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英雄はうなだれる⑤-1

 道路の角に立つ、バタ臭い花柄のワンピースに身を包んだ水商売の女が、コンパクトの鏡に向けて歯グキを根元まで剥き、首を左右にふった。長い犬歯を映した。頬に皺が走る。顎を突き出して、鼻の穴を念入りに見下ろす。
 同伴前の身だしなみのチェックに余念がないその女性の性根を垣間見た気がして、偶然通りかかった沢渡は片時目を奪われてしまい、しげしげと見つめながら歩いた。鼻の下を一層伸ばしつつ鼻先を指で押し上げると同時に彼の視線に勘付いて、即座に、鶏ガラのようなその女性はいやらしい仮面をかぶった。気位高そうに不敵に微笑み、肩にかかった茶色い髪の毛を手刀で払う。多少の威嚇を感じ、うつむいて、その勝気な眼差しから逃げ出した。
 昼下がりの歓楽街はどことなく閑散としていて、夜と変わらず地に脚がつかないようなそわそわした印象を享けもするし、所々下水の臭いが漂い、食材やおしぼりを配達する姿もちらついたりするけれど、ほとんどは目的もさだかではない人々で、建物の影や中からあらわれてはどこかへ消えていく。ひび割れた舗装に生ごみがこびりついた裏路地はあちこちが糞臭く、切りっぱなしの廃材みたいなべニア板で簡素に仕切られた、ブロック塀に倒れかかっているみすぼらしい掘っ立て小屋が昼間なのにかすかに揺れていた。吐息が洩れる。声がかかる。点在する。とてもわずらわしい、芸能人のディープフェイク裏DVDやソープの誘いを無視して進んだ。
 待ち合わせ場所で所在なく立っている女の容姿をすれ違いざまに品定めし、そのまま歩を弛めずに通り過ぎた。
 運のなさを若干嘆き、スマホを取り出して他を探そうして、それも早々に諦め、予定外に丸々空いてしまったこれからの時間の過ごし方について考える。あてもなくふらつき、スマホをいじってはズボンのポケットに落とした。気が付くと来た道にもどっていて、街並は変わらないのに今さっき角で立っていた派手な女の姿は消えていて、違う女が場を埋めている。
 あてもなく歩を進めると、紅い外装が目に留まった。嵌め殺しの窓が大きく、多く、ガラスを取り巻くように三階の高さくらいまでファサードが鮮やかな紅で飾られているビルを見上げた。空いているスペースには、様々なゲームの広告パネルが設置されている。
 階段を四段だけ上がったところにあるその商業ビルの自動ドア横に置かれた看板が、なんとなく目に留まった。イーゼルのようなものに立て掛けられたイラストは、愛嬌が出るようにデフォルメされているライオンや象やキリンが半分よりも下に描かれていて、空を飛ぶ円盤がそれらを爆撃しているのに動物全員が無邪気な笑みと讃えている。ドローンと動物たちの間を埋めている水色が所々白く長方形に剥落していて、『次回出撃』の文言の下に、手書きのマジックで時刻が書かれている。消し遺った数字の残骸や表面に定着してしまったインクがやけに汚く見えた。残り二機。
「そこのゲーセンさぁ、知ってる? オンラインゲームの体をよそおってるけど、実はアメリカ軍のドローンを操作しててどっかの国を本当に攻撃してんだってさ。」
「ガチ? 都市伝説じゃね?」
「いや知らん。でもどっかの国と停戦協定が結ばれると遊べる範囲が減るし、変に現実とリンクしてるからマジなんじゃねえかってオレは思ってる。」
 細身のズボンをくるぶしまでロールアップし、カラフルなスニーカーにボリュームをもたせた男たちが指差しながら歩き去っていく。
「地上戦は超エグい。かなり難度たけえからグロいけどハマったら病みつきになるな。」
 スマホで今の時間を確認しようとすると、それよりも早く店内の壁にかけられたアナログ時計がちらついた。開始は十分後。初っ端から予定は大いに乱れ、せっかく街まで出たのにすぐに家へ引き返すのもつまらなくもあり、思案した。下衆な職業柄、そういう噂を聞いた経験がないわけではなかった。当然そんな与太話はいくらでも耳に入ってきたし、常連と化している会社の同僚を知ってはいても子供みたいに粟立つ心はまったくなかったのに、脚が向いていた。階段を二歩で登った。
 彼は、いつまで経っても落ち着かない感情を整理したかったのかもしれなくて、絶えず溜まりつづける鬱憤をすこしでも晴らしたかったのかもしれず、いまいち具体的にならない気持ちの種類を自分自身ではっきりさせたかったのかもしれず、それでもバカ正直に噂話を信じているわけではないのでひとりきり酔狂を気取って、冷やかしのつもりで自動ドアの前まで進んだのかもしれない。
「あーすいませぇん。たった今、今回分は全部締切になっちゃいました。」
 素っ気ない対応だった。
「じゃあちなみにですけど、今日のその次の回って何時からすか?」
「ちょっと待ってくださぁい。確か、夜間はぁあ……今日は一個も予定がないですねぇ。すいません。」
 ヘアクリームでアップさせた髪の毛を七・三で分け、白シャツに黒いベスト姿がカウンターに置かれたデスクトップに首をかしげてからこちらを向いて、肯いた。物腰は柔らかいのに、縁のない眼鏡の奥の眼光が鋭かった。
 落胆のような安心したような、元々複雑だった気分をより一層雁字搦めにされたような感じだった。ベージュのタイルが敷き詰められた階段を飛び降りた。
 左手から、二人組の警察官が歩いてくる。店から出てきた彼をターゲットに据えて歩み寄ってきていた客引きが敏感に勘づいて彼から離れていき、向かいのコンビニの中に逃げていく。左側に立っている肩幅が狭いのに体格はたくましいひとりと目が合うと、猜疑のまなざしで全身を瞬時に舐め上げられ、沢渡を凝視したまま手前で右に折れていった。雑多に人が行き交う。日が翳っていく。かすかに見覚えのある横顔を視界がとらえ、意識もしていないのに動向を探っていて、誘蛾灯に吸い寄せられるように方向を変えた。
 暇潰し。冷やかし。興味本位。怖い物見たさか。目的や動機をいろいろとひねり出そうとし、明確にはさだまらないのに脚は止ろうとせず、歩く背中を追い、しかし、あとをつける沢渡には適当な理由が最後まで見つからなかった。簡単に追いついたはいいものの、どのように声をかけたら迷惑に思われないのか困り、中途半端な距離でしばらくつき従っていると、勘が鋭いらしい彼のほうが沢渡の尾行に気が付いた。脚を止め、正対する。やや上気した頬をほころばせ、愛嬌のある笑みは絶やさないまま、前髪を掻き上げて目を凝らした。けれどもどこで会ったかまではまったく見当がつかなかったらしく、彼自身も名前までは覚えておらず、瞳に不審が宿り出すのを感じた彼は、以前街頭演説をたまたま聴いた者だとあわてて弁解した。
 ひたいに皺を走らせ犬歯をちらつかせた彼は、自分の名前は剣持譲だと名乗り、「よかったら君も一緒に来るかい?」と妖しく笑った。

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