クラゲから羽虫へ、そして人へ
子供のころ見ていた景色を思い出そうとすると、
画面はいつもオレンジがかってぼやけていてはっきり見える範囲はひどく狭く、
それでいて花と草木と透明ながらくたの放つ輝きだけはいつまでも鮮烈である。
何もない道で躓いて転ぶたび、
クラスメイトと喧嘩して職員室に呼び出されるたび、
運転する母親の後頭部を眺めながら聞かされるお説教の第一声は
「視野が狭すぎる」であった。
「猫背で俯いて歩いているから、何もないところで転ぶんだよ。」
「ボーっと何もないところを見て突っ立ってばかりいるから、
お友達だってあんたのこと邪魔だと思うんだよ。」
親の言っていたことはどれもその通りで、
私は前から来ている車を見ようともせずトボトボと俯いていて、
クラスメイトが通る道をふさいでいることにも気づかずただボーっと突っ立っているだけのクラゲみたいな子供であった。
しかし多くの子供がそうであるように、当然そのときの私にも確固たる理由があった。
「俯いて」るんじゃなくて、「地面を見て」いたし、
何もないところに「立ってる」んじゃなくて、とても大切なことを考えるのに精いっぱいで、考えるのに必要な頭部とわずかな視野以外、存在していることすら忘れていた。
自分の中に存在している理由が自分のすべてであった子供のうちはクラゲのままでいられても、
ものごとの定義を理解した大人になったクラゲはただの視力の悪い虫である。
視力の悪い虫は弱い。
明暗くらいしか見分けられない目で暗闇にやっと見つけたともしびが、
行く手を照らすただ一つの道しるべだと思っているのは自分だけで、
実際は他人の家の街灯にブンブンと集る羽虫のごたる鬱陶しい存在であったためスイッチごと落とされるようなできごとにブチ当たったとき、
どうしようもなくただぽろぽろと仰向けになって死んでしまう。
願わくば。
インターネットに文章を載せようと決意して日が浅い今はまさに道しるべのない暗闇であるが、
ひとつふたつの目標を失ったとてそれがこの世の光のすべてであると思わぬよう、
どうか100里先まで照らしてくれる広いともしびが見つかるまで心折れぬよう、
本当にもうこれしかないことを念頭に置いて進むためこれを記す。