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英雄はうなだれる⑤-2

 雑居ビルの集合ポストの扉はベコベコにへこみ、どれもうまく閉まっておらず、明朝体の社名のシールが張られていたり、海外バンドや聞いたこともないインディーズらしいグループのステッカーをべたべたと張っているところもある。全戸が立ち退き済みのように空気が重く滞っていて、実際に郵便物も取り出されている痕跡がなく、投函されたまま積み重なっている。
 正面が面した通りから裏口にまわっただけなのに、空気の密度や振動、臭いから気温や天候まで、漂っている全部が根底からくつがえされたように感じた。
 脇目もふらない剣持は床にチラシが散乱した奥のほうへと足を踏み入れていき、年代物のエレベーターの到着を腕を組んで待った。赤煉瓦模様の壁で囲われている内壁には身震いするような照明がたよりない光を落とし、負けず嫌いな翅虫が闘牛のように蛍光灯に体当たりしては弾き返される。粉がかがやき、光が舞い落ちる。
 短いカーテンで閉ざされた管理人室に人の気配はなく、明かりは落ち、暗く沈んでいて、『休憩中』を知らせる三角錐の置き物にはきめ細かい埃がしっとりと積もっていた。
 誘われるがままついてきた沢渡は目的地を訊きたいのに唇が重く、皮膚同士がくっついてしまいどうしても動かなかった。膝を中心に、すねを大胆にふり出して小気味よくエレベーターに乗り込んだ剣持は扉の端にならぶ数字の羅列の中、『R』のボタンを親指で力一杯押し込んだ。
 鉄製の扉は油が切れかかっているのかぎこちなく狭まり、ちょうど真ん中でうるさく衝突した。とたんに大気がこもった。薄い膜でもかかったかのように喧騒が遠ざかる。ふたりの距離が急速に接近しだしたみたいに彼には感じられ、息苦しく思った。
 彼は剣持とは反対側の壁に左肩だけで寄りかかって、腹の前で掌を合わせた。指を交互にからみ合わせる。脳天から身体を押し潰そうとする上昇の勢いは速いのか遅いのかもよくわからず、膝には自重が遠慮もなく圧し掛かってきて、カラオケの歌声がかすかに届き、それはだんだん近づいてきて目の前で恥ずかしげもなく熱唱をしはじめ、やがて元の静けさを取りもどしていく。
「今から行くところは。」と剣持は厚めの唇を寄せてきて、耳元でこっそりと囁いた。「ここだけの話だけどこの建物にはね、エレベーターのボタンにはない階があるんだ。そこに行きたい時は今みたいに『R』を何秒か長押しする。内緒だよ。」
 直角にとがった肩幅を緩慢にふるわせてクツクツと笑いながら話す剣持に、狐につままれた気分になり、どういう表情で横に立っていれば正解なのか見当もつかなかった。
「あの、『オールドボーイ』でしたっけ。相当昔の漫画だからあらすじをなんかで読んだことあるだけでくわしくは知らないんですけど、似たような設定がありましたよね、確か。」
「これは感心だ。若いのによく知ってるね。実はこのビルのオーナーが新旧問わずの無類の漫画好きでね、元々感化されたやすいタチだったから読むや否や多大な影響を受けてしまったというわけなんだ。で、そこはどんな場所だと思う?」
「さあ、事務所ですか? 剣持さんの。」
 的はずれと理解しつつ、思案気に答えてみた。
 赤子でもあやすように、剣持は鼻の先で人差し指を左右にふって弧を描く。
 眉毛とくっついた大きな瞼を捻じ曲げ、彼は意味深に笑みを浮かべる。危うく距離を見誤るほど瞳孔は黒くて、三方を囲う壁面の、細胞が単一な微生物を寄り集めたようなペイズリー柄の中に融けていく。
「何をしても赦される空間だよ。不問に付される聖域だよ。そこにあるのは、法律も道徳すらも超越した純然たる自由だ。」
 単純な生き物を擬した柄、簡単には同定できないどれかが、すべてが、密めく。蠢き、いくつかの個々が寄り集まって、目となり、鼻に唇に耳となって、人の顔を形作り、何かを口にするとあっけなく反発して壁の柄へと姿を散らす。
 エレベーターのボタンの発光が、みるみる上昇していく。ひどく古めかしい外観とは不釣り合いに、階は意外に多い。
 沢渡は、現在の階数を知らせる点滅だけを見つめて黙った。
 ワイヤーを巻きあげる、底冷えするような軋みだけがふたりの間に充満する。支配する。非常にわずかなはずのその音が、尋常じゃないほど猛烈にやかましかった。剣持は筋が通りうつくしく隆起した鼻を指先で軽くしごいて、「殺したい人間とか、けっこういるクチなんじゃない?」と口角がこめかみに届いてしまうほど、狂おしく笑った。
 とっさに聞こえなかったふりをして、目を大きくした。耳を寄せ、耳殻に掌を添えて、誤魔化した。質問の反復はなかった。無言が逆に、居づらさを増す。窒息しそうに息苦しくて、全身に降りそそぐ上昇がさらに重苦しく肩に圧し掛かってくる気がした。
 徐々に、次第に、残りの階が少なくなっていく。
 沢渡は荒く呼吸をして、その表向きには存在しないという階には永久に着いてほしくないと強く願い、その反面、到着が待ち遠しくて待ち遠しくて身体中が粟立ってしまいそうな恍惚に苛まれた。
 ひりつく緊張と、意味のわからない浮ついた気分を隣に立つ男に向けた。まだ雲をつかむような、得体の知れない決意だったかもしれない。
 多い唾で喉を潤した。
「ウソびょん。」
 剣持が声を出して、腹を抱えた。
「ないよそんなの。だって違法建築になっちゃうじゃないの。」
 同時に安っぽいベルが鳴り、エレベーターは文字通り『R』屋上で止まった。
 慣性で、肉体がまだ上へ昇っていこうとして宙に舞い上がりそうになった。かといって飛べるわけでもなく、精神だけが持っていかれるような感覚に鳥肌が立ち、あやうく失禁しそうになる寸前、その場に着地して心身のズレは一致した。
「さあ、行こうか。」
 鉄でできた扉が牙を剥くように左右に引っ込んでいき、代わりにひろがっていく隙間から風が吹き込んでくる。生臭いし、若干カビ臭くもあり、食欲を掻き立てられる香辛料の匂いも微量に含んでいて、多少便所臭くもあった。
 右には、暗くとぐろを巻いた階段が地の底まで螺旋を描きつづけている。こもった声が響く。下のほうで異国の言葉が飛び交っている。せわしなく鍋をふるかすかな金属音が聞こえ、おそらく入ったオーダーをウェイトレスが厨房に向かって叫んでもいて、沢渡の落ち着かない感情を見抜いたらしく、手すりをつかんだ剣持が身を乗り出して暗闇を覗いた。強烈な鼻息とともに徐々に顎をあげていき、階下の空気をひっぱりあげる。「たぶん回鍋肉だね。」
 正面にある外界へとつながる扉には、やけに真新しい『立入禁止』というプラスティックのプレートが張られていた。漢字の下に、英語、ハングル、中国語、アラビア文字に至るまで細かく書き込まれていてとにかくうるさい。
 躊躇のない背中を頼もしく思った。
 荒涼とした鼠色の風景が屹立する。
 街が一望でき、建物の大半を見下ろしていた。
 吹きすさぶ風は乾いていて、涼しかった。
 簡単に、全身から滲み出していた脂汗を連れ去っていく。眼下にはビルの屋上が碁盤みたいにびっしりと並んでいて、洗濯物を干しているところもある。背の高いビル群を締めつけるように、おおまかに配された大通りからサイレンの音が噴き上がって、警告灯が猛烈に速度をあげていく。マイクで巨大化された恫喝にも似ている叫び声がヒビ割れ、道路をはさんだガラス張りのカーテンウォールに、赤い発光がせわしなく鞭打った。
 高所から見下ろす住む街は劣悪で醜く、薄汚くて、見るに堪えなかった。
 消化不良の吐瀉物、下水、発達、未発達。完熟、未熟、腐乱、腐臭、末路、どこかが、どこなのか判別できないどこかが確実にゆがんでいる。世界中から移り住んできた人々によって治安は一気に真逆にふれたらしく、なんとなく雑多とした風景を気の毒に感じた。
 遠くに見える、爪楊枝程度に小さくなるまで離れたハイタワービルを取り巻く空気が、突然切り裂かれたように錯覚した。程なくして銃声が鼓膜を揺らした。方角はわからない。階数も知れない。ただ無意識に、頭の中が、すぐさまプランターに急行できるように準備をととのえようとする。救助ではない、搬送でもない、清掃のため、金のために。
 こちらを射る、剣持の眼差しから顔を背けた。
 床には一辺が一メートルにも満たない、正方形のコンクリートが敷き詰められたように筋が縦横に走っていて、どこからともなく、低くて腹の底まで打ち据えてくるような、そんな重低音が延々と伝わってくる。すこし斑に汚れた、やわらかいクリーム色の貯水槽が左にかまえ、豊満にぽってりした本体にはふさわしくないか細すぎる架台を見ると、遠い昔に滅亡してしまった文明の残滓のようだとかと、幼稚な想像がふくらんでしまう。
 剣持は狼狽する彼を意に介すそぶりも見せないで、屋上へと出て行った。あたり一面に地雷でも埋まっているかのように、沢渡は慎重に一歩一歩踏みしめて、臆病についていく。
 地べたに走る溝から、不釣り合いなほど元気な草が育っていた。
 淋しい黄色が混ざった緑は、退廃に近い。
 たいしてひろくもない屋上の端で、ひとりの男が景色を眺めていた。
 隙もなくスーツを着こなしているのに雰囲気が崩れかかっていて、ささいなきっかけひとつで脆くも自壊してしまいそうに危なっかしく、大事な芯が抜け落ちているようにも感じる。痩せ細り、それなのに腹回りはぜい肉を多く蓄えていて、だからせっかくの精悍な面持ちが陳腐に映ってしまい、見てはならない類のようで観察を憚られ、けれども興味に負けて盗み見た頭髪のつむじがやるせないほど心許なかった。そよぐ風の中を、蜘蛛の糸のような前髪がなびく。芋虫そっくりに皺くちゃになったウイングチップの、メダリオンの飾り穴細工が施された革靴だけが泥に汚れていて、踵がすり減り、下手したらよろめいてしまうほど革積みが削れて失くなっている。
 その男はうしろからの足音に怯えるようにすばやくふりかえり、泣いているのか、安堵か恐怖なのか、激痛を我慢しているのかわからないほど顔の肌に亀裂を走らせた。沢渡を見た。かすかな会釈でかえした。それに一切応じない相手は全身を上下上に黒い瞳で舐めまわし、だが無言のまま落ちくぼんだ眼差しを伏せると、再び、虚ろな眼球を剣持に向けて持ち上げた。
「やあ、剣持さん。」
 一言だけ口にすると深く息を吐き、とてもじゃないが観るに値するようには思えない、不毛な眺望に身体をもどした。
 剣持は寄り添うように隣に近づいて、「すいませんでした、約束の時間に遅れまして。ちょっと輸送のほうに手間取りましたもので。段取りはしっかり済ませてありますのでなにとぞご容赦ください。」と造りの良い顔立ちを前に突き出した。ひたいの前で、片掌で拝んだ。首をふって眉毛を高く持ちあげると、その男は掌で顔の前をあおぎながら、「いえいえ、無理をお願いしてるのはこっちの方なので。」と相手の謝罪を制する。
「それで、持ってきてくれましたか?」
「ええ、ここに。」
 そう答えると上着の内ポケットに掌をすべり込ませて、筋張った拳を男の前に差し出した。頼りない金属のカギが指先にぶら下がっている。
「ロッカーの場所はのちほどお教えします。用心のため、ギリギリまで情報は洩らしたくないのでご理解ください。」
 男は短く礼を言った。
 カギに喰い入るその眼差しは嘔吐きを我慢しているような、号泣する前触れのような、片想いする女の子に素直になれない幼い子供のような、それらすべてを大の大人特有の強い理性で押し隠そうとするような、とても複雑な面持ちをしていた。
 ジリジリと飢えた獣みたいに身体を近づけ、待ち合わせた男は両方の掌を勢いよく伸ばした。全身で飛びついた。強引に奪い取ろうとし、掴む寸前、ひょいと上に吊り上げられて空振りした。
 かわされた。
 さらに、かわされた。
 度重なる失敗のせいでさすがに自らの無礼に気が付いて我に返り、男は小さく謝ったが、剣持はやさしく微笑んで眼前に垂らした。ほぼ同時に、くたびれた男は剣持の掌を、まるで活きのいい海産物でも踊り喰うかのようにむしり取った。カギを握り締めた拳を胸に抱く姿から、声にもならない悲鳴が聞こえてくる気がした。沢渡は耳まで肩を怒らせた男の貧相な背中を、ふたりのうしろから見守った。
 深く一息つくと、男はさっきまでとは打って変わり、とても落ち着いたようで穏やかになった。顎をしゃくり、満足そうに幾度となく首をふる。
 冷静を取りもどした男は、沈んだ声色で身の上を語り出した。
 隣に立つ剣持が丁寧に相槌を打ち、ときおり、おっしゃる通りですねとか心中お察ししますと理解を示して、最後には、でもまだまだ家族のために頑張らないといけないと励ました。あなたは大黒柱なんだから、ご主人。万が一にも早まった真似をして悲しむ人間を増やしてもらっては困りますよ。我々の手で、この腐った時代を変えていきましょう。剣持から勇気をもらい、男は何度も何度もお礼をくりかえし、抑えきれない葛藤なのだろうか、我慢できずに鼻をすすり出して、咽び泣くまでにさして時間はかからなかった。
 男の肩を抱く剣持があっけに取られている沢渡を見つめて、涙で潤んだ瞳のまま声をふるわせた。急いで口もとを手で覆い隠して、泣き顔を逸らした。
 前触れもなく、ゴミを棄てるみたいにリストラで仕事を奪い取られ、プライドを傷つけられた挙句にどん底まで堕ちて這い上がる気力もなくなり、もう自殺してしまいたい、消えてなくなってしまいたい、そうすればどれだけ楽になれるか本人は分かり切っているのに、それでも家族のために死ぬわけにはいかないのだと。
 今日の日本ではこういう憐れな人たちは、自己責任という都合の良いたった一言でばっさりと片付けられてしまうのだとうなだれた。何でも解決できるそんな魔法の言葉なんてこの世の中に存在するはずないんだよ。強くかぶりをふった。救えない。こんな社会の仕組みでは人は救えない。私も、私だってね、方法論として野蛮で原始的なことくらい百も億も承知しているつもりだ。赦されないだろうよ、地獄に堕ちるだろうよ、こんな私はね。しかしね、しかしだよ! 男の肩の生地を乱暴に抱き寄せた。遠慮もなく、上着に爪を立てる。決意を新たにするような、得も言われぬ表情の男はされるがまま右に左におおきく揺さぶられ、まるで事切れているかのように遅れて首があちこちに暴れてしまい、けれども握り締めたその拳にはさらなる力がこもり出したように見えた。自分が多少の泥をかぶるだけでこの人たちを助けることができるのならば私は喜んで法を犯すよ、と派手に鼻水をすすった。
 散々な人生をリセットできるように手助けする! 方法を与える! 一度の挫折、いや、何度つまずいたって何度でも再起できるように世の中の腐った仕組みを根底から覆す。そのために、彼は、自ら勇気ある先兵として名乗りを上げてくれたんだ。殊勝だよ、まったく恐れ入る。たやすく下せる決断ではない。
 このゆがんだ世界に一撃を喰らわし、打破して、新しい世界を現出させるのだ。
 もちろんそれだって万能ではないだろうから、なんらかの不備や生きづらさはついてまわるかもしれない。もしかしたら全力疾走はできない世界かもしれない。この彼だって、脳裏に焼きついた屈辱や絶望は払拭できないかもしれない! でも!「おいおいおいおい! ちょっと待ちたまえ! ふざけてもらっちゃ困るよ、君! 笑えない冗談だけはよしてくれよ! 君は私の話をちゃんと聞いてるのか?」激した剣持が突如彼を叱責してきて、驚いた沢渡は急いで痙攣するほどくりかえして肯き、応えた。
 必死で肯いた。
 その絶句という返答を、おいしそうに、満足そうに、若干不服気に、顔面すべてで味わうかのように大きく何度か首を縦にふった。
 一人では無力かもしれない。効果は微小かもしれない。だけどね、決して彼だけでは終わらない。終わらせない、絶対に。これからまだまだつづくよ。第二、第三の彼があとをつづき、終わるまで絶対に終わらさず、態度を改め、制度を改め、過去を断ち切って独立独歩をはじめるまで絶対に終わらさず、まさに波状攻撃で目を醒ますまで徹底的に追い詰めてやるのだ。総力戦となるだろう。弾数が要るだろう。だから私は探している。真摯に、深淵に、愚直なまでにこの世の中を憂いている若人を、国士を、私は本気で探しているのだ。
 まっさらな彼の情熱に沢渡も身体ごと気持ちを向けた。剣持の肩越しに佇むスーツ姿が、感極まったらしく自分の腕を抱きしめて、爪で抉り、大きく全身で鼓動していた。必ず復讐しますよ。剣持さん、私はやってやりますよ。おだてるだけおだてといて、利用するだけ利用しやがって、人のことをボロ雑巾のように棄てたアイツらに目に物見せてやりますよ。喰いしばった奥歯が軋んだ音を立てる。
 いつの間にか陽はかたむき、西日がまぶしかった。
 若干紫がかった、さっきとはまた別の方角にある、遥か遠方のハイタワーマンションの窓付近が一瞬だけ強烈に波打って見え、破裂するみたいな音がやけに寒々しく響きわたった。
 どこかで反響して、至極怠惰な連射にも聞こえる。
「安寧。安息。平和、平凡、普通。凡庸。尋常。色んな形容の仕方はあるのだろうけれど、とどのつまりは痛痒いくらいの鈍感程度にしか考えていないのだ。本当は身の毛もよだつ激痛なのにね。我々が置かれている生き地獄をまったく直視しようともしないで、尊厳や国体を売り渡すことによって与えられる平和を、労働力を餌を、かりそめの繁栄を、恥も知らない豚どもが貪っているという構図なのだよ、いずれ屠畜されるとも知らずにさ。事実、一握りの成功者たちだけがああやってくだらない特権を享受してるわけじゃないか。まったく苦しむよ、理解にね。」
 殴った。巨大にそびえる、掌で握り潰してしまえるくらいのハイタワーマンションの上に剣持は硬い拳を叩きつけた。彼には遠近も関係ないかのように、あたかも壁に掛けられた気に喰わない風景画を破壊するかように、ひたすら殴りつづける。向こうが撃ち返してくるわけないのに時々スウェーし、沈み込んでダッキングして、常にウェービングで的を絞らせない。オーソドックススタイルでかまえ、ジャブからストレートを繰り出す。身を斜めにし、左ボディーブローを見舞う。君だってそう思うだろ? 沢渡に背を向けたまま上半身を逆にかたむけ、問い、右のショートアッパーを突き上げる。かなり遠くのミニチュアみたいな建物は彼の前腕でほとんどが隠れ、あらわれて、今度は左フックで上階半分を消し、剣持は返事を求めずに幾度となく宙を殴る。
 歩行者を狙いやすく、そして転落などの安全面に配慮して専用に誂えられたその窓際で、かすかに動いている複数の人影に沢渡は目を細めた。
 太陽があらかた隠れてしまった夕空に向かって、シャドーを終えた剣持は息荒く髪の毛を掻きあげた。「どんな異常事態だろうがそれがくりかえし起これば、人間なんてものは情けなく現状に慣れ、受け入れて、たくましく、だらしなく、信念のない馬鹿どもがこぞって知的をよそおって、無能なアホのくせに時代の旗手をきどってやすやすと迎合し、さっさと順応してしまうものなんだよ。」と眉間を揉みつつつぶやいた。
「いいかい。時々起こるからこそ異常なのだよ。そしていかに異常な出来事だろうがもしも頻繁に起こってしまえばこれすなわち、日常だ。」
 ひたひたと群青色に飲み込まれていく空に足もとも覚束なくなり、暗い世界が高く広大に翼を羽ばたかせていく。風景の、幾重にも重なりあった薄い膜がめくれていくように、彼を取り巻く世界は粛々と容貌を変え出していき、ぷつぷつと芽吹いていく青い色彩が次第に鮮やかな濃淡を帯びていく。
底に薄く橙が残る紺碧の空には高層ビルの赤いライトが点灯し、明滅して、暗闇に同化してしまった建物の輪郭をかろうじて浮き上がらせる。
「ヒッ」
 短い悲鳴が聞こえた。ふりかえると、さっきまでとは風景が若干異なっていて、何かが決定的に足りていない感じだった。
 だが彼は、それが何かを探さなかった。身の回りに興味も好奇心も消え失せていて、刻々と表情を変えていく空にただ魅入っていた。なめらかに夜を迎えつつある明媚な眺めに陶然とさせられ、夢うつつに、多分ここからの月夜はものすごくきれいなんだろうなと感心していた。もしかしたら、持って産まれた器の大きさを超えていたからなのかもしれない。無意識のうちに自分には関係がない事象だと、本能が割り切っていたからなのかもしれない、資格がないと思っていたからなのかもしれない。話の内容が壮大すぎて荷が重いと、最初から匙を投げていたのかもしれない。自分自身が丸裸にされたような居心地の悪さから逃げだしていたのかもしれず、傍観者でいる彼への遠回しの批判だと受け取り、ことごとくが自分自身の堕落した生活に合致してしまい耳が痛いだけで反論ひとつできない彼の、暗の回答だったのかもしれない。
 瞬きすると剣持の片脚がビルの縁まで真っ直ぐに伸びていて、そういう彫像みたいにうつくしい造形美を有していて、直後、彼は、それなのに勢いあまって不恰好なたたらを踏んだ。弓なりに身体を反らし、前後に腰をふって、両腕を忙しくふりまわしてバランスを取った。暴れる足取りが止んだ。髪を掻き上げた。取りもどした均衡に安心したかのように屋上の端まで歩み出し、大きな息を吐いて溌剌と笑った。
 地響きが脳天を貫いた。
 激しい平手打ちをお見舞いされたような間抜けた音が聞こえた。
 凝縮した動揺の塊。
 一瞬の空白の後、地上は穏やかにざわめいていた。
 取るに足らない驚きだけが重々しく高層ビルを駆け上がってきて、屋上の縁に甲高い掌を引っ掛けた。けれども、大して興味も湧かないらしくてさっさと引き上げていく。薄汚れた屋上を見まわすと、あの男は間違いなくここから居なくなっており、それなのに今この瞬間こそが正解なのであってさっきまでが見間違えじゃないかと当惑もしてしまうほどで、あまり状況を把握できないでいる沢渡は身動きも取れず剣持にすがった。
 夕闇の空には表面がくすんだ真鍮色の月が我が物顔で光り輝いていて、満月でもなく、十三夜月とも区別しきれないわずかな翳りを携えている。
 別に取り乱した様子もない剣持はビルの縁にストレートチップのつま先を引っかけて、鼻の下を長くし、おそるおそるといった具合で地上を覗いた。騒ぎは、単発でおさまる。たいして混乱はなく、拍子抜けなほど落ち着いていて、大半を占める無関心がわずかな動揺を容易に塗りつぶしてしまい、それどころか逆に、巻き添えを喰らいそうになった大きな落下物に対する苛立ちを露わにしていく。連鎖する。見当はずれの怒りが融け合って、不満が増幅されていき、各々の人格がひとつのおおまかな感情にふくれ上がっていって、一塊の、敏感でそれでいて小回りが利かない獣と化していく。
 聞き取れないけたたましい絶叫が遅れて飛び交い、明確なかたちになりえない引っ込み思案な鎮まりも含んでいて。ただ、どこから落ちてきたのか、自分から飛び降りたのか、棄てられたのか、いやいや絶対自殺だろこんなもん、死にたいんなら誰もとめないからとりあえず人に迷惑かけずにうまいこと死ねよ、皆が皆、状況がわからないという不安をぶつけるための都合が良い矛先を探していることだけは判別できた。誰かが怒声を発し、笑い声が混じる。シャッター音がいくつも鳴る。異常、日常、他人事。蜜の味。愉快痛快。腰をかがめた彼は犬のように地上の様子を実際に確かめて、日光が非常に少ない今、路地に飛び散った濃紺の花に出くわした。
 こってりした灰色がやけに立体的で、縁取る青は鮮烈なまでに迷いがなかった。手脚は不自然に折れ曲がり、弛緩した肉体はしなやかで躍動的に見え、いまだに、即座に起き上がってくるような予兆すらはらんでいる。頭から幾方にも噴き出した花びらに、しばらく見惚れた。
「これこそが、飼い慣らされた豚どもの末路だ。」
 そうやって、誰かに言われた気がした。
 剣持の声なのかもさだかではなく、だが彼以外に他には誰もいないはずなのに、一体誰の声だったのかもはっきりしない。
 縁に掌をつき、四つん這いのまま従順に返事をした。
 ひとりきり笑い泣き、常軌を逸してしまった若い女性が腰を抜かして、地べたにへたり込んでいた。別のキャバ嬢が、その近くを急ぎ足ですり抜けていく。何事もないかのように、飛び散った脳みそを横目にスマホを操作しながら歩き去る。道にへばりついた残酷な汁よりも、真っ赤なエナメル革でできたピンヒールの履き心地を気にしている。踏まないように細心の注意を払い、ぎこちないステップで歩を進めて、けれど着地に失敗しよろめいたせいで靴底を汚した。新鮮な汁を冷やかな目つきでにらみつけ慈悲もなく道路にこすりつけはじめて、ぽんぽんと印鑑のように痕を増やしつつ夜の店に出勤していく。
 ちょうど近くを歩いていて中身の直撃を浴びたらしい中年男性は、固まりだし青く斑によごれた洋服のことだけを気にし、顔に飛んだ汁を簡単にポケットテッシュで拭き取ると、ガラスケースに陳列された食玩の前でしばらく立ち止まり、具現化されたメニューに険しい目玉だけを粘らせながらその中華料理屋の暖簾をくぐっていく。
 皆が皆、胸を焦がす初恋から醒めたかのように、あっけらかんと素通りをはじめる。いつまで待っても、サイレンは追ってこない。
 やがて誰も死体に見向きすらしなくなり、整然とした、活気を呈しているのになんだか呆けてしまったような、不気味な歓楽街に体裁を整えつつあった。
 時々、粒くらいの小さな物体が咲き乱れた花に近寄っては勢いよく遠ざかっていき、構えた携帯電話でフラッシュを焚いたり、ぶつかり合っては反発し、何個かがビルを見上げる。
 日を浴びていない蒼白い肌から、沢渡は急いで腰を引いた。
 湧き上がってくるあらゆる当惑を吐き出しそうになったのに明確な言葉にならなくて、焦って口をつぐんだ。当たり障りのない言いまわしを探してみるも目ぼしい表現は見つからず、何を、どこまで、当の本人に確かめても赦されるのかもわからなかった。
「当然の報いだ。」
 横から、素っ気ない声が聞こえた。
 瞼を剥き、彼は真意を問う。
 腰が強い髪の毛をふり乱した剣持は、街中で正体がばれてしまったスーパースターのごとく、はにかみながら歩み寄ってきた。思わず、後ずさりした。身の危険を感じ、あたりを、さっき乗ってきたエレベーターの方向を目で追った。度を失った彼を見て、両掌をあげて立ち止まった剣持が、拳銃を所持していないことを主張するかのように上着をひろげて胸板をさらけ出した。鍛え上げられた筋肉が、窮屈そうにYシャツのなかに閉じ込められていた。
「あいつは元々、あのマンションの住人だったんだよ。」
 唾を何度も飲み、耳に届いた言葉をいまいち理解できないでいる沢渡に無邪気な笑顔をふりまいて、爽やかな歯並びを惜しげもなく披露した。
「こんなんじゃ焼け石に水さ。」

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