体の中にチェリーパイ
ライブハウスでいい感じに体を揺することができるかどうかは、体の中に音楽があるかどうかによる。
私にとって音楽は耳を通過していくものなので、棒立ちになるのは仕方がない。
そういうタイプなりに楽しんでいるので良い。
前に初めて漁船に乗った時、下船してからしばらく体の中に波が残っているような感覚があった。
多分サーファーは常に体の中に波がいるんだろうなと思う。
その理論でいくと船乗りの体の中には常に船があることになってしまい無限ループに陥る。
ところで、ドライヤーってどうしてあんなに退屈なんでしょうか。
耳が聞こえず両手も使えない状態でただ突っ立ってやることといえば髪についた水分を蒸発させるだけ。
マイナスをゼロにする作業というのはどうしてこう、こうなんだ。
最近はもう仕方ないので床に座り込んでドライヤーをやっている。
そして適当に頭に浮かんだ単語について考える。
今日のテーマは「情緒」だった。
ゲームキューブのどうぶつの森のコミカライズを昔読んでいた。
ファミ通で連載していた、ザ・ファミ通という感じのなんてことない4コマだった。
私はなぜかあれのことをすごく「許せない」と思っていた。
ゲーム上再現不可能なシーンがいっぱい出てくるからだ。
主人公が「家の壁にクーラーを付けたい」と言い出して、村長が「草むしりを頑張ったらクーラーをあげよう」と言い、頑張って草むしりをしたら「クーラーのもけい」がもらえた……という話。
今となっては「草むしりのだるさ」とか、「村長何かともけいくれがち」というあるあるを込めたネタだと理解できるが、当時の私はそれを読んで「壁にクーラーなんてつけられるの?無理じゃね?」「クーラーのもけいなんてアイテムなくね?」と1人モヤモヤしていた。
その時の私はゲームのコミカライズのことを「作者が実際にゲームをして得た実体験でないといけない」となぜか思っていたのだ。
なんでそう思ったのか今ではわからない。
似たような話で、DSのどうぶつの森の攻略本で、本来座れない喫茶ハトの巣の奥の席にプレイヤーが座っているキャプチャ画像が何かの誤りで掲載されていたときも、「何とか頑張ったら座れるんじゃないか」と躍起になって結局ダメでものすごく憤慨した記憶がある。
なぜか再現性のないゲームの話が気に入らないらしい。
なぜこんな話をしたのかというと、情緒だ。
その4コマに「この情緒逆噴射ムスメー!」というセリフが出てくるんだ。
村の花火大会で、住民が花火を楽しんでいる横で主人公がバシャバシャとすごい音を立てながらバスを釣りあげて、それに対して住民が怒りながらそう言うシーン。
なんだそのセリフは、と思ってずっと覚えている。
情緒逆噴射ってなんだ?
情緒って別にサラサラ流れていくようなもんでもないのになんで逆噴射なんだ。
もちろんゲーム内にそんなセリフはない(はず)。
単純に、完全に作者の謎の語彙だ。
後にも先にもそのマンガでしか「情緒逆噴射」と言う言葉を見かけたことがない。
読んだのが小学生の時だったから、もしかしたら平成初期に流行した死語だったのかもしれない。
そういえば、映画どうぶつの森のストーリーの主軸はチェリーパイだった。
チェリーパイはゲーム内に出てくるんだっけ?セリフだけで出てくるんだっけ。
住人の生活の中にはあって、プレイヤの目には触れないチェリーパイ。
映画の主人公はチェリーパイを拝むことができて幸せだ。プレイヤーの星だ、と思う。
映画の主人公はやっぱ「横から」村を見渡せるので、「何でこの村は横から見るとこんなに平たいのだろうか」と思っているんだろうか。