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古くて新しく、丸くて四角い。:言語化コンプレックス

世界はVUCA(ブーカ)の時代に突入しているらしい。
Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑さ)、Ambiguity(曖昧さ)の頭文字からきている。私はこういう頭文字をとった略語が苦手だ。略語が氾濫しすぎるとかえってわかりにくくなるという現象に滑稽さを感じてしまう。単に覚えるのが面倒くさいというのもある。

言葉こそ変動性があり曖昧で不確実で複雑なのではないか。今日のノートでは、言葉にややコンプレックスを抱く私が最近感じた『言葉のイメージ』についてメモを書き記す。

無意識下の会話

通常、人との会話は意識下で行われている。しかし疲れていたり、複数のことを同時にしている時の会話では、自分が思ってもいないことを口走ってしまう時がある。私はそれを無意識下の会話と呼んでいる。無意識下の会話は、脈絡もなく突拍子もないことを口走ったりして興味深い。無意識下の会話が、思わぬ本心に気付かせてくれることもある。

認識できない脈絡

無意識の会話での突拍子もない発言は、脈絡がないようできっと何かしらで繋がっているのではないかと思う。認識できた時に、勝手に意味を後付けできるのでそう感じるだけかもしれないが、思考回路をもし可視化できるならきっと繋がってるような気がする。そしてそれを通常時に気付けないのは、言葉の持つイメージを普段無意識に固定しすぎているということなのかもしれない。認識できない脈絡について考えてたら、ふいにコウメ太夫さんが頭に浮かんだ。

芸人コウメ太夫の言葉

お笑い芸人のコウメ太夫さんは、着物に白塗りという見た目で「〇〇と思ったら、△△でした。チクショー!!」とリズムに乗せて嘆く芸風。たどたどしい舞いと吐かれる言葉の意味不明さがシュールな笑いを生んでいる。

〇〇と△△の言葉のイメージが遠すぎて一般人には意味不明に感じられるが、果たしてコウメ太夫さんの言ってることは本当に意味不明なのだろうか?単に受け取る側が言葉のイメージを固定しすぎているだけで、実は彼にとっては〇〇と△△の言葉のイメージは別に遠くもなくて、(彼の中では)単にあるあるを言ってるだけということはないだろうか、ふとそんなことが浮かんだ。

彼のネタを以下に一つ紹介する。

ジングルベル、ジングルベルかと思ったら、
キャンドル食ったら歯が折れたでした

コウメ太夫

大多数の人間はこの文章を意味不明だと思う。前半と後半の話の繋がりを認識できないからだ。このネタについて彼は以下のように説明している。

ネタ解説

解説を聞くと、〇〇から△△に繋がるまでに幾つかの別のイメージが挟まれていることがわかる。ジングルベル→クリスマス→ケーキ→買えない人もいる→だからキャンドルを食べる→虫歯だったので歯が折れた、といったように彼の中では道理が通っているのである。

これは言葉に対するイメージが広い(固定していない)というよりは、言葉のイメージを何度か展開する手法なので、私の言いたいこととずれているかもしれないが、その展開を瞬時にしているならあながち間違いでもないとも言える。彼が手法として意味不明を生み出しているのか、素でやってるのか、わからないが、自分の言葉のイメージの広げ方がまだまだ未熟なのかもしれないと彼に思い知らされることは多い。

そんな彼が吐き出す言葉はもはや哲学として評されることすらある。はじめのうちは周りが面白半分でイジりとして勝手に哲学的な意味を見出し後付けしていたが、最近では彼自身もそれにのっかっている節もある。(もしくは本当に彼自身は元から哲学的なのかもしれない)

コウメ「哲学と倫理学だけは得意だった。」
敦「じゃあ意識的に哲学的なメッセージを込められている?」
コウメ「知らない間ですね。」

YouTube · ロンブーチャンネル
「クローズアップ コウメ太夫」


古くて新しい

自分が言葉のイメージを固め過ぎていたかもしれないと気付かされた出来事が他にもある。

ある時、ギルドメンバーとボイスチャットを繋ぎながら、ゲームで世界中のボスを倒しまくるルーティンをこなしていた。その時のながら作業中でのギルドメンバーとの会話は無意識の会話に近かった。

その会話の中で、私は何かの質問に対して「古くて新しい」と答えた。答えた後に正気に戻り「いや、意味不明だな」と自分で自分に突っ込んだ。「古くて新しい」は一見すると言葉として正しくないように思えたからだ。しかし、その言葉はそのコミュニティで受け入れられた。「古くて新しい」は正しくないと判断した意識下の私は、言葉のイメージを固定しすぎているのかもしれないと気付く。

言葉の正しさ

コミュニケーションにおける言葉に正しさはいらないのかもしれない。正しいことを言おうとか変なことを言わないようにしようと勝手に制約をかけていた。そして、それは話すという行為そのものを遠ざけさせていた原因の一つにもなる。

そもそも言葉に正しさはない。「古くて新しい」も「丸くて四角い」もアリなのである。雰囲気で伝わったり伝わらなかったり、それで良い。わからなければ聞けばよい。それがコミュニケーションだ。ただそれが受け入れられない場も往々にしてある。むしろ社会にはその方が多いかもしれない。単語一つとっても人それぞれ定義が違うのだから、自分の常識が絶対だと信じてやまない人、言葉のイメージを収束させすぎている人と、心地よい会話をするのは難しいかもしれない。

感じたこと

「古くて新しい」も「丸くて四角い」もアリという世界を見た時、私は目の前が少し開けた気がした。救われたような心地よさを感じた。

生産性を最重要視されるような現場で的を得ない発言をするのは受け入れられない可能性が高いが、それ以外の場(とくに親しくなりたいと思う人がいるような場)では、逆に正しさなど意識せず積極的に頭に浮かんだまま臆せずへんてこな発言をすれば良い。話し言葉なんて、ゆるくて良いし、それで伝わる心地よい環境を自分で作る方が大切なのかもしれないと感じたのでした。

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