて、後頭部のつむじに変わり、ちょっと間をおいてからふりかえると、おまえなんか知らないとぶっきらぼうな答えが返ってきた。太ももの高さには屈託のない眼差しと小さな小鼻がちらつき、何度も入れ替わり珍しそうに見上げてくる。
「部屋番号はここで間違いないと思うんですけど。前に遊びに来たことがあるんで。」
「タナカダケド。」
 横から違う瞳が捻じ込まれてきて、大きな鼻の穴を沢渡に晒した。
「いやそうじゃなくて、一緒に働いていたタナカさんはいらっしゃいませんか? つい最近まで清掃会社で働いていた人なんですけど。サワタリと伝えてくれればわかると思います。」
「私もタナカだよ。」
 たわんでいたドアの鎖が一杯まで張り詰め、バタ臭い口紅を引いた女が答えた。半分の顔がふたつ、縦にならんだ。鮮烈な赤がやわらかく動く。不審な眼差しで沢渡をうかがい、中指で唇の端についたソースを拭う。誰? あんた。一旦ドアが乱暴に閉まってこすれる金切り音が響くと、ノブがぐるりとまわった。
 ヒンジを中心に玄関が開け放たれ、そのままの惰性で激しく壁にぶつかった。脳の髄を刺激する容赦ない衝突音に驚いた沢渡の眉間に力が入り、思わず顔をしかめた。誤解されたくなくて、急いで柔和をよそおった。跳ね返ってくるドアを掌で受け止め、非常階段のほうをちらりと用心する。長方形の空白に髭の濃い男や日本人に近い容貌の男も居、通る隙間もなくひしめくようにみっちりと立ち並んでいて、そうしているうちに引きも切らず、彼らの背後にも続々と詰め寄せてくる。
「オレモタナカ。」
「ボクモ。」
 Tシャツの裾からトライバルのタトゥーがちらついた。
「ワタシモタナカダケドナンカヨウ?」
 横に整列した人々が腕を組み、腰に片方の掌を添えて、沢渡を凝視する。
「この人、誰か知ってる?」
「あの、大事な話があって来たんですが、本当に居ませんか?」
「ダカラワタシガタナカデスヨ。ナンデスカ?」
「じゃなくて、清掃会社のタナカを呼んでよ。わかりませんか? 僕の言ってること。」
「僕もタナカと言いますけど、用件はなんでしょうか?」「私は坂本ですが。」「オレハワタナベ。」「ヤマダ。」「サトウ。」次々と鼻面がねじ込まれ、引っ込み、また別の誰かが現れては奥の部屋へと引き返していく。「私も、この子も佐藤ですよ、なんなんですか一体。」「アナタハダレデスカ?」「オレハオヅダヨ、オ・ヅ。アコガレダッタイダイナエイガカントクカライタダイテ、コノミョウジヲシンセイシタンダ。オヅヤスジロウカントクハモチロンシッテルデショ、ニホンジンナラ。」「おまえよぉ、こっちが元々外人だからってなんか差別してんだろ? ちゃんと国籍取ってんだからみんなおんなじじゃねえかよ、舐めるんじゃねえぞ、コラッ。」「トコロデオニイサン、93カワナイ? オランダノヒンピョウカイニダシタラニュウショウマチガイナシノジョウモノガハイッタンダヨ。」「ドウモムラカミトイイマス。」「自分、タナカですけどなんか用っすか?」「タナカ。」「タナカ。」「タナカ。」「タナカ。」「タナカ。」「タナカ。」「タナカ。」クリーム色で塗られた鉄のドアと同じかたちをしている空白にわらわらと人の顔が群がり出てきて、一斉に言い騒ぎはじめた。質も色も長さも違う髪の毛が押し寄せ、家の中には立錐の余地もない。似た顔立ちが、似ても似つかない面持ちが、顔を突き出してきては消え、消えては新たに突き出してきて、無数の言葉を浴びせてきた。唖然として何も応えられないでいる彼に首をかしげ、細かくウェーブした髪を整髪料でテカらせた青年が、ご機嫌に鼻歌をくゆらせながら部屋の奥へともどっていく。残る。加わる。増える。減る。長くて、厚い、人の壁は何度でも再生される。「オレモタナカダケドナニナニ? ナンカオイシイハナシ?」遅れて、お銚子者が顔を突っ込んできた。「タナカ。」「タナカ。」「タナカ。」「タナカ。」神経を逆撫でされるような喧騒に彼は耳をふさぎたくなったが、それもできず、愛想笑いを絶やさずに話をつづけた。肩越しに部屋が見え、ネコだかクマのぬいぐるみを抱えたあどけない目もとが彼をとらえて、その、二段ベッドで埋め尽くされた部屋からいまにも腐臭が漂ってくる気がした。乱れた布団が脳裡に焼きつく。
 幼い腕が造り物の動物を強く抱き締めた。
「じゃあ申し訳ないですが、サワタリと清掃会社で一緒に働いていたタナカに、『是非紹介したい人がいる』って伝言してもらえませんか? どなたでもかまいませんので帰ったら伝えてください。」
 閉まりかかった鉄の扉にすがりついた。
「ええ、確かにそうなんですけど、その携帯電話がつながらなくなっちゃったんですって。」
 これといった了承もなく、話の途中なのに勝手に閉めようとする扉の縁を思わずつかみ、勢い余って左手を壁につけた。コンクリートの冷たさが掌に伝播してきて、火照った気分にはやけに気持ちがよく、右手の指の腹には厭な油っ気を感じた。
「ほんとにマジで、伝言だけお願いできませんか?」
「タナカデスケド。ドウシタノ?」
 仲間にうながされ、遅れてひとりやって来た。
 沢渡は顔の前で掌をふった。
「だから元清掃員のだってば。」
「ダカラドノタナカ?」
 首をかしげる黒い髪に、肩を落とした。
「ワタシタチミンナタナカデスヨ。」
 気が付くと、三和土は数えきれないほどの日本人で埋め尽くされていた。
 顔と顔の間から、頭の上から、腕の間、肩越し、股の間、腰に添えた腕の三角形のあいだからも、様々な隙間から目まぐるしい瞳の数があふれかえっていて、ほとんどがタナカらしく、けれども知っているタナカはどこにもおらず、仕方なく諦めた。強烈にドアが閉まった。チェーンがかかる金属音が鼓膜を痛く突き刺した。
 意識もしないのに虚脱なのか安堵なのかもさだかではない深い息が洩れ、永い潜水から水面に浮かび上がった時のような開放感に浸った。空気を貪った。軽くめまいがした。窒息してしまいそうな息苦しさは消え去ったが、代わりに次元が捻じ曲がっていくような、足もとが瓦解していくような、発露もわからない言い知れぬ不安に襲われた。
 特段、彼は、元仕事仲間との再会を愉しみにしていたわけではなかった。
 本音を言えば全然気乗りしていなかったし、その実現を期待していたわけではなかった。知り合ってから長く経つが、そういえばウマが合うと思ったことは一度たりともなく、小競り合いをくりかえしていた記憶しかない。彼が職場を去ってもさして淋しさは感じなかったし、横柄な態度に業を煮やしていたところもなくはなかったので清々したというのも否定はできなかったし、入れ替わりの激しい会社では日常茶飯事の風景でしかないので明日からコンビを組むことになる相手の仕事の腕のほうが気掛かりだったし、使えないせいで収入が減ったら困ると不安になった程度で、役不足、活躍の場、履き違えた自由の魅力にとりつかれ、鬱屈としていたタナカに適任の仕事を教えてやるつもり、目的はただそれだけだったのだ。
 徒労に終わり、肉体に疲れが蓄積されただけの外出をとても後悔して、明日からの仕事のことを考えると厭気が差した。
 夜、決まった時刻に就寝し、起きて朝食を食べれば出勤だ。仕事から帰れば安上がりな夕食を食べながら、本当に観たいのかもはっきりしない動画を観つづけて、眠り、次の日また仕事に向かう。くりかえす、今日。今日。今日。薄給。貯金は零だ。世の中になくてはならない仕事のはずなのに、彼ら自身は何一つ罪を犯していないはずなのに、後ろ指差されるだけで感謝もされず、奇異な視線を浴びつづける毎日なのだ。生活を守るだけで必死なのだ。だからこれ以上何を求めればいいのかも判断できなくて、自分が偉大な何者かになれるなどとは露にも思わず、明日からの一週間のことにしか頭は働かない。メシだ。女だ。ネットゲームだ。VRだ。ひさしぶりにダーツでも行くか。でも、今月はもうあんま散財できねえな、メシ代を切り詰めればもうすこし捻出できるか。一週間勤務すれば、再び休みがやってくる、気が済むまで眠っていられる、それだけが生活の糧なのだ。
 所詮ふさわしい人物などいない。百歩どころか二千歩くらい譲ってあたりを見渡してみても、数段劣るような人材ですら皆無だ。
 結局漫画なのだと、沢渡は納得する。情熱を迸らせて民衆を魅了し、未来を創造し、鼓舞し扇動して、危険を顧みず実行に移し、猛烈なうねりを巻き起こしてこの世界を根底から覆してしまう、そんなエネルギッシュな主人公は漫画や映画のなかにだけ存在する、だから本当はどこにも実在しない、ありえないという前提でそれでもそこはかとない希みを棄てたくない皆の願望が結晶化された諦めの偶像なのだと、彼は自らの考えを強固にする。
この閉塞しきった毎日が、ある日、一変する。
 そんな夢絵空事は生涯起こるはずもなく、英雄を待ったところで一生あらわれるわけもなくて、灌木だかなんかの木の下でひたすら待ちつづけているだけ時間の無駄というものなのだ。
 時代なのだと、有能な人物たちが能動的に機能している公平な世界なのだと、多様性だ、融和だ、寛容であるべきなのだと、身の丈以上を求めるような厚顔ではないのだと自らを慰撫し、自分自身に被害はない、当事者が対応すればいい、むしろしなければならない、強大だ、脆弱だ、三度三度のメシだ、そしてできるだけ多くの女性との交わりだとかに執心している、砂塵、砂粒、卑小、矮小。
 タナカみたいにいつか強者の側に成り上がってみせるという気概はない。つまり必ず同じ側に立ってみせるという決意があるからこそ、搾取する側の論理を受け入れているわけではないのだ。
 皆が皆、体裁よく達観してみせて、きな臭い富の奪い合いなんかには興味がないと聖人君子ぶっているのかもしれない。自分に言い訳して現状を甘んじて受け入れ、そのくせ納得できず、肉の塊にまで自分をおとしめる覚悟もなくて、ガス抜きくらいに甘噛みみたいな攻撃を喰らわせることができる矛先を絶えず目を皿にして探しまわっていて、本心では、現在の体制を転覆させてしまうような手痛い一撃をお見舞いしてくれる改革者を無責任に待ち望んでいる。動かない自分に胡坐をかき、動かない誰かに腹を立てているのだ。
 第一、タナカが大好物なのは金であって、名誉や羨望のまなざしに微塵も関心はないだろう。
 鬱屈としているのは他の誰でもなく、沢渡自身なのかもしれない。
 見苦しく権利を言い騒いだりせず、いさぎよい自分自身を演じてみせ、自分はまわりに吐いて棄てるほどいる弱者とは毛色が少々違い思慮深いのだと、知的なのだと、柔軟なのだと、先進的なのだと、こんな愚鈍な奴らと同じなわけがないと感性が若いのだと、ひとりきり高みに登ろうとしているのかもしれない。強者の論理に率先して理解を示し、だから同様の思考や能力を持ち得ているのだと人知れず自慰にふけって、あえてこの場に留まっているのだ、そういうパワーゲームは不毛にしか思えないから参加しないだけなのだと居直っているのかもしれない。立場はわきまえているつもりだ。恥の上塗りはしたくない。侮られるのは御免だ。それに誰もが異常だと認識しているのは間違いないのだからいつか誰かが改善してくれるに決まっていると、漠然と信じているのかもしれない。
 たとえこの国がどうなろうが、自分が生きてる間だけ逃げ切れればラッキーだ。そうやって、もうひとりの彼がいやらしく耳打ちする。
 荒んだ地域に脚を踏み入れる程度の危険は冒すくせに、自らの手は極力汚したくないらしく、仲介にひと肌脱ごうとし、率先して行動しているふりをして、他人の背中を押そうと努め、それは相手が奈落へ落ちるかもしれないのに厭わず、それは、自分だけは善良な市民でありつづけたいと思っているからなのかもしれない。
 潔白であることを常に希み、違う側面では残酷な手段でさえも待ちわびていて、それどころか渇望していて、裁かれた後の他人の人生など知ったことではなく、自分以外の誰かが口火を切ってくれたら拍手喝采を送るのかもしれない。
 きっと、笑いがとまらないことだろう。
 帰り道、乗客は少なく、ゆるやかな電車の中でやわらかい座席に腰を掛けているのにますます疲れ果てていき、やがて身動きも取れなくなり、窓から見える景色をぼんやりと眺めた。
 街灯が、白々と灯っている。
 明かりは、洩れなく、光の棘を幾方へも放射させる。巾のひろい川を真っ黒い水が流れていく。所々光に照らされ、斑に白く、粗い水面を露わにする。光と影の鱗が輝く。河川敷の芝生の上を何人かが二列になってランニングし、女性が小型犬を何匹も散歩させていて、高く盛り上がって川と住宅街とを隔てている道路を前傾姿勢の自転車が縦に二台つらなって走り抜けていく。
 窓ガラスには沢渡の顔が映る。
 奥に反射した朧な窓ガラスにも沢渡が居て、その奥にもさらにその奥にも、延々と沢渡がつづいていて、いつまでも終わることはなく、電車が揺れるたび、沢渡の顔の羅列はしなやかに波打った。

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