勝った負けたを基準にすると、自分を見失う
人生のいろいろな場面でわたしたちは人と比較し、比較され、優劣を競っている。
否、競わされている。
しかし人がいるからこそ、自分の立ち位置がわかる。
だからこそ、それはそれで指標になるので、他者との関りは重要だ。
それが人と比較し、それに対して「自分の方が“上”だとか“下”だとか判断する。」ことに“こだわる“ということになると、意味は変わってくる。
そこにはただ、他者と言う基準があるだけで、自分の個性や軸がないからだ。
わたし達は幼い頃から、人と比較して、順位や優劣をつけられることが当たり前の環境で育ってきている。
例えば、
学校の成績とか、
運動ができるできないとか、
容姿だとか、
よくよく考えると、それは当たり前のように存在していた。
それはそれで致し方ない部分もあるだろう。
今の教育が主に、「個性を尊重するよりも、画一的な世界の中で、どれだけできるかできないかを求めている。」からだ。
そして容姿に関しては、特に女性ならば、子供の頃から“かわいい“とかそうでないとか、判断されているのをずっと感じてきているはずだ。
人として生きている以上、これはもう「避けられないこと」だと思っている。
でもそんなことにこだわらずに、「自分を生きている人も多くいる。」のも確かだ。
最近は昔に比べ、生き方の選択肢が増えてきたのもあり、これまでの価値観とは異なる選択肢を選ぶ人たちが増えてきている。
それは、個人的には喜ばしいことだと思っている。
しかしその一方で、あらゆる場面で勝ち負けを基準として、優劣をつけたがる人たちもいる。
人を言い負かす。
他者を攻撃する。
自分の非を認めない。
自分の優位性を誇張する。
いつでも誰かと、そして見えない何かと戦っている。
自分と言う人間を誇示するために。
だが、それに勝ったところで、人は認めないだろう。
しかし、負けたら負けたで「プライドが許さない」のだろう。
だからこそ、自分の存在意義をかけて、自分の証明をするかのように戦っている。
その為だろうか?
そういう人は、敵が多い。
というより、自ら敵を生み出しているように見える。
いつでも戦闘モード。
その勝ち負けの世界から抜け出せなければ、いつまでたっても自分の人生は苦しいだけなのだが、それに気づいていないらしい。
本当に賢い人は、戦わない。
いつでも正確に状況判断ができ、争わずに退くべきところは退く。
戦わず、人と協調することができる。
自分も他者も、同じように尊重することが出来る。
真の意味で、自信のある人
実は、常に戦っている人を何人か見てきている。
正直言えば、とても優秀。
でも自分の優秀さを人に認めさせようと、常に敵対心むき出しで主張をするから、人がどんどん離れていく。
当然、人望はない。
そして、なんだか苦しそう。
才能があってもこれでは意味がない。
自分を活かしているとは、到底言えないだろう。
「なぜそこまで勝ち負けにこだわるのか?」
いくつか思い当たることがある。
自分の優秀さを誇示し、承認欲求を満たしたい。
「人は自分を攻撃するもの。」「自分は理解されない」と、信じている。
良い学校、良い会社に入ったいわゆる挫折の無い人生だったからこそ、そこに価値基準があり、そこが脅かされると「自分には価値がない」と思っている。
人によって理由はさまざまなようだが、恐らく潜在的な理由に気づいていない。
本当は人それぞれの個性を活かし、お互いに尊重し合い、特に優秀な人には他の人にはできないような役割を期待したいところだが、「“勝負や優劣という価値基準”にこだわっている以上、本当の意味でその人自身を活かすことは難しい。」と感じている。
お互いを認めて活かしあう関係の方が、楽だし世の中生きやすいのにね。
そんなことを時々思い返している。
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