誰にも言えない話が増えてゆく/親しい人は薬にも毒にもなる
誰にも言えない話
人間、歳を取ると人には言えない話の一つや二つを抱えていくものです。
それは「秘密」と呼ぶとあまりにポップで、「禁忌」と呼ぶにはヘビーすぎる。丁度いい表現がないような気がします。
私にもそんな名もなき話題はあります。もちろん言えません。しかし、一人で抱えるには余りにも重い。これに皆さんはどう対処しているのでしょうか。
「どんなことでも話せる友人」という表現がありますが、そんな友人を実際に持っている人はいますか。本当に存在するとしたら、私は既に脱落です。
友人なんかいないと自虐しているわけでなく、反語です。「どんなこと」に含まれていない領域があるのではないかと思うわけです。
さて、「人には言えないこと」の呼び方が定まっていないので、本文では「業」と呼ばせていただきます。人に言えないことは基本的に否定的な内容なためです。
「業」まで話せる友人がいるのなら、その友人を持てたあなたが大変恵まれているか、大したことのない事象を「業」と見做しているあなたが随分甘いかのどちらかになります。
あるんです。親しいからこそ、相談できるからこそ逆に言えない話題というものが。そう、例えば罪のように。
本題は「人に言えなくてしんどい」ではなく「なぜこういった逆転現象が起きるか」です。なぜ、信頼している人に言えない状況が発生するのか。
薬にも毒にもなる人たち
思うに、親しい間柄の人(親族、友人など含む)というものは薬にも毒にもなるからではないでしょうか。
普段は親しいからこそ、多少の苦楽は共有できる。他方、親しいからこそ、相手の中に「私」という像が既に構築されており、それを裏切る可能性が存在している。
親しい相手も、まさかそんなことで困っているとは想像ができない。そこまで想定してしまい、親しい相手には「業」を打ち明けることができなくなる。
「業」は、この「私」という既成の像を跡形もなく破壊する力のある話題だと自己定義しています。
しかし、内容の重さから、そこそこの関係値の人間には話すことも勿論できない。こうして、誰にも話すことができなくなった「業」が生まれるわけです。
皆、大体は「業」を抱えていると思いますが、それに向き合っているとき、親しい人は「業」の理解から最も遠い存在の毒となる。
「パルマコン」というギリシア語があります。意味は「薬」ですが、同時に人を殺す「毒」という意味も含まれた両義的な言葉です。水を口にした人たちが命を落としたというギリシア神話上の泉「パルマケー」が語源となっています。
親しい人はまさしく、パルマコンであると言えます。然るべきときに頼ればあなたを救う正の作用を持った人間となり、そうでないときにはあなたを追い詰める負の作用を持った人間になる(というか、そういう風に見える)。
結論
さて、ネガティブな着地となりそうですので「業」への対処を共有して終わりとします。
親しい人にもそうでない人にも言えない話題をどう処理するか。全くの他人に話せばいいと思います。
カウンセリングを訪れるもよし、匿名の掲示板を使うもよし、あなたのことを何も知らない人に、一部でもいいから話してみるんです。「業」が急に軽くなります。
絶望する必要なんか無かったんです。
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