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本当の自分がわからない
思えば数年前まで、自分という人間がどんな人間であるか、良く分からなかったように思う。
今でも、「自分の個性は?」と聞かれたならば、はっきりと答えることができない。
また「長所や短所は?」という質問も然り。
自分のことがわかっているようで、実はわかっていない。
そしてこれは、表面的に現れている「わたしという人間の特性」について。
ここでは、表面的に現れている、意識している自分というよりは、内面の深いところにある、ともすると普段の意識にかき消されそうになる本来の自分の想いについて、振り返ってみたいと思う。
思い返せば、幼い頃から周りの目を気にして生きてきた。
最初の人間関係は親。
そこでの関係において、親の言うことを聞く「良い子であろう。」もしくは親の言うことを聞く「良い子であらねば。」という気持ちが無意識に働いていたのは覚えている。
また、「人に迷惑をかけない良い子」を求められていた。
そして小学校。
ここでもわたしに対する周囲の評価は「真面目な良い子」だった、と思う。
中学校でも同じ。
でもこの頃、違和感を感じていた。
自分はそんなに良い子なのだろうか?
確かにまじめだったかもしれない。
周りの期待に応え、親や先生の言うとおりにし、学業も行動も模範的であったと記憶している。
でもそれは、親に言われて、または周囲の評価がそうだったから、期待を裏切りたくなくてそれに合わせていたようにも思うし、それが自分であると信じていたからそうしていた、とも思う。
しかし、本当の自分はもっとおてんばで、好奇心にあふれ、なんでもやってみたいと思う行動派。
人前に出るのも好きな目立ちたがり屋。
だが、当時は「あれをしてはいけない。」と言われれば、言うことを聞いたし、自分の言動に関してはいつでも、「こういうことをしたら、この人にどう思われるだろうか?」「こういうことを言ったら、あの人はどう感じるだろうか?」そんなことばかり気にしていた。
常に人の目を気にし、他人に合わせている自分。
発言も行動も、そして自分という人間すら、相手の望む形に合わせて変えていたようにも思う。
そこには、
「人に嫌われたくない。」「人に認められたい。」という強い思いが垣間見える。
そして人を気にしてばかりの自分は、自分が言いたいことも言わず、自分の想いを話すことも少なくなっていた。
いつでも他人優先で、自分を蔑ろにしていた。
人が求めていることには応えようとするのに、自分が求めていることについては応えようとしない。
人が嫌だと思うことは人にしないのに、自分が嫌だと思うことは自分に対して平気でする。
その上、「何をすれば自分が喜び、何をすれば自分が楽しいと感じるのか?」
そんなことすらわからなくなっていたのである。
そのうち、「これが自分である。」と思うようになっていた。
だが、自分の本当の想いを無視し、頑張り続けることを続けた結果、身体を壊してしまった。
本当はとっくに、「もうこれ以上我慢するのは止めて欲しい。」というシグナルが、身体のあちこちに出ていたのにも関わらず。
わたしのこころは、いつもシグナルを出していた。
楽しいとき、うれしいとき、悲しいとき、つらいとき、こう感じているんだよと。
そして、「好きなものはこれで、嫌いなものはこれ。」「やりたいことはこれで、やりたくないことはこれだよ。」と。
でもそれを無視し続けたことで、とうとう本当の自分が「本当の想いを聞いて欲しい」と、主張し始めたのである。
いつでも本当の自分は、その存在に気づいて欲しいと訴えかけていたのに、それに気づいても応えようとしないもう一人の自分。
今では自分に申し訳ないことをしたと思っている。
死の間際に人が後悔することの一つに、「こころのままに生きなかった」ことがあげられるという。
わたしは、この「こころのまま」というのが、本当の自分の想いだと思っている。
そうだとするならば、少しずつでも自分の本当の想いに従って、人生を生きてみたい。
気づかないくらいに小さくなってしまった、本当のこころの声。
でも遅くはない、これから少しずつでも自分との対話を進めていこう。
「自分は本当はどうしたいのか?」と。