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英雄はうなだれる⑧
幾本ものエスカレーターから、終わりなく人々が溢れ出してくる。重なり合い、交錯して、フロアは暑苦しく雑踏で満たされる。
改札をくぐると駅に併設しているデパートが設計によって真っ二つに両断されていて、広大な通路から建物の内部を仰ぎ見ることができた。窓が店内の照明を切り取り、淡い暖色の光が滴り落ちてきて、そのビルの中では目が醒めるほどの人々が買い物に没頭している。分断は天井までつづき、階の途中、連絡通路が二箇所に渡され、紙袋を持った客たちが別館へと移動していて、天窓からはやわらかい自然光が降り注いでいた。
あからさまな日常を目の当たりにして思わず立ち止まると、左右から後続の降車客たちが湧いて出た。突如流れをせき止めた障碍をものともせず、片時も滞るつもりはないらしくて、なだらかに追い抜いていく。肩がこすれる。視線を感じる。各々の目的地へと歩いて行く。
郊外のターミナル駅は都心とたいして変わらずとても雑多とし、縦横に夥しい数の人々が行き来していて、それなのに空気は穏やかに凪いでおり、人ひとりの動向にいちいち興味を示す様子はまるでない。呑気で、むしろ呆けてしまったかのようで、この太平が真実だと一欠片も疑っていないようでもあり、まやかしだとも知らず、本当は身悶えするほどに煮えたぐったこのぬるま湯が、ずっとぬるま湯のまま永遠につづくと頑なに信じているようでもあった。
眼球だけでコンコースを見まわして、通路にできたくぼみに身をかわした。
三方の壁に張り付いたコインロッカーのひとつにカギを差す。親指の腹にシリンダーの重い手応えを任せると、脈動したかのように目の前がゆがんだ。乳白色に塗装された四角い空間に焦げ茶色をした革のボストンバッグが佇んでいた。静かにすべらせ、腕に重みをぶら下げる。うつむいたままくぼみから顔を出し、左右を確認して、人の流れに身を委ねてホームへと引き返した。
ちょうど到着した鈍行を見送り、次のに乗った。車体の側面に沿った小豆色のシートに腰を下ろして一息つくと、凍えそうに身体が震えはじめた。小刻みな振動は掌も同じで、脚も落ち着かず細かく行進をしてしまい、噛み合わせもうまく合わない。
重たく、大切で、甲斐甲斐しく革を撫でる。何も考えず、ただ考える。別珍のシートには知らない誰かが隣に座り、肩をこすらせて誰かが立ち上がっていって、知らない誰かがまた脇を固める。
視界には人々が炙りだされていき、滲み出してきて、やがて色が朧気に透けはじめ、姿かたちは拡散していく。明確に縁取られては、ほろほろと蒸発していく。不安定に明滅する明かりのように、混雑し、閑散として、車内はたらふく人を飲み込んでは吐き散らかしていく。
曖昧な輪郭がなんとなく結ぶと、向かいの席には歳の離れた男女が手をつないで座り、けれどもずっと会話はなく、おたがいに顔を背けていた。つい今しがた乗ってきたような覚えもあるし、最初から居た気がしないでもない。持ち手が皮脂でやけにすべる、膝の上に置いた荷物を大事に抱え込み、黙りこくった恋人同士をぼんやりと眺めた。
淡い眼差しをした幼さも残る女は、深みのまるで足らない、赤い、太い縄が寄り集まったみたいな凹凸のあるサーマルニットをゆったりと着ていて、肩の骨が見え隠れするくらい丸首はゆるく、それが華奢によけい拍車を駆けていた。きれいに切り揃えられた甘栗色の前髪がまつ毛のすぐそばまで迫っている。隣で脚を組み、常に口の両側に湾曲した皺がくぼんだ、暖かそうなツイードでできている、くすんだ黄土色のヘリンボーンジャケットを季節外れに羽織った連れの男は、目尻に放射状のヒビ割れを沢山走らせて、絶えずやさしい微笑みを湛えながら来た方向を見つめていた。
身体は密着せず、かといってつれなく離れているわけでもなくて、ふたりの間には握り合った掌だけが宙に浮かんでいる。交互に絡まったどれかの指に、さっぱりしたデザインの指輪が通されていた。
幾度となく電車は徐行と加速をくりかえし、些末な駅を通過していって、ときおり、普段は目にしない豊かな自然があらわれる。エアポケット、街の穴、高低のない渓谷、開発から取り残された、都心までの箸休めみたいなものかもしれない。生成り色をした畑の先にある森の合間では観覧車がまわり、一向に動き出さないようにも見え、かたつむりのように怠慢に感じて、遊園地の全貌は電車の中からは窺い知れない。
ふたりの頭の上を、呑気な乗り物が通り過ぎていく。
きっと、彼らはこれから終点まで一言も言葉を交わすことはなく、掌を絡めたまま座りつづけるのだろう。そもそも会話なんてものは極めて不完全な意思疎通手段なのだし、だからあますところなく抱えた気持ちを理解し合えるはずもなくて、言葉を尽くせば尽くすほどうまく伝わらずもどかしさが募っていき、それなのに口をつぐむと、何も届かず、届けられず、闇雲に虚しくなってしまうものなのだ。一切語り合わないふたりには確固たる信頼を感じ、うらやましくもあった。
このふたりは降りた駅で、おそらく、そこは人里離れた無人の駅だから改札を颯爽と走り抜けていき、誰もいない道をただひたすらに歩きつづけるのだろう。曇った空からは黄金の日光が射し込み、幾筋かの、ほのかな棒となって大地を照らす。
人影もない道路に面した森林からは葉や枝が覆いかぶさるように浸蝕してきていて、鬱蒼と生い繁った樹々から低く垂れこめてくるひんやりした冷気にそろって驚き、寄り添い合って肩をすぼめる。小さく身震いした娘は、ひろく空いた胸元を掌で握ってニットを引き搾るのだ。か細い肩巾が抱き寄せられる。懐におさまる。
熱いふたりに魅せつけられて、多分、関心もなく眺めているガードレールだってさすがに妬けてしまうはずだ。車は、一台も通らない。住人にも会わない。穏やかな、大気の流れだけが満ちている。時々バス停を見かける。重りのコンクリートは角が砕け無くなっていて、ダイヤが記載された鉄板は塗装が剥げ、所々さびつき、支柱は会釈ほどに根元から曲がっていることだろう。隣には、必ず、雨曝しの朽ちたベンチがお供しているのだ。
本当に時刻通りにバスがやって来るのかも怪しい停留所の前で、どちらともが、どちらともなく、まだ今ならここで待っていれば街に引き返すことができるよと考えるのだけれども、そんなことふたりとも口にしたりはしない。それは相手への不信などではなく、愛するがあまりの、本気で大切に想うからこその、添い遂げる覚悟があるからこその、最期のやさしさなのだろう。
道すがら一匹の猫と鉢合わせし、警戒心もあってないような牧歌的なそいつは、片目に黒いブチがある奴だったり山吹色が多い三毛猫だったりするのだろうけども、こんな片田舎にはとんと珍しい来訪者のはずだから、戸惑ったように全身の毛を逆立たせて逃げていく。
充分に距離を取ってから、こちらの様子をうかがってくる。しばらく微動だにせず、不愛想な目の玉だけを据え置いたまま、悠々と尻尾を向ける。不敵なのに、愛くるしい。憎らしいのに、かわいらしい。ふたりは顔を見合わせて、こわばった頬の肉を今日初めてほころばせる。生き物が大好きな彼女は夢中になってあとをついていき、次第に駆け出して、濡れたアスファルトにできた水たまりを大股で飛び越えるのだろう。
いつしか、深くて暗い森に迷い込んでいく……。
空の底が晴れ渡った。
遠くの、地の表面が光り輝いた。
かすかな地鳴りが心地よい。
身じろぎもせずふたりの瞳だけがざわめき、しかし明後日の方向を向いているのは双方変わらなくて、つないだ掌の甲に一瞬、力がこもった。光の粒子が、波動が、千切れかかった雲が泳ぐ青空を半円に彩り、色を塗り替えていく。
目を丸くし、顔を突き合わせ見つめ合って、仲良くうしろをふりかえる。
さらなる爆音が電車の走行音と重なり合い、だが、彼らのその視線の先に新たな光はきらめかない。ひねった身体が高架下にひろがる街並からもどってくると、また光った。粉っぽい水色の空には霞んだ塔が何本も揺らぎ、鮮明な、一際高い建物付近からほのかな炎の筋があがった。都内でも有数のひろさを誇る商店街の中を逃げ惑う人々の姿やうずくまっている女性の背中が、速度を落とした電車の窓からちらついた。かすかにサイレンが鳴る。まもなく市街地に着く。最期に、貴方たちふたりのように素敵な恋人同士に出会えることができて本当に良かったよ。ふるえる腕を握った。ふるえる腕を握りかえした。ボストンバッグを胸に抱き寄せ、次第に増えていく発光を眺めた。まぶしくて、うつくしくて、とめどなく恍惚が湧き上がってくる。
私は、はやる気持ちを必死で噛み殺し、電車が到着するのをひたすらに待ちつづけた。
了