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消失点⑤

 鉄の扉を開けた。一瞬、カビの臭いが漂った。
 子供の背丈くらいの空間には生成り色のパイプやメーター類が並んでいて、その中の地を這う配管に、銀色をした大きめの南京錠がからまっていた。パイプスペース内の残った空白は幼児ひとりがやっと入れる程度の広さしかなくて、さすがにここで暮らすことはできないけれど、とても盲点で、捕まえにくる鬼から隠れるにはこの上なく適している場所だった。膝を抱えてこの中に潜んでいれば誰にも見つかりそうもなくて、毎日を穏便にやり過ごしていけそうだと思った。おーい、何番なの? すんなり開いた。本体から、窪みが不規則に空けられた鍵が滑り落ちた。
 三和土を上がったあたりに、無造作に置かれた三台の七輪やブルーシートなどを見下ろした。パンパースに養生テープ、腕が鳴る。
 家具はない。家電も、もちろんない。
 食器も雑貨も、食料も、生活するための材料は一切備えられてはいない。次の借主が現れるまでの間、ひとりきりここで待ちぼうけし、幾度となく人の目にさらされつづける憐れな空き部屋だ。もぬけの殻のファミリータイプの間取りは妙にひろく感じ、とても伽藍堂で、足音やなんとなく出る発声がそこかしこで反響して跳ねかえってくる。玄関の足許に置かれていた、スリッパへの履き替えを指示する、不動産管理会社の内見案内チラシをできるだけ小さく折りたたんで、ポケットにしまった。
 双子のようにリビングからつながる六畳ほどの二部屋を見つめた。典型的な2LDKだった。人差し指を左右に迷わせ、……か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り・な・わ・け・ね・え・だ・ろ、左に歩いた。閉められている引き戸をずらし、床を確かめる。畳だった。窓の近くが、日に灼けて若干黄色く変色していた。床の造りだけが違う、生き写しみたいな隣の部屋へ移った。
 こちらは、レースのカーテンが掛けてあった。彼が目隠しのために準備してくれたのかと一瞬頭によぎったが、アイツがそんな面倒なことをするはずもなく、なら前の住人の残置物かとも考え、結局どうでもいいから詮索するのを止めた。
 のたうつ布のひだに合わせて光の淡い線が走り、陰の棒が倒れ、ひしゃげた花の模様がやわらかく床に落ちている。ベランダを覗くと、視界に、黒い網がひろがった。外で見た時よりも格段に閉塞感があって、立ち眩みしそうになった。深く息を吸い、吐いた。壁にもたれかかり、しばらく続けた。なにかを視るでもなく、ぼんやり窓を眺めていると日射しの角度はゆるやかに変化していくようで、ずっとそのまま動いていないようでもあり、うつむき、フローリングに再び目を落としてみると、そもそも、つい今しがたの影がどんな形だったのかも覚えていない。とても大事なことを考えていたような気もするし、なにかの重大な決心をしたようにも思えるのだけれど、気持ちは明確には言葉にはならず、代わりに、買おうか以前から永いこと迷っているバッグが頭に浮かんできた。
 養生テープを手に取った。端だけ貼り、一気に、真っ直ぐテープを引っ張り出す。掌で表面を擦り、密着させる。わずかであっても逃げ道がないように丁寧に、入念に、執拗に、サッシの隙間をテープで目張りしていった。単純な作業が好きだった。くりかえしくりかえし、脳みそを全然使わないで同じことを続けていても苦には感じないたちだった。
 これもある種の愛情表現か? 違う。それなら造形美の追及なのか、おもてなしの一環か、とにかく几帳面な私は一切の妥協ができず、テープに空気が入らないよう、醜い皺にならないよう、一心に準備を進める。
 ガラスの向こう側を翅虫が飛び、仕事を惑わす。透明だから気が付かないらしくて、何度でも体当たりしてくる。
 昔々、あるところに虫が大好きな女の子がおりましたとさ。
変わってるよね、女なのに。
 独り言をつぶやいた。ヒラヒラと近づく目障りな舞いに拳をちらつかせ、それでもまだどっかに行かないから窓を叩いて脅してやった。
 でも今は見るのも苦手だし、当時本当に好きだったのかも今となっては怪しいかぎりだ。もしかしたら過去を美化しているだけで、遊び相手どころか感情の捌け口にいじめていただけだったのかもしれない。
 物思いに耽りながら、部屋のささいな隙間を潰していく。細かい段差も手抜きはせず、なるたけうつくしく仕上げていく。

 むかしむかし
 ちいさないえがいっぱいならんだ ちいさなまちがありました。
 そこにはおかあさんとおんなのこがなかよくふたりでくらしていました。
 ちかくにこうえんがありました。がっこうがありました。もりがありました。
 おんなのこはむしがだいすきでした。
 はやしでむしをみつけては カゴにいれていきました。
 だんごむしをつかまえました。
 カゴにいれるとすぐにまるくなって 
 ふればコロコロとなかでころがって はねまわって
 おんなのこはたのしくて なんかいもカゴをふりました。
 なかまにコオロギがくわわりました。
 バッタもきてくれました。てんとうむしはすごくかわいい。
 セミも ハサミムシも カナブン チョウチョもカゴのなかにきてくれました。
 むしをみつけるたび そのおんなのこはちいさなむしカゴにてあたりしだいいれていきました。
 でもエサになにをあたえたらいいかもわからなくて
 ただただ つかまえたむしたちをカゴにおさめていきました。
 おんなのこに ともだちはむしたちしかいませんでした。
 ちかくにあるがっこうにかよっていましたが おはなしするともだちもいなかったので
 カゴのみんながあそびあいてでした。
 ダンゴムシはなにをきいてもぜんぜんこたえてくれなくて
 つつくといつもるまくなってかくれてしまいます。
 てんとうむしは すぐにはねをひろげます。でもはんてんのもようがすごくかわいいのです。
 
 なぜか、キャメルの洋服ばかり欲しくなる。Pコートにトレンチに、ダッフル、種類はいろいろ持っているのに、理由はわからないけれど、いつもこのやわらかい色味に心が惹かれる。
 かすかなノックに応え、サムターンを回した。
「あの、ハンドルネームは?」
 薄く開いた玄関のドアに向け、立て板に水で身元を訊いた。たまには黒とか、思い切ってダブルのライダースとかにも挑戦してみようかな。遅れて、スマホから顔を上げた。そんな蚊の鳴くような返答じゃ聞こえねえよタコ。声ぐらいちゃんと張れって。心の中でぼやいた。上目遣いで表情を盗み見つつ、招き入れて封筒を受け取り、スマホに入れてある名簿と照らし合わせた。
 場所の提供によって自宅である賃貸マンションへの気兼ねを取り払い、道具の購入のわずらわしさや事後の連絡作業、これらのエネルギーを要する手配をこちらが一手に担うので、応募者たちは金銭持参で指定場所まで赴きさえすれば、気軽に終えることができる。
 切実とした願望を具現化してあげて、面倒な用意や計画から解放してあげる。するべき行為は移動だけだから、心的負担は格段に軽減される。私たちの存在によって、周囲に迷惑をかけてしまう、躊許されざる行為だ、などといった従来のイメージを刷新でき、人生の選択肢としてのニーズは一層高まっていくのは間違いないはずだ。より身近で気軽な手段として、世間に認知していただければ幸いだ。
 慈善事業だ。隙間産業だ。いつまで待っても国が重い腰をあげず制度化しないから、民間が泥をかぶって行わなければならない必要悪だ。
 スマホでネットショップを夢中で覗いていたせいで、営業への頭の切り替えができておらず、ぞんざいな態度にちょっとだけ反省し、こわばったままの眉間をなにげなく撫でた。揉んだ。小さく円を描いた。大丈夫。できる。私。意識して口角を上げ、手遅れかもと思ったけれど、来客に微笑んだ。室内へうながした。頼りない背中を見つめながら、封筒の中身を数える。掻き上げた髪の毛が、いつもより、ちょっとだけパサついている気がした。枝毛を探す。髪の毛に指の腹を走らせ、つまんだ何本かを鼻まで持ってくる。匂いを嗅いだ。嗅ぎ慣れたシャンプーの香りがして、もう一度鼻で空気を吸うと、たった今嗅いだ風味はすでに消えていた。
 再びヒールを履き、スマホのモニターに目を落とした。裸足や靴下のままで三和土に降りる奴は、信用ならない。赦せない。見るだけでも身の毛がよだつくらいだから、たとえわずか一歩であっても、絶対に私はやらない。造り付けのシューズボックスに背中を預け、片肘を載せて、散財の計画を立てる。
 
 あるひ おうちにおとうさんがやってきました。
 おおきなてで おとうさんはおんなのこのあたまをなででてくれて
 とってもやさしくしてくれました。
 ふたりめのおとうさんを おんなのこはすぐにだいすきになりました。
 だっこしてもらい いっしょにおままごとをしてもらい まいにちをたのしくすごしました。
 おかあさんがおしごとにいきました。
 いままでは おかあさんがおでかけしてしまうと かなしかったです。
 でもいないあいだはおとうさんがあそびあいてになってくれるようになったので
 おんなのこはもうさびしくはありませんでした。
 いつもどおりふたりであそんでいると
 おとうさんに このソーセージをたべなさいといわれました。
 おんなのこはいやがりました。たべものではないとおもいました。
 おなかがすいてないとうそをつきました。すると すごくおこられました。
 かなしいきもちでカゴのふたをあけ なかまたちにはなしかけると
 コオロギくんはすきをみてはそとにとびはね おんなのこからにげようとします。
 バッタくんもです。
 おんなのこはそんなともだちにはらがたちました。
 ともだちじゃないとおもいました。
 あしをぬきました。
 ふとくてたくましいうしろあしをねもとからひっぱり ともだちにばつをあたえました。
 するとともだちはまえのあしだけであるくようになり でもころころところがっていました。
 それをみておんなのこはかなしいきもちになりましたが
 にげだそうとしたともだちのほうがわるいのだともおもいました。
 セミくんは はねをもぎました。
 カナブンもチョウチョもはねをちぎりとべなくしました。
 でもでんでんむしはやさしかったです。
 ぜんぜんにげようとはしないで のろのろとカゴのかべにひっついていました。
 いつものようにおかあさんがしごとにいくと
 こんどはおとうさんがあめをくれるといいました。
 これはあまくておいしいから たべなさいといいました。
 たべないとゆるしてもらえませんでした。
 むりやり くちにおしこまれました。
 だからおんなのこは ほしくもないのに
 ぜんぜんたべたくもないのに かたいあめをなめました。
 あんなにやさしかったおとうさんがオニみたいにこわいかおでおこるので
 おんなのこはものすごくこわくてしかたがなかったのです。
 
 おんなのこは よくなくようになりました。
 しごとにいくおかあさんにだきついてはなれないので
 まいにちおかあさんをこまらせるようになりました。
 おとうさんといっしょにいたくないと いっしょにつれてってと おねがいしました。
 でもおかあさんはおんなのこのことを うそつきだとしかりました。
 たたかれました。
 ベランダにおいだされました。
 おとうさんとふたりきりになると またかたいあめをたべさせられました。
 いらないというと おとうさんにもたたかれました。
 そのひは ゆうごはんをたべさせてもらえませんでした。
 おんなのこには むしだけがともだちでした。
 むしだけがみかたでした。
 こうえんで くさむらで むしをさがしました。
 ちかくのもりでむしをつかまえて カゴのなかをいっぱいにしました。
 カマキリがいました。ほんによるとオスをたべてしまうおそろしいやつでした。
 うえから くつでふみつぶしました。
 トカゲのあかちゃんをつかまえました。
 ほかにも ナメクジ ガ えだみたいなやつ
 クワガタもつかまえました。くわしいなまえは わかりません。
 カゴには 死骸がいくつもありました。
 なぜかいなくなったむしもありました。
 
「恐れ入りますが、念のためハンドルネームよろしいですか?」
 最初の奴の時よりも、物腰をやわらかく尋ねた。徐々に、名簿の中の不在者が少なくなっていった。
 応募者たちを通した、洋室に会話は産まれない。必要もない。パーティーなんかじゃない。いや、これはこれでパーティーみたいなものか。陰と陽は表裏一体だ。だからドレスコードも、気の利いたトークも美味しいお酒もお料理も、胸を焦がすような運命の出会いだってなにひとつ存在はしないけれど、ここだって立派な、奈落の、ものすごく愉しい仲間たちの集いに違いはないのかもしれない。平気ですよ、そんなに緊張なさらないでください。準備は全部整っておりますから。部屋の中を訝しむ眼差しに、折り目正しく接した。腰元に掌を添えるだけ、ふれてもいないのに、まったく押してもいないのに、なんの抵抗もなくゆるやかにこの人は会場へと流れていった。
 否定はしない。自由だと思う。死ぬ以上に辛いのであれば、生きていることがそんなにも苦しいのであれば、自らで進退を決めるのはひとつの手だと私は思う。人生讃歌などまやかしだ。命あってのモノダネなんて詭弁でしかない。生きることは義務ではないのだ。勝手に産み落としておいて親ヅラなんか絶対されたくないし、こっちは望んでもいないのに産み落とされて生きるなんていううっとおしい責務まで背負わされるなんてまっぴら御免だ。そして死ぬ権利は、当然人間ひとりひとりに備わっている、何人たりとも侵害することはできない、人間にだけ与えられた基本的人権なのだと確信している。
 死んで花実を咲かせましょうよ。
「いらっしゃいませ。ここで間違いありませんよ、どうぞ。」
 財布から直に渡される。それを視線を落とさず受け取り、左から右に一枚ずつ流し、枚数を確かめる。二つに折り、上着のポケットに突っ込んだ。
「オムツはどうされます? 念のためご用意してありますのでもし必要であればご自由にお使いください。」
「んー、個人差があって一概には云えないんですけど、洩れちゃう場合もありますね。いちおすぐにこちらで通報するから大丈夫かもしれないですけど、気になるようであれば、という感じです。」
 一瞬思案気になった女は洗面所に消えた。
 へえー気にするんだ? そんなこと! って私は鼻で嗤ってしまう。マジでバッカじゃないの? そこから先のことなんか全然あなたに関係ないのに、もうその頃には悩む必要なんてどこにもないのに、なくなるからこそこれを望んでるんだろうし、この期に及んで発見された時の自分がどう見られるかなんて考えちゃうんだ、と情けなくなった。ってゆーか最期まで看取ったことなんてねえからどうなるかなんて私知らねえし。スカートがこんもり盛り上がった女性を、やさしく笑顔で迎え入れた。
 リスト通りに過不足なく、きれいに揃った。
 この子、限界なんだろうな。いますぐにでも決壊しそうな、指で軽くつついただけで破裂しちゃいそうな、それでいてとても無気力な、そういう女性が唐突に口を開いた。
「いいえ、構いませんよ。どうぞこちらへ。」
 私は七輪を一台持ち上げ、風呂場へ導いた。
 おおまかなタイルが敷かれた床にそれを置く。目張りテープを一巻き手渡した。練炭の上にマッチを乗せ、中折れのドアを内側から閉めた。
 濁った樹脂製のガラスに、人影が揺れる。大きくなり、遠ざかりもして、粘着が勢いよく引き剥がされる音だけが浴室から聞こえた。隙間が埋められる。縦横にテープが伸び、わずかな通気が、筋が、埋められていく。一点だけ橙が灯った。硫黄の臭いがここまでとどく気がした。淡々と、怖気付きもせず逝こうとする彼女を頼もしく思い、風呂場の前でしゃがみ頬杖をついて、ほのかな暖色の行方を眺めた。
「いちお、ブルーシートの上でお願いします。」
 部屋にもどり、云った。
 返事は誰からもなかった。
 誰一人日常会話はせず、させず、マッチを擦った。説得の場ではない。道徳の、世間でまかり通っている善悪の、議論の場でもない。初対面の挨拶も、銘々の人となりも、年齢も歩んできたこれまでの人生も、失敗も成功も挫折も、動機、原因、その一切合切が関係ない。刺激臭が鼻を刺す。練炭の上に乗せたマッチは突然激しく発火し出して、やがて元気を失っていき、静かに鎮火する。くりかえす。くりかえす。マッチは火が手もとに昇ってきてしまって点けにくいけれど、か細い枝を燃やし尽くしていく感じが絶対的だし、ライターやチャッカマンなんかより刹那的で好きだ。六名は、膝を抱え、あぐらをかき、くの字に脚を曲げていたり様々で、表情も無かったり、うっとりと陶酔しているような人もいて、火も見ず、でも他を見ているわけでもないようで、何も見ず、虚ろに呆けている男性もいた。笑っていた。玄関で対応した時も底抜けに明るい笑顔をふりまいた彼女は行儀よく体操座りをし、首を右に左にふって、屈託のない笑顔でどこかに向けて話しかけていた。
 他人から、私はどんなふうに視られているのだろうか。たぶん、ここに居る人たちとたいして差もなく、区別もつかず、だって心の中なんて結局本人にしかわからないんだし、外見だけで判断しても仕方ないと思う。紙一重だ。明日は我が身だ。彼らを頭ごなしに否定する権利は、この世の中で誰一人として所有していないと私は断言できる。
 大丈夫だよ。
 すぐ楽にしてあげるからね。
「これでしばらくお待ちいただけば完了となります。頃合いを見て、終わりましたら私のほうで各署に連絡を入れますのでなにも心配はございません。」
 私は肯き、自分で自分の説明に納得した。
「それでは私はこの部屋から出ますので、どなたか、最後にドアの目張りをお願いします。」
 また、返事はなかった。目も合わなかった。
 込み上がる嘲笑を噛み殺し、それでも溢れてしまう笑みを掌で隠した。眉の上から前髪を掻き上げ、最期に全員を見渡して、私は何も云わずにリビングへ出た。半分ほどに減ったテープの端を、ドアの左上の角に貼りつけた。一周させた。部屋の外側から。躊躇もある。これは請け負った人間の義務なのか、親切か、それとも残酷なのか、無慈悲というやつなのだろうか、良心の呵責か、私の詳しいところは当の私にもよくわからない。帰る時、忘れずに剥がそうと誓う。隣の部屋からベランダへ出た。いつもなら見晴らしを愉しむ最高のリラクゼーションタイムなのに、今日のマンションは忌々しい骨組みが視界を穢した。
 ハードの箱から、タバコとライターを抜いた。さして強くも吹いてない風が、着火を変に邪魔する。煙を吐いた。灰色の息は鋭角に、鋭く散っていき、それなのに目と鼻の先でもう速さを失ってしまって空気に拡散した。健康に良くないという煙を肺の底まで吸い込み、残らず吐き出すたび、身体の中が浄化されていく感じがして嫌いじゃない。うつつに、ゆっくりほぐれていく灰色の糸を見つめた。
 ベランダの縁に両腕を乗せた。
「とりあえず終わったぁ。」
 指示通りに、携帯電話で連絡を入れる。労いの言葉もない声色が癪に障る。ぶっきらぼうに代金の総額を確かめてきて、用心深く、帰りの際の忘れ物を戒める。
 さりげないお疲れの一言に、疲れが吹き飛ぶ。利用されているのはわかっていて、いつか簡単に切り棄てられるかもしれないし、都合よく売られて、全部罪を被せられてしまうかもしれない。でも、死神の私にはこんな仕事こそがふさわしいと思うのだ。死にたいと殺したいは、ある意味、同義だ。だから苦痛の源を取り除けないのなら、自らが消えてなくなる以外に道はない。単純な二者択一、どちらを選ぶかは、個々の性格、年齢も、状況、憎悪の強度とか、そういう尺度によるのだろうと思う。
 女の子はよく泣きましたよ、ほんと。
 毎日毎日。
 飽きもせず。
 
 いつしか なかないひのほうがすくなくなりました。
 でも だれもたすけてくれませんでした。
 おかあさんも。
 だいすきなおかあさんもです。
 あんなにやさしかったおかあさんは ないているおんなのこをおおきなこえでおこります。
 おかあさんはおんなのこのことを いけないこどもだといいました。
 うそをついておとうさんをかなしませる わるいこどもになってしまったと かなしみました。
 おとうさんは わたしのおとうさんなんかじゃないといいました。
 すると しらないおばさんみたいにかおがかわりました。
 ごはんをたべさせてもらえませんでした。
 おんなのこがなくとなきやむまでのあいだ
 ずっとたたかれて いっぱいあやまるまでごはんはたべさせてもらえませんでした。
 おんなのこのぶんは かわりにおとうさんがたべました。
「ううん、まだ部屋だよ。今、燻してるとこ。」
 だれもたすけてくれませんでした。
 だれもしんじてくれませんでした。
 あるひ ともだちにたのみました。
 そのころにはむしカゴのなかはおんなのこのおともだちでいーーっぱいになっていて
 さびしさはかんじなくなっていました。
 死骸でいっぱいでした。
 生きてるのは何匹かいましたが、何匹いたかはわかりませんでした。
 どうか助けてください、と頼みました。
 女の子は小さな家から逃げ出したかったのです。
 
「いたって順調かな。あ、なんかみんなと一緒の場所がヤダとかごねた子がひとりいたけど、お風呂場に連れてってあげたら素直に従ってくれたよ。大丈夫、見た見た。ちゃんと火点けてた。」
 一息で喋り尽くすと、すかさずフィルターを咥えた。毎回、禁煙しようかなと考える。即座に、なんのために? ともうひとりの私が訊き返す。健康のため、長生き、美肌、長生き? どうでもいいよそんなもん、馬鹿馬鹿しい。
 私は、友達に頼みました。そんなのしょうがないじゃん。だって友達なんて呼べるのは、味方で居てくれたのは、そんな虫けらしか居なかったからね。
 壁を、蟻が歩いていた。あたりにエサもないのにうろうろし、いつまでも目尻にちらついて煩わしく、タバコの火を近づけた。追うと逃げ、逃げても先回りして追い詰めて、袋小路という地獄を味わわせてやった。いくら脚を速めたところで彼は私の掌の中から逃げ出せるわけもなく、どん詰まりだった。知らずに、笑いがこぼれた。煙が立ち昇る先端で大きな円を描き、だんだん螺旋状に絞っていって、蟻を包囲した。
 みんな消えてなくなれと祈りました。
 みんなみんなこの世からいなくなっちゃえ!
 全員この世から消えてなくなっちゃえばいいのだと願いました。
 来る日も来る日もともだちにおねがいして
 来る日も来る日もともだちをカゴのなかにふやしていきました。
 おかあさんがしごとにいくと
 おんなのこはいそいでクローゼットにかくれました。
 ふゆのコートをあたまからかぶり いきをできるだけしないで じっとしていました。
 とびらのすきまからさしこんでくるひかりのすじだけをみつめて
 そとをうかがい だんだんちかづいてくるあしおとにおそろしくなってしまい
 こえをださないようにりょうてでくちをおさえました。
 ほそいすきまからみおろしていました。
「みーつけた。」
 のびてくるてをはらいのけ おんなのこはせまいクローゼットのおくににげようとしました。でも これいじょうにげるところはどこにもありませんでした。おおごえでひっしにさけんで ふくやぼうしをおとうさんになげつけました。なぜかたのしそうによろこんでいるおとうさんの とてもやさしいこえがこわくてしかたなかったのです。
「いいかい? これはね うそつきのまいこちゃんがよいこになるためのおまじないなんだよ。だからおかあさんにはなしたりしたらぜったいダメなんだよ。まもれるよね? まもらないとどうなるかもうわかるよね? そんなことしたら、このおうちにいられなくなっちゃうんだよ。」とか適当なウソを云って おんなのこをたすけるためだとかといって 脅してきて 無理矢理上から圧し掛かってきました。身動きできなかった。そんな時は、唐揚げとかホタテのお刺身のことだとか、キレイなドレスとか、他には面白いことを空想しつつ終わるまでの間、ただ耐えるしかなかった。
「えー、やだ。今入ってったら探してる間に私も死んじゃうじゃん。」
 はれたひ みんなでドライブにいきました。
 おかあさんにきいても いきさきはおしえてくれませんでした。
 まいこがもっとよいこになってくれればよかったのにね
 とおんなのこをみないでいいました。
 おとうさんにきいたら またおこられちゃうかもしれないのできかなかったけれど
 そのひはなぜかとてもきげんがよくて
 いまからとってもたのしいところにみんなであそびにいくんだよ とおしえてくれました。
 なんにもなかった。
 ゆうえんちでもなくて デパートでもなくて こうえんでもなかったし
 どうぶつえんとかすいぞくかんとかでもなかった。
 道しかなかった。
 何台もの車が密集し、動きを止めていた。
 虫カゴのなかは死骸でいっぱいでした。
 なんていう虫かはわすれちゃったけど、一匹だけ生きていました。
 ほかの死骸のうえをカサカサとうごいて、遠慮もなく圧し掛かって、カゴのなかをずっと歩きまわっていました。なにを目的にしているのか、なにか目的があるのか、さっぱりわかりませんでした。
 苦しそうに呻いてた。
 穴が空くほど、最後の友達を眺めてた。
 あんなにいっぱいいたのに 一匹もうごいてくれませんでした。
 さいごの一匹もしんでいました。
 カゴをふってもふたにあたりあおむけになって
 いつまでまってもおきあがってくれませんでした。
 死骸でいっぱいでした。
 死骸でいっぱいでした。
 みぃんな、死んじゃいました。
 とさ。
 おしまい。
「今どこ? うん、うん、じゃあもすこし様子視てから向かいまーす。私おなか減ったぁ、なんか食べに行きたぁい! ごっほうび! ごっほうび! どっかおいしいお店につれてけぇ。」
 逃げ道を遮っていた熱をどけてやると、蟻は隣の家とをへだてている仕切り板の隙間へと走り去った。一面を取り囲んでいる足場にタバコを投げつけた。吸い殻の先から火の塊がはずれた。通る風に瞬間だけ真っ赤に発光し、やけにうつくしくて目を奪われ、けれどくすんだ金属の表面に融けて消えた。
 黒い。膜。網。意味もなく、視界に張り付く網に手を伸ばす。近いようで遠く、身を乗り出してみてもなかなかとどかなくて、つま先立ちになった。触ったところで汚いだけだ、指が汚れるだけだ。でも複眼みたいに無数に空いた穴すべてがこっちをじっと見つめている気がしてしまい、窒息しそうに息苦しくて、激しい焦燥に駆られた。無理やり、引きちぎってやりたかった。多分頑丈だろうそれは寸前のところで穏やかに揺れていて、一向にとどかない掌のせいか目の焦点がさだまらなくなり、吐き気を催した。
 ベランダに溜まった長年の埃が、雨に含まれた塵が、服の胸元に木炭で書いたみたいな線を付けた。鉄板がへこみ、勢いよくもどってわずかに波打ち余韻を引くような、そういう楽器のような、間の抜けた音が聞こえてきた。黒ずんだ服を払うとうっすら粉を吹き、擦るとぼんやりと汚れがひろがった。
 なにかが癪に障り、なにかにやたらと腹が立ち、気持ちがささくれ立った。悲鳴を上げたい衝動に駆られ、髪の毛を掻きむしった。握った。歯を喰いしばった。身体が内側に圧し潰されてしまうような、肉体が全部街中に拡散してしまうみたいな、自分が全然安定していないような不思議な感覚にとらわれてしまって、ただ奇声を必死で堪えた。指の股で傷んだ毛の引っ掛かりをかすかに感じ、イメチェンも兼ねて思い切ってショートしようかなと一瞬だけ迷い、すぐに雲散し、力任せに引っ張った。
「上の野郎、さっきからうるっせえよ! 静かに歩け、ボケ!」
 思わず、どっかから聞こえてくる足音に怒声を浴びせた。罵倒したそばから、後悔が襲った。
 複雑に指の間にからまった抜け毛を、つまんで、ほどき、息で飛ばして宙に流した。頭に生えている時よりも淡く、一層茶色く、風景の綻びみたいに儚かった。
「あー、エッチしたい。」

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