概念・母
私が小説を書こうとすると決まって「お母さん」という一語に行き当たるのは、一体どういうわけだろう。何かイメージを掴もうと空想すると必ずそこに母の像が浮かんでくるわけだが、さればと言ってその度に母を題材にして文章を書くわけにもいかない。「母」というテーマが私にとっていかに深刻なものであるかは既にいやというほど了解しているが、それだけにそう何度も考え込みたくないものである──と、そう前置きしたのにも関わらず、ともすれば私はこう続けそうになるのである。「母は心を病んでいた」と。
私が私を語るには、一にも二にも私を産み育てた母について語らねば始まらぬというのはなるほどもっともな意見かもしれない。そこに反発する意志は無いのに、どうしてこうも母について書きたくないのだろう。より厳密に言うと、物を書こうと姿勢を整え筆を執ったその瞬間、「お母さん。」と当たり前のように頭の中で呟いてしまうことが嫌なのだ。それはもう、悲鳴でも上げて誤魔化したくなるほど嫌な瞬間だ。何が、お母さんだ。私は今、私の小説を書こうとしていたのに。気を取り直してイメージを洗う。何について書こうか。何だっていい。今書きたいことを書けばいい。そう自分に言い聞かせながら書き進めるのだが、二、三行せぬうちに雲行きが怪しくなってくる。視界をチラつく羽虫のように無視しきれない鬱陶しさが脳内でやかましく「お母さん」「お母さん」と繰り返すのだ。「お母さん」(ちがう)「お母さん」(ちがう)「お母さん」(今書きたいのは)「お母さん」
違う!
半狂乱の様相で頭を掻きむしり、絞り出した一文に目を落とすと
「皆、母が人の子であることを忘れている。」
それからは何もかも馬鹿馬鹿しくなって静かに筆を置きノートも閉じてベッドに項垂れる。またいつもの通り短編一本書き上げられなかった自分に落胆するが、さっきまで胸中をどす黒く渦巻いていた煙は少しずつ体外へ排出され確実に呼吸がしやすくなっていく。
(許してください)
冷たいシーツに包まりながら私は、誰へともなくそう呟いた。呟いてすぐ、なんてずるい要求だろうかと消え入りたくなった。
懐かしさは人を狂わせる。恋しがるような母でなくとも、距離と時間とが作用すればそれが特別に良い母であったかのように本気で思えてくるのである。離れて暮らす母はどんなにか健気でつましく、美しくなったことだろう。私の妄想はここまで来る。ただ離れているというだけで。ただ会わないというだけで。果ては筆を執るたびに「お母さん。」と来た!もうやめてほしい。勘弁してほしいと言っている。この有り様には重い恋煩いの青年も閉口して道を開けるほかないだろう。恋をすれば恋の詩しか書けなくなると言うのなら、今の私の書くものは全て母への求愛か?人間の文明以前の、動物的、野生的本能から来る吸啜反射か?ふざけるな。そう憤ってみても一度そんな想像が働いたが最後、今度は何が何でもそうであるとしか思えなくなってくる。許されるために書くのではない。救われるために書くのでもない。ただ抑えられない衝動が言葉になって突き上がるのを待っているだけのつもりだった。それこそが誠実な心構えであると信じていたからだ。それではその衝動の源について、考えてみたことはあったか。よもやそこに一人の人間が入り込み、私の衝動そのものを自由にしている可能性については…。