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“称賛”という名の甘美な誘惑

人は誰でも、褒められればうれしい。
わたしくらい歳をとっても(50歳)何かしら褒められれば、気恥ずかしくとも、うれしいものである。

大人になると、そう褒められることもないが、むしろわたしの歳では、人に対する「褒め方」を意識する方が多いかもしれない。

また、今回の記事では表題を「称賛」としているが、「称賛」だけではなく、この言葉を「承認」や「共感」と置き換えても良い。

人からの「承認」も「共感」も、やはりうれしいものだ。

noteに記事を書く前のわたしは、およそSNSの類には疎く、「自分で何かを書く(表現する)」という行為には、全く縁がなかった。

たまに知人のフェイスブックやインスタの記事に、「いいね」をするくらい。

その程度のスタンスであったので、今回記事を書き始めるにあたって、特に人に対して何かを求めるわけでもなく、「ただひたすら書くことで、自分の浄化につながるのなら。」「自己満足で良いや。」という感じであった。

でも、今回気づいたことがある。

SNSは自己表現をする場であり、情報を発信する場、そしてそれにより自分を昇華する場でもあると思っているが、それだけでなく、ある意味自分の欲求も満たす場なのだと。

「褒められたい。」
「認められたい。」
「わかってもらいたい。」
「すごいと言われたい。」

誰もが持つこれらの欲求。

批判や反論は別として、匿名でも実名でも、発信した内容に反応してもらえると、自分の自尊心がくすぐられるのだ。

わたしも例外なく、「うれしい!」と思った。

だが待てよ、その感情は問題ない。
でも、なんとなく違和感が。。。

この欲求が強くなると、
「本当の自分の目的から段々それてしまうのでは?」と思ったのだ。

「自分をよく見せたい。」
「評価されたい。」

ともすると、書き始めた動機とは異なる動機が見え隠れする。

もしこの動機が完全に入れ替わってしまった状態で、記事を投稿したとしたならば、それはもう自分の手から離れて、他人の評価に左右されてしまうものになるだろう。

そこに自分はない。
そうなると、本末転倒。

「SNSって結構自分が試されるのね。」

最近実感していることである。

これと似たような話で、わたしの姪(18歳)の話がある。
姪はミュージカル、音楽、生け花など、表現型の趣味がある。
自分が演じ、楽器を演奏する。
人前に出るのも大好きで、人の注目を浴びることに抵抗がない。
どうやら、すごく気持ちが良いらしい。

それらが上手くできると、周りの大人から褒められる。
子供だからか、身内が思うより褒められることが多く、本人はご満悦。
承認欲求が満たされているのだろう。

でも、一度注意したことがある。

子供に対しては、周りの大人は、

「〇〇ちゃんすごいね。」
「〇〇ちゃんうまいね。」

と、一生懸命褒めてくれる。

だが、それに対してわたしが姪に言ったこと。

「でもね、大人になったらそんなに褒められる機会はないんだよ。」
「むしろ、厳しく注意される方が多いと思うよ。」
「だから褒められたくて何かをするのでなく、人とは関係なく、自分のしたいと思ったことをした方が良いよ。」

「少し厳しいかも?」とは思ったが、姪も18歳、もうこの意味が分かると思う。

「褒める」という行為自体は、素晴らしいもの。

しかし、その頻度と相手の性格も考えて行わないと、いつの間にやら
「人の称賛を求めて何かをする。」という事態になりかねない。

それくらいの魔力があるのだ。

だからこそ、誰しもが持っている本能的欲求とうまく付き合いながら、自分を確立して生きていくことができるのだとしたら、「どんなにか素晴らしいだろう。」と、身に染みて思うところである。




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