【創作】炎
いつも私が休憩室を出た後にだけどっと笑いが起こり、その陰にある喫煙所では職員数名が煙とともに私への陰湿な悪態を漏らしていた。事務所の前を通る時、経理の女は横目で私を睨むし副社長は舐めるような視線をよこす。それらを振り払ってロビーを突っ切り一目散にトイレへと向かう。仕事に戻る前には必ずこうしてトイレに篭って今さっき食べたばかりのものを全部吐き出すことにしている。二本指で下の根っこをグイと押さえつければ簡単に嘔吐反射が起こりボトボト、ボトボトとご飯が出てくる。これは全て、ここで働いたお金で買ったご飯だ。ボタンひとつで下水へと流れてゆく。涎を垂らしながらボーッとその様を眺めていたら、なんだかあんまり馬鹿馬鹿しい気がした。気がした、ので、医者へ行き、出された薬を飲むようになるも今度はその副作用が原因で仕事に支障を来し、職場からの私への顰蹙はいよいよ無視し切れないものとなった。
何か食べたところで結局すぐにトイレ行きだし、あんな休憩室で食べるご飯なんかまるで味がしないんだから意味ないのでは、などと考え自然と食事を抜いていたらいつの間にか見た目から分かるほどに痩せてしまい、夏だというのに私は常に寒かった。せめてまともに働けるだけのカロリーは摂ろうと努めたが、その頃を境に食への楽しみなどという概念は私の中から綺麗さっぱり抜け落ちてしまった。
真夏の盛りに暑さにやられ一度倒れて入院した時、もうこのまま仕事を辞めてしまおうかと真剣に考えた。ほとんどの職員から私は何故か嫌われているし、色々と悪い噂も流れているようだし、お客さんは良い人ばかりだけど、それだってあの薄給と待遇とを思えばとても割に合ったリターンだとは言えない。
退院当日、優しい笑みを湛えた看護師さんから「くれぐれもお大事に」と労りの言葉をもらった私は、病床でしたためたばかりの辞表を握り締め真っ直ぐに職場へと向かった。
駐車場に車を停めて玄関へ向かうと自動ドアの傍に誰かが佇んでいて、顔を見遣ると同僚Aだ。
「お疲れ様です」
「あっ、お疲れ様です。大丈夫ですか?東堂さん」
「まあ、はい」
「大事に至らなくてよかったですね。え?まさか今日これから出勤じゃないですよね?」
「まさか」
「ですよね。なんか手続きですか?」
「まあ」
「辞めちゃうんですか?」
「まあ…」
同僚Aは黙り、私も特に言うべき言葉が見当たらずに黙ってしまった。無駄な時間。早く辞表を出して話をまとめて今日はもう帰りたい。ただでさえ退院手続きのバタバタで疲れてるんだ。コンクリートから照り返す日差しがジワジワと全身の体力を奪う。
Aはなんとなく思い詰めたような表情をしているようにも見えるが、私が帽子を目深にかぶっているせいではっきりとは分からない。彼はどうしてこんなところで立ち尽くしていたのだろう。私はもうこの自動ドアを抜けて中へ入っても良いのだろうか。それとも何か伝えたいことが?もうすぐここを去る私なんかに?暑さで思考がグルグル回る。
「あの、」
「はい?」
「こんなの、今の東堂さんに言うようなことじゃないかもしれないんですけど」
Aはそう前置きをして、およそこんな風なことを語った。
「自分は東堂さんが入社してきた時にすごく頼もしいなって思ったんです。ここの事業って立ち上げてまだ間もないし、経験積んでる人材も少ない中できちんとキャリアのある東堂さんが来てくれたっていうのは会社にとって強みだし、ここで働いてる職員たちのモチベーションにも繋がったと思うんですよね。俺ももちろんその一人です。会社よくしていこうって、東堂さん見て何度も思い直しましたよ。でも、組織ってやっぱ一筋縄ではいかないんですね。東堂さんみたいな有能な人でも、くだらない理由で妬まれて職場での居場所を追われることがあるんだなって思うと悔しかったです。出る杭は打たれるってことなんですかね。俺なんか特になんの秀でた才能もないから妬まれたりするのとかって無縁で、そういう意味では東堂さんの気持ちを正確に理解することっていうのは難しいかもしれない、ですけど、なんか諦めたくないし諦めてほしくないんですよね。すいません、言ってることめちゃくちゃで。別に強いてこの会社に残れとかって言いたいわけじゃないんです。ただ俺はなんて言うか、その…」
そこまで聞いて、もういいやと思った。私はモゴモゴと口籠るAの横をすり抜け自動ドアを潜る。気持ち悪い。すべてが気持ち悪い。こんな会社に入った自分も、一人の女を陰湿に痛めつけることでしか溜飲を下げられない連中も、権力だけで女と寝てきたジジイも、妙な勘繰りで敵対視してくる色ボケ女も、それからこのデリカシーの欠片もないぬるま湯育ちの独善お坊ちゃんも、全部全部、全部気持ち悪い。全員今すぐ口を塞げ。一人残らず黙ってろ。
後日、元職場から引き上げてきた荷物をお焚き上げすべくドラム缶を調達してきて一人キャンプファイヤーと洒落込む。不燃も可燃も一緒くたに流し込んでいざ着火後、ジワジワと立ち上る炎は想像していたよりずっと綺麗で、有害物質の匂いは不快だが不思議と胸がスッとしたのだった。