#2 飛鳥時代から教科書が急に詳しくなる理由【日本古代史のすゝめ】
「日本古代史のすゝめ」シリーズを製作するにあたって、そもそも古代っていつやねん、というのが当然の疑問になります。
学校で習う日本史では、主に次のように区分されていることが多いです。
原始→古代→中世→近世→近代→現代
原始 :旧石器・縄文・弥生
古代 :古墳・飛鳥・奈良・平安
中世 :鎌倉・南北朝・室町・戦国(前期)
近世 :戦国(後期)・江戸
近代 :明治・大正・昭和(戦前)
現代 :昭和(戦後)・平成・令和
したがって、これに従うのであれば、古代は古墳時代から平安時代までということになります。
しかしながら、この時代区分には、ある大きな問題点があります。
それは、下記のデータを見ていただければ一目瞭然です。
原始 :先史時代(歴史時代には含まれない)
古代 :250年頃~1200年頃(約950年)
中世 :1200年頃~1550年頃(約350年)
近世 :1550年頃~1850年頃(約300年)
近代 :1850年頃~1950年頃(約100年)
現代 :1950年頃~現在
この時代区分の問題点、それは、古代の範囲があまりにも広すぎることです。
同じ古代といっても、古墳時代と平安時代では全く違う社会であることは明白です。(今から1000年前は藤原道長が摂関政治をしています)
そのため、このシリーズでは、独自の「古代史観」を提示させていただき、その区分に基づいて古代史の面白さを伝えていければと考えています。
学校で教わる古代史の問題点
学校で歴史を勉強している際に、勉強内容が急に変わったと感じたことがあると思います。
昨日まで遺跡や出土物の名前を覚えていたのに、ある日から急に怒涛の人名ラッシュに困惑した経験があるのではないでしょうか?
具体的にいうなら、古墳時代以前と飛鳥時代以降で、習っている科目が変わったような感覚があったのではないでしょうか?
学校で習う歴史がこのようになっている理由として、よく言われるのが、
「古墳時代以前は文献記録が残っていないから、考古学に頼っている」
という言葉です。
戦後のGHQの方針によって、『日本書紀』を用いた歴史教育が禁止されて以降、日本は考古学で歴史学の穴を埋めるという方法をとってきました。
(なお、日本の主権回復以降は『日本書紀』使用の禁止は解かれています)
この方針により、古墳時代以前の歴史はプロローグに過ぎない、飛鳥時代からが本番であるといった間違ったイメージが戦後の日本人の中に定着していきました。
本来は、古墳時代以前にも飛鳥時代以降と同様に歴史が存在しているにもかかわらずです。
日本の主権回復以降も、教育業界は『日本書紀』のタブー視を続け、大陸や朝鮮半島の文献史料のみを用いて歴史を記述しています。
当然、そのような史料は少ないので、内容は考古学が大半となっています。
しかし、それには大きな問題があります。
それは、「考古学が(ライト層にとって)面白くない」ということです。
(考古学者の皆さん怒らないでください)
人気がある時代というのは、基本的にバトルやストーリーが熱い時代です。
群雄割拠の戦国時代や三国志、幕末などがその典型例です。
その中で、考古学というものは一切のストーリーを語りません。
考古学が過去の痕跡を点で辿る学問なのに対して、
歴史学(文献学)とは一本の線に沿ったリアルな流れを追う学問です。
歴史学と考古学は互いに支え合う関係にあり、
歴史学のストーリーを考古学が証明し、考古学の発見を歴史学で紐解くというように、両輪が揃ってよりよい歴史研究となるのです。
今、古墳時代以前の学校の歴史には、歴史学が欠けています。
考古学では過去の点を辿れても、歴史という生きた物語を追うことは出来ません。
古代を人気のある時代にするためには、新たな古代史観の構築が不可欠です。
「記紀」と「考古学」の両輪
戦後の学校教育では、歴史学と考古学の2つの歴史軸を用いて日本史を記述してきました。
しかし、それでは古墳時代以前が考古学一辺倒となり、歴史の楽しさが失われていることは既に述べた通りです。
そこで、「日本古代史のすゝめ」シリーズにおいて私が提唱させていただくのが、3つ目の歴史軸の設定です。
3つ目の歴史軸の役割は、古墳時代以前に極端に弱い「歴史学」の代わりを務めることです。
この3つ目の軸になりえると考えるのが「記紀」です。
「記紀」とは、『古事記』と『日本書紀』を総称した呼び方で、ともに奈良時代に編纂された歴史書です。
日本神話から始まり、日本の建国、大和朝廷の成り立ちなどが記されています。
戦前の学校教育では、考古学がまだ未発達であったことや、皇国史観が支持されていたことなどから、「記紀」の内容が「歴史的事実」として教育されました。(主に用いられたのは『日本書紀』)
戦後に入ると、その反動から「記紀」が否定される方向に進み、内容は見向きもされなくなりました。
私はこのような「記紀」の極端な評価は歴史学習にとっての損失だと考えています。
「記紀」の記述を全肯定することも全否定することも、日本古代史の魅力を損ねていると思うのです。
アメリカでは歴史の始まりとして、「進化論」と「創造論」の2つの考え方があることが有名です。
「進化論」とは生物学の軸からみた歴史であり、
「創造論」とはキリスト教学の軸からみた歴史です。
この2つはどちらが正しいということではなく、私達の起源を様々な視点で考える姿勢が大切だと私は思います。
日本人の多くは、「創造論」をまるで「天動説」のように捉え、歴史を正しく捉えられていないと、恐らく認識しているでしょう。
私自身もそうでした。
日本人のこのような思考回路は、学校教育において、考古学の歴史軸による歴史の始まりしか学んでいないことが原因ではないかと推測しています。
神話というものは、往々にして史実をベースにして構成されます。
より新しい話ほどより史実に近く、どこまでが神話でどこからが歴史かは判別が困難となっています。
たとえ、「創造論」や日本神話が真実の歴史を示していないとしても、少なくともかつての人々はそれが正しいと捉えてきました。
古代の人々の歴史の捉え方について学ぶことは、古代史の解像度を上げるために不可欠なことだと私は考えています。
新しい時代区分の導入
3つ目の軸を追加するにあたって、2つの新しい時代区分を導入します。
それが、「神代(かみよ/じんだい)」と「記紀時代(ききじだい)」です。
「神代」は日本神話の時代を指します。
これは、原始や中世のような、広義の時代区分にあたります。
「記紀時代」は①神武天皇から㉝推古天皇までの時代を指します。
『古事記』は㉝推古天皇まで、
『日本書紀』は㊶持統天皇までの時代を扱っています。
そのため、「記紀」のどちらもが記しているのは㉝推古天皇までとなります。
「記紀時代」は、鎌倉時代や江戸時代のような、狭義の時代区分にあたります。
上の図のように、原始と神代を並列(パラレルワールド)な時代区分として設定しています。
原始が考古学の視点、神代が記紀の視点からの日本の始まりです。
両者はよく似ているが相反する世界観なので、まさに「進化論」と「創造論」のように、相互に照らし合わせて学習する必要があります。
古代においては古墳時代と記紀時代が同じ時代を表しています。
記紀時代での人物や出来事についての痕跡が、古墳時代の遺跡や出土物として反映されています。
原始と神代の関係性とは異なり、両者は同一の世界観に存在しています。
記紀時代の末期には文献の正確性が歴史学として問題ないレベルに到達します。
また、時代が新しくなるにつれて、考古学的史料も充実していきます。
したがって、飛鳥時代には「歴史学」の軸が確立されることとなります。
私の提示する古代史観においては、古代を2種類に分類できます。
①「記紀」と「考古学」の時代 :記紀=古墳
②「歴史学」の時代 :飛鳥・奈良・平安
この2種類の時代は歴史の解像度が全く異なっており、①と②を同じように扱うのには無理があるといえます。
私の造語で申し訳ないですが、暫定で①を「記紀古代」、②を「歴史古代」と呼ぶこととします。
このように言語化して明確に区別することで、学問分野を飛び越える際の混乱を避けることが可能だと考えています。
まとめ
結論を述べますと、
①古代とは、日本史の始まりの時代である
(建国から朝廷が実権を失うまで)
②戦後の日本史教育では、古墳時代以前を「考古学」一辺倒で補っていた
③「歴史学」、「考古学」に加えて、「記紀」という第3の軸を
導入することで、古墳時代以前の「歴史学」の補助を行うことが出来る
(「記紀」と「考古学」の両輪化によって古代史をより魅力的にできる)
④原始と神代を並行に設定し、古代においては記紀時代と古墳時代を
同一時代として設定する
⑤記紀・古墳時代を「記紀古代」、飛鳥~平安を「歴史古代」と命名する
ということになります。
「日本古代史のすゝめ」シリーズでは、主に「記紀古代」の解像度を上げるような記事を投稿していきます。
ぜひ、他の記事も読んでいって下さい!