話の中身か人か

さて。

40半ばに差し掛かるまで生きてきてやっと分かったのは、「何を言うかよりは、それを誰が言うのかが大事」なことがままあるということ。
それを自ら体感したことが、割と最近あった。

ちゃんと勉強したいけど、私自身はそれがなんとなく苦手で、つい話を聞いても右から左に流れがちなジャンルのひとつが、経済や金融の話。

例えば、経産省官僚経験のあるその道に明るい人がメディアに出て、国が勧めている投資のことを説明しているのを見聞きしたとする。

その方の説明が特に悪いわけではなく、その場では言ってる意味がとれるのだけど、なぜか頭に残らなくて「とにかく国は投資やってと勧めてる」という話の超大枠しか頭に残らなかったりする。
ちょっと情けないのだけど。

ところが、最近YouTubeにて女装家の肉乃小路ニクヨさんがお金の悩み相談を答えるという番組を見たときは、同じような投資の話を説明されてもあまり拒否反応もなく、スルスルと耳に入るような感じを覚えた。

おかげでとりあえずは、iDeCoと積立NISAの違いは分かった。
ありがとうニクヨさん。

メディアで活躍されている女装家さんは皆さんそれぞれ個性が光る方々ばかりだが、私はその中でも特に、ニクヨさんのこれまでのストーリーと物腰に惹かれている。

つまり、普段から興味関心をそそられる人物からであれば、ちょっと苦手意識がある話題でも結構受け止められるんだと改めて感じたのだ。

語り手が違うだけでこんなにも違うのかと、ちょっとした驚きの体験だった。
そういった脳の働きを悪用して、人を騙すのが詐欺師なのだろう。
悪用厳禁だ。


ところでこのたび、「書くことを楽しみたい」欲求を素直に認めて、noteで書くことを始めるぞと宣言したわけなのだが、前回の記事でも書いたように、「楽しみたいな」と思うと同時に、「わたしが書いて意味あるのか」的なモヤモヤも頭の隅にまだ居座っている。

そのモヤモヤを完全に消せないにしても、今より小さくするにはどうすればいいのかしら?と、考えたときにこのようなことを思い出したわけで。

書き手のパーソナリティに親近感などを抱くことで、伝わりやすさが変わってくるということは、それがないといくら書く内容が良かったとしても、受け手にちゃんと届くには大変なハードルだということ。

ということは、今の時点で私ごときの者がそんなことをクヨクヨ考えることはおこがましいし、ひとまず書くだけ書いて、たまたま伝わる人に伝わればばいいという気軽さで全然問題ないってことなのだ。
(もちろん書くことはそれなりに考えて書くのだけど)
…アレ?極論・曲解かしら。


というわけで、たまたまコレを読んでくださっているあなたには感謝です。
どうもありがとう。

ひとまずわたしのモヤモヤが無事に少し小さくなったかもしれないというところで(?)、この「誰が言うか問題」についてはもう少し書いておきたいことがあるので、それはまた回を改めて述べたいと思います。



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