嘱託殺人に思うこと
昨年末からACPの広告炎上、今回の嘱託殺人と「終末期」にまつわるテーマが一瞬、注目された(そして消えていく)。その合間、合間にCOVID-19で「トリアージ」が必要だ、「高齢者はDNRを明確にして、若い人にECMO(体外式膜型人工肺)を譲るべきだ」等々を唐突に発信する人たちがいる。
普段から人間の生死を考えているというより、普段から「やっかいものは排除してもいい(排除すべき)」とうすぼんやりと意識していた人たちだろう。安楽死、トリアージという便利な言葉がボキャブラリーに加わったので嬉しくなって発信したに違いない。人間、自分のもやもやした感情を表すだろう言葉をみつけると、使ってみたくなるものだ。しかも正義っぽく見える(ぽく見えることは大事)。
一瞬の流行が終わって責められれば「やだなぁ、冗談だよ〜 真面目だなぁ」とヘラヘラ笑って矛先をかわすこともできる。でも、内心には不満のよどみが溜まっていく。そのよどみが他のよどみを吸収し、集まり、大きな流れになることを恐れている。
今回の件は、安楽死、ではない。嘱託殺人だ。という認識で以下を書く。安楽死の問題はまた別だから。
普通の人たちの「何かイヤ」が集まり、無責任に拡がる怖さ
障害を負った人に対する殺害の度に、引き合いに出されるT4作戦も、ヒトラーの指示は1939年から1941年8月までだった。この間、およそ7万人の神経変性疾患、精神疾患、知的障害者などが殺害されている。しかし、さすがにドイツ国内でも聖職者を中心に反対の声があがり(ドイツのベーテルを調べてみてください)中止。ところが1941年8月以降もT4の対象だった成人の障害者にくわえて先天性の障害を持つ子ども達も殺され続け、1945年までに20万人を超える人々が「安楽死」させられている。ナチスではなく、普通に暮らしている一般市民、医師、看護師ら、両親、親戚によって。
そして「役に立たない命」の排除は正義とする考えは、世界中で優生保護法や断種法に形を変えて1990年代まで生き続けた。日本でも戦後の1948年〜1996年(!)まで優生保護法に基づく不妊手術、強制不妊手術が行われていた。
1996年って、ワールドカップの日韓共催が決まって盛り上がり、アムラ—だ、コギャルだ、ポケモンだって時代。その背後でひっそり、「強制」不妊手術が行われていたのだ。
何をもって「強制」と「非強制」をわけるのかは勉強不足でわからない。手術を施行した医師は「強制」されたといえるのか。自分の子どもに不妊手術を受けるように勧める親は? 同意書に自ら署名した当事者は? 「それが常識だから」「法律で決まっているから」「そのほうがみなが幸せになるから」──有形無形の強制はなかったのか。
この雑文にオチはない。考え続けているから。