人と猫の影響範囲についての考察
ネコの尿の音がたまに途切れ途切れというか、
「ションッ、ションッ、ションッ」みたいな音の時があり、
元々膀胱炎になりやすい猫なのでいつもトイレを注意深く見ていた。
↑猫の話
↓人間の話
さっき深い深い昼寝の末、溜まりに溜まった尿を出そうとしたところ、
大量の尿が一気に勢いよく出口に殺到したことで穴が一時的に詰まり、
「ションッ、ションッ、ションッ」みたいな音を立てて小刻みに噴射されていた。
つまりあれは膀胱の炎症などにより尿が出にくいのではなく、
ちょうどペットボトルを一気に逆さにしたときのように、
口の広さに対して出ようとする液体の量が多すぎることが原因で起こっていた可能性がある。
(ペットボトルを逆さにしたとき変な感じになる原理は空気の入り方によるものなので厳密には違うだろうし、素人判断で愛猫の病気を見逃すわけにはいかないので様子がおかしいようならすぐに病院に行くが。)
猫は一番伝えてほしいことは何も言わない。
遊んでほしい時と撫でてほしい時とご飯が欲しい時は顔と体のすべてを駆使して要求を伝えようとするくせに、
痛いとか苦しいとか吐きそうとか、そういう時は黙ってうずくまっている。
痛みとか苦しみとかを、飼い主が直接取り除いてくれないことを分かっているのかもしれない。
飼い主に言いつけたらその場ですぐどうにもならないことなら伝える価値がないということなのか。
その点人の子供は何においてもすぐ泣きながら親に言いつけるので、
その場で解決しないとしても権力者に意見を述べておくことで巡り巡って問題解決につながることを分かっている分猫より脳が大きいなと思う。
昔祖母の家にいた猫は私がいろいろなことを理解する前に静かに死んでしまって、
猫について覚えていることといえば、
踏み台に立っておままごとをしていたらいつの間にか踏み台の下で寝ていて、そうとは気づかずに踏み台から降りてしまいしたたかに踏んづけてしまったことくらい。
怒ってかかとをかじられて、例に漏れず大泣きして親がすっ飛んできたと思う。
猫と幼児は同じくらいの知能だというけど、2者の間には地球より深い隔たりがあるように思える。
その根拠は怒りである。
人は猫にも人にも怒るが、
猫は猫にしか怒らない。
いつの間にか足元にいた猫をあやまって蹴ってしまったときも、
いつの間にかこたつにいた猫をあやまって蹴ってしまったときも、
猫は平然としている。
猫はやはり高位の存在なので、下位存在である人に怒りを覚えない。のではなく、やはり言葉の有無による違いだろう。
人の怒りは過去の文脈によって生まれる。
初めて満員電車に乗ったとき、ぎゅうぎゅう詰めになって何度も足を踏まれたり、何度も人とぶつかったが、「そういうもんなのだ」と思ってあまり気にしなかったと思う。
しかし満員電車に乗るようになって10年近くが経過し、
「どうやらわざとぶつかってきてるっぽい人」とか
「4月はマナーの分かってない新入生が大量発生する」とか
経験によって蓄積されたナレッジが溜まるにつれ満員電車への怒りは日々増幅し続けている。
猫は言葉を持たないので、経験から得た知識を記憶の中に貯めておけない。
言葉がなくても体が覚えていてくれるような、
ご飯や遊びや、家の中の間取りは覚えていられても、
「この人間はねこのことをすっかり忘れて何度もねこにぶつかってくる!」
のような、言語化しないと伝わらないような出来事は覚えておけないのである。
なので猫は人に怒らない。
しかし人は「夜中にごはんをあげることはできないのに何度言ってもねこは夜中にたたき起こしてくる!」といって怒るので、両者はいつも分かり合えない。
人は言葉と文字があれば何でもかんでもどうにかなると思い込んでいて、
なのでどうにかならないと言葉と文字を駆使して無理やりどうにかなるまでどうにかしようとしていつも疲れていて、
猫は顔と体を使ってなんとかならないことはどうしようもないことだと分かっているのでいつも寝て過ごしていて、
なので猫はやはり高位の存在なのだと思う。