年賀状をかくということ
元々外回り勤務が長くしかも年末ギリギリまで仕事という生活が当たり前だったので、年賀状は毎年このタイミング。
その昔は100枚近い枚数をやり取りしたことがあったものの、短期間での転勤を重ねるうちに今年初めて30まで減った。正直、上司や同僚に書く風習のない会社なのでそれであればいっそこの面倒なシロモノは止めてしまってもよいのでは?と毎年そんな悩みを持ちつつもやっぱり書くのである。なぜそこまでして書こうという気になるのか自分でも不思議でしょうがない。というのは、毎年届く年賀状は、付き合いのある世代がロスジェネが中心なので当然大部分は男女問わず結婚し、子供をもうけたいわゆる平均的な日本人である。若い時分は、例えば子供の写真や夫婦のツーショットなどきても来年こそは俺も、なんてことを考えるのだが最近ではこれですらもハラスメントに近い苦痛に感じることがある。
発信側は決してマウンティングしようだなどとは思ってことは百も承知だ(一人くらい悪意はあるのかもしれないが)。が、猫も杓子も同じようなものが来ると、特に昭和ノスタルジーに浸った家族と暮らしていたり、そういう同僚や先輩を持ってしまっている私にはそれだけでマウントを今年も取られた、と瞬間的に思ってしまうのである。
このような発言をするときまってこんな反論が来る。「そのような売れ残り人生を歩んだ過去こそが自己責任だ。」と。不毛な議論になるだけなので私はこのような暴言は聞き流しておく。こんな人が恐らく竹中平蔵やアトキンソンのような、巨大資本家だけに有利な現政府の政策を盲目的に是認し、結果、自らが虐げられてからその過ちに気が付く人たちなのだろう。また、婚活市場にあうように完全に変革出来ない負け犬の遠吠えであり、さっさと退場せよという暴言も聞こえる。つまり、結婚したり、子供をもうけられない、特に男は一生奴隷になれとも聞こえる。
それでも、今年も筆をとった。淡々と、資格のこと、そろそろ子供部屋おじさんを卒業しようと思っていること等々。上記暴言はお前の被害妄想だという反論も踏まえつつ。
SNSなど、手紙や葉書に頼らない通信手段が増え、繋がりたくない人とは繋がらなくても、反対に心地よい人だけの繋がりで十分日々の生活には困らない。だからこそ、デリケートな話題にもつい開放的になり、それが普段付き合いの薄い人にとっての苦痛にならないか、立ち止まって考える必要をこの年賀状を書く瞬間毎回感じるのである。