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#03 中世編/世界宗教の栄華【3/4】世界史(前近代)

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【原始編】人類史の始まり(旧石器・縄文)

【古代編】国家の誕生(縄文・弥生・古墳)

【中世編】世界宗教の栄華 ←イマココ!
(古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町)

【近世編】世界の接続(室町・戦国・安土桃山・江戸)




⑨南北朝・東ローマ時代(476~618)

《ユスティニアヌス帝》

 476年に西ローマ皇帝が廃位された後も、東ローマは以前として大国であり続けました。

 555年にはユスティニアヌス帝によりイタリア半島が奪還され、再びローマの直轄領に戻りました。

ローマ皇帝、ユスティニアヌス1世
青がユスティニアヌス帝時代のローマ帝国の版図
緑が五賢帝時代の最大版図


 ユスティニアヌス帝は他にも、『ローマ法大全』の完成や、「第二のローマ」であるコンスタンティノープルにおけるハギア・ソフィア大聖堂建立など、様々な功績を残しています。

 ハギア・ソフィア大聖堂にはコンスタンティノープル教会が置かれ、キリスト教の五本山の中でも繁栄を誇りました。

ハギア・ソフィア大聖堂(トルコ)


 キリスト教の五本山は次の五拠点であり、大司教(総主教)が置かれた拠点です。

・コンスタンティノープル教会(バルカン半島)
・アレクサンドリア教会(エジプト)
・エルサレム教会(パレスチナ)
・ローマ教会(イタリア半島)
・アンティオキア教会(シリア)

 この五本山はいずれも(東)ローマ皇帝の庇護を受けて成り立っている存在であり、当時はローマ教会も複数ある教会の一つに過ぎませんでした。


《グレゴリウス1世とベネディクト派》

 蛮族とされたゲルマン人の支配を受けたローマにおいて、ローマ教会は苦境に陥っていました。
当時のゲルマン人の多くは、ローマ帝国において異端とされたアリウス派を信仰していたためです。

 そこで、ローマ大司教グレゴリウス1世はゲルマン人へのアタナシウス派改宗運動を進めました。
彼はローマ教会の基礎を確立し、後世に「実質的な最初のローマ教皇」と評価されます。

ローマ大司教、グレゴリウス1世


 教会が信仰を広げる場所である一方、信仰を深める場所として修道院が存在します。

 529年、ベネディクトゥスによってモンテ・カシノ修道院が設立され、ローマ社会の崩壊の中でイエス時代の信仰を取り戻す活動を始めました。
「祈り、働け」をモットーとし、「清貧・純潔・服従」を理想とする敬虔なキリスト教徒としての在り方が生まれたのです。
彼らのことを、ベネディクト派と呼びます。

 ローマ大司教グレゴリウス1世はブリテン島(イングランド)にベネディクト派修道士を送り、ゲルマン人の布教に成功します。
カンタベリという都市に教会を設立し、これは後にカンタベリ大聖堂と呼ばれることになるのです。

カンタベリ大聖堂(英国)
数度に渡って再建や改築が行われている



《ゲルマン人国家》

 ゲルマン人による統治が行われるようになった西ヨーロッパでは、様々な国家が乱立していきました。

 フランク人はフランス地域にフランク王国を建国しました。
フランクがフランスの由来になったと考えられています。

 アングロ人サクソン人はイングランド地域にアングロ・サクソン七王国を建国しました。
アングロがイングランドの由来になったと考えられています。

 ランゴバルド人はイタリア半島にランゴバルド王国を建国しました。
これにより、ローマ教会は危機的状況に陥ったのです。


《スラヴ人》

 古代末期にゲルマン人が東ヨーロッパから西ヨーロッパへと移動したことをうけ、東ヨーロッパでは、インド・ヨーロッパ語族のスラヴ人が勢力圏を拡大しました。

 スラヴ人は民族移動により三つに分かれます。
西スラヴ人:ポーランド人、チェック人、スロヴァキア人など
南スラヴ人:セルビア人、クロアティア人、スロヴェニア人など
東スラヴ人:ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人など



《隋》

 南北朝時代の中華文明では、漢化した鮮卑族によって581年にが建国されます。
589年には隋が南北朝を統一し、晋以来の統一王朝が成立しました。

 隋では科挙と呼ばれる官吏登用制度が開始され、官僚制度が整備されました。
また、二代皇帝の煬帝黄河と長江を結ぶ大運河の建設を行います。
これにより、中華の南北を結ぶ大動脈が完成しました。

煬帝により整備された大運河


 なお、煬帝は聖徳太子が送った遣隋使に対してキレたエピソードが残っています。


《ササン朝ペルシア》

 東ローマのさらに東側のイラン高原には、ササン朝ペルシアが最盛期を誇っていました。
ササン朝では王の称号として「シャー」が使われていました。
ササン朝ペルシアはアケメネス朝ペルシアの後継国家であり、東ローマと幾度となく抗争を繰り広げます。

隋とササン朝を含むアジア情勢

 しかし、東ローマとササン朝の抗争は、思わぬ横やりにより終了することになるのです。




⑩唐・イスラーム時代(618~960)

《アラブ人》

 アラビア半島には、セム語系のアラブ人が多く住んでいました。
アラブとアラビアには語源的関連性があると考えられています。

 当時のアラブ人は多神教的世界観を持っており、樹や石を御神体として納めていたとされます。
メッカという都市にもカーバ神殿と呼ばれる黒石があり、御神体とされていました。


《イスラム教》

 570年、アラビア半島のメッカに、一人の男が生まれます。
彼の名はムハンマド、大商人のハーシム家の出身でした。

 610年、当時40歳の彼は瞑想中にお告げを受けたとして、新興宗教の宣教活動を始めます。

 彼は自らを最後にして最大の預言者だと主張しました。
預言者とは、『旧約聖書』や『新約聖書』に登場する、唯一神のお告げを受けて人々を導く人のことを指します。
具体的には、ノア、アブラハム、モーセ、イエスの四名です。

・ノア:ノアの箱舟
・アブラハム:カナンの地(パレスチナ)を与えられる
・モーセ:モーセの十戒
・イエス:キリスト教の始祖

『旧約聖書』の登場人物、アブラハム
啓典の民(ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒)の始祖
この三宗教は「アブラハムの宗教」と呼ばれることもある


 ムハンマドはメッカの人々に、カーバ神殿の主神であるアッラーを唯一神として信仰することを説きました。
それに対し、メッカの人々は古来の信仰を否定するムハンマドを迫害しました。

 622年、ムハンマドは迫害から逃れ、北の都市メディナへと移住します。
これをヒジュラ(聖遷)と呼び、イスラーム暦では元年となっています。

 メディナにおいて、ムハンマドはウンマという教団を組織し、630年にはメッカを征服しました。
メッカに入城した教団は、カーバ神殿の周辺の偶像を破壊、唯一黒石の壁だけを残し、唯一神としてのアッラーの聖地へと作り替えたのです。
そして、偶像崇拝の禁止も定められました。

メッカのカーバ神殿(サウジアラビア)
事実上、非ムスリムの立ち入りを禁止している


 教団(ウンマ)はその後すぐにアラビア半島を統一し、国家としての側面を持ち始めました。

 ムハンマドは信仰に対する姿勢として、神への絶対服従(イスラーム)を説きました。
そして、己の全てを神に委ねた状態にある人(すなわち教徒)をムスリムと呼びました。

 こうして、ムハンマドが広めた宗教は、イスラーム(イスラム教)として世界宗教への道を歩んでいくことになります。

※場合によって、「イスラム教」と「イスラーム」を使い分けます。


《エルサレム》

 アラビア半島に位置する都市エルサレムは、三つの宗教の聖地が存在することになりました。

・ユダヤ教:嘆きの壁(ユダヤ戦争で破壊された神殿の外壁)
・キリスト教:聖墳墓教会(イエスが処刑された場所)
・イスラム教:岩のドーム(ムハンマドが昇天した場所)

エルサレム、嘆きの壁(イスラエル)
エルサレム、聖墳墓教会(イスラエル)
エルサレム、岩のドーム(イスラエル)



《正統カリフ時代》

 ムハンマドの死後、イスラーム教団(ウンマ)はカリフ(預言者の代理人)によって運営されることになりました。
カリフは教団での選挙によって選出されることとなります。

初代カリフ:アブー・バクル
二代カリフ:ウマル
三代カリフ:ウスマーン
四代カリフ:アリー

 642年、二代カリフのウマルはニハ―ヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを破り、同時期に東ローマからもエジプトやシリアを奪うことに成功しました。
このような異教徒との戦いを、ジハード(聖戦)と呼びます。

 征服した土地において、教団は異教徒にはジズヤ(人頭税)を払うことを条件に信仰の自由を認めました。
特にユダヤ教徒やキリスト教徒に対しては、啓典の民(神が授けた書物を持つ異教徒)として保護され、信仰が保障されていました。

 三代カリフのウスマーンによってイスラームの聖典『コーラン』アラビア語で編纂が行われ、概ね現在の形に纏められました。

 四代カリフのアリーは661年に暗殺され、その後はアリーと対立していたムアーウィヤがカリフの地位に就きます。

暗殺されたアリーの廟


 それ以後、ムアーウィヤのウマイヤ家がカリフの地位を世襲する体制を構築したため、選挙によるカリフ選出は終わりを迎えました。
アリーまでの時代を正統カリフ時代と呼び、その後の体制をウマイヤ朝と呼びます。


《シーア派とスンナ派》

 ムハンマドの縁戚であった、カリフのアリーが暗殺された後、アリーの支持者らはイスラーム教団の主流派と対立し、分離しました。
彼らのことを「シーア派」と呼びます。
対して、イスラーム教団に残った多数派を「スンナ派(スンニ派)」と呼びます。

680年、カルバラーの悲劇(カルバラーの戦い)
ウマイヤ家により、アリーの子のフサイン一族が虐殺される


 ムスリム(イスラム教徒)の多くはムアーウィヤによるカリフ就任や世襲を受け入れることになりました。
一方、シーア派はムアーウィヤのカリフ就任を認めてはいません。

 シーア派の考え方は大まかに次のようになります。

・ムハンマドの娘ファーティマと、その婿であるアリー、そしてその子孫がイマーム(ウンマの指導者)になるべきである
・選挙(人間)によって選ばれるカリフではなく、神に選ばれたイマームに従うべきである(カリフにはムハンマドの血縁者がなるべき)
・アリー以外の歴代カリフはムハンマドの血縁者ではないので、カリフとしては認められない

 なお、シーア派にも更に宗派が存在しており、十二イマーム派やイスマーイール派などがあります。

 こうして、イスラームの最高指導者としてカリフの地位が存在する一方で、それを認めない派閥も存在するという分裂状態が生まれたのです。


《ウマイヤ朝と聖像禁止令》

 ムアーウィヤが創始したウマイヤ朝は北アフリカやイベリア半島を征服し、フランス地域にまで侵攻しました。
しかし、ゲルマン人国家のフランク王国とのトゥール・ポワティエ間の戦いに敗れたことで、ウマイヤ朝の拡大は止まりました。

濃い部分がムハンマドの時代の版図
中間の部分が正統カリフ時代の版図
薄い部分がウマイヤ朝の版図


 キリスト教世界では、イスラームの拡大による危機感が生まれていました。
イスラームの拡大により、キリスト教の五本山のうち、アレクサンドリア教会、エルサレム教会、アンティオキア教会の三つが衰退してしまいます。

 そして、残ったコンスタンティノープル教会とローマ教会の大司教らは、キリスト教世界での主導権を巡り、対立を始めていました。

 その中で問題となったのが、偶像崇拝でした。

 聖書の根本の教えには偶像崇拝の否定がありました。
『旧約聖書』のモーセの十戒にて、偶像崇拝は禁止されているのです。
そのため、教会では崇拝ではなく、聖なるものの代わりとして「崇敬」されるものとして偶像を使用していました。

 しかし、イスラームが厳格な偶像崇拝禁止をしていることを受け、問題意識が高まった結果、ローマ皇帝レオン3世聖像禁止令を制定します。

 これに反発したのがローマ教会です。
ローマ教会はゲルマン人への布教の際に聖画像を使用しており、聖像禁止令に従うことは出来ませんでした。

装飾写本、ケルズの書
世界で最も美しい本とも呼ばれる
画像は聖母子像


 ローマ帝国はイタリア半島のランゴバルド王国と連携してローマ教会に圧力をかけていき、それにより窮地に陥ったローマ教会は、フランク王国に保護の要請をすることになったのです。


《ビザンツ帝国》

 また、ササン朝ペルシアはイスラーム教団により滅ぼされ、東ローマも侵攻を受けて以前より弱体化していました。

 この頃から東ローマはギリシア語を公用語とし、またその地域性からギリシア文化を受容が進んでいきました。
これにより、西欧史観においてローマ帝国は「ビザンツ帝国」と呼ばれるようになります。
しかし、当然ながら当時の人々は自らを「ローマ人」だと認識していましたし、皇帝は「ローマ皇帝」でした。


《アッバース革命》

 領土を急速に拡大したウマイヤ朝でしたが、内側では歪みが発生していました。

 イスラーム教団では元々はしっかりとした税金の仕組みは存在せず、非ムスリムにのみ税金を納めてもらう形で運営されていました。
しかし、ウマイヤ朝は財源確保のため、ムスリムの場合でも、アラブ人でない者には税金の義務を課したのです。

 このような、ムスリム同士でもアラブ人にのみ優越が生じていた状態を指して、「アラブ帝国」と呼びます。

 こうした不平等な税制に対する反発や、シーア派による反乱などによりウマイヤ朝は崩壊へと向かっていき、ついには750年に終焉しました。

 そして、750年に新たにカリフに就任したのがアブー・アルアッバースです。
彼以降のアッバース家による世襲体制を、アッバース朝と呼びます。
また、ウマイヤ朝からアッバース朝への王朝交替をアッバース革命と呼びます。

アッバース朝の版図

 アッバース朝ではアラブ人の優越が解消され、ムスリムの平等が実現することとなりました。
したがって、これ以降を「イスラーム帝国」と呼びます。

 大帝国となったアッバース朝は751年、中央アジアへ遠征を行い、この時代におけるもう一つの大帝国に対して大決戦を挑みました。
この戦いをタラス河畔の戦いと言います。

 その相手となった国が、唐です。


《唐帝国》

 イスラーム元年であるヒジュラの年(622年)の四年前、隋の皇帝であった煬帝は家臣に殺害され、隋王朝は二代で滅亡します。
その後、長安を都とする唐帝国が建国されました。

唐の版図、およびその周辺国


 二代皇帝の太宗(李世民)貞観の治と呼ばれる善政を敷き、律令制度の整備に取り組みました。

唐の二代皇帝、太宗(李世民)


 太宗はチベット地域で建国された吐蕃との外交において、国王ソンツェン・ガンポに娘を嫁がせることで宥和を図りました。
ソンツェン・ガンポによって仏教が保護され、独自のチベット仏教へと発展していきます。

 三代皇帝の高宗の時代に唐は最大版図を達成します。
白村江の戦いでは中大兄皇子の治める日本を破り、中央アジアではトルコ系遊牧民の突厥を破り大帝国を築き上げました。

白村江の戦いの概略図


 唐により西方へと追いやられた突厥などのトルコ系遊牧民は、中央アジアやインドへと広がり、中東のイスラーム世界にまで拡大しました。
このようなトルコ人はイスラームではマムルーク(軍事奴隷)として流通し始め、イスラーム世界における軍事的覇権を握っていくことになります。


《唐の滅亡》

 その後の唐では、中華王朝史上で唯一の女帝となる則天武后(武則天)の政権が生まれています。

唐を一時滅ぼして武周を建国した女帝、則天武后(武則天)


 中興の祖とも呼ばれる玄宗の時代に、先ほどのアッバース朝との決戦であるタラス河畔の戦いが発生しました。

 この決戦で唐はアッバース朝に対して大敗し、また製紙法の技術が西方へと流出するきっかけとなりました。

 しかし、唐にとっての本当の悪夢はその四年後の755年に発生しました。
それは、安史の乱です。

玄宗皇帝の寵姫、楊貴妃
安史の乱の遠因となり、傾国の美女と呼ばれる

 この乱によって唐は大きく弱体化することになり、鎮圧に際してはトルコ系遊牧民であったウイグルの援助を必要としました。

 その後、唐の朝廷は行政能力を失い、節度使と呼ばれる軍人による抗争状態の末、907年に滅亡します。
唐の滅亡後、中華文化圏は五代十国時代と呼ばれる混乱の時代に突入するのでした。


《アッバース朝とピピンの寄進》

 タラス河畔の戦いを経て衰退していった唐とは正反対に、勝利したアッバース朝は繁栄を続けました。

 新たな首都として円形都市バグダードが建設され、唐の長安をも超える世界最大の人口を保有する都市となります。

円形都市バグダード


 ハールーン・アッラシードがカリフに就任すると、アッバース朝の黄金時代が創出され、その時代は『千夜一夜物語/アラビアン=ナイト』として後世に伝わっています。

アッバース朝カリフ、ハールーン・アッラシード
イスラームの最盛期を築いた


 そのようなイスラーム世界の拡大と、ローマ皇帝との対立により、ローマ教会とフランク王国は提携を結びます。

 756年、フランク国王のピピン3世は、ランゴバルド王国が占領していた東ローマ領土を奪還しますが、その領土をローマ皇帝ではなくローマ大司教に献上しました。
この出来事を「ピピンの寄進」と呼びます。

ピピンの寄進の様子


 ピピンの寄進によって、ローマ教会は領土を獲得することになり、単なる教会としての域を超越していくことになります。
加えて、元々東ローマの領土だった場所を乗っ取った訳ですから、ローマ皇帝からの独立意識も高まることになりました。

 次のフランク国王のカール1世はイタリア半島のランゴバルド王国を滅ぼすことに成功し、更にはドイツ地域にまで領土を拡大します。

フランク王国の版図


 そうしたフランク王国の躍進と東ローマの弱体化を受け、ローマ教会はローマ皇帝からの独立を画策しました。

 ローマ教会は、かつてミラノ勅令を制定したコンスタンティヌス帝により、「コンスタンティヌスの寄進状」を受け取ったことを示します。

 コンスタンティヌスの寄進状とは、コンスタンティヌス帝がローマ大司教に対し皇帝と同等の権力と、全西方世界(イタリア半島以西)を与えたと記されている文書であり、ローマ大司教が皇帝任命権を保持しているとする証拠になります。
また、ローマ大司教は皇帝に対して優越的な地位にあるとする根拠にもなりました。


《カールの戴冠》

 800年、この寄進状を根拠として、ローマ大司教レオ3世はフランク王のカール1世を「ローマ皇帝」として帝冠を授けました。
この出来事を「カールの戴冠」と呼びます。
そして、これ以後のカール1世を「カール大帝」と呼びます。

カールの戴冠の様子


※「カール大帝」はドイツ語読みであり、「シャルルマーニュ」がフランス語読みになります。
彼はドイツとフランスの始祖的英雄であるため、呼び方に配慮が必要な場合があるかもしれません。

カール大帝(シャルルマーニュ)


 これにより、西欧史観においてはローマ帝国が疑似的に復活したことになりました。
しかし、当然ながらそもそもコンスタンティノープルにも「ローマ皇帝」は存在しています。

 しかし、この時のコンスタンティノープルの皇帝はエイレーネーという女帝であり、ローマ教会は女性は皇帝としては認められない(=空位状態)としてカールの戴冠の正統性を主張したのです。

 この戴冠劇を受けて、コンスタンティノープル側はカール大帝について「フランク人の皇帝」としては承認しましたが、「ローマ皇帝」としては承認しませんでした。
ローマ皇帝とは元々、「ローマ第一の市民(プリンケプス)」のことであったため、「何人の皇帝なのか」が政治問題となったのです。

 なお、カール大帝とエイレーネーが結婚することで東西ローマを再び統一しようという試みが両陣営で進められていましたが、エイレーネ―がクーデターで廃位させられたことで構想は立ち消えになりました。


《ローマ・カトリックとギリシア正教》

 カールの戴冠以降、ローマとコンスタンティノープルの大司教の対立は深刻なものとなり、その対立は宗派として徐々に分かれていくことになります。
また、これまで名目的に存在した東ローマとゲルマン諸王国の主従関係がなくなり、西ヨーロッパが独立した地域として分離されました。

 コンスタンティノープル教会とエイレーネー(ローマ帝国)を主流とする東ヨーロッパ世界の宗派は「オーソドックス(正統派)」と呼ばれました。
ローマ教会とカール大帝(ローマ帝国)を主流とする西ヨーロッパ世界の宗派を「カトリック(普遍派)」と呼ばれるようになります。

 こうして、日本においては正統派が「ギリシア正教/東方教会」と呼ばれ、普遍派が「ローマ・カトリック/西方教会」と呼ばれることになるのです。 

コンスタンティノープル総主教庁の紋章旗
「双頭の鷲」はローマ帝国の象徴である
バチカンの国章
「三重冠」と「天国の鍵」がシンボル


 ギリシア正教のトップは有力な教会の「総主教」らであり、名目上コンスタンティノープル総主教が第一人者とされますが、基本的に全て平等です。

 ローマ・カトリックではローマ教会の大司教が主導権を握ったため、ローマ教会を中心とするピラミッド構造が形作られていきます。
よって、これ以降のローマ大司教を「ローマ教皇」と呼ぶこととします。
また、ローマ教会の領土のことを「ローマ教皇領」と呼びます。

 なお、ギリシア正教は後に聖像禁止令を取りやめています。
また、この時期に東ヨーロッパのスラヴ人がキリスト教を受容していきました。
スラヴ人は民族によってギリシア正教とローマ・カトリックに分かれて受容していくことになり、東欧やバルカン半島は両宗派が複雑に入り乱れることになるのです。

※カールの戴冠の根拠となっていた「コンスタンティヌスの寄進状」ですが、18世紀に偽書(捏造文書)であったことが確定しています。
すなわち、カールの戴冠は僭称になります。
もはや歴史を変えることは出来ませんが。

コンスタンティヌス帝によるローマ大司教への寄進
そのような歴史的事実は存在しない


※ローマ・カトリックは使徒ペテロを「初代ローマ教皇」と位置付けており、「ローマ大司教」とは呼ばないため、ローマ「大司教」がいつから「教皇」になったかは非常に難しい問題です。
教科書では西欧史観を採用しているため、明らかにローマ教会が優位でない時代についても「教皇」と表記しています。


《カール大帝の治世》

 ローマ皇帝となったカール大帝は、ローマ帝国の行政や文化の復活を推進しました。
ローマ帝国の公用語であったラテン語や、ラテン文芸の復興に努めたこともあり、ラテン語が政治や教会において国際共通語となります。

 また、カール大帝はローマの地方行政官であったや辺境伯といった役職を家臣に与えたことで、その後の中世ヨーロッパにおいて伯爵などの爵位が貴族階級を表す序列になっていきます。


《フランク王国の分裂》

 カール大帝の死後、ローマ皇帝の地位は事実上は世襲されたものの、名目的には逐一返上され、即位の度にローマ教皇により与えられるという儀式を執りました。

 その後、フランク王国は三つに分裂することになります。
フランス地域には西フランク王国が成立します。
ドイツ地域には東フランク王国が成立します。
イタリア北部には中部フランク王国(後にイタリア王国)が成立します。

赤の部分が西フランク王国
黄の部分が東フランク王国
緑の部分が中部フランク王国


 当初はカール大帝のカロリング家によるカロリング朝により王位が継承されましたが、カロリング家が断絶したことを受け、各国は新たな体制の構築を迫られるのでした。


《ノルマン人》

 フランク王国の分裂と同じころ、北欧に居住していたノルマン人(北ゲルマン人)の南下が始まりました。
ノルマン人は北欧からヨーロッパ全域に海賊行為や略奪を仕掛けたとされ、「ヴァイキング」と呼ばれることとなります。
なお、実際には略奪以外に農業や交易も一般的でした。

ヴァイキング(ノルマン人)の活動ルート
数字は到達年を表している


 一部のノルマン人はアメリカ大陸に到達しましたが、それが旧世界の農耕民に伝わることはありませんでした。

 北フランス地域ではノルマンディーに上陸した一派が、西フランク王国からノルマンディーの支配権を認められ、ノルマンディー公国となります。
ノルマンディーの地名はノルマン人から来ていると考えられています。

ノルマンディー公国の創始者、ロロ


 ロシア地域ではノルマン人のルーシ族キエフ・ルーシ(キエフ公国)を建国しました。
ルーシ族という民族名がロシアの語源になっています。
キエフ公国は次第にスラヴ人と同化し、スラヴ人国家となりました。

ルーシ族の最初の首長、リューリク
ロシア地域に上陸した



《3カリフ時代》

 ハールーン・アッラシードの死後、アッバース朝は衰退期を迎え始めました。

 ウマイヤ朝の残存勢力がイベリア半島で後ウマイヤ朝として国家を成立せせており、また北アフリカではシーア派のファーティマ朝が独立しました。

 後ウマイヤ朝とファーティマ朝がそれぞれカリフを自称をし始めたことで、アッバース朝を含めて、カリフが同時に三人存在する状態が発生します。
そのため、この時代のことを「3カリフ時代」と呼びます。




⑪宋・神聖ローマ時代(960~1096)

《宋》

 960年、が建国されます。
宋は五代十国時代を終わらせ、中華の統一を成し遂げました。

宋の版図、および周辺国の情勢


 宋の建国者である太祖(趙匡胤/ちょうきょういん)は、節度使(軍閥)による地方分権状態を終息に取り組み、文治主義の政策を執ります。
五代十国時代の混乱を経て、唐の時代の貴族は没落しており、形勢戸(新興地主層)が台頭していきました。

宋の初代皇帝、趙匡胤


 しかし、宋には大きな難題がありました。
それは、五代十国の構成国の一つが遊牧民である契丹族に、万里の長城の南側を割譲してしまっていたことです。

 これにより宋は遊牧民から国土を防衛する有効な手段が取れません。
そこで、宋は外交によって契丹族国家のの侵攻を阻止することになります。

 1004年、宋と遼は澶淵の盟と呼ばれる盟約を結び、遼に多額の金品を毎年支払うことで安全保障をしたのです。

 また、宋の時代には火薬羅針盤活版印刷が普及していき、商業と庶民文化が花開いていくのでした。

「清明上河図」
宋の都、開封の賑わいを描いている



《封建社会と爵位》

 東ローマが弱体化し、分裂したフランク王国ではカロリング家が断絶したことで、ヨーロッパ社会には広大な地域を統治する政府が消失していました。

 経済規模が縮小する社会の中で、大きなまとまりが構成されることなく、キリスト教的世界観の中で数多の地方領主が点在していました。
ローマの地方行政官などに由来する役職は領主に世襲され、彼らは貴族となり、貴族らの緩やかな連合体の代表者として、が存在しました。

 このような、中央政府がほぼ機能せず、多くの地方政府が独自に外交関係を構築するような領主同士の関係を「封建的主従関係」と呼びます。
そして、中央政府が存在しながらも地方政府の外交関係が複雑に入り乱れ、一般市民(農民)が領地同士を自由に通れない社会を「封建社会」と呼びます。

中世ヨーロッパの農奴の服装
アーサー王と円卓の騎士
中世ヨーロッパでは騎士道物語が流行した


 地方政府としての領主同士は互いに半独立した存在であったものの、彼らの貴族としての身分には序列が構築されていきました。
ヨーロッパ貴族は主に爵位によって序列化が進められていて、それは以下のようになっていました。
ただし、かなりの地域差があることがご注意ください。

・公爵(ローマ帝国の軍事司令官)
・侯爵(ローマ帝国の地方軍事司令官)
・辺境伯(フランク王国の地方軍事司令官)
・伯爵(ローマ帝国の州総督)
・子爵(フランク王国の州副総督)
・男爵(ローマ帝国の戦士)

※上に行くほど序列が高くなりますが、あくまで目安です。
()内は、爵位の主な由来です。
また、公爵を公、伯爵を伯と省略することもあります。

 各地域によって呼び方や由来も様々であり、例えばフランス地域ではローマ的(ラテン的)影響が、ドイツ地域ではゲルマン的影響が、イングランド地域ではノルマン的影響が強く見られます。

 更にややこしいのですが、ヨーロッパ社会においては、領主の治める土地を国と呼ぶことがあります。
そのため、公爵が治める国を公爵領ではなく公国、伯爵が治める国を伯国と呼称することがあります。(ノルマンディー公国など)

 つまり、広域国家の中に地方国家(領国)があるという複雑な構造になっているということです。
(日本国の中に尾張国があるようなものです。)

 これらの爵位は時代を経るごとに導入されており、初期には伯爵や男爵が一般的でしたが、中世後期になると公爵や侯爵、子爵も広く使用されるようになっていきました。

 時代が下ると更に複雑化が進み、公爵より上位の大公や、名誉爵位としても扱われる騎士爵なども登場します。

騎士の決闘の様子
騎士は封建制度の中核を担った



《中世ヨーロッパの王》

 そして、領主に対して爵位を叙する存在、それが王と呼ばれました
王と貴族は領主としての性格や行政範囲は全く同じですが、爵位の任命権という点において、王は貴族とは一線を画す存在だったのです。

 王には二種類のルーツが存在します。
一つはローマ帝国が異民族であるゲルマン人などに対して、帝国領内での自治権を認めた際に与えた称号です。(西ゴート王国など)
もう一つは、ゲルマン人が戦争の際に選挙などによって臨時で選ぶリーダーの称号でした。(ローマに敵対したゲルマン諸部族など)

 したがって、王にはローマ由来のものと、ゲルマン由来のものが存在します。
ゲルマン人の影響が強いドイツ地域などでは、ゲルマン由来の「選挙王制」が執られることがありました。

 なお、ヨーロッパ文化圏では一人の人物が複数の王や爵位を兼ねることが可能であるため、注意が必要です。


《神聖ローマ帝国》

 カロリング家が断絶した後の東フランク王国では、当初は貴族による選挙王制で王位継承をしていました。
しかし、その後はザクセン家による世襲が始まり、ザクセン朝が成立します。

 ザクセン朝のオットー1世は、かつて中部フランク王国だったイタリア王国の王位を獲得したことで、東フランク国王とイタリア国王を兼ねることになりました。

オットー1世(大帝)
東フランク王(ドイツ王)、イタリア王、神聖ローマ皇帝、etc.


 更に962年、ローマ教皇による戴冠を受け、オットー1世はローマ皇帝に即位します。
これにより、オットー大帝と呼ばれることもあります。

 教科書ではこのオットー1世の戴冠を受けて、「神聖ローマ帝国の成立」としています。
しかし、実態はかなり違うといえます。

 800年のカールの戴冠以降の西の皇帝を「フランク・ローマ皇帝」と呼ぶことがありますが、962年のオットー1世の戴冠は、これの延長線上にあるのです。
すなわち、カール大帝が戴いた皇帝の地位と本質的には違いはないため、実際にはカールの戴冠の800年に神聖ローマ帝国は成立していたと言えます。

神聖ローマ帝国の版図


 ともあれ、オットー1世の皇帝即位によって、彼は名目上は西ヨーロッパ世界の最高指導者となりました。
なお、神聖ローマ皇帝はドイツ語で「カイザー」と呼ばれますが、これは「カエサル」に由来しています。

※ローマ帝国の前に「神聖」が付くのは実際は200年近く後になります。

 実質的には神聖ローマ帝国は、東フランク国王に従う貴族らによる連合体として機能していきました。
なお、この時期から東フランク王国は「ドイツ王国」と呼ばれるようになります。

神聖ローマ帝国の国章
中央にはイエス・キリスト
「双頭の鷲」はローマ帝国の象徴
両翼には構成国の紋章が描かれている



《カペー朝とノルマン朝》

 東フランク王国と中部フランク王国は、それぞれドイツ王国、イタリア王国として、神聖ローマ帝国の構成国になりました。
それに対し、別の道を歩んだのが西フランク王国です。

 西フランク王国ではカロリング朝が断絶した後、血縁の近かったパリ伯ユーグ・カペーが王位を継承し、以後はカペー朝となりました。

カペー朝初代国王、ユーグカペー


 東フランク王国がドイツ王国と呼ばれるようになったのを受け、西フランク王国は唯一のフランク王国となり、やがて「フランス王国」と呼ばれるようになります。

 フランス王国の貴族であるノルマンディー公ウィリアムは、対岸のブリテン島に侵攻し、アングロ・サクソン人の王朝を征服しました。
この出来事を「ノルマン・コンクェスト(ノルマンの征服)」と呼びます。

ノルマンディー公、ギヨーム(仏語)
イングランド王、ウィリアム1世(英語)


 ノルマンディー公ウィリアムはイングランド王ウィリアム1世として即位し、これ以降のイングランドはノルマン朝と呼ばれます。
こうして、イングランド王は一国の君主でありながら、ノルマンディー公としてフランス王の臣下でもあるという複雑な関係となりました。


《セルジューク朝とスルタン》

 3カリフ時代を迎えて分裂が進むイスラーム世界では、中央アジアから流れてきたトルコ系遊牧民がマムルーク(軍人奴隷)として力をつけていました。
そして、乱世の中で力をつけたトルコ人は、イスラーム世界の主役へと躍り出ていきます。

 軍事力の掌握に成功したトルコ系遊牧民のトゥグリル・ベクは、中央アジアでセルジューク朝を創始しました。
そして、1055年にはアッバース朝の首都バグダードに入城します。

セルジューク朝スルタン、トゥグリル・ベク
セルジューク朝の版図


 アッバース朝のカリフによって、トゥグリル・ベクはスルタン(支配者)の称号を与えられました。
これ以降、主にスンナ派のイスラーム国家では、スルタンが君主の称号として一般化していきます。

 アッバース朝のカリフは宗教的権威の存在としてイスラーム世界の象徴ではあったものの、世俗的権力はスルタンに移ることになったのです。
(カリフとスルタンの関係は、天皇と将軍、教皇と神聖ローマ皇帝の関係に近いと言えます。)


《叙任権闘争と大シスマ》

 ドイツ王による神聖ローマ帝国が成立して以降、ローマ教会はたびたび神聖ローマ皇帝に従属するような形に陥り、更には教会の聖職者叙任権を巡り争うことになります。
この争いを「叙任権闘争」と呼びます。
また、神聖ローマ皇帝が教会を管理する政策を「帝国教会政策」と呼びます。

 これは単なる宗教的人事権の争いではなく、西ヨーロッパの主導権をどちらが握っているかという争いでした。
なぜなら、当時の政治分野での国際共通語はラテン語でしたが、ラテン語を扱える者の多くは高度に教育された聖職者だったからです。

 つまり、叙任権闘争とは、政治家の任命権を巡る闘争とも言えるのです。

カノッサの屈辱
神聖ローマ皇帝が修道院長に対し膝を折っている


 また、1054年にはローマ教皇とコンスタンティノープル総主教が相互破門したと捉えられる事態が発生しており、これが結果的には両宗派の完全分離への決定打となりました。
この出来事を「キリスト教会の東西分裂(大シスマ)」と呼びます。

※コンスタンティノープルの皇帝は破門されていません。
また、ギリシア正教の各教会の総主教は基本的に平等であったため、総主教の一人が破門されたことを「東西分裂」とするのはやや西欧史観的だと言えます。

 こうした情勢下の中、ローマ教皇ウルバヌス2世は、いかにしてローマ教会の権威を高め、キリスト教世界の主導権を握るのかを考えていました。

ローマ教皇、ウルバヌス2世


 そんな中、ウルバヌス2世の下にコンスタンティノープルの皇帝から、救援要請が届きました。
東ローマは、スルタンが治めるセルジューク朝の侵攻を受け、圧迫されていたのです。

 この救援要請が、今後200年に渡る大戦争の幕開けになりました。




⑫モンゴル・十字軍時代(1096~1368)

《第1回十字軍》

 1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世は、クレルモン宗教会議を主催しました。
そこで彼は演説を行い、民衆や聖職者に対しエルサレムを異教徒から奪還するよう呼びかけました。
すると、聴衆は「デウス・ウルト(神の御心のままに)!」と声を上げ、軍隊が組織されました。

クレルモン宗教会議の様子


 彼らは敵味方を見分けるシンボルマークとして十字架(クロス)を使用したため、「十字軍(クルセイダー)」と呼ばれます。

 翌年1096年、第1回十字軍が実行され、イスラームの都市を占領・虐殺し、聖地エルサレムの奪還に成功しました。

エルサレム包囲戦の様子


 十字軍に参加した将兵は占領した諸都市をキリスト教系の独立国として統治を始めます。
このような国家を「十字軍国家」と呼びます。

 宗教的関心の高まりにより、民衆の間で巡礼が流行るようになると、エルサレムへの軍事力を持った修道会が組織され、巡礼路の警備などを行いました。
このような軍事力を持つ修道会を「宗教騎士団」と呼びます。

 なお、中世キリスト教の三大巡礼地は以下の通りです。

・ローマ
・エルサレム
・サンティアゴ・デ・コンポステラ
(イベリア半島)

 サンティアゴ・デ・コンポステラでは、使徒ヤコブの墓が見つかったという噂が流れ、巡礼地として整備されます。

 当時のイベリア半島では、レコンキスタ(再征服運動)と呼ばれる、イスラームから領土を奪い返すための戦争をしていました。
そのため、ヤコブの墓はレコンキスタのシンボルとなり、熱狂的に崇拝されたのです。


《アイユーブ朝》

 エジプトのカイロに都を置き繁栄したファーティマ朝では、シーア派カリフの実権が失われ、代わりに宰相のサラーフ・アッディーン(サラディン)が力を持っていました。

 ファーティマ朝の滅亡後、サラディンは1171年にアッバース朝のカリフからスルタンに任命され、アイユーブ朝が成立します。

 スルタンとなったサラディンは十字軍国家となっていたエルサレム王国に侵攻し、キリスト教世界からのエルサレム奪還を果たしました。

アイユーブ朝スルタン、サラーフ・アッディーン(サラディン)
エルサレム奪還を成し遂げる



《プランタジネット朝》

 この事態を受け、ローマ教皇は新たな十字軍結成を呼び掛けます。
これは第3回十字軍と呼ばれ、最も有名な戦いとなります。

 当時のキリスト教世界では、神聖ローマ皇帝(兼ドイツ王など)とフランス王が政治的な二大巨頭となっていました。

 しかし、1154年にイングランドのノルマン朝が断絶したことを受け、血縁の近いフランス貴族アンジュ―伯ヘンリ2世が王位を継承します。
これ以降のイングランド王朝をプランタジネット朝と呼びます。

 ヘンリ2世はフランスでも大貴族であったため、イングランド王とアンジュ―伯、ノルマンディー公を兼ねたことで、その権勢はフランス王を超えるほどになってしまいました。

 そのため、イングランド王、アンジュ―伯、ノルマンディー公の兼任状態での権勢を指す言葉として、「アンジュ―帝国」と呼ばれることがあります。

アンジュ―帝国の版図


 こうして、フランス王家とイングランド王家には対立状態が発生し、今後の火種となっていきます。


《第3回十字軍》

 ともあれ、第3回十字軍には、イングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加し、オールスター状態となりました。

 せっかくなので、彼らの異名を紹介しておきます。
英王リチャード1世:獅子心王(ライオンハート)
仏王フィリップ2世:尊厳王(オーギュスト)
独王フリードリヒ1世:赤髭王(バルバロッサ)

 英王リチャード1世はサラディンとの間に直接対決が発生しており、戦闘ではリチャード1世が勝利したものの、エルサレムの奪還は叶いませんでした。

アンジュ―伯(イングランド王)、リチャード1世(獅子心王)


 なお、サラディンは「イスラム最大の英雄」として現在でも称えられています。

アイユーブ朝スルタン、サラーフ・アッディーン(サラディン)
イスラーム世界の英雄となった



《北イタリア諸都市》

 十字軍運動の活発化を受けて、拠点となった北イタリアでは商業が発達していきます。

 特に、コンスタンティノープルやムスリム商人との香辛料交易である東方貿易(レヴァント貿易)が栄え、ヴェネツィアジェノヴァといった港湾都市が繁栄を極めました。

ヴェネツィア共和国の版図
海洋国家として栄えた



《第4回十字軍》

 一方、第3回十字軍で神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が亡くなったことで、西欧の主導権を握ったローマ教皇の権威は最高潮に達しました。

 ローマ教皇インノケンティウス3世はこの機に乗じて、更なる権勢を求め第4回十字軍を結成します。

ローマ教皇、インノケンティウス3世


 これに対し、ヴェネツィア商人らは十字軍にコンスタンティノープル占領を持ち掛け、なんと1204年に東ローマを滅ぼしてラテン帝国を建国してしまいました。

第4回十字軍のコンスタンティノープル入城


 なお、東ローマはニケーア帝国として亡命政権を建て、1261年にはコンスタンティノープルを奪還し再興することとなります。

 しかし、この事件をきっかけにギリシア正教とローマ・カトリックの溝は修復不可能なものとなってしまいました。


《マグナ・カルタ》

 ローマ教皇インノケンティウス3世は仏王フィリップ2世や英王ジョンに破門を言い渡すなど、西欧世界はローマ教皇を中心に回っていました。

 そんな中、イングランドでは1215年に、貴族がジョン王に対し、王権の制限を定めた文書を承認させる出来事が発生します。
この文書を「大憲章(マグナ・カルタ)」と呼びます。

プランタジネット朝イングランド王、ジョン


 これは法の支配および立憲主義の出発点になったとされ、現在のイギリス憲法と一部と位置付けられています。


《南宋》

 西方でキリスト教世界とイスラム教世界が衝突していた一方、東アジアでも新たな動きが生まれていました。

 1126年、満州地方の女真族が建国したにより、宋は滅ぼされます。
これを靖康の変と呼びます。

 宋から亡命した者たちによって、江南(長江流域)に南宋が建国されることになりますが、領土の奪還を目指すかどうかで対立が起きました。

金、南宋の版図、および周辺国の情勢


 主戦派の岳飛(がくひ)、和平派の秦檜(しんかい)の末、和平派が勝利します。
こうして、1142年に紹興の和議と呼ばれる屈辱的な条約が金との間に結ばれ、岳飛は獄中死してしまいました。

 後世、岳飛が忠臣として崇められる一方で、秦檜は売国奴の烙印を押され恨まれることとなります。

南宋の武将、岳飛
秦檜夫妻の像
かつてはこの像に唾を吐きかける習慣があった


 しかしながら、秦檜の実現させた和平のおかげで南宋が長く続いたのも事実であり、平清盛が実権を握っていた日本との間には日宋貿易が行われていました。

 また、南宋では江南の開発が進み、長江流域が米の全国的な中心産地となっていきます。

 学問分野では、朱熹(しゅき)により儒学が体系化され、朱子学として朝鮮や日本にも伝来していきました。

朱子学の創始者、朱熹



《チンギス・ハン》

 農耕民にとって、「国家」とは農業が根底にある概念でした。
そのため、国家は「土地」を巡って互いに争い合うのが当然で、「領土」こそが国家を担保していると考える節があります。

 これは現代に生きる我々も同様であり、国の領土というのはある程度固定されており、流動的ではないと考えがちです。

 しかし、遊牧民にとっての「国家」は農耕民のそれとは異なります。
遊牧民とは移動を原則とする生き方であるため、農耕民ほど「土地」に固執しません。
したがって、彼らにとっての国家とは、「人間集団」となります。

 そのような領土が流動的な「遊牧国家」を、モンゴル語では「ウルス」と言います。

 モンゴル・ウルスにおける君主を「ハン」と言い、議会をクリルタイと呼びます。

 1206年、モンゴル人の部族長であったテムジンは、モンゴル高原の統一を果たし、クリルタイにおいてハンに即位します。
これにより、テムジンは「チンギス・ハン」と称すようになります。

モンゴル・ウルスのハン、チンギス
チンギス・ハンの像



《モンゴルの君主号》

 なお、これを持って教科書では「モンゴル帝国の成立」と呼ばれますが、「帝国」という言葉は農耕民的(領土的)かつ西欧史観的であり、あまり実態を表していません。

 そもそも、「モンゴル帝国」という言葉はかなり曖昧に使用されている節が見受けられます。
「王国」と「帝国」は意味合いが異なる概念であり、王国が「王」という一般的な君主が統治する国家なのに対し、帝国は「皇帝」などの、周辺諸国より高位の君主が統治する国家を指す場合が多いです。

 それを踏まえれば、「ハン」とは一般的な君主号ですから、「帝国」とは呼ばずに「モンゴル(・ウルス)」のように呼ぶのが適切です。

 また、チンギス・ハンの次代であるオゴタイは「(大)ハーン」という新たな君主号を称しており、こちらが「皇帝」に相当する称号であると思われます。
よって、正確にはオゴタイ・ハーンの時代からが「モンゴル帝国」にあたると考えられます。


《オゴタイとバトゥ》

 ともあれ、チンギス・ハンには複数の子がおり、彼の死後はその中の一人がハンを継承しつつ、それぞれが地域を分割する形で政権が運営されていきます。

 三男のオゴタイによってハンの地位が継承されますが、オゴタイは「ハーン」という新たな称号を使用し始め、ハンを束ねる存在となりました。

モンゴル・ウルスのハーン、オゴタイ


 1234年には華北(黄河流域)の金を滅ぼし、翌年には首都カラコルムを建設します。
1236年からは甥のバトゥによる西征が始まり、キエフ公国の征服に成功しました。

 バトゥによりロシア地域に成立したモンゴル政権をジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)と呼びます。
なお、ジョチとはバトゥの父(チンギスの長男)の名前です。

 これ以降、ロシア地域では「タタールのくびき」と呼ばれるモンゴル人の支配が続くことになります。


《マムルーク朝とバイバルス》

 モンゴル・ウルスの拡大を受け、仏王ルイ9世は、十字軍とモンゴル軍の挟撃によりイスラームを倒すことを構想しました。
1254年には使者のルブルックがカラコルムに到達しています。

カペー朝フランス王、ルイ9世


 ルイ9世は1248年から1270年にかけてイスラームに侵攻を続け、モンゴル軍はフラグによってアッバース朝を滅ぼすことに成功しました。

 しかし、マムルークによるイスラーム国家であるマムルーク朝が彼らに立ちはだかります。
マムルーク朝のバイバルスは十字軍およびフラグのモンゴル軍を撃退し、イスラーム世界を守護者となりました。

マムルーク朝スルタン、バイバルス


 1291年、十字軍国家のエルサレム王国の首都であったアッコンが陥落し、十字軍時代は終わりを迎えました。
一連の侵略に対するイスラーム側の怨念は凄まじく、現在もその怒りは途絶えていません。


《モンゴルによる統治》

 アッバース朝を滅ぼしたフラグによりイラン高原に成立したモンゴル政権をフラグ・ウルス(イル・ハン国)と呼びます。
フラグ・ウルスは後にイスラームを受容していきます。

 また、中央アジアにはチャガタイによりチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)が成立しました。

 なお、各ハンは(大)ハーンの家臣(諸侯)という扱いなので、それぞれのウルスは地方政府という扱いになります。

大元ウルス(モンゴル帝国)の領域



《フビライと大元ウルス》

 フビライが新たなハーンに即位すると、華北の大都(後の北京)への遷都が行われました。
また、国号が「大元ウルス(元)」に変更され、日本や南宋などへの侵攻が実施されました。

 南宋は1276年に滅亡したものの、日本への侵攻である「元寇」は執権である北条時宗の対応により失敗に終わりました。

鳥飼潟の戦い(元寇)の様子


 大元ウルスではムスリム商人によるユーラシア・ネットワークが形成され、中東から東アジアまでが経済的に接続されました。
そして、その最終到達点として、ヴェネツィア商人が豊かな東方との商品貿易を席巻したのです。

 ヴェネツィア商人だったマルコ・ポーロは元の大都に至り、フビライ・ハーンの下で政務に携わっていました。
彼が書いた『世界の記述(東方見聞録)』は、後にヨーロッパの人々を海に駆り立てることになります。

ヴェネツィア共和国商人、マルコ・ポーロ
遊牧民の装いをしている


 また、大元ウルスではチベット仏教が国教扱いとなり、カトリックの伝来も起こるなど、宗教的な交流も活発でした。
その他にも有名な『三国志演義』『西遊記』『水滸伝』などが成立しました。


《ヴァロワ朝と百年戦争》

 十字軍時代が失敗に終わったキリスト教世界では、ローマ教皇の権威が低下し始めていました。
それが顕著に表れたのが、フランスの王位継承問題です。

 1328年にフランスではカペー家が断絶し、新たにヴァロワ朝が成立しました。
しかし、フランスの貴族でもあるイングランド王がその後の継承問題に参加したことで、大きな対立へと発展します。

 これを、「英仏百年戦争」と呼びます。
これは、ローマ教皇の仲裁能力が衰えていたことを示す争いとなりました。


《ドイツ騎士団領》

 一方、十字軍時代が終了したことを受け、宗教騎士団は帰国していきました。
その中の一つに、ドイツ騎士団という修道会がありました。
ドイツ騎士団はポーランド北部地域を征服し、そこにドイツ騎士団領をという地方政府を建国しました。

ドイツ騎士団領の版図



《ユダヤ人迫害の始まり》

 十字軍の高揚は、もう一つの運動も引き起こしていました。
それは、ユダヤ人の迫害です。

 西ヨーロッパ各国では民衆の中でも、国家規模においても激しい迫害が行われました。
時には集団的な虐殺(ポグロム)も実施され、国外追放や隔離政策が執られることもありました。

 そして、この迫害は十字軍時代が終わっても止むことはなかったのです。


《デリー・スルタン朝》

 最後に、イスラーム世界のインドへの拡大についてです。

 トルコ系のゴール朝によって北インドがイスラーム化された後、1206年にその部下による奴隷王朝が誕生しました。

 それ以降、王朝が変わりながらもデリーを首都としてイスラーム王朝が成立を続けていきます。
そのため、それらを総称して「デリー・スルタン朝」と呼びます。

デリー・スルタン朝の版図





近世編(4/4)はこちらから

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