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#02 古代編/国家の誕生【2/4】世界史(前近代)
※クリックするとリンクに飛べます
【原始編】人類史の始まり(旧石器・縄文)
【古代編】国家の誕生(縄文・弥生・古墳) ←イマココ!
【中世編】世界宗教の栄華(古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町)
【近世編】世界の接続(室町・戦国・安土桃山・江戸)
④国家形成時代(紀元前3000~紀元前525)
《寒冷化と戦争》
紀元前3000年頃になると、地球が徐々に寒冷化を始めます。
これにより、植物が育たなくなり、食糧危機が起こりました。
採集民や遊牧民は新たなライフスタイルの構築を迫られます。
一方、比較的安定した生産力を持つ大規模農耕文明には、食糧に余裕がありました。
そのため、採集民や遊牧民は、以下の行動を取るようになります。
・農耕というライフスタイルを導入する
・農耕文明から土地と食糧を奪う
農耕で生き残るには、良い土壌と大きな河川が不可欠です。
したがって、この寒冷化は農業の普及だけでなく、戦争の普及をも人類にもたらしたのでした。
《国家》
農業の普及により農耕文明の人口が増加、人口密度も高くなりました。
それに加え、周辺勢力との土地・食糧争いも大幅に増加しました。
その結果、農地を守るように要塞都市が建設されるようになり、その指揮官がやがて君主となっていきます。
こうして、農耕民は「国家」という概念を誕生させました。
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《アフロ・アジア語族》
紀元前3000年頃にはアラビア半島に生息していた語族がメソポタミアに移動し、青銅器を用いて農耕国家を滅ぼして乗っ取りました。
彼らをアフロ・アジア語族と呼びます。
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アフロ・アジア語族はエジプト王朝を建国したエジプト語系、メソポタミアを統一したセム語系などに分かれていきました。
エジプトでは有名なクフ王のピラミッドが築造されました。
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セム語派では、アルファベットの原型を作ったフェニキア人が有名です。
また、セム語系の民族の一つがヘブライ人となり、後にユダヤ教を創始することになります。
《インド・ヨーロッパ語族》
紀元前2000年頃には中央アジアに生息していた語族が、寒冷化を受けて南下を開始しました。
彼らをインド・ヨーロッパ語族と呼びます。
インド・ヨーロッパ語族の南下は大きく分けて次の三方向でした。
①メソポタミア方面
②ヨーロッパ方面
③インド方面
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①メソポタミア方面に南下した一団は、鉄器を用いて農耕国家を滅ぼしました。
彼らをヒッタイト人と呼びます。
②ヨーロッパ方面に南下した一団は、ギリシア地域に定住し、地中海沿岸の広域に植民市を建設しました。
彼らをギリシア人と呼びます。
また、ギリシアを越えてイタリア半島に定住した一団も存在しました。
彼らをラテン人と呼びます。
③インド方面に南下した一団は、インドで定住を始めました。
彼らをアーリヤ人と呼びます。
アーリヤ人はバラモン教を創始し、これが後のヒンドゥー教やカースト制度の原型となりました。
また、イラン高原に定住したアーリヤ人も存在しました。
彼らをペルシア人(後のイラン人)と呼びます。
《シナ・チベット語族》
紀元前1300年頃には、黄河流域の殷王朝において、甲骨文字が使用されていました。甲骨文字は漢字へと継承され、東アジア諸国へと伝播していきます。
なお、殷王朝を建国した語族を、シナ・チベット語族と呼びます。
また、その中でもシナ語派のことを華夏人とも呼びます。
これは、彼らが殷の前王朝である「夏」王朝の後継を称していたためです。
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《マヤ文明》
紀元前1000年頃には、中央アメリカでマヤ文明が興りました。
マヤ文明においても独自のマヤ文字、二十進法などが使用されていました。
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《その他の語族》
また、同時期にはサハラ以南アフリカのニジェール・コンゴ語族の移動や、中央アジアのチュルク語族(トルコ系)とアルタイ語族の接触などが発生しました。
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⑤ペルシア時代(紀元前525~紀元前334)
《ペルシア帝国とギリシア》
紀元前525年、ペルシア人の建てた国家であるペルシア帝国が、オリエント地域(メソポタミア・エジプト)を統一しました。
多数の民族と文明を統一支配するこのような国家を、世界帝国と呼びます。
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なお、ペルシア人が建てた他の国家と区別するため、このペルシア帝国のことを、アケメネス朝ペルシアとも呼びます。
アケメネスとは王家の始祖の名前から来ています。
「朝」とは王朝すなわち血脈のことであり、アケメネス朝ペルシアとは、いわば「アケメネス家が統治するペルシア(人/地域)の国」という意味になります。
ペルシア帝国は当時の世界における最大かつ最強の国家でした。
しかし、そのペルシア帝国の侵攻を食い止める勢力もありました。
それがギリシア人でした。
彼らはポリスと呼ばれる都市国家を多数形成しており、アテネやスパルタなどの都市が独自に政治を行っていました。
また、古代オリンピックが行われていたのもこの頃です。
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アテネでは、法律の成文化と議会による権力分散が進められ、民主政という特異な制度が運用されていました。
学問の面でも独自性があり、哲学や文学、歴史学などが創始されました。
特に、プラトンやアリストテレスと言ったアテネの哲学者や、最古の歴史書を遺したヘロドトスは、後世の歴史に多大な影響を与えることになりました。
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《都市国家ローマ》
紀元前509年、イタリア半島の都市国家ローマでは、国王が追放されたことで共和政(君主のいない政治体制)が敷かれました。
ただし、共和政といえども貴族による寡頭政であり、元老院(議会)が実権を握っていました。
《仏教と儒教》
紀元前500年頃、インド地域では仏教が、東アジアの周王朝では儒教が創始されます。
仏教はガウタマ・シッダールタ(釈迦)により創始され、インド地域の王侯貴族に広まりました。
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儒教は孔子により創始され、『論語』を軸として広がりを見せました。
周では他にも諸子百家と呼ばれる知識人らにより、様々な思想が創始されました。
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⑥秦・ヘレニズム時代
(紀元前334~紀元前202)
《アレクサンドロスとマウリヤ朝》
紀元前334年、大帝国だったペルシア帝国が滅亡しました。
滅ぼしたのは、ギリシア北部に位置するマケドニアの国王であり、名をアレクサンドロス(大王)と言います。
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アレクサンドロス大王はギリシア全域を服属させ、ペルシア帝国を滅ぼして中東を制圧し、インダス川にまで到達しました。
この一連の東方遠征により、アジアに広大なアレクサンドロス帝国が形成されました。
アレクサンドロス大王は自らの名を冠する都市アレクサンドリアをエジプトに建設しています。
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遠征によりギリシア人とオリエント人(メソポタミア・エジプト)の文化融合が進み、それはヘレニズム文化と呼ばれます。
ヘレニズム文化圏においては、ギリシア語が共通語として普及しました。
アレクサンドロス大王は後継者を指名することなく没したため、後継者争いが発生し、アレクサンドロス帝国は三つに分裂しました。
この三国のことを、ヘレニズム三国と呼びます。
また、インド地域ではアレクサンドロス大王の脅威を受けて統一が進み、前317年にはマウリヤ朝が成立し北インドが統一されました。
マウリヤ朝では仏教が国教化され、仏法による統治が進められました。
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《秦》
前221年、秦の国王である嬴政(えいせい)は周王朝から始まった春秋・戦国時代を終わらせ、天下統一を成し遂げました。
夏王朝から殷・周に連なる王朝の国王は天子と呼称され、彼らは天命により地域を治めることが責務だと考えられていました。
秦の国王は領土拡大により天子が治めるべき領域(天下)の範囲を拡大させました。
具体的には、黄河流域と長江流域の文化圏が統合されました。
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これにより、現在まで続く中華文化圏が成立します。
そして、嬴政によって王に代わる新たな君主号が誕生しました。
それが、「皇帝」です。
こうして、嬴政は始皇帝(最初の皇帝)となり、中華帝国としての歴史が始まることになります。
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なお、天命を受けることのできる皇帝はこの世に一人だけだとされ、皇帝が世界の中心であり、皇帝が統治する朝廷文化が最も高貴であるという思想が徐々に形成され始めます。
この考え方を、中華思想(華夷思想)と呼びます。
中華思想には国境の概念がない(世界は全て皇帝のものである)ため、周辺諸国との外交に関しては、皇帝が諸国の王を承認するという形で上下関係の儀式が取られました。
このような外交関係のことを、冊封体制と呼びます。
また、周辺諸国が皇帝に使者を送ることを、朝貢と呼びます。
そして、冊封体制によって構築された国際秩序を「華夷秩序」と呼びます。
始皇帝の治世において、度量衡の統一が行われたほか、北方遊牧民への対抗策として「万里の長城」の建設が進められました。
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⑦漢・ローマ時代(紀元前202~220)
《漢帝国の成立》
皇帝という概念を生んだ秦は、わずか15年で滅びました。
これにより、皇帝という概念も消え去るかと思われたものの、そうはなりませんでした。
秦の滅亡した紀元前206年、次の覇者を巡り、楚の項羽と漢の劉邦が相争いました。
これを、楚漢戦争と呼び、その様子は司馬遷の記した『史記』によって現代に伝わっています。
勝ったのは劉邦でした。
統一国家になった漢王の劉邦は、黄河流域を治めてきた歴代王朝の正統継承者となるべく、皇帝に即位したのです。
これにより、長安を都とする漢帝国が成立しました。
以降、中華文化圏を統治する国家にとって、皇帝は正当継承者を意味する君主号になりました。
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漢では儒学が重んじられ、「徳」の概念が重要視されました。
皇帝はこの世で最も「徳」の高い人物であり、だからこそ天命が下っているのだ、という理論が構築されます。
また、儒学の経典として四書五経が有名ですが、この多くは漢の時代に普及していきました。
四書:『大学』、『中庸』、『論語』、『孟子』
五経:『易経』、『書経』、『詩経』、『礼記』、『春秋』
四書の一つである『孟子』では、易姓革命の概念が説かれています。
易姓革命とは、中華王朝の交替のことであり、天子の徳がなくなった場合に天が新たな天子を選ぶことで起こるとする考え方です。
易姓革命には「禅譲」と「放伐」の二種類があり、禅譲が帝位を譲り受けること、放伐が帝位を奪うことです。
当然ながら、望ましいのは禅譲だと考えられています。
《漢の武帝》
漢の最盛期を創出したのは第7代皇帝の武帝であり、在位期間が54年と非常に長く、同時に漢の最大版図を達成した皇帝です。
功績や影響も非常に大きく、内政に関しては儒学の官学化や財政安定化政策を推進しました。
外征においては、匈奴の討伐や南越(ベトナム)の征服、朝鮮の征服、中央アジアへの侵攻など、多大な成果を残しています。
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《漢と夷狄》
漢は紀元前202年に建国され、紀元前8年に一度滅びましたが、18年に再興され、そこから更に200年近く存続しました。
滅亡前の漢を「前漢」、再興後の漢を「後漢」と呼びます。
漢の時代は中華文化圏の根幹となった時代でした。
そのため、中華文化圏の文字のことを「漢字」と呼びます。
そして、中華文化圏の民族のことを、この時代以降「華夏人」ではなく、「漢民族」と呼びます。
外交においては、北方遊牧民である匈奴(きょうど)との戦争が頻発していました。
中華思想において、彼らは皇帝の徳が届いていない野蛮な勢力であり、そのような勢力のことを夷狄(いてき)と呼びます。
夷狄は方角により四つに区分されます。
・東夷(とうい)
・西戎(せいじゅう)
・北狄(ほくてき)
・南蛮(なんばん)
夷狄は朝貢を行うことにより皇帝の徳の恩恵を受けることができ、中華文化圏(高貴な世界)の仲間入りをすることが出来ました。
より現実的に言えば、皇帝から統治のお墨付きを得ることで、自国支配の後ろ盾を確保することが出来たのです。
日本列島に存在したとされる奴国は、漢の冊封体制に入ることで中華文化圏へと入り、統治の正統性を確保しようとしたのです。
《クシャーナ朝》
同時代、インド地域においてはクシャーナ朝が大国化していました。
また、クシャーナ朝では仏教の宗派分裂が発生しており、大きく次の二つに分かれていました。
・上座部仏教:厳格、保守派
・大乗仏教:大衆派、改革派
上座部仏教はセイロン島や東南アジアに伝来していきました。
対して大乗仏教は、中央アジアやチベット、漢、朝鮮、日本へと伝来していくことになります。
クシャーナ朝が繁栄した理由の一つに、シルクロード(絹の道)を押さえていたことが挙げられます。
シルクロードとは、ユーラシアの東西を結ぶ陸上の交通路のことであり、この時期には漢からローマへの貿易路となっていました。
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《共和政ローマ》
では、シルクロードの終着点であるローマの話に移りましょう。
ローマでは貴族による寡頭政治が行われていましたが、身分闘争の結果、徐々に平民主体の共和政へと移行していきます。
共和政のもとで大国への道を歩み始めたローマは、紀元前272年にはイタリア半島を統一し、地中海の覇権へと乗り出していました。
そんなローマに立ちはだかったのが、北アフリカのカルタゴでした。
ローマとカルタゴの地中海覇権をめぐる戦いを、ポエニ戦争と呼びます。
紀元前216年のカンネーの戦いではカルタゴの名将ハンニバルを相手に大敗を喫しますが、その後のザマの戦いにてカルタゴ軍を破り、最終的にはカルタゴを滅ぼすことに成功します。
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その後のローマでは内乱が多発していく中、カエサルという男が台頭しました。
カエサルは当時の有力者三人の、いわゆる「三頭政治」の一角でした。
カエサルはガリア(フランス地域)遠征により名声を高め、終身独裁官に就任しますが、王政を危惧する元老院(議会)派によって暗殺されました。
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けれども、彼の後継者であったオクタウィアヌスが政争の末、紀元前27年に元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を授かりました。
これ以降、世界史においては共和政が終焉したことになり、帝政ローマ、すなわち「ローマ帝国」が成立したと見做されています。
ただし、実際にはオクタウィアヌスが「ローマ皇帝」に即位したわけではありません。
オクタウィアヌスが様々な役職を同時に兼任し続ける状態が続いた結果、後世から見れば実質的な君主であったと解釈されているのです。
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オクタウィアヌスが就いた地位や役職の中でも、いくつか重要なものを紹介しておきます。
・アウグストゥス:尊厳者(実質的な君主)
・プリンケプス:第一の市民(元首)
・インぺラトル:軍の最高司令官
・カエサル:カエサルの家族名(カエサルの後継者)
オクタウィアヌス以降のローマ帝国の政治体制は、プリンケプスという地位から、「プリンキパトゥス(元首政)」と呼ばれることがあります。
また、インぺラトルはのちに「エンペラー」としてローマ皇帝を意味する言葉として定着します。
カエサルに関しても、のちに「カイザー」や「ツァーリ」としてローマ皇帝を意味する言葉として定着します。
《キリスト教》
ローマ帝国領内では、様々な宗教が存在していました。
その中の一つに、ユダヤ教がありました。
ユダヤ教とは、ヘブライ人の分派であるユダヤ人が信仰している一神教であり、パレスチナ地域に存在する都市エルサレムを聖地、『聖書』を聖典としていました。
そのパレスチナ地域に、イエスという人物が生まれました。
現在の西暦は、彼の生年を紀元(1年)としていますが、実際には数年単位のズレが存在すると考えられています。
イエスはユダヤ人でしたが、主流派であるパリサイ派と対立し、「ユダヤ教イエス派(もしくはナザレ派)」ともいえる宗派を構成しました。
ナザレとは、イエスが活動していた都市の名前です。
その後、彼はユダヤ教の異端者と見做され、ユダヤ教指導者の告発によりローマ軍に捕まり、十字架に掛けられて処刑されます。
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しかし、イエスの死後まもなく、イエスが復活したという噂が広がりました。
ユダヤ教の考え方の中には、「神に選ばれた民であるユダヤ民族は、神から与えられた戒律を守る限り、救世主が現れて救済される」というものがありました。
そのため、「イエスが復活した=イエスは救世主である」と考える教団が現れ、イエスは信仰する側からされる側へと変わっていったのでした。
彼らはエルサレム教団と呼ばれ、のちのエルサレム教会となります。
その後、使徒(イエスの弟子)らによりイエスの教えが伝道され、その他にも伝道者パウロによって非ユダヤ人への布教活動が行われていきました。
その結果、ユダヤ教イエス派はユダヤ人の民族宗教の枠を越え、ユダヤ教とは別の宗教として、世界宗教への道を歩み出したのです。
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また、イエスの教えを文章に纏める活動も進められました。
ユダヤ教イエス派の者達は、これまでのユダヤ教の聖典である『聖書』を『旧約聖書』と位置づけ、イエスに関する記録を『新約聖書』として位置づけました。
※『新約聖書』が現在に残る形で纏められるのは、300年後になります。
『旧約聖書』はユダヤ教の聖典であるため、ユダヤ人の使用するヘブライ語で記述されていました。
一方、『新約聖書』は当時の国際言語であったギリシア語で記述されました。
救世主は、ヘブライ語では「メシア」、ギリシア語では「キリスト」と読まれます。
したがって、「イエスは救世主である」という概念は、『新約聖書』において「イエス=キリスト」となったのです。
これが、キリスト教が誕生した瞬間でした。
なお、ユダヤ教徒は今日に至るまで、イエスを救世主(メシア)とは認めていません。
キリスト教はローマ帝国において、新興宗教であり異端であるとして、迫害の対象になりました。
ネロ帝による迫害では、使徒であるペテロや、伝道者パウロが処刑されたと言われています。
《ローマ帝国》
アウグストゥスに始まるローマの黄金時代は、地域一帯に覇権的平和をもたらしたことから、「パクス・ロマーナ(ローマによる平和)」と呼ばれました。
その中でも、五賢帝時代と呼ばれる時期には特に最盛期を迎えます。
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五賢帝を構成した五名は次の通りです。
①ネルウァ
②トラヤヌス
③ハドリアヌス
④アントニヌス・ピウス
⑤マルクス・アウレリウス・アントニヌス
トラヤヌスはローマ帝国の最大版図を達成しました。
ハドリアヌスはブリタニア(ブリテン島)に「ハドリアヌスの長城」を建設しており、現在のイングランドとスコットランドの境界線となっています。
なお、ハドリアヌスの時代にパレスチナにおいてユダヤ戦争と呼ばれる戦争が発生しました。
その結果、エルサレムはローマ軍によって破壊され、ユダヤ人の都市への立ち入りは禁止されることになります。
こうしてユダヤ人は地中海世界の各地へと離散(ディアスポラ)することになるのでした。
⑧帝国崩壊時代(220~476)
《三国時代》
漢とローマの二強体制、これに終わりを告げることになったのが、184年に後漢で発生した黄巾の乱でした。
漢の朝廷は行政維持能力を失い、春秋・戦国時代を思わせる群雄割拠の
時代が始まりました。
その中で台頭したのが、『三国志』で有名な曹操、劉備、孫権です。
三国時代と春秋・戦国時代の最大の違いは、皇帝の存在でした。
皇帝の概念がない時代では、王は何人いても政治的に問題はありません。
しかし、皇帝(天子)はこの世界に一人しか存在できません。
曹操、劉備、孫権の戦いは、当初は漢帝国内の内戦でした。
その様相が変化したのは、曹操の子の曹丕の時代でした。
220年、なんと曹丕は皇帝から禅譲を受けたのです。
当然、禅譲といっても皇帝に拒否権はない状態で行われていますが、大事なのはそこではありません。
ここで重要なのは、皇帝には一人しかなれないという点です。
曹丕が皇帝になり、魏が建国されたのを受け、孫権と劉備は外交的問題に直面しました。
そこで彼らが取った選択は、自らも皇帝に即位することでした。
劉備が即位して(蜀)漢が建国(再興)されました。
孫権が即位して呉が建国されました。
…勿論、禅譲も放伐もされていません。
僭称と判断されかねない行動ではありますが、これにより皇帝が同時に三人存在するという異常事態に発展しました。
これを「三国鼎立」と呼ぶことがあります。
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北部が魏、東部が呉、西部が蜀(漢)
なお、その後の興亡は以下の通りです。
・魏が蜀を滅ぼす(263年)
・魏が家臣の司馬炎に実権を奪われ禅譲されられ滅亡
→司馬炎が晋を建国(265年)
・晋が呉を滅ぼす(280年)
《南北朝時代》
中華を統一した晋でしたが、内乱と同時に遊牧民の侵入に苦しみます。
300年頃から地球が寒冷化が始まり、不作と遊牧民の南下が多発するようになったのです。
316年に晋が滅ぶと、中華は南北に分裂しました。
北部の黄河流域には遊牧民による国家が次々と成立していきました。
南部の長江流域には漢民族による国家が次々と成立していきました。
北部では鮮卑族による北魏が華北統一を成し遂げ、漢化政策を取りました。
これは、農耕民のライフスタイルを取り入れ、漢民族の風習に同化することで統治しやすくする政策です。
南部では漢民族による宋(劉宋)が成立し、中華王朝の正統な後継者として外交を行いました。
古墳時代の日本列島では、倭の五王と呼ばれる五人の国王が宋に朝貢し、冊封を受けています。
華北を北魏が、江南を宋が統一して以降の情勢を南北朝時代と呼びます。
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《ローマの危機とキリスト教受容》
同時代のローマ帝国でも、崩壊の足音が聴こえていました。
212年には、カラカラ帝によってアントニヌス勅令が制定され、ローマ帝国内の全自由民に対して「ローマ市民権」を付与しました。
当時のローマ市民権とは、ローマの正規兵になることが出来る特権階級と化していました。
しかし、アントニヌス勅令によってローマ市民権の価値が暴落し、ローマ正規兵の質が大きく低下してしまいます。
これにより、圧倒的だったローマの軍事力は次第に弱体化していくのです。
235年から284年にかけて、各地の軍団が皇帝の擁廃立を繰り返す混乱の時代が訪れました。
この時代を軍人皇帝時代と呼びます。
軍人皇帝時代の50年間で、26人の皇帝が交替しました。
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ローマ帝国から一時分離独立するも、滅ぼされる
ローマの混乱を終わらせたディオクレティアヌス帝は、これまでの元首政よりも強権的な、「ドミナートゥス(専制君主政)」へと移行させました。
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軍人皇帝時代を収拾
ディオクレティアヌス帝はテトラルキア(四帝分治制)を採用することで、二人の正帝(アウグストゥス)と二人の副帝(カエサル)で分割統治する体制を構築しました。
これにより、国防体制の充実を図ったのです。
コンスタンティヌス帝の時代には、ミラノ勅令が発布され、信教の自由(特にキリスト教)が公認されました。
それに伴い、複数存在したキリスト教の宗派の中で正統が定められることになりました。
325年、コンスタンティヌス帝が開催したニケーア公会議において、正統とされたのはアタナシウス派でした。
彼らの主張として有名なのが、「父(神)と子(イエス)と精霊は一体である」とする三位一体説です。
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これ以降、イエスの神性を否定する傾向にある教説は異端とされ排除されていきました。
しかし、異端とされたアリウス派やネストリウス派、単性説などは異民族などのローマ領外にて布教されていきます。
コンスタンティヌス帝はローマに存在した使徒ペテロの墓所にサン・ピエトロ大聖堂(聖ペテロ大聖堂)を建てたとされています。
これが現在のローマ・カトリック教会の総本山となっており、バチカン市国の最重要建造物になっています。
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その後、テオドシウス帝の下でキリスト教が事実上国教とされました。
《ゲルマン人の大移動》
また、コンスタンティヌス帝は首都をビザンティウムに遷都する方針を示し、都市名をコンスタンティノープルへと改称しました。
これは、当時あまり栄えていなかったイタリア以西より、経済文化の中心地であった中東やギリシア地域を重要視したためです。
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国防に関しては、375年からインド・ヨーロッパ語族のゲルマン人がローマ帝国領内に移住を開始しており、帝国の行政機能が麻痺を始めていました。
地球の寒冷化の影響で、東アジアと同様に民族の南下が始まったのです。
ローマ帝国の衰退を受けて、地方行政官の人材不足が顕著になると、その代わりとして、キリスト教の司教らが行政に、異民族が軍事に関わるようになっていきます。
418年には、ゲルマン人一派の西ゴート族の族長が、ローマ皇帝によって初めて「王」に任ぜられました。
これはすなわち、異民族が帝国内で自治権を認められたことを意味します。
この、ローマ帝国領内に成立した西ゴート族の国を、西ゴート王国と呼びます。
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ローマ皇帝は行政機能を次々と消失していき、帝国内に異民族と自治政府がどんどんと成立していきます。
それを防ごうにも、皇帝は軍事力を異民族に頼っているため、どうにもならない状態です。
このようにして、ローマ帝国は内側に異民族を取り込むも、彼らを制御できずに、実質的な領土を減らしていったのでした。
《西ローマ皇帝の廃位》
476年、ゲルマン人のオドアケルが分割統治していたローマの西の正帝を廃位に追い込みました。
その後、オドアケルは西ローマを東の正帝に献上し、東の正帝を唯一のローマ皇帝だとして忠誠を表明しています。
東の正帝はオドアケルに褒章として、イタリア全域の支配権を与えました。
西欧史観ではこれを「西ローマ帝国の滅亡」としています。
そして、日本の教科書はそれを支持しています。
しかしながら、実態としてはローマ帝国は存続しています。
オドアケルの献上により、東の正帝は唯一のローマ皇帝になりました。
よって、国家としても東ローマ帝国ではなく、「ローマ帝国」として存続していることになります。
したがって、この出来事は「西ローマ皇帝の廃位」が正確だと言えます。
※便宜上、476年以降のローマ帝国を「東ローマ帝国」とする場合があります。混乱は避ける記述を心がけますのでご理解ください。
476年の西ローマ皇帝廃位以降、東ローマはローマ帝国による実効支配、西ローマは異民族(ゲルマン人)による間接支配という情勢が構築されていきます。
《グプタ朝》
古代の最後に、インド地域のお話です。
インド地域では320年にグプタ朝が成立します。
グプタ朝ではヒンドゥー教が発展し、体系書である『マヌ法典』が完成しました。
また、サンスクリット文学が栄え、『ラーマーヤナ』や『シャクンタラー』が作られたほか、ゼロの概念が生まれるなど、様々な学問分野が発達しました。
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サンスクリット文学の最高傑作と言われる
中世編(3/4)はこちらから