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消失点⑥

 太陽を眩しいと思った。
 夏の季節には高く昇り急な角度から強烈に照りつけてきて、冬になったらなったで無遠慮に、部屋の奥の奥にまで射し込んでくる。馬鹿のひとつ覚えのように昇っては沈んで、時には黄身色の夕日にもなって雄大な大自然みたいなものを誰も頼んでもいないのにこれ見よがしに演出してきて、年がら年中、朝になれば街中を明るく照らしはじめる。わずらわしいと思った。厭味だとも感じた。脇目もふらずに、際限なく、愚直にまわりつづける地面もうとましいと思った。
 ベランダに成った、豊満に、パンパンに皮が張っているプチトマトを眺めた。新緑の葉にまざって、均等な大きさの真球たちがたわわにぶら下がっていた。透明な容器の中を、糸ほどに細かい根が猛烈な量でひとつの塊を形成していて、水の底に伸びるほど少なく、針の先みたいに潔く研ぎ澄まされていく。
 一粒一粒枝から引きちぎり、ベランダの壁に向けて投げ捨てた。頭上に、低く放り投げた。振りかぶって、思いっきり叩きつけた。寸分の隙もなく熟しきったプチトマトは正面の壁にぶち当たり、弱く跳ね返って、若干蛇行しつつ足許をころがった。染みができた。汁が垂れた。艶やかだった皮が破れて、中の潤った肉が剥き出しになった。容器を傾けた。順風満帆な生育にわけもなく腹が立ち、茎ごと引っこ抜いて棄ててしまいたくなった。かすかに濁った水が紙を切り裂くみたいな音を奏でて、コンクリートを黒く染めていった。飛び散るしぶきは冷たくなかった。動きをやめた赤い野菜が水の勢いに飲み込まれ、流れに押し切られて、ベランダの縁で行儀よくいくつか整列した。
 容器から滴る、最後の一滴を待った。
 だが一滴落ちればすぐに、さらに次の雫が現れる。いつか、垂れ落ちる。完全に途切れるまでの間、気長に付き合った。養分を断たれた彼らが一体いつごろになれば枯れるのか、いつごろまで健康を維持しつづけられるのか、私は知らない。今更興味もなかった。
実をもぎとり、育つための栄養も断ちきった植物を無責任に打ち捨てた。
 無趣味だった私が野菜づくりをいつはじめたか、定年退職間際だったか、してからか、仕事を引退してありあまった毎日の時間に辟易した挙句に思い立ったのか、今となってはさだかではなかった。対価を得られない行為にはまるで関心がなく、たとえば読書ひとつとってみても仕事に直結しなければ意欲は全然湧かず、これといった蒐集癖があるわけでもなくて、私生活の何事についても面倒くさがる私には、実益を兼ねたこの趣味が思いの外体質に合っていたのかもしれない。また部屋のそこら中が砂でザラザラザラザラザラザラザラザラ、いくら掃除してもキリがないですからやめてくれませんかね。苛立った妻の不満をうけ、土を使わない農法をなんとなく試したのがきっかけだった。
 最初は腐るし、枯れるし、成っても痩せた実ばかりだった。味も誇れるものではなかった。なかなかうまく育てることができず、しかしそれは単に、努力を両極端にしかできない私の不器用な性格が裏目に出ていたのかもしれなかった。でも食べてくれた。毎日の献立に、小さな家庭農園の野菜が加わった。今となればそんな些細な喜びが、損得勘定ばかりでわかりやすく浮き沈みする私のやる気に本腰を入れさせた理由だったのかもしれない。
「だからもういいんだよ。必要ないじゃないか、もう。」
 独り言を呟いた。
「もったいなくないんだよ、なんにも。こんなもんなんにももったいなくないだろうが。野菜なんかもう必要ないんだから作ったってしょうがないじゃないか。いらないんだよ、全部!」
 荒げた声に、自分で驚いた。
 部屋に戻り、窓を閉じて、鍵を掛けた。
 両端に束ねられた分厚いカーテンを隙間なく重ね合わせた。
 目の前からプチトマトが消え、けれども熟した発色が脳裡に焼きついたまま離れず、まだ視界のところどころに残留しているようだった。窓に背を向けた。暗かった。さっきまで壁に並んでいたはずの家具は闇に融けてしまい、慣れない瞳孔のせいもあってか、黒一色で塗り潰されてしまったみたいだった。赤い球が灯る。暗い部屋にポツポツと実り出し、ポツポツと消えていき、室内が徐々に輪郭を帯びはじめて、いつの間にか現れた青黒い箪笥の前でぼんやりと立ち尽くしていた。
 お椀に熱湯を注いだ。薄い茶色に泡が立ち、ワカメやネギなどのカラカラに乾いた具材が膨張していって、箸で底を混ぜると汁の色が濃くなった。食欲はなかった。腹にものなんか入れたくなかったし、催促されたわけでもなかったが、なぜか食事の支度に励んでいた。
 隣の部屋の電気をつけると蛍光灯が脈動するように数回光っては消え、やがて白々しく部屋に落ちた。明かりを見上げた。三本並んだ直管の真ん中が、忙しく、小刻みに明滅していた。
「すまんね、インスタントで。ずっとおまえに任せっきりだったもんで、どうも要領を得ないんだ。ほら、昔おまえがインフルエンザに罹った時に作ってあげたおじや、あまりにまずくてほとんど残したろ。」
 ご飯、味噌汁。スーパーで買った煮物の総菜をパックのまま出した。フライパンの熱し具合が足らず油も少なすぎたのでボロボロに砕けてしまった卵焼きは、寂しすぎる品数のため不本意ながらもお盆に載せた。驚いたことに、生ゴミの捨て方も出す曜日すらも知らなかった。
 この献立が、いろいろと失敗した末の結果だった。昔かたぎに、男の本分は仕事なのだと信じて疑わなかった私は、事、家事に関してはまったくの無能で、炊事以外にも洗濯や掃除に四苦八苦していた。手間のかかったおかずはないけれど、そんな私の、努力の賜物、こんなものでも褒めてほしかった。枕元に私も座り、前髪を直してやる。私もだけど、おまえもえらく年を取ったな。
「ちゃんと食べないと良くならないぞ。」
「肉のほうがよかったか。年取ると脂っこいものを避けるようになるから、意識して食べたほうがいいとかニュースでやっとったから。もしかしたら赤身の牛肉とかのほうが食欲出るかもしれんな。それともやっぱり魚がいいか?」
 湯気はゆっくりほぐれて、視えない空気に同化していく。御御御付けの具は揺らいでいるようで、米の粒は輝いているようで、ともに活き活きと、四角いお盆の上で出番を待っている。こうして隣に居ると、ふと気付くと一時間経っている時もあり、それどころか我に返ると日が暮れていて一日がいつの間にか終わってしまった経験もあって、そうかと云うと物思いに耽ってしまって数時間が過ぎてしまったかと思ったら一分も経っていなかった時もあったりと、近頃時間がやけに伸び縮みしていた。
 徐々に味噌はお椀の底に沈んでいき、立ち昇る寸前の煙のように鳴りを潜めていって、汁の表面が透明に澄んでいった。
「終わったら声かけてな。」
 居間で、テレビを視た。バラエティ番組をぼんやりと眺め、出演者と一緒になってクイズに頭を悩ませて、ときおりチャンネルを替え、またもどし、だがどれでもよく、どれでもよくない気もしてしまい、腕にできた吹出物をいじった。硬い皮を剥くと、血が滲み出た。傷口にティッシュを押し当てて、離すととたんにまた噴き出しはじめ、血が流れ出ているのか、はたまた同じ時間がひたすら往復しているだけなのかわからなくなった。
 何十年と向き合ってきた仕事を取りあげられ、いつ迎えるかもわからない最後の日まで無限の時間を与えられて、なにかをイチからはじめるには薹が立ちすぎていて、一念発起する気も起きず立ち止まるしか考えが浮かばなかった。身を乗り出した。膝に掌をつき、上半身を支えた。テレビ画面に釘付けになった。
「母さん、水耕栽培のことやってる!」
 全国ニュースの中で、なじみ深い映像に目を奪われた。
「ほら、母さん。視においでよ。」
「やっぱりブームになりつつあるんだろうなぁ。実際問題、土を使わないから室内に適してるんだよな。確かに畑が持てない都会には持って来いではあるわな。」
 到底極めたとは云えないまでも、一早く唾を付けていた自分の先見性に胸を張った。だが同時に、先日養液を全部流してしまって、ささやかな菜園を閉じたことに自己嫌悪も募った。
 テレビの液晶画面に映った、殺風景な空間で青々と葉をひろげた植物を見つめた。なじみ深いプラスティック製の透明な容器が整然と前後三列で並べられていて、植物はどれも元気が良く、尖った葉々を見事に生い茂らせていた。テレビ画面にかじりついたままテーブルを雑にまさぐり、リモコンで音量を上げた。
 身をかがめ、警察車両に乗せられる面持ちを目で追い、血が固まり出した吹出物に爪を立てた。指先がぬめった。ざらつく、剥き出しの傷口に爪を立ててほじくりまわし、時々走るするどい痛みに身体を小さく搾らせて、映し出される真っ白い明かりで満たされた雑居ビルの一室に喰い入りながら、また肉を引きちぎった。
 
 壁紙を撫でた。入念に指の腹で擦りつつ、全身をくっつけた。横顔を密着させ、耳を澄ました。意外に、どこかの生活の残滓はとどかない。
 とても静かで、壁の向こうはしんと鎮まりかえっていて、鼓膜を揺らさない、音を音として認識しない、そういう種類の音が聞こえてくる気がした。頬には、さして冷たくもない温度が伝わってきた。ほのかな乳白色のそれはさわってみると非常に繊細な凹凸が刻み込まれていて、よく視るとその窪みひとつひとつにうっすらと微弱な影が落ちている。壁紙の数えきれないほどの筋に例外はなく、すべての溝に影は寄り添い、手抜きのないその殊勝な心がけに感心した。
 両面テープを目一杯引き伸ばす。壁の端から端まで貼ってから、表面の薄皮を一気に剥き取った。そのやわらかい感触のせいなのか、適度な手応えのおかげなのか、この作業が一番気持ちよかった。横に一本貼るとすこし下にずらして、同じ作業をくりかえした。
 興味本位でもなく、退屈を紛らわしたかったわけでも自暴自棄になっていたという自己分析も正しいとは言えなかった。もしかしたら制度によって順当に弾き出された社会にまだ未練があり、女々しくも世の中とまだつながり合っていたい、まだ働ける、リタイヤは早すぎる、私にも出来ることがまだあるはずだなどと内心で世迷い言を唱えていたのかもしれない。社会の潮流から取り残されていくことに歯がゆさを覚え、いやそうではなく、本当は、ひとりきり置いてきぼりを喰わされたのが怖くて堪らなかったのかもしれない。
 拍子抜けするほど簡単に、種はネットで買えた。
 アルミホイルをおおまかに揉む。こわばった皺を入れてから、壁にまんべんなく貼っていく。図工の授業だった。おにぎりだった。しわくちゃのアルミホイルは小学生のころに遠足で持たされたおにぎりの包みにそっくりだった。
 何年生のころの遠足だったか忘れてしまったが、学校を出発してすぐ、地獄がはじまった。猛烈な腹痛に取り憑かれた。道すがら、休憩地点だった寺には便所がひとつしかなく、境内を元気に走りまわって遊んでいる同級生たちに大便を知られるのが怖くてそこでするのは憚られた。追い詰められた私は我慢しきれなくなり、敷地内の外れにぽつんと建っていた小屋の裏に隠れて、野糞をした。葉っぱで尻を拭いた。面積が小さいので細心の注意を払って指先でつまんで使い、かぶれるのが怖かったが、背に腹は代えられずに何枚もその辺の木からちぎり採った。ズボンを上げた直後、誰かが来た。間一髪だった。もしかしたら勘付かれていたかもしれないし、最中を見られていた可能性もなくはない。赤面してしまう懐かしい思い出が去来し、けれども、六年間それぞれあったはずの、目的地の、道中の、様々な他の記憶はまるで蘇ってこなかった。
 あまりに遠すぎる記憶のせいで、今となっては私に幼い時分があったとはにわかに信じがたかった。胃腸が弱かった。よく腹をくだした。だから校内で定期的に企画される非日常の行事は私には大敵で、良からぬ場所で便意をもよおさないか心配で仕方がなく、その前日みたいな落ち着かない気持ちで部屋の改装に取り組み、不安にもなり、悲観もし、そしてなぜか、とてつもなく高揚してくる胸の内をうまく説明はできなかった。没頭した。試行錯誤した。企業に入社したての、新人のころの感覚が胸の底に痛烈なほど湧き上がってきて、無性に愉しく、夢中になっている間はすべてを忘れることができて時間だけ過ぎていってくれるからとても都合が良かったし、いいことずくめで、ひたすらに私は集中していた。
 ペットボトルを上から十数センチのところで切り離したお椀状の容器にパームピートを敷き、種を植えた。
 萌芽には、無邪気に手を叩いた。
 息子が自分の脚で初めて立った時か、もしくは声にもならない声で私のことを呼んでくれた瞬間か、それと同じくらいに芽吹きが嬉しかった。
 根を洗った。若い苗を傷めないようにそっと水ですすいで慎重に容器へもどし、飲み口を通してそれを下に垂らした。パームピートを詰め直して、まだ弱々しい苗を立たせた。養液で満たした六角形くらいの本体の上に、飲み口を下に向けた容器をかぶせた。透明な液体の中を、無数に枝分かれして毛羽立ったあどけない根が満足そうに浸かっていた。我ながらこなれた手つきに得意になって、続けてふたつを完成させた。
 異質なものであり、異形の植物だと身構えていた。けれどトントン拍子に事が進むのに唖然として、だからなのか後ろめたさは薄まっていき、益々理性が働かなくなっていった。
「どうも透明の容器はよろしくないみたいだね。よくよく調べてみると根っこを直射日光に当てたらまずいらしいんだな、これが。でもプチトマトはちゃんと成ったんだけどな。あれは怪我の功名かビギナーズラックというやつなのかね? やっぱり生き物相手は一筋縄ではいかないな。おかしいもんだね。でもまあ、云われてみればその通りか。根っこは、元来土の中に埋まってるもんなんだからな。」
 枕元で腕を組んだ。
「別にいいじゃないか、ちょっとくらい。」
 背中を向けて、刺々しく言い返した。
 天井の照明のカバーを外し、蛍光灯の奥側にもアルミホイルをまんべんなく貼った。椅子に乗った作業なので脚が覚束なく、しかも壁とは違い形も一定ではないのですこぶる骨が折れた。三本の直管が銀色の膜に朧に反射し、本数を無数に増やした量の多い光が、瞳を刺激した。箪笥の上では置き場が足らなかったので、食卓テーブルを持ち込んだ。ふたりで夕食を囲んでいた場所にはぽっかりと空白が生まれてしまい、妻がよくぼやいていた手狭な台所は急に大きくひろがった。
 開放感が出たのにどこか閑散とし、これからのご飯を食べるところの喪失にはたと気付き、けれどもそんなものは床でも立ったままでもどこでもよくて、空腹が満たされればそもそも食卓になどたいした意味はないのだと私は思った。
「なんだってそうやって私のやることにいちいち文句を云うんだ? 誰にも迷惑かけてないだろうに。」
 腹立たしく、隣の部屋に首を突っ込んだ。
 とうに冷めてしまった食事が用意した時のまま量を減らさず、配置すらも変わらず、白米だけは黄色く干からび一回り小さく縮んでいた。いい加減うんざりして、右の拳を左掌に幾度となく打ち付けた。
「ほら、また全部残してる。」
「食べる気がないならそう云ってくれよ。こっちも忙しいんだから。」
「当て付けはやめてほしいね!」
 乱暴に、引き戸を閉めた。
 ネットで売ってみるとさっそく反響が来た。手探りではじめ、なんの見通しも立っていなかったのに予想よりも反響が非常に早くて、とまどい、年甲斐もなくドギマギとメールの文章を練り、外で落ち合った。俄然やる気が湧いた。急いで、空きのペットボトルを工作した。苗を増やした。植物育成用のLEDライトに替えた。終始エアコンで温度を一定に調え、光を照射する時間をタイマーで管理した。現役時代、ひたすら機械と向き合ってきた毎日が無駄ではなかったことに、ひとりきり感謝した。
 作業の合間にちょっとの休憩もとらず、一心不乱に内装を仕上げた。光をより有効に活用するため床や天井までアルミホイルで埋め尽くし、幾方からも反射してくる光が眩しくて、堪らず顔を背けた。
 気が付くと、あんなにやわらかかった部屋の明かりは硬くて寒々しい色に様変わりしていた。テーブルの上には、美しい花も咲かず、おいしい果物もならない植物が生い茂っていた。
 室内は若い時分に映画で観た近未来の世界のように無機質で、金属をくりぬいたみたいにまばゆく輝き、生気も感じさせず、それなのに中央ではとても原始的で活き活きした植物が巾をきかせて繁殖していた。壁にも天井にも、たった今こうして立っている床にまで、部屋を造っている全面でおびただしい数の太陽が燦々と煌いていた。
 白昼みたいな明るさの下、我が家の中の知らないどこかで、ひとりきり佇んでいた。
 根を保護するためにアルミホイルで丁寧に巻いた容器の羅列、自重や振動で転倒したりしないように作製した木枠、そして健康に、青々と葉をひろげた植物たちに目を細めた。皆が皆、私のことを求めてくれる。必要としてくれて、注文してくれる。質を褒めてくれる。マンションに帰れば、雄々しく育った子供たちが私を迎えてくれる。
 逐一各々の成長を確認し、弱い苗や発色の悪い葉を前に、いろいろと思案した。つい最近まで孤独に苛まれていたのに、いつの間にか、恍惚にも似ている、得も云われぬ喜びが私の隣に寄り添ってくれていた。黄色にも近い、淡い茶色をしている引き戸を横に滑らせた。休んでいる妻を意に介すこともなく首をグルリとまわし、見飽きた室内を目の玉で舐めまわして、隣とまったく変わらない同じ広さの部屋を隅々まで見渡しながら指折り数え、頭の中で穫れ高を計算した。
 腕を組み、見下ろした。
「寝るのは居間でもいいだろ?」
「何って、こっちの部屋も使うから。」
 掛け布団を横柄に感じた。
「悪いね。」
 お盆を脇にずらした。速いその動きについてこれなかった味噌汁がお椀の縁を高く舐め上がって、半分くらいこぼれてしまった。畳にも飛んだ。舌打ちした。予期せず増えてしまった、普段ならいらない後片付けにうんざりした。
 拭き掃除は後回しにして寝床を引っ張り、引きずって少しずつ移動させる。うしろをふりかえって一端中断し、居間のソファやらテレビに正対している膝丈くらいのテーブルを隅に追いやった。ひろく空いた空間に満足して、腰に手を添え一息ついた。別に重労働でもないはずなのに、腕にも腰にも、背中の筋肉にまでも、すさまじい疲れがまとわりついてきた。
 もはや、あのころとは異なった場所だった。
 台所のうしろのダイニングが伽藍とひろがり、洗ってないどんぶりや皿を床に置いたままで、居間にある調度品が壁際にすべて移動させられていて、いつの間にか昔とは内装がずいぶん違ってしまっていて、家の中は散らかり放題で、だが、別にそんなことはいまさらどうでもいい気分だった。
「もう食べないんだろ。食欲がないなら前もって云ってくれな。それとも味か? 具がいやなのか? なにがそんなに気に入らないんだ? これだってな、インスタントが口に合わないんだろうと思ってちゃんと出汁からとってるんだぞ。手間がかかってんだよ、手間が。」
 食事を下げ、残った、冷めた味噌汁は鍋にもどした。豆腐が目まぐるしく躍り、ワカメが舞い、底に沈んでいた味噌がキノコ雲のように表面へ群がり出した。
 再び、布団をにぎった。
「だってみんな必要としてくれてるんだよ、私が育てた商品を。事実注文もかなり増えているんだし、なんとかしないと隣の部屋だけじゃ生産が追っつかないんだよ。待たせたりしちゃったら申し訳ないだろうが。仕方ないだろ。専業主婦しか知らないおまえじゃわからないだろうけど、一度納期を遅らせると信用がガタ落ちになるんだから。悪いがこればっかりは辛抱してくれないと。」
 敷布団の縁を握った。重くて、腰に痛みが走る。身体の節々が急に悲鳴をあげはじめた。指が布団カバーの生地から滑り、握力が落ちているのか、どうしても握っていられなかった。首をかしげた。昔から体力にだけは自信があったのだから、これしきの力仕事はどうってことないはずだった。頭に血が昇った。年甲斐もなくムキになってしまって、体勢を整えた。中腰になり、布団の綿をしっかりと掴んで、全身の力を爆発させた。
 天井を仰ぎ見た。
 腰に電気が走った。
 激痛に悲鳴を上げた。
 とたんに天地の方向もわからなくなり、とっさに持ちこたえようとし、だがまったく持ちこたえられず、盛大に尻もちをついた。敷居のでっぱりで尾てい骨を打ち、あまりの衝撃で肛門の奥まで痺れた。姿勢を保てなかった。腰の痛みに悶絶し、腹の筋肉はまったく云うことを聞いてくれず、二拍も遅れて、仰向けに倒れて後頭部までぶつけた。ひとりでうずくまり、ところどころの耐え難い痛みに、しばらくの間、悶えて苦しんだ。
 乱れた掛け布団を直して、枕元で身体を落ち着けた。
 顎に掌を当てて左に押すと、首の骨が鳴った。右は、鳴らなかった。数回試していると、たいして眠くもないのにアクビが洩れた。涙が溢れた。なんとなく、もう一回アクビをした。なんだか凄まじく馬鹿馬鹿しくなり、自分が何に躍起になっていたのかもわからなくなってしまい、部屋の壁にもたれてまだ治らない腕の吹出物をあてもなく眺めた。

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